8は縁起のいい数字
01 10月 2026

8は縁起のいい数字

3月から数えて8番目の月、October,そしてoct は8の意味の連結後、Octave(オクターブ) Octagon(8角形)、Octopus(タコ)、総じて中国では8は縁起のいい数字、10月は日本の神様がすべて、出雲に行ってしまう神無月であり、逆に出雲では神有月で、出雲大社はたいそうな人で賑わっている。そして今月1日は法の日、有能な私利私欲のない人が国を仕切るのであれば、国は発展し、その成長も早い。しかし恣意的に自分に都合の良いように国を動かすのであれば、人々の暮らしは悪くなり、不平不満が沸き上がり、国はますます衰退への道を着実に進んでいく。国連の主要な司法機関として、国家間の紛争を法に基づいて、解決する国際司法裁判所が、一部大国の介入によって今岐路に立たされている。法による支配はその動きは迅速でないが、支配者層もその法律によって、行動、支配を抑制されることにもなる。遠い世界のことではなく、私たちも関心を持つべき事柄でありそうだ。 正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」様々な果物や食物がそのおいしさを競うようにして店先に並んでいる。柿、梨、りんご、ぶどう、ミカン、栗、鰻、アユ、しじみ、だいこん、にんじん、ごぼう、サツマイモ、サトイモ、レンコンそして何と言っても新米、いくら食欲のない人でも、箸をとってしまう。気象でも、「天高く馬肥える秋」の到来、暑さが収まり、長雨が落ち着いて、爽やかな気持ちの良い晴天が続きます。幼稚園でも、運動会の練習が始まっています。子どもたちはその日に向けて精一杯頑張っています。先生も必死です。今の頑張りが後の人生に大きな花を咲かせることになるでしょう。 当日はひたむきに演技する姿、やらされているのではなくて、自分から進んで取り組んでいる表情の豊かさにもぜひ注目をお願いします。きっとお家でも子どもたちは歌を歌い、演技の練習をしていることだと思います。さて、先日、昔私が勤務していた府立高校に電話して、訪問させていただきました。近くを何度も通ることがあったのですが、転勤してから一度も訪れることがなかった。40年以上ぶりであった。事務長に案内していただいた。 建物は新築してから50年以上たっていたが、外観には変化がなかった。職員室もそのままであった。私はその当時職員室よりも4階の英語準備室にいる事が多かった。その英語準備室にもお邪魔した。夏休み中なので、教員は誰もそこにいなかったが4Fの窓から見える風景は昔とあまり変わらなかった。ただ樹木の成長で遠くの住宅はその陰に隠れて、良く見えなかった。夏休みのせいか、やかましさとか活気はなかった。静かであった。建物の中は幾分古くなっていた。 事務長先生は一学年160名くらいに減っていると言った。私の時は確か400名近くの高校生がいたと思ったが、高校授業料無償化で私立高校の人気が高まり、公立高校の定員割れがよく見られるようになったそうだ。よく行った体育館と体育準備室は昔と同じだったが、体育館にはクーラが設置されていて、生徒たちはバレーやバスケに汗を流していた。 教育の中身は知らないが、見た感じ、外観も含めて、ほとんど変わっていなかった。生徒が減ったせいか、少し寂しい気持ちにもなったが、案内していただいた事務長先生に感謝の気持ちを伝え、その高校を後にした。本当にいい思い出になった。私の30代の大半を過ごした愛すべき高校であった。一番最初に卒業させた生徒は今や還暦を十分超えている。一部の府立高校は廃校の危機にもさらされているが、そこで学び、運動し、友情を深め、時には淡い恋心を育んだ卒業生が沢山いる事を考えると、是非とも未来につなげていった欲しい。 さて、10月1日は幼稚園にとって、大事な園児募集の日です。