美木多 幼稚園

View all author's posts further down below.
01 11月 2015

南部藩の矜持
ー11月のことばー

  大阪伊丹空港を飛び立って1時間余り、JL2183便は高度を下げ始めた。それと同時に「当機は約15分後に着陸します」とのアナウンス。眼下には刈り取られたばかりの農地が広がっていた。その時突然機体が揺れ始めた。雲がなく晴れ渡っていた。次の日に乗ったタクシーの運転手によると、機体が大きく揺れ、時には機首が上がったりして空中で翻弄されていたそうだ。機内では「揺れがあるが、飛行に何ら支障がない」という放送が流れたが、乗客にとって、ましてジェットコースターに恐怖を感じる私にとっては不安な瞬間であった。小型機は無事定刻にいわて花巻空港に着陸した。すぐにレンタカーに乗って盛岡に向かった。まっすぐ伸びた東北自動車道沿いに植えられた樹木はすっかり紅葉し、秋の気配が色濃く漂っていた。昔、誇り高き南部藩が治めていた豊沃な大地を切り裂くように今の高速道路がどこまでも続いていた。周りをよく見ると、豊かな農地を見守っているかのように家が点在していた。どの家も大きな杉の木や落葉樹で守られていた。その時、先ほどの飛行機の大きな揺れを理解したように思えた。この地域は防風林が家を守っているのだと。そして宮沢賢治の言う「目に見えない空気の流れ」が強いのかもしれない。一体このあたりの高速道路の制限スピードはどのくらいなのだろうか。100km位で走っていても悠々と抜かれてしまう。高速道路に岩手山の案内、前方に悠然とした大きな山がその雄姿を見せた。盛岡に到着した。昔南部氏が治めた盛岡藩の都はこじんまりとした県庁所在地であった。第31回全日本設置者・園長研修大会が450名余りの参加者の下で開かれた。私もそのうちの一人であった。いつもそうだが、最初にその地出身の有名人かその地が生み出した高名な人についての講演があった。今回は関西であまり知られていないが、岩手では自慢と羨望の人、10年ほど前までは5000円札にその顔が印刷された新渡戸稲造であった。堪能な英語、多彩な人脈、利他の気持ちとクエーカー教徒としての信心、大活躍な様子が話された。次に文科省の幼児教育課長の話があった。幼稚園を取り巻く環境は大きく変化している。その一つは幼児教育の無償化。これは就園奨励費という形で徐々に保護者の負担軽減が図られているが、近い将来5歳児の完全無償化になる可能性は高い。ちなみにイギリス、フランスは無償化が実現しているがアメリカ、ドイツは流動的で、州によって異なっている。イギリスは5歳から義務教育であるがフランス、アメリカ、ドイツは日本と同じである。昭和33年以降、学習指導要領はほぼ10年毎に改訂され、平成20年改訂では、小学校への外国語教育が導入されたが、それにも増して幼児教育の重要性が認識され、幼児教育と小学校教育の円滑な接続の在り方が問われ、幼児期の終わりまでに育ってほしい姿が参考例として報告された。又幼児期の教育、保育に携わるのは幼稚園と保育所であるが幼稚園児数は平成10年を境に保育所児数と逆転している。因みに平成25年は保育所児数235万人、幼稚園児数160万人弱である。これは待機児解消のために国を挙げての保育所増加政策によるところも多い。少子化と保育所激増で幼稚園の経営も厳しさが増していますが、真の幼児教育は何かを見極め、建学の精神に基づき、日々真摯に誠実に幼児教育に取り組み、子供の成長、発達を望む保護者の皆様の期待に応えていく、このことが私たちに課せられた大きな責務であることを深く再認識させられた講演であった。 帰り道、道路工事の現場に何回か出会った。不思議に思って聞いてみると、土木作業従事者が県外に出ないように引き留めるための公共事業であるといわれた。そうでなければ、冬、雪が積もったときにその除雪に従事する人がいなくなるからだそうだ。花巻はまた宮沢賢治の故郷であり、彼は花巻の誇りでもある。裕福な出身で、ほぼ収入がなくても詩作にふけり、好きなことに身を投じるその姿やその文体や内容について反感を持つ人もあるが、裕福なゆえに、自分の立場と農民の悲惨な境遇との対比を通じての贖罪感や他人を思いやる心が人一倍強かった。弱者に対する献身的な態度と強者に対する反感、そんな入り混じった感情が読者に迎え入れられている。土に生きた人として、環境の面からも評価されることも大きい。花巻市の山の上の宮沢賢治記念館で得たものは私にとっては大きい。

01 10月 2015

いつか来た道
ー10月のことばー

  岸信介首相の時であった。1960年、三国丘高校1年生か2年生の頃であった。政治的活動も主義主張も何もなかった。最も日和見的な真面目な高校生であったと思う。日米安保条約改定の時期であった。国民には反米の気分も多くあったのだろう。自民党の強行採決に当時の社会党はあらゆる手段を使って抵抗を試みた。本音と建て前は違っていたように思えたが。学者や知識人といわれる人も数多くその中にいた。大学の一部の学生たちで構成する全学連(共産党や社会党系の全日本学生自治会総連合)を中心に国会を二重、三重にデモ隊が取り囲んだ。東京の下町あたりでも学生たちが道路をふさいで暴れまわった。全国的には数百万人が安保反対デモに参加した。大阪の拠点は扇町公園であった。私も参加ではないが、心情的に共鳴して、どのようなものか見に行った。安保条約の中身は全然わからなかった。ただ又戦争が起こる、アメリカ追従になるという漠然とした思いが頭にあった。若者が一時的によく陥る左翼的考えであったのかもわからない。参加した人はどれ程安保条約を理解していたのだろうか。そしてそんなに沢山の人を動かしたのは何だったのだろうか。当時、まだまだ人々には衣食住が充実されておらず、ハングリー的な気持ちがそうさせたのだろうか。そうだとしたら、なぜ大企業や高級官僚、いわゆる日本的エスタブリシュメントの息子や娘が数多くその闘争の中に身を投じたのだろうか。この後10年余りにわたって続く学生運動の端緒であった。しかし大学選びになると、あそこの大学はマル経(マルクス経済学)が幅を利かせているから、就職は難しいとか、左懸かった授業をしているとか言って入試対象から外された。高校生は現実的選択をした。実際そのような教授のいる所は大学の封鎖も長く、大学に行っても中に入れないことも多かった。私も大学に行っても校門が学生によって閉ざされているために、中に入れないことも多かったし、逆に強行突破をしたこともあった。そんな50年前と比較すると、今回のデモは参加人数も十分の一以下で、マスコミ(そのトップは全学連世代だろうか)が騒いでいるだけかもしれないし、実際法律の中身をよく知って活動しているかどうか疑わしい、丁度50年以上前に私がそうであったように。当時も戦争法案だと言われ、今すぐ戦争になるみたいなことを主張されたが、50年以上もたった今でもその兆しはない。私も年を取ったから後はどうなってもよいとは決して思っていない。人が人を殺めて英雄になることはこれからの人にも決してして欲しくないし、命ある限り、平和なうちに、心豊かにその生涯を全うしてもらいたい。欧州では今民族の大移動が起こりつつある。昔、アメリカ、特にニューヨークは人種のルツボだと言われたが、現在のヨーロッパ、特にイギリスやフランスに行ってもその感を強くする。最もヨーロッパ人が日本人と中国人や韓国人との違いが判らないように、私たち日本人にとって、誰が生粋のイギリス人で誰が中東やその他の諸国から来た人と見分けられないが。私たちはこれからも純潔を守っていくのか、それとも移民を奨励していくのか(昔日本人が棄民としてアメリカや中南米に渡った時と隔世の感がある)私たちが結論を出さねばならない宿題は多い。しかし私たちは誇りをもって先祖代々住み続けてきたこの国、日本を守っていかねばならないと言ったら、グローバリゼーションを唱える人に怒られるのだろうか。季節は10月、全てにおいて一年で一番いい時機になりました。私にとっても命が萌える4月よりもすべてを語り尽して散るのを待っているこの紅葉の季節が大好きです。今、子供たちは運動会の練習で精いっぱいです。小学生になってからでは遅すぎです。幼稚園の運動会が一番保護者の記憶に鮮明に残る運動会です。久しぶりにご家族そろって心からの喜びと至福の時を味わっていただきたいと思います。今月も皆様に満足していただける保育を目指し努力してまいります。いつも以上のご支援、お力添えをよろしくお願いいたします。

01 9月 2015

頭足人から展開画へ
ー9月のことばー

  ご飯は山で切った雑木を乾燥させ、斧で割ったマキを燃やした。新聞紙などで種火を作り、それを燃やした。炎は思った以上に早く薪に移った。勢いよく燃える火の上で米や煮物が手際よく調理されていった。今のガスや電磁調理器に比べると大火力(実際はどうかわからないが、大きな炎のためにそう思えた)で、出来上がるころにふたを開けて火の調節をした、と言っても燃えているマキを取り出すとか、突き出すとかすることであった。一気に炊き上がったコメは一粒一粒がふっくら光り輝いていた。おばあさんはおじいさんのために卵を一個入れた。卵はごちそうであった。おじいさんは戦前村長をしていたが、戦後は無職であった。わずかな農業をしていたが現金収入は期待できなかった。ただ水田の水の管理や村の仕事には一生懸命率先して取り組んだ。そのことで感謝されることが多々あった。スーツはいっちょらと言って生涯一着しか持っていなかった。戦争中は進んで銅や金属、松脂などの供出に協力した。明治の日本男児であった。人の悪口を言うこともなく、権利を主張することもなかった。何が楽しみだったのだろうか。子どもの幸福なのか、孫の成長だったのだろうか。私が入社した松下電器の創業者松下幸之助と同じ年齢であった。成程、丁稚からたたき上げて立身出世の人物になったのだからある意味偉人なのだろう。しかし名は知られていなくても、大地にしっかり根を下ろし、村の人々と一緒に活躍した私の祖父もある意味立派であったと思う。祖父のおかげで私自身良いように言われたことが何回もあった。そんな薪の山、今は庭代台になっているが、昭和30年代、その山の一つを昔のわら葺の家から瓦葺の家に建て替えるために売却した。村のにわか不動産屋を通じて大阪市内の人に売った。私が中学生になったばかりのころ、多分1坪(3.3㎡)何百円であった。その後政治家を含め、たくさんの不動産屋が土地を買いに来た。それからしばらくして泉北ニュータウンの造成の話が発表された。たぶん彼らは情報を先取りする立場にいたのだろう。フェアーでなかった。そんな山から小学生になるかならない頃、切った木をリヤカーに乗せて山道を下ってきた。父、母、妹の4人であった。内容が分からないが、大きな声で今から考えるととても卑猥で恥ずかしい歌を歌っていた。1はイモヤの兄ちゃんと、2はニクヤの姉ちゃんと3はさる・・・・と10まで続いたざれ歌であった。ひょっとしたら斜めに構えた若者が歌い、それを幼児がまねたのだろう。山々にこだまし、父、母も聞くに堪えないものだったに違いない。しかし何も言わなかった。リヤカーはしんどかったが、今となれば本当に楽しい一コマであった。今の幼稚園児たちも、何も意識しないで、大人の社会では認められないことを言ったり、したりすることもある。しかしこれは大部分幼児期の一過性のものであり、将来にわたってまで悪影響をおよぼすことはない。人は成長する、いろいろな経験や体験、知識を通じて又は本能的に自然と大きく変化を遂げていく。   絵画で成長過程を見てみよう。 幼児は最初、頭足人(head foot man) の絵を描く。頭があり、胴体がなくて足がある。それが成長して基底線が表れて周りとのかかわりが見えるようになる。その後透明画に移って物の中身に、中にあるものに関心を持つようになる。それがもっと進んで、家の中がどうなっているかのような展開画などにも関心をもつようになる。11月の作品展の絵画の展示では色使いがきれいとか、形がよいとかだけでなく、これは頭足人の絵だ、いやそれよりだいぶ進歩しているなあーと詳しく見ていただけるのも一つの興味ある絵の鑑賞の仕方であろう。子どもたちは世の中の影響、良いこと悪いことも含め、大いに受ける。私たち幼稚園の教職員が力を合わせ、悪い影響に感化されることを防ぎ、子供たちの大きな成長につなげたい。いよいよ二学期、今学期は行事を含め内容が盛り沢山です。その中でも運動会、作品展等の大きな行事が続きます。田畑や山に行く機会もあります。子どもたちが元気いっぱい活躍し、大きな成長を遂げることができますよう教職員一同力を合わせてまいります。今学期もご期待ください。