少子化で、どの幼稚園も園児減少に悩まされていますが、ご近所、お知り合いの方で、対象のお子様がおられましたら、是非ともご紹介いただきますようお願い申し上げます。保護者の皆様の期待に十分応えることができますよう、そして失望させることのないよう、私共教職員一同精一杯頑張ってまいります。よろしくお願い申し上げます。 蛇足ですが、来年、諏訪森幼稚園95周年、美木多幼稚園50周年、そして鳳幼稚園15周年を迎えます。その一環として、ドローンを使って園舎と子どもたちの写真を撮ります。又クリアファイルなどを作ってお配りすることも考えています。 今月も園児、教職員一同全力で進んでまいります。今後も変わることのないご支援、お力添えをお願い申し上げます。

岡山、出雲、益田、長門 山陰への道
01 9月 2026

岡山、出雲、益田、長門 山陰への道

   今年の夏は比較的それ程暑くないと思わせた8月中旬、しかしその期待を裏切るように、下旬になると急に暑さがぶり返して、毎日が35℃を超える猛暑日、瞬間的には40℃を超える場面も。しかし季節は確実に進み、暑い中にも飛ぶトンボや鳴くセミの声に秋の気配がうっすらと感じられるようになりました。夏休みから戻った子どもたちは一か月見ないうちに、毎年そんな気分にさせられますが、本当に大きく、たくましく成長を感じられるようになりました。大人に向けてのほんのわずかですが、貴重で必要不可欠な成長の過程です。始業式では二学期の行事や様々な環境の変化を話し、これから来る季節への期待を持つことの大切さを話しました。運動会の練習も本格的になり、苦しい中にもやり遂げようとする心構えが見えてきました。又作品展での物作り、創作活動で無から有への有意義な経験もするでしょう。  様々な収穫体験や槇尾山登山、仲間との遠足も計画しています。知識や体験、経験を積み、友との有意義な交わりを通じて、より一層幼児期における成長の芽を感じ、人間性を高めていってもらいたいものです。この間読んだ本の中に人間性、社会性、挑戦心、忍耐心などの非認知能力を育てる方法として、5つ挙げられていました。  1.子供に寄り添う、換言すれば信頼関係、愛着関係を結ぶ。  2.その子自身の進歩を認め、ほめてあげること。ほめる、励ます、(視野を)広げるという3Hの言葉がけの実践はとても大切だが、他の子どもと絶対比べないこと。特にきょうだい同士を比較するのは残酷です。子どもは自分たちで比べあっている。  3.親や保育者が生き字引のように定義や解説や回答を与えないでほしい。  4.普段の日常生活で何々したらダメ、何々しなさいと裁判官のように評決を出さないこと。つまり禁止や命令ではなく提案の形で伝えていただきたい。命令にいつも従っていたら、ある一定のところまで成長できるが、命令されないと動けない子どもになってしまう。  5.子ども自身が考え、判断する余地を残してあげる。 成績などの認知能力も大切だが、社会を渡っていく上でこの非認知能力もそれに劣らぬくらい大事なものです。  先日久しぶりに山陰に行きました。その時のことを少し報告します。  東京始発ののぞみ103号が時間通りに新大阪のホームにゆっくりと滑り込んできた。 一人で山陰を目指した列車の旅であった。7時56分、西に向かってゆっくりと16両編成の列車が動き出した。10回とは言わないが何回かこの山陽道に向かう新幹線に乗ったことがあった。昔はというより1972年の開業時からしばらくの間、新神戸に止まらなかったと思ったが、トンネルとトンネルの間の新神戸駅に13分で到着した。区間距離32.6km、平均時速約150km,次の岡山には8時55分に到着、新大阪から約161km,46分、時速にすると平均210km,停車駅もあったので、実際はもう少し早いのだろう。  昔 山陽新幹線に初めて乗った時、なんとトンネルが多い事かとびっくりした。岡山まではまだそれほどでもなかった。