01 8月 2015

Fast Track
ー8月のことばー

  Mr.Miyashita と書かれたプラカードを持った出迎えの人、7月1日午後8時前、スペイン、マドリッド、バラハス空港到着ロビー、関空を10時過ぎに離陸して12時間弱、ドイツ・フランクフルトに着いて2時間余り待った後に乗ったルフトハンザ機で2時間、16時間余りの旅であった。マイレージで購入した航空券をキャンセル、キャンセルして期限切れ寸前の3泊のスペイン訪問であった。ドイツまでの飛行機は45年ほど前に初めて見て、その大きさにびっくりしたボーイング747-400、半世紀近くたってまだ現役かと2度びっくり。今回の一人旅は最悪の事態を想定して、日中はガイドに付き添ってもらうことにした。若い時には思いもつかなかったことだろう。外国ではベンツの事をよくメルセデスと呼ぶ。駐車場にメルセデス・ネグロ(黒)を取りに行ってくるから少し待ってくれとのこと。そのメルセデスに乗って歴史あるWestin Palace Hotel へ。車の中で運転手があまりうまくない英語で話しかけるので、スペイン語で返事をすると、次から次へと機関銃のように話が続く。昨日は暑くて42度まで上がったとか、一番格式のあるRitz Hotelがアラブ系のマンダリンに買収されたとか、若者の失業率が高いので、イギリスやドイツ等に優秀な若者が出ていくとか、スペインは今は欧州のどの国よりもセグロ(安全)であるとか、中心街にある広大なレティロ公園はNew York のセントラルパークのように24時間物騒でないとか。成る程、見た限り今のスペインはその通りかもしれない。いつものように持ってきた電気ポットで水を沸かして、カップラーメンを食べてこの日は終わり。箸がついていればとよく思う。明日の朝5時のモーニングコールをお願いして就寝。時に日本時間の午前7時ころ。 Fast track はもともとアメリカ大統領の貿易促進権限、この間までオバマ大統領と議会との間でTPPに関してもめていた権限。飛行場では優先ライン、出国審査などで時間がかかるためにこれを避ける意味で設けている。さすが貴族社会のヨーロッパ。日本では何でもかんでも表面的に平等主義を標ぼうしている為にfast trackは存在しないが、もしそれが設置されたらどんな論争がわき上がるだろうか。乗った飛行機はATR-72、仏伊の2国で製造、よく事故を起こし、最近では台湾で離陸直後に川に墜落したプロペラ機。それしか飛んでいないSan Sebastian(サン・セバスティアン)の町へ。今回は2か所が目的であった。1つは北部バスク地方、そしてこの町はその中心の観光地であった。何よりも一番の特徴はビスケー湾で獲れる魚であり、市場を覗くと日本の魚の種類よりも多い感じで、新鮮そのもの、それに野菜や果物、肉類も豊富ときているので、他の欧州からこの地に食事を求めてくる人が非常に多いとか。このバスク地方はナチスに攻撃されたゲルニカのある町でも有名だが、スペイン語と違うバスク語が認められ、話す人も多い。カタルニア語を話すバルセロナのように。ここで昼に食べた魚料理の味が忘れられない。もう一つはマドリッドから北西へ約100km、日本の新幹線のような高速鉄道で30分、高度1000mの町、セゴビアであった。ウォルト・ディズニーがここの城を見て、白雪姫の城を作ったとかいうアルカサール、下から見上げると本当によく似ている。他の世界遺産は2000年ほど前にローマ人が作ったローマ水道橋、重機のない時代にどのようにしてこんな巨大で精巧なものを作ったのだろうか。そして最後にセゴビアの名物料理、子豚を丸ごとオープンで焼き上げたコチニーリョ・アサド、注文したが顔や耳が付いた丸焼きの子豚を見ると食欲がわかない。実質2日は短いけれども、凝縮した旅であった。ギリシャの次の経済破綻はスペイン、イタリア、ポルトガルと言われている南欧の国々、見る限りそんな印象を一つも受けなかった。スペインではすでに夏休みに入っているので、夫婦ともに働いている人の為に子供用の林間学校が多数あり、いたるところで大人に引率されている小グループの子ども達がいた。今年も節電、節約が言われている。節約は大事なことは言うまでもないこと、しかし節度ある節約、生きたお金の使い方も大切なこと。私の知っている父親は子供が小学生の時に小遣いを500円しか渡さなかった。勿論必要な時は惜しみなく与えた。それもお金の価値を知る上で大事なことかもしれない。私たちは子どもの機嫌を損なわないように必要以上に与えがちだが、心を鬼にすることも必要な時もある。夏休みが明けると子ども達は本当に大きくなって帰ってくる。子ども達が健康で事故にあわないように祈るばかりですが、保護者の皆様もご自愛のほどよろしくお願い申し上げます。

01 7月 2015

平和と愛
ー7月のことばー

  梅雨明けの夏空がまぶしい日々になりました。7月、文月の到来です。7月はなぜ文月なのかは国語学者に任せて、それよりも私たちは、今は1年の中元――真中のけじめ──と言うわけで、そちらの方がなじみ深い。2月の節分に巻きずしを食べるのと同じように、中元に金品の贈答がなされるのも結局は商業戦術が巧みに作り出した社会行事に過ぎない。しかし年末年始の年1回だけでは人間関係や取引関係のつながりが切れそうなので、「虚礼廃止」と言いながらこの習慣がなかなかなくならない。送る方の打算と受け取る方の不自然さを感じさせない受納という一種独特のものがある。昔は教育の世界でも通用していたが、今はそんな習慣はよほどの例外を除いては存在しないし、させるべきものでもない。さて、4月から始まった1学期もいよいよこの7月17日で終業式を迎えます。幼稚園を嫌がっていたり,泣いていた子ども達もすっかりその影を潜め、今は明るく、元気いっぱい、保育室で、園庭で又は園外で活動する場面が見られます。この三か月間の成長は本当に大きなものだと思います。それと同時に大きな成果となって表れています。1学期を上手く乗り越えたおかげで、2学期、3学期のクラスでの活動や大きな生長が楽しみです。私たちの幼稚園は何でも公開の幼稚園です。時には保護者の皆さんに見てもらいたくないという事もありますが、そんなことは許されません。幼稚園によっては門の所までしか入れない園もありますが、私たちはよほどの事情がある場合を除いては保護者の皆様が幼稚園の中に来られることを拒否することはありません。それどころかできるだけ幼稚園での子供の様子を見て頂くために、保護者参加の行事を積極的に取り入れています。1学期だけでも入園式から始まって、家庭訪問、親子遠足、母の日の参観、親子であそぼう大会、体操参観、給食参観、毎月のお誕生会、家族登園、プール参観、個人懇談があります。幼稚園に行くのは面倒だ、子どもの教育は幼稚園にお任せ、と考え、参加行事の少ない他の幼稚園を選択される保護者の方もおられますが、美木多幼稚園はこれからも保護者の皆様と幼稚園が同じ仲間として、手を取り合って、子どもの健全な成長発達に責任を持っていきたい、そしてそれが一番いい方法だと考えています。今後も私たちに大きな力を貸していただきますようお願い致します。さて、少し政治の世界を見渡してみると、今から決めるこれからの日本の安全保障の条文は憲法に違反しているとか、合憲であるとか、徴兵制が復活するとかそんなことはありえないとかの議論が沸騰しています。「人を殺せば殺人だが、戦争では英雄になる」という論理に与するものでないが、今この幼稚園にいる子ども達が大きくなって戦場で銃を持って戦うという事態になる事は絶対避けたいし、そうあってはならない。しかしまた一方、後世に現れる子孫の為に国を私たち自身で守ることも必要なことは自明の論理かもしれない。日清、日露、太平洋戦争、理があったのかどうかわからない、しかし多くの人の犠牲の上に、日本が今なお存在し、私たちは今日の繁栄を享受しているのも事実だろう。人が人を殺し合うことは絶対避けなければいけないし、そのためにあらゆる手段を用いても許されるだろう。しかしそんな残酷な世界は我々農耕民族にとっては正視に耐えることが出来ない。気温が上がると人間に変調をきたすのかもわからない。 7月に起こった大きなよく似た事件。 アメリカ独立記念日 (1776) フランス革命記念日 (1789) 第一次世界大戦勃発 (1914) 子どもたちの成長をわが子のように喜び、世界が平和と愛で満たされることを祈念して、今月も楽しく保育活動を進めてまいります。