(因みに山陽新幹線には大小142のトンネルがあるとか)岡山駅で下車し、在来線の2番ホームに移動した。次の列車は岡山始発で途中倉敷から伯備線に乗り入れる特急八雲5号だ。この八雲は出雲にかかる枕詞で「八雲立つ」にちなみ、意味は「多くの雲がたちのぼる」の意味だそうだ。    新大阪に早く着きすぎたので、計画より早い列車に切符を新大阪で変更してもらった。倉敷を出ると次はほとんどの人が読むことが困難な備中高梁、ここまでが私たちが慣れている複線区間、天空の城、唯一天守閣が残されている雲の上の山城、備中松山城がある。岡山では目立たないが、松山藩の誇り高い町だ。昔この地出身の先生が勤務されていたことがあった。列車は高梁川に沿って上流に進んだ。特急八雲はここから単線区間、山が続き、渓谷が私たちを魅了する。しかしその美しさは列車の中に乗っているよりも、外から見る方がより魅惑的で、ロマンチックに思う。新見市、今でも牡丹鍋を食べたくなれば、この町のジビエのお肉屋さんから取り寄せることもある、この市を通過し、列車は山陰本線と合流して、鳥取第2の都市、米子に到着。鉄道を中心にして栄えた米子市は山陰では大きな町だ。岡山からここまで約3時間あまり、160kの行程だ。くねくねした線路をそれでも時速50kmあまりで走ったことになる。八雲は終点出雲には12時17分、時間通りに到着した。折角だからと思って、切符の変更をお願いしたら、1度変更しているので、手数料700円が必要であった。時間がなかったので、出雲大社までタクシーで行った。稲穂が広がる田園地帯が続き、大社の近くまで来ると、立派な古い駅舎があった。タクシーの運転手は昔東京からこの出雲大社の駅まで直行列車があったと言った。今は廃線になっている。運転手は親切に山門前の竹内マリアの実家の竹野屋旅館までも説明された。    山門の入り口の横を通ってタクシーで行けるところまで進んでもらい、出雲大社にお参りした。大きなしめ縄は健在であり、出雲大社の象徴だ。外国人は案外少なかったし、お盆が明けたばかりで、参拝客もそんな多くなかった。門前の出雲そばのお店はお客さんがいっぱい並んでいたので、タクシーの運転手のおすすめの駅前の蕎麦屋さんでわんこそばに似たそばを食べた。人それぞれ好みがあるが、このかたい出雲そばと出汁はそば好きの私には少し期待を裏切られるものであった。出雲から山陰本線、13時28分発の特急スーパーまつかぜ5号に乗った。単線であり、上には架線がなく、ディーゼルの気動車、そして特急と言いながら、2両編成で、前は指定席、後ろは自由席であった。それでもお客は少ない。一番前に座った。線路の両サイドが中低木やササ、その他の雑木に囲まれ、列車はまるでそれらのトンネルの中を進行しているようで、窓から景色を見ることはあまりできなかった。昔はきれいな日本海の景色を眺める事ができたであろうと感慨にふけった。電化されていないので、架線はないが横に並行して走っている通信用ケーブルなどにはツタや低木が絡みつき、強い雨風や雪が来れば線路はすぐに通行できなくなるのではと思った。保線で働くJRや下請けの社員の苦労がしのばれた。人件費や維持費その他を考えると、このメインストリームの山陰本線も赤字になっているのだろうか。    あと何年かするとこの貴重な線路も廃線の憂き目になっているかもわからない。地元や地域の人たちは廃線に全面的に反対するだろう。山を削り、トンネルを作り、川に橋をかけ、苦労して作った線路、私も残してほしいと思う。しかし今の日本の現状や経済合理性から判断すると先行きが非常に暗い。約130km、2時間の旅であった。益田の町は意外に大きく高層の建物やホテルもそれなりに存在し、近くには石見空港もある。予約したレンタカーの場所はわからなかった。  電話して迎えに来てもらったが、丁度駅の反対側にあり、カローラで迎えに来ていただいたが、これから借りるのがそのカローラであった。行先をセットし、山陰道を西に向かった。道は日本海に沿って蛇行を繰り返し、私の知らない町を次々通り過ぎて行った。寂れた田舎町、漁業の町もあった。萩の道路標識が見えた。知っている名前であったが今日の目的地はここではない。通り過ぎて長門市に入り、そこを左折して長門湯本を目指した。80kmあまり、5時頃、目的地の大谷山荘の旅館に着いた。ここも盆明けのせいか、お客さんもそんなにいなかった。今の建物が新築されて40年余り経過しているそうだが、その時に旅行会社の人と一緒に来たことがあり、又居心地がよかったので、30年ほど前も家族と共に来たことがあった。今回は3回目、一人旅と宿泊費のせいか洋室のベッドルームで和室ではなかった。勿論事前に聞いていた。…

今、想う事
03 8月 2026

今、想う事

   アメリカ、中国をはじめ、9月に新学期を迎える国は多い。異常なまでの気温の上昇、地球は燃えているという表現はあながち間違いでない。イギリス、フランスなどの国は西岸海洋性気候で、海流の影響で、冬はそれほど寒くなく、夏は涼しいと学校で何回となく学んだ。それはこれらの国の家庭にクーラがない要因にもなっている。しかし今年は様相が一変した。  特に今年の6月はイギリス、フランスで日中温度は40度を超え、クーラのないことと相まって多数の人々が亡くなったと報道されている。熱波は地球を取り囲み、息の詰まるような日々が続いている。  この時期アメリカでは小学生などはボランティアの指導者に付き添われて、一泊や二泊のキャンプに行くことが多い。暑さを避ける意味もあるが、友や知らない人との交流を深め、自然界の中で様々な活動や触れ合いを通して、人間力を高め、ひいては非認知能力を習得することにもつながっている。そこには白人は偉い、黒人はそうでもない、日本人や中国人は?というレッテル貼りは存在しない。みんな仲間であり、平等であり、みんな友達であり続ける。人種も国籍も関与しない。然しそれが国家となると、一変する。アメリカと日本は強い絆?で結ばれた同盟国だ。  しかしアメリカがその座を脅かされる存在になると、日本は遠慮容赦なくたたかれる。アメリカへの脅威は、1930年代、アメリカが苦しむ中で、東アジアで勢力を拡大する日本を締め付け、太平洋戦争に繋がり、原爆を落とすまでになった。そしてもう一つは日本の繊維製品がアメリカの市場を急激に席捲し、同じように自動車、半導体がアメリカ市場になだれ込んだ。日本の経営者はロングスパンで物事を判断するが、アメリカの経営者は目先の利益しか見ていないとうそぶき、間違った意見が独り歩きをし始めた。  1980年代、アメリカは傲慢になった日本経済を潰すことを本格的に始めた。そしてバブル崩壊を経て、1997年の金融危機で正念場を迎えた。 個人的にはアメリカに何回か行った。最初は1969年、アルゼンチンに赴任する時に立ち寄ったサンフランシスコでした。アスファルト舗装の道路は大変傷んでいて、その修理をする予算がないのだと勝手に思いました。日本が非常な成長を遂げていた時でした。安くて、品質の良い商品であれば、どこの国にも大量に売っても当然だと思っていました。  然しそれは間違いだったのです。どの国にも商習慣があり、過去からの伝統があり、それに従って生活が成り立っていた。そこに土足で侵入することは許されない。ある意味、日本人の貧乏根性と未熟さだった。アメリカはもう過去の国だと思った。  しかしその後ロスアンゼルス、ラスベガス、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンなど等の主要な都市を訪れるたびに、さすがアメリカ、やっぱりアメリカという、その大きさ、力強さに圧倒された。極東の小さな島国がいくら頑張っても太刀打ちできないと考えました。