01 6月 2015

イモーレ 奄美
ー6月のことばー

  その地は思ったよりも近かった。 JAL2465便は日照時間が日本一短いその島に向かって高度を徐々に落としていった。珍しく空が晴れ渡っていた。その瞬間、本土とは又違った風景が目に飛び込んできた。青い空、それを映し出す澄み切った海面、岩場の続く海岸、そして南の島特有の樹木、大阪を離陸して1時間30分、鹿児島の南をかすめて、ボーイング737は少し荒っぽいながらも鹿児島県の奄美空港に無事着地した。空港の外はレンタカーの事務所以外何もなかった。大阪と比較するとやはり熱い。奄美大島も数奇な運命の島であった。1000年以上前から日本の古文書に日本の島と明記され、交流が盛んであった。その後時代が進み、中国、韓国との中継貿易地として、それなりに栄えた。しかし日本が戦争に明け暮れた戦国時代に勢力を通り戻した琉球王国によって、その支配下に置かれた。島にはその時の面影や文化が残され、今に続くものもある。その後江戸幕府の命を受けた薩摩島津藩によって奄美群島が次々と日本の軍門に下り、その勢いで、琉球王国までもが日本の支配下になった。エアポートには小さな旅客機も翼を休めていた。聞くと近くの島々(喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島等)に飛ぶ定期便であった。ここから鹿児島にも福岡にも那覇にも東京にも飛んでいた。4万人余りの佐渡に次いで2番目に大きい奄美大島にとっては外の世界への貴重な交通手段なのだろう。奄美にも戦前本土防衛の為に重要な軍事基地が存在したが、沖縄ほど過酷な戦闘に巻き込まれることもなく、ほぼ無傷のまま戦後を迎えた。しかし戦後は一転アメリカに占領され、Northern islands of Ryukyuと言われて日本の主権を否定されそうになった。米軍下の奄美は様々な規制や制約があって、人々の生活は困窮を極め、日本復帰への運動が盛り上がっていった。そして1953年(昭和28年)12月25日、アメリカはその統治をあきらめ、奄美の日本復帰が実現した。その時アメリカのクリスマスプレゼントとも言われた。飛行場の近くに奄美パークがあった。田中一村の美術館があったので、入場した。一村は奄美の人の紹介で私がその名前を知った画家であった。人生の後半を奄美で送ったことがこの島と一村を結びつけたのだろう。独特な画法、繊細な筆致、奄美特有の樹木や鳥を描いたその画風、十分一見に値するものであった。軸を二つ所有しているが、そのスケールの雄大さと筆致の素晴らしから見ると、同じ作者の物と思えないほどだ。奄美大島の中心地、名瀬までレンタカーで小一時間かかった。道路は整備されているが、上り、下り、ワインディングやトンネルも多かった。名瀬の町に出るほんの少し前のトンネルは長く大きかったが、その片一方には広い通学路が整備され、暗い中、中高生たちが一人であるいはグループで自転車をこいでいる姿が印象的であった。日本の他の町と同じように、昔、人でにぎわったと思われる繁華街の屋仁川通りで食事を摂ったが、混雑してもよい夜の7時頃でも人気が殆どなく、さみしい感じであった。食材は豊富で安かったが、奄美特有の甘い調味料には慣れが必要であった。奄美は今もがいている。伝統の大島紬は韓国に生産を移管したせいか、売り上げが最盛期の30分の一に落ち、その他の農産物も黒砂糖が中心であるが、最近魚の養殖でも生産額が伸びているそうだ。街で見かけた中高生も大阪の彼らと変わらない。店の前でたむろし、学校には各地の大会への参加のバナーが掛けられているのもそっくりだ。奄美は兵庫県の尼崎と最初の一字の読みは同じ、あましんと書いていたので尼崎の信用金庫がここまで来ているのかと思ったほどだ。同じように奄美高校はアマコー(奄校→尼校)あと一つの高校は大島高校(ダイコー)だそうだ。もう一つ特記したいこと、それはマングローブの森があること。マングローブという名前が付いた植物があるわけでなく、熱帯や亜熱帯地域の河口まで満潮になると海水が満ちてくるところに生えている植物をまとめてマングローブと言うのだそうだ。奄美のマングローブはその中でも比較的大規模、一人乗りのカヌーに、ライフベストを付けて出発です。リーダーに先導されての1時間のマングローブカヌーツアーは結構疲れるが、根が浮き上がった植物を見たり、水深が非常に浅いためにいろいろな生き物を観察できて、いい記念であった。帰りの飛行機に乗る前に少し北部の土盛の海岸に行った。水はあくまで、そしてどこまでも澄み、サラサラの砂浜がはるか遠くまで続いていた。ただ、海岸で泳いでいても沖に流される可能性があると書いていたのが気になった。昔、アメリカの真ん中の田舎でニューヨークに行ったことがありますかと聞くとその数は少なかった。同じように外国人の観光客は知っているけれどもそこに住んでいる日本人がまだ知らない良いところが日本にはまだまだ残されている、そんな思いが一杯の奄美への一泊の旅であった。水無月、6月、今月中旬よりプールが始まります。水に親しみ、水に慣れるをテーマに安心、安全、楽しい保育を目指していきます。

01 5月 2015

健全で健やかな成長
ー5月のことばー

  木漏れ日が新芽で覆い尽くされた木々の間から柔らかな陽気を投げかけている、心地よい一瞬。春が私たちに背を向けて、初夏が薫風を送り届けている。春から夏への急激な変化が日々の真面目な営みを続けている市井の人々に大きな驚きを与えている。何はともあれ、分厚い衣服を着こんだ厳冬の寒さから身も心も解放されて、薄着一枚の軽快な季節に突入した。日本は四季の国、季節季節が本当に私たちに大きな刺激を与え、明日の活躍につながる栄養素となっている。無意識のうちに素晴らしい環境を享受している。日本に生まれてきてよかったと言える至福の時かもしれない。いや、こんな季節の移り変わりがあるからこそ、日本人は冬の厳しさや真夏の激しさにも耐えて、心にやさしさや、強さ、寛容さ、清さ、深さが生まれ、他者へ接する、それが母国人であれ、外国人であれ、独特のだれにも負けない気質になって表れている。幼稚園児はまだこんな移り変わりを片手で足りるほどしか経験していないが、これからその何倍、いや何十倍も経験を繰り返すことによって、人に対する大きな愛や寛容さ、真面目さや誠実さを身に付けてくる、時には身を犠牲にしてまでも【人の為に】と思う気持ちも生まれてくるのだろう。自己中心でなくて、利他的な気持ちが生じる、これも木々が様々に変化する四季があるからこそと思う。そんな素直で誠実な日本人の性質を逆手にとって、人をおとしいれたり、だましたりすることが増加しているのは誰から見ても絶対許せないことだし、拝金主義的な風潮が蔓延気味なのも、戸惑うところだろう。戦中生まれの私にとっては中学生頃に戦前のGNP(国民総生産)を越えたと言われ、様々な経済復興、目覚ましい物質文明の成長を目のあたりにしてきた。いまはとても行けなかったような場所にも訪れることができるし、食べることもできなかった食材も少し無理すれば、味わうこともできるようになった。嫌いなものはすぐに吐き出し、好きなものだけを食べるような幼子たちも出てきた。確かに昔と比較すると富み、贅沢になったと思う。しかし最近の政府の発表では子どもの貧困率の上昇が言われている。複雑な原因がこのような数値に現れたのかもしれないが、どの子どもにも何の責任もない。未来を担う21世紀の子ども達には健全で健やかな成長をしてほしい。目を覆いたくなるような残忍な若者による犯罪が報道される度にその思いは一入だ。時には幼稚園にも近所の人や役所からいじめ、虐待の問い合わせがある。地域でも子供たちの生長を見守っている証だが、プライバシーとの兼ね合いで難しい面もある。目を世界に向けると、伝える言葉が見つからないほどの悲惨な場面が満ち溢れている。本当に私たちと同じ人間なのだろうかと疑ってみたくもなる。その中で一番弱い立場の子ども達は虫けらのように扱われている。まだまだこれから素晴らしい人生があるというのに、生まれて数年で命を絶たれている。少しでもと思う気持ちは誰もが持っている思いだが、どのように実現していくかは非常に難しいし、逆に考えれば、あまりにも多くの不法移民となって欧州や米国に渡れば、その国が持たないのも現実だろう。複雑な問題を抱えた21世紀の地球号、一方を立てれば一方がたたない。こんな状況をうまく解決する方策はないのだろうか。怒れる神の逆鱗に触れる前に人の叡智で早く回答を見つけたい。しかしどんな状況になろうとも、身体的及び精神的に未熟である子ども達の保護が必要であり、又子ども達には最善のものを与えることが義務であることを私たちは心から認識すべきことで、これは1959年の国連の「子どもの権利宣言」でも明白に謳われている。日本の子どもの方がましであるとかいう意見もあるが、物質文明の観点からはそうであるかもしれないが、個々のケースを考えると、そうとは言えない面があるのも事実、幼稚園では私たち教職員がこのことを深く自覚し、子供の幸福追求の為に一段と研鑽を積んでいきたい。子どもの喜ぶ顔が見たい、そしてその後ろにいる保護者の喜ぶ姿を見たい、この気持ちを忘れることなく、今日も保育活動に誠心誠意取り組んでまいります。皐月、5月、新しい季節の始まりです。

01 4月 2015

ようこそ私たちのファミリーへ
ー4月のことばー

  人はその人生を長いという。又ある人はとても短いと述べる。どの基準で考えるかは偏にその人の主観的な判断によるものだが、地球の歴史、いや宇宙の誕生から考えると、存在そのものがあまりにも極めて短く、否定されかねないし、卑近な、例えば長寿と言われている鶴,亀から考えても相対的に短い。しかし朝に生まれ、夕に姿を消すカゲロウから見るとその生命は悠久の無限さを感じることもある。犬や猫のペット動物から見ても羨ましがられるほどその存命期間は長い。どちらの尺度をとっても私たちが今この世で同じ空気を吸って、共に生きているのは奇跡に近い出会いと言っても過言ではない。あの人はもう少し早く生まれてきたらとか、もう少し時代が遅れていたらとかいうことも聞くこともあるが、人にそんなわがままは許されない。人は今の今精一杯に生き続けている。たとえそれが自分の望んでいる道と少し異なっても、あるいは不条理を感じても、その中で許される、そして自分がいいと思う方法で最大限の努力をし続けている。それを宿命という人もいるが、人の偉大なところであると思う。そんなすれ違ってもいいような流れの中で、世界のどこか、日本のどこかではなくて、大阪のこの地で出会うという事は考えれば考えるほど、不思議な運命の悪戯を感じる邂逅である。その出会いはほんの瞬間的なものであるかもしれないし、これから続く人生の中でともに寄り添って長く続くものであるかもわからない。大切にしたい一期一会である。今美木多幼稚園を通園先に選んでいただいたみなさん、ようこそ私たちのファミリーへ。心から歓迎いたします。本当にうれしい限りです。今日から皆さんは私たちの仲間、美木多幼稚園のファミリーです。苦しいこと、つらいこと、楽しいこと、うれしいこと、どんなことに遭遇しても、共に考え、共に喜び、共に助け合っていきましょう。もう一人ではないのです。皆さんのこれからは大きなファミリーが見守っています。それは何年か先に卒園して巣立っていった後でもずっとファミリーとして残っていくのです。私たちは全力で皆さんを支えていきます。そして皆さんが人生の様々な岐路で重要な判断に迫られた時、的確に答えを出すことができる一助となる大切な幼児教育を担っていくことをお約束します。美木多幼稚園のファミリーになってよかった。美木多幼稚園のファミリーがますます広がって行ってうれしい。そんなファミリーになるように切磋琢磨して、絆を深めていきましょう。38年目の美木多幼稚園に入園の皆さん大歓迎です。在園児の皆さん進級おめでとうございます。今年から年少、年中、年長組です。この1年で随分立派にたくましく成長しました。先生と共に様々な活動を続けてきました。お友達もたくさんできました。今年は今まで以上の大きな活躍をしましょう。新しいお友達もたくさん増えました。共に遊び、共に助け合い、又時には先輩としていろいろ教えてあげて下さい。どんなお友達が来るか先生達は心をドキドキ、ワクワクさせながら期待いっぱいで待っています。楽しい、うれしい時間を美木多幼稚園で共有しましょう。保護者の皆様、お子様のご入園、ご進級誠におめでとうございます。平成27年度は幼児教育制度の大きな変化がありますが、どのようなシステムになろうとも私たちは幼児教育に対する情熱を忘れることなく、心を一つにして皆様方の熱い思いにこたえていく所存です。美木多幼稚園を選んでよかった、美木多幼稚園のファミリーになって幸せだと言ってもらえる幼稚園を目指して頑張ってまいります。 尚、私、3月31日付で園長職を辞しました。後任の園長に源久美子が就任しました。和泉市生まれ、和泉市在住で、個人的には高校の後輩です。長らく堺・和泉両市の小学校に勤務し、最後は和泉市立北池田小学校校長として、長い教員生活を終えられました。私に今まで賜りました温かいご支援、御温情に深く感謝申し上げますと同時に源園長にも同様のご支援、お力添えを賜りますようお願い申し上げます。