アメリカの手の中で日本がうまく転がされているという印象でした。  残念ながら、アメリカに立ち向かうとその何十倍もの強力なカウンターパンチを受ける事になる。世界のルールを守れと言っても、アメリカ以上の国がない今、残念ながら犬の遠吠えのような気がします。  幼稚園に毎日通園する子どもたちは先生方と楽しく有意義に過ごしましょう。  そして長い夏休みを迎える園児の皆さん、今まで出来なかったいろいろなお手伝いをしましょう。又時には海や山に行き、バーベキューやキャンプをし、又電車に、飛行機に乗り、遊園地などに行って、貴重な今でしかできない経験や体験をしましょう。8月25日には元気でたくましくなった姿を見せてほしい。病気、事故に十分気を付けてください。しばしのお別れです。  

根室から納沙布岬へ
01 7月 2026

根室から納沙布岬へ

人は沢山の知識を持ち、沢山のことを知り、沢山の経験をし、沢山の地域を訪れ、沢山の言語や人を知り、様々な体験をした人の方が、狭い範囲にとどまり、ローカルの話題に終始し、外の世界をほとんど知らない人より幸せなのだろうか。喜びなのだろうか。私の祖父母は同じ村の縁戚同士であった。私の母も同じ村ではないが、隣村からやってきた。今のようにネット環境がなかった昔では交流範囲がごく限られていた。選択の余地も少なかったのだろう。 それ故、評判とか家の格とかが重視され、結婚式で初めて相手の顔とか容姿に接することが多かった。健康であれば、容姿はそれほど重視されなかった。大恋愛をして結婚するよりも、相手をそれほど知らなくて結婚した方が後になって幸せな結婚生活になる事も多かった。 ネットで知り合うこともある今の状況と相手も身元もよくわかっていた時のそれとではどちらがいいのかわからない。あんなことも知らない、こんな有名な場所にも行ったことがない、こんなエキセントリックな美味しい食べ物を食べたことがないから、不幸なのだろうか。縦横無尽な知識を駆使して、世界中を飛び回って何でもよく知っていることが人生の勝利者なのだろうか。実際私の周りの大学の同期生はほぼ海外駐在経験者だが、それほど勝利者に見えない。ただ会って話すときに、懐かしそうに過去の駐在地の話をよくする。 世界には様々な事象があり、それも膨大な数になっている。換言すれば、いくら知識があるからと言ってもそのすべてを知ったり、見たりするができるわけでもない。大きな目で見れば、針小棒大であり、ある意味、団栗の背比べであり、50歩100歩である。知識をたくさん持っているからと言って、自慢すべきでないし、少ないからと言って卑下する必要もない。それよりも人生を一生懸命真面目に生きた人の重みは人を敬服させるものがある。 こんなことを知らない、あんな経験もないとか悲観すべきでない。沢山の経験ある人も同じように思っているのだから。㍼19年(1944)生まれの私にはそれほど時間が残されているわけでもない。一人で根室や納沙布岬に行ってみようと思った。それも全行程日本の自慢の鉄道で。 新大阪7時51分のぞみ322号東京行が駅ホームに静かに滑るように入ってきた。これから長い鉄道の旅の始まりだ。10号車16番Dに座る。車内は早いせいか、まだ混雑していない。久しぶりの新幹線、なぜか心が落ち着かない。列車はスピードを増してサントリーの山崎工場を一瞬のうちに過ぎ、わずか14分で京都駅に着いた。京都を出るとトンネルを一瞬のうちに通り過ぎ、冬になるとよくTV中継される彦根、米原そして関ヶ原を次々と後ろに追いやって、8時47分トヨタの城下町名古屋に到着、車では3時間くらいかかる区間がわずか50分、とにかく早い。 改めてこの新幹線の偉業を称賛せずにはいられない。私が受験のために東京へ行った時には8時間余りかかった。それまでハトやツバメの特急列車があった。私が20歳の時に開業した新幹線、それから60年余り、事業者側の責任の事故は一件もない。