01 3月 2015

弥生三月、躍動の時
ー3月のことばー

  弥生三月、何かにせかされるように、心が落ち着かない。今までの冬の沈黙の世界から躍動の世界に変わりつつあるせいかもしれない。春の暖かい日差しのせいで、水が温み、秋から冬にかけて日本にわたってきた雁や鴨等の渡り鳥が北方に帰っていく。幼稚園では今まで寒風にその裸形を晒していた樹木が動き始めた。ボケの花、蕾がその色が分かるほどに膨らみ、その後ろの白い梅の花や正面玄関の赤い枝垂れ梅が絶頂を迎えようとしている。誰か教えたわけでもないのに、季節の時計に連動した草木の営みも、全く微動だに狂うことはない。大きな株立ち欅の根元には今年もクロッカスが一年の50週を使って一週間の艶やかな姿を見せるために可憐な黄色い花を得意気に咲かせている。何かが動く、何かが変化する月、3月。「小諸なる古城のほとり  雲白く遊子悲しむ  緑なすはこべは萌えず  若草もしくによしなし  しろがねの衾の岡辺  日に溶けて淡雪流る」島藤藤村 千曲川旅情の歌より。 そして又別れの月。 「仰げば尊し わが師の恩、教えの庭にも、はや幾年 思えば いと疾し、 このとし月、今こそわかれめ、 いざさらば」。 3月は又別次元の他世界を想う月、春の彼岸の月。此岸(現世)を生きる私達にとって、彼岸は別世界。仏事供養だけでなくて、別の世界を考える月、現世にない世界を想像して、私達をユートピアの世界に誘ってくれる月、不自由と穢れに満ちた此岸を離れて、一時自由の翼に乗って彼岸の世界に浸るのもいいのかも。その意味では新しい風を呼び込む若者の月であるのかもしれない。その若者の代表者の一人、年長の皆さん、幼稚園卒園おめでとうございます。皆さんは2年、3年間、4年間、美木多幼稚園で、幼年期に経験したり学んだりしなければいけないことをほとんどすべて習得することができました。私たちは自信をもって皆さんを小学校に送り出すことができると信じています。これから始まる本格的な学業の世界では幼児期に学んだあらゆることが皆さんの栄養素となって大きな役割を果たし、ますます立派な若者となっていくことでしょう。しかしこの世はすべて順風満帆とはいかないもの、勉強で悩んだり、友達との関係で苦しんだりすることもあるでしょう。しかし決して諦めたり、早急な結論を出したりして自分を責めないでほしい。いろいろなことはどんな困難なことでもそれに立ち向かっていけば解決されるものです。どうか自分の道を着実に歩んで、悔いのない人生を過ごしてほしい。りんご、年少、年中組の皆さん、皆さんは幼稚園での1年間で大きな成長を遂げました。たくさんの友達もできました。一人でできることも多くなりました。見違えるほど強くたくましくなりました。よく頑張りました。来年も先生やお友達と一緒に美木多幼稚園で楽しく元気に過ごしましょう。保護者の皆様、この一年、美木多幼稚園に賜りましたご支援、お力添え、大変ありがとうございました。お陰さまで美木多幼稚園も37年間の歴史を38年目につなげるようになりました。私たちは精一杯幼児教育に取り組んでまいりましたが、まだまだ皆様方のご期待に充分応えることができたと言えないかもしれません。今年度の経験、体験を踏まえて、来年度も子供中心の保育を目指して、より一層精進してまいります。年長の皆さん、小学校に行っても、美木多幼稚園の事、先生の事、友達の事を忘れないでください。先生はいつまでも皆さんの味方であり、皆さんを見守り続けています。 さようなら。

01 2月 2015

As the boy, so the man.
ー2月のことばー

  今から50年以上前の高校生から大学生にかけての頃、音楽に大きな関心があった。何か演奏するとか歌うとか、グループを作るとかいうものでなく、ただクラシックの曲を聴き、友と語り、感動を共有することであった。窓に腰を掛け、ギターを弾きながら歌う格好良さに魅かれたこともあったが、自ら演奏を習うまでの意欲はなかった。石原裕次郎やその映画に魅惑されてサックスの猛練習をする友もいたが私には無関係であった。フルトベングラー、カラヤン、マゼール、トスカーニー等の巨匠の名前が会話の中でよく出てきた。クラシックのレコードもよく集めた。ステレオ全盛期であった。指揮者フルトベングラーのモノラル録音も電気的にステレオに変えられていた。各社ともオーディオの性能を競った。リニアトラッキング、デシベル、インピーダンス等々の横文字が氾濫した。M電器への入社はその影響もあった。初任給(29300円)の何倍ものオーディオ機器に憧れ、大きな決断をしたこともあった。ドルビーシステムが導入されたのもこのころであった。ドルビー内臓のデッキを売るためにせっせと海外向けのコピーを書いた。5か国以上の言語に翻訳されて、商品と一緒にそれぞれの国に送られた。門真の小さな事務所から世界に発信されるのは一種の驚きであった。しかし誰もそんなことは考えなかった。オーディオは日本を中心にまわっているという自負があった。兎に角、入口と出口の重要性、特に入口の大切さを考えていた。レコードプレーヤーもオープンリールデッキも各社精一杯の創意工夫がなされていた。当時大きな権威を持っていたオーディオ評論家も大きな流れを作っていた。タンノイ、JBL,オルトフォン、その他さまざまな世界の権威の名前も聞いていたが、井の中の蛙であった。音楽の世界と同様に、教育の世界でも入口の大切さはいくら強調されても強調しすぎることはない。「三つ子の魂百まで」「As the boy,so the man」3歳児の心は百歳になっても変わらない。3歳児から始まる幼児教育、それに続く小学校教育の重要性は否定できない事実であり、各国が最も力を入れているのもこの根幹の部分の教育だろう。その教育が他国を敵視したり、侮蔑するような偏向教育を行うと、その解消にはその教育を受けた何倍もの年月が必要だろう。私たちは世界に誇れ、世界中の人が羨むような行動様式、例えば、挨拶、礼儀を尊び、人をもてなす利他の心の教育、だれもが納得できる道徳教育、外国のいいところを取り入れた西洋流の教育、そして日本を愛する不変不屈の教育、そんな教育を目指していきたい。私たちは家族が大切であり、同じように友もそうだろう。そして故郷も今の住んでいる市町村、都道府県もそしてもっと大きく言えば、同じ運命共同体の日本も大切な大切なものです。しかしもっと大きく目を開けてみると地球は私たちの大きな大きな飛行船、仲違いをして空気が漏れたらそこまでの命。幸い欧米には源流のラテン語があるように、私たちには漢字文明がある。小さな利権ももちろん大切だが、大きな目標はもっと大切かもしれない。形のあるものはどんな立派なものでも、どんな立派な有名建築家によってデザインされたものでも、壊れる運命にある。しかし心の中に宿った教育は永久の物になっていく。そんなお手伝いを少しでもできれば、私たちはこの上ない幸せ者だろう。この間3年生の時に担任したクラスの同窓会があった。30年の歳月が顔、形を変えていた。日々楽しいこともあるが、苦労も多いのだろう。社会的地位もそれぞれ違うのだろう。しかしそんなことは関係なくあの当時のままで話している。オーヘンリーの「After 20 years」では20年後、二人は警官と犯罪者という設定であった。それはあくまで非現実の世界、社会的身分や地位は瞬間のもの、それより心の結びつきの方がよほど重要、ほんのちょっぴりでも彼らに影響を与えたのかなと自問自答する私がそこにいた。2月は一目散に逃げていく月、陽光の春にたどり着く最後の関所、気力、体力それに持ち前の明るさを持ってこの寒い最後の冬を余裕で乗り切っていこう。

01 1月 2015

明けましておめでとうございます
ー1月のことばー

  2015年、平成27年、新しい年を迎えました。私にとっては71回目の、美木多幼稚園にとっては37回目の正月です。皆様方にとっては何回目のお正月でしょうか。 私たちは人類悠久の歩みの中で、年齢が違っても同じ歴史の一コマを享受しているというのはなんという偶然の縁でしょうか。その縁を大事にしながら豊かな人生経験を持つ者は浅い者たちへその経験や知識を引き継いでいく。この引き継ぎの儀式によって私たちのDNAが過去から未来へと一直線に伝わっていく。膨大な量の知識や学問も蓄積され、伝えられ、この面では確実に大きな進歩を遂げている。経済的な飛躍もまたしかりである。アフリカの様々な種族、国境を勝手に作られたと怒っている中東の一部の人たち、白人と戦いを繰り返したアメリカインディアン、ピサロやコルテスに蹂躙された南米インカの人々、そして民族大移動や宗教戦争を体験したヨーロッパの人たち、シルクロードを通って交易や悟りを追い求めた人々、大航海時代に命を懸けて未知の世界にあこがれた人たち、人減らしのために棄民と言われても新しい国に生活の糧を求めていった人々、過去、現在いろいろな人たちのお蔭で生活レベルは向上していった。少しは過去のしがらみが残るとはいえ、経済的にも生活していく上でも、だれも過去以上の水準を享受していることも確かだろう。卑近な例を挙げると、昭和30年代、今から60年ほど前、牛肉を食べることはほとんどなかった。100匁(モンメ)約375g、200円くらいであった。それを販売する店もほとんどなかった。すき焼きはお寿司と並んで大変なごちそうであった。1ドル360円、大卒初任給1万円(約30ドル、現在約20万円で1700ドル)ドルの値打ちが下がったのか、円の価値が上がったのか、又は別の原因なのか。ただ百貨店の手の届きそうもない垂涎の的だった欧州の商品が少し頑張れば、手に入ることができるようになったのは所得が上がった証左なのだろう。そして今、過去の日本人が経験した生活水準を低開発国として考えていた国々の人たちが受けるようになった。日本の大都会や観光地のホテルが外国人であふれているのはその証であり、アメリカ、日本、中国、低開発国と続く所得上昇の大きなうねりなのだろう。経済的、知識的に大きな進化や成長を遂げたとしてもそれは物質的な面だけであり、活字媒体やITの面で大きな進歩をしたとしても心や精神面で何らの大きな成果も得られていない。16世紀のイギリス人のサラリーマンが綴った日記は現代に十分通用するものであり、21世紀だからといって、それを凌駕するするものは見つけ難い。しかし古今東西何人も幼児教育の重要性を否定することはできないし、「三つ子のたましい、百まで」は自明の理であり続けている。過去も今も子育ては親にとっては大きな苦労であり苦悩であると同時に他のものに代えがたい幸福であり、喜びである。私たちは深くこの事象に係っているという喜び、自覚を肝に銘じ、日本の未来を託す幼子たちを見守り、道を踏み外すことなく立派に育てあげていく大きな責任の一端を背負っている。これからも全力で「子供第一」の強い気持ちを持って保育活動に当たってまいります。 今年わたしたちは次の目標を掲げてこの新しい一年間を頑張ってまいります。 1.子ども中心の保育を心掛ける。 2.保護者の皆さんも先生も満足し喜ぶような保育活動をする。 3.感謝、謙虚、素直さを忘れない。 4.コンプライアンス(法令順守)を心がける。 5.掃除、挨拶の徹底を図る。 これからの一年間、子ども達の笑顔、保護者の皆様の喜ぶ姿そして一緒に働いている仲間の喜び、充実感や達成感を探し求め、追い求めてまいります。新しい年、2015年が皆様方にとって本当に素晴らしい年、掛け替えのない年になりますよう心よりお祈り申し上げますと同時に温かいお力添え、ご指導、ご意見、時には慢心を戒める厳しいお言葉も頂戴いたしたく宜しくお願い申し上げます。