改めて新幹線を設計した人々、協力会社の人々、許可認可を出した人々、実際に線路や橋を作り、トンネルを掘った人々、先祖代々の土地を譲り渡した人々、国鉄やJRで働いていた人々、線路を保守点検していた人々、貧しい日本国に融資した外国、いろいろな人々の血と涙と汗の結晶がこの世界一の新幹線を生み出したのだろう。 そんなことを考えているうちに322号は浜名湖を通り過ぎた。富士山を期待していたが、あいにくの曇り空で麓の雄大なスカートが見えただけであった。風景が変わりつつあった。今までの自然の風景が家々が密集する風景にと。車内のアナウンスが新横浜到着を告げていた。2時間11分で到着。ここを出発して終点東京駅に着いたのが10時21分、計2時間24分の旅であった。10時40分頃はやぶさ17号が静かにその姿を東京駅に現した。東海道新幹線と趣の異なる東北新幹線、10号車5番Cに座る。10時45分、東京駅を出発、すぐに地下にもぐって、6分後に上野に到着した。美術館巡りで感銘を受けたこととそれと対象的に学生仲間何人かと大人気取りで店に入って嫌な思い出のある街でもあった。 田園と山間部が交互に織りなす風景を見ていると、12時15分、東京から1時間30分、杜の都、仙台に着いた。通勤しようと思えばできない時間でもない。仙台にある東北大学はこのあたりのエリート集団だ。それから50分ほどして、はやぶさは新青森に到着、ここで下車した。昔来た青森の街を少し見たかった。しかしここはJR青森駅の青森でなかった。閑散とした何もない新青森であった。期待は完全に裏切られた。駅には小さなレストランとお土産店があるだけ、次の新函館北斗行のはやぶさ23号は15時31分発なので、まだ1時間以上もあった。そこで簡単な食事をした。思った以上に地方の駅の価格は高い。定刻にはやぶさは到着した。 私の大きな目的の一つは青函トンネルを新幹線で通る事であった。列車は林とトンネルの景色を繰り返しながら、徐々に竜飛岬に近づいて行った。青森に二つあるうちの一つの半島だ。因みに列車が通るのは津軽半島、もう一方は大間のマグロで有名な下北半島だ。青函トンネルに入る前に、車内放送があった。今からトンネルに入ること、トンネルは海底下100mに作られていること。長さが50kmあまりあり、通過に20分以上かかること、など等。海の深さは140m、それより100m下の240mが最深部、そこを新幹線は進んでいった。 30年前から運行していて安全とは言え、暗い中で20分余り過ごすのは何とも言えないような圧迫感と恐怖感が襲ってきた。肝っ玉の小さい小市民のせいなのだろうか。このトンネルを掘るのに30人余りの人が犠牲になった。その人たちに感謝の気持ちをささげながら、無事北海道の入口、木古内に到着した。そこから10分余り、はやぶさは16時30分終点新函館北斗に滑り込んだ。新函館北斗からJR函館までは従来線で20分、無事今日の宿のJRイン函館に到着した。60年余り前、学生であった。3人で北海道への旅をした。ユースホステルを利用する貧乏学生のいわゆるカニ族であった。大きな荷物を背負っていく事でカニ族と呼ばれた。北海道は蒸気機関車であった。札幌から函館まではトンネルが沢山あった。トンネルのたびごとに真っ黒のすすが車内に侵入した。それが当たり前であった。 男も女も誰もが顔が黒く汚れ、気持ちが悪かった。函館に着くや否や銭湯に行ったことを覚えている。函館山に登りたかった。しかし運悪く雨、山の中腹以上はどんよりして雲がかかっていた。ホテルの人も行っても無駄ですよと何度も念を押した。ホテルの前の海鮮レストランは月曜にもかかわらず賑わっていた。鉄板の上では北海道産の大きなアワビやホタテが踊り、断末魔を上げていた。何種類かの沢山の活きたカニが水槽の中に身を潜め、次に人間の犠牲になるのは誰かとささやきあっていた。わざわざ羅臼産と表記して、他のキンキと違うことを強調していた。イカを含め、様々な魚や貝類が生きたまま水槽の中で暮らしていた。 お客さんの多くは函館に来た人で、遠い北海道に来たという事で自然と財布のひもが緩くなっていた。外国人もいたが、それほど目立った存在でなかった。おいしさ、珍しさ、新鮮さで舌鼓を打つのだが、瞬間を楽しむ、値段の張る海鮮料理とも思えた。ホテルの料金には朝の海鮮のバイキング料理もついていたが、午前6時30分からの営業であった。後ろ髪を引かれる思いで朝食のバイキングをスキップした。函館駅始発の北斗1号は6時21分半部位の乗客を乗せてホームを離れた。1号車3番D、先頭の車両であった。この列車は勿論気動車であった。上には架線がない。客車を引っ張っていた。軌道は大部分単線であった。新函館北斗を過ぎたあたりから、トンネルが続いた。学生時代の思い出の黒いススがいっぱいのトンネル、今は冷暖房のきいた客車であった。大沼公園、駒ケ岳、長万部、洞爺、伊達紋別を過ぎ、8時23分に東室蘭に着いた。内浦湾をぐるりと回ったことになる。車窓から見る東室蘭は大きな町であった。製鉄所の建物が目立って大きかった。 2分の停車の後、列車は本来の目的地に向かって進み始めた。温泉のある登別を過ぎ、アイヌ民族で有名な白老で瞬間的に止まり、苫小牧を過ぎて、列車の乗換駅の南千歳に9時18分に到着した。食堂車も車内販売もなかった。函館で買ったパン一個だけであった。空腹が堪えてきた。7分しかなかった。9時25分、おおぞら3号は南千歳を出発した。1号車6番A、私に与えられた座席であった。単線のディーゼル車は北海道の中央部を一目散に東に向かって走った。周りは同じような単調な景色であった。夕張も過ぎ、トマムも一瞬のうちに過ぎていった。乗客は半部位であった。単線であるが故に反対側から来る列車を待つことを余儀なくされた。 2時間30分ほどして、特急おおぞら3号は北海道の酪農の中心地帯広に到着した。大きな町であり、高いビルが林立していた。帯広を過ぎると列車は太平洋沿岸まで南下し続け、その後海岸沿いを東に向かって進み、終点釧路には13時20分に無事到着した。函館を出てから7時間20分弱の旅であった。単調な景色の中にも教科書で学んだ地名やアイヌ民族のつけた名前、ハット目を見張るような風景があり、それなりにエキサイティングの旅であった。新大阪から釧路までの列車の旅は私に大きな思い出を残して終わりを迎えた。ANA CROWNE HOTEL が今日の宿泊先であった。9階の部屋に入り、荷物を置いて、フロントで聞いた食事場所に行った。 そこは 和商 という海産物の市場で、食事もできた。海鮮丼を食べた。そして今買うとしたら何が良いのかと店主に聞いた。時鮭 という答えであった。そこは沢山の店があり、時鮭を売っていた。カニの専門店もあった。店の人によると、この時期は身入りが40から60%位で、その分値段が安かったが、身が詰まっている花咲ガニと毛ガニをすすめられた。すぐに茹でて、大阪に送るそうだ。小ぶりだが、値段の安いキンキや縞ホッケも魅力的であった。魚好きの私にとって、全ての魚に興味があったが、時鮭を含めて、魚を大阪に送ってもらった。良かったら又釧路に注文することもあるだろうと思う。レンタカーを予約していた。アクアを借りた。ヤリスに乗っていたので、運転の感覚は同じであった。借りてすぐに釧路湿原を見に山の上まで行ったりして、2時間ほどドライブした。 釧路湿原展望台にも行ったが、写真でよく見るような川が蛇行している景色を見る事が出来なかった。もっと事前に調べておくべきだとかなり反省した。ぶっつけ本番の旅の反省であった。夜は1階のレストランでラザニアを食べた。旅の疲れを癒すために早く入浴を済ませて、眠りについた。今日はレンタカーでの移動のために、時間に余裕があった。ホテル代に含まれる朝食を堪能して、7時30分にレンタカーで一路東に向かった。…