01 12月 2014

鼎の軽重
ー12月のことばー

  「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」(芭蕉)「枯葉が落ちねば次の花は咲かん」 荒涼たる原野、厳しくたたきつけるような吹雪、この世の終末とも思えるような原風景が織りなす様々な心の葛藤と寂寞とした気持ち、芭蕉の時代は私たちが想像するよりももっと激しい自然の洗礼を受けていたことでしょう。樹木が余計な装飾をかなぐり捨て、身軽になって厳しい冬の準備を整い始めました。人は反対に科学の粋を集めた温かい化学繊維によって身を守る工夫です。長年続けられた自然界の厳しさとそれに対峙する人間界の知恵とのいわば小さな戦いです。戦いは別として、人はこの瞬間においても必ず何らかの判断、決断に迫られている。何もそれは人生をあるいは国の在り方を決めるような大きな決断でなくとも、朝起きて今食事をするか、会社へ行く途中で食べるか、今人にそのことを話すべきか、後の方がよいか、あの人に贈り物をすべきか否か、お葬式に行くべきか否か、数えきれないほどの判断の必要性に迫られ、その人なりの規範に従って結論付けていく。善悪の判断にしても、自分の考え、性格、育った環境、受けた教育に従って答えを出している。しかしそれが他の多数の人の判断基準から外れていると「常識のない人だ」「変わった奴だ」とか言われて世間から隔離されることもある。私たちはたとえ大多数にそぐわない意見を持っていたとしても、人に嫌われるのを恐れて自分の意見を封印しがちだ。それが鼎の軽重を問われることになっても。人が生活していくうえで、善悪の判断が非常に難しいことがある。正か否か、しかない2極で判断すれば案外簡単であり何も悩む必要がない。しかしそれでは日常生活が立ち行かなくなり、生活も無味乾燥で、成長、発展への意欲も潰えたものになり、ただ与えられた枠の中で決められた活動しかできないことにもなりかねない。たとえば他人の土地に一歩足を踏み入れるだけで、スピードを1kmオーバーするだけで、罪を問われたら、私たちはどうなるのだろうか。グレーゾーンがあるから私たちはそれなりに社会生活を送ることができるし楽しむこともできる。しかしどこまでがグレーゾーンであるのかの基準はそれを取り締まる人の恣意的な判断やさじ加減になるのは憂慮すべきことかもしれないが絶対的な規範がない以上、それもありうるのだろう。ある人にとっては法律の中には遵守できないような条項もあるかもしれないが法治国家としての法律である以上守らねばならない義務がある。世間一般の常識とかけ離れてそれが存在する場合は、その法律の正当性が問われ、はっきりと善悪を決めることができるかは難しいところだ。所詮判断は人が決めるものであり、地域性や裁く人の人間性によっても大いに左右されることがある。日本人の常識が世界の常識であるようなユニバーサルスタンダード的なものがあれば、人は快適に世界中と交易をし、旅をし、談笑することができる。現実は180度異なる国がある。政体も違い、主義主張も歴史も異なり、生活水準も違う。Aの国で良いことがBの国では全く逆で、Cの国では重い罪に問われかねない。国体を変える為に示威行為をする人もおれば、天国に行くことができると言って戦いで命を落とす人もいる。特攻隊を作った日本にとっては他人事でない話。アフリカの常識が、イスラムの常識が、ユダヤの常識が、欧米の常識が、中国や韓国の常識がそれぞれ異なっている。通信や交通手段のますますの発展により問題はより身近なものになり、複雑になっている。それぞれの常識や判断基準を一方的に正しいと言って他国に押し付けるのは是とするのだろうか。難しい問題だ。このころテレビや街角で美容整形の広告を見ない日はない。顔や胸に手を加え、体型を整えて、見目麗しい美形に変えていく。女性の永遠のテーマ、しかしその判断基準には絶対的なものがあるのだろうか。蓼食う虫も好き好き、人の嗜好も多様な今、整形医学の進歩には脱帽するとしても、それに踊らされている面もあるのかもしれないが、美を追い求める欲求は男女ともに永遠に続く不変の思いだろう。残念なことにいくら整形しても、子ども達の天真爛漫とした美しさにはかなわない。人それぞれ判断基準が異なるから人生が面白い。判断基準という広い道、端を通ろうが真ん中を通ろうが道を踏み外さなければ構わない。子ども達には正々堂々と21世紀を生き抜いてほしい。幼子たちへの願いは大きい。来月は平成27年、2015年、皆様方にとって健康に恵まれ、幸多き年でありますよう心よりお祈り申し上げます。この一年のご厚情心より感謝申し上げます。有難うございました。

01 11月 2014

四国・高松への道
ー11月のことばー

  あれから丁度1年、会場は旭川市から高松市にバトンタッチされて、全日本私立幼稚園連合会設置者・園長研修大会が開かれた。初日は13時開始、幼稚園での朝礼をいつものように終えて、9時30分頃、目的地をナビで設定し、堺を出発した。目的地まで220km、時間が計算できる行程であった。この時間帯ではどこも渋滞がなく、阪神高速堺線から池田線を通り、中国自動車道に入った。いつも混んでいる宝塚I.C のあたりもブレーキを踏むこともなく、一気に走り抜け、西宮北から山陽道に入った。まだ紅葉まで(昨年の北海道は真っ最中)少し時間があるかなと思える山あいを高速で通り抜け、途中明石大橋の方へ針路を切る。名前は定かでないI.C の入り口から1台のグレーのクラウンが合流、思わずブレーキを踏み、横を見るとヘルメットをかぶった2人、指定速度以下に落として、覆面パトカーの前を走る。そのうちパトカーが私を追い越して、前方に移動、そのまま明石大橋手前の片道4車線のトンネル内を走行、その時一番右側の追い越し車線を高速で普通車が通り過ぎる。獲物を見つけたかの如くに、一番左側の車線から指示器を点滅させながら高速で右側に移動、追跡をしたかと思うとすぐに屋根の上の赤色灯の点滅、その車はパトカーの誘導に従ってトンネル出口で停車、横を見ると女性のドライバー、男女に差がないというものの、何か悲しい気持ちになった。パトカーを草原で獲物を狙う豹やライオン、チーターに例えるのは間違っているのだろうか。車の性能が良くなり、道路環境も整備された今、昔のままのスピード規制には若干の違和感があるのかもしれない。淡路島横断は快適な一直線の高速道、ほどなく鳴門大橋に着いた。橋の上から鳴門海峡を見ると、大きな渦があちこちで渦巻いている。潮の流れがそんなに際立って早いのだろうか。観光船が何隻もそれに群がり、近くでは多数の漁船も豊富な海の幸を求めて活発に動いている。昔鳴門にはよく来た。その時は岬町の深日まで自動車、そこから1時間フェリーに乗って淡路島の洲本へ、その後淡路島を横切って阿那賀から20分くらいのフェリーで鳴門に到着、時間的には今の兵庫県まわりとさほど変わらないが、フェリーの時間や乗船可能かどうかの心配をした。そんなに昔のことでないのに、遠い過去のような気がする。高松道は他の四国の高速道路がそうであるように、片側1車線の所が多く、四国に投資することの躊躇を垣間見たような気がするが、あまり不便さを感じないのは交通量のせいなのか。讃岐平野を貫く高松道は私をJRホテルクレメント高松まで連れて行ってくれた。JR高松駅は四国の鉄道の玄関口、海に近接している。昔ここから岡山の宇野市まで鉄道車両搭載の宇高連絡船が就航していた面影が随所に見られた。1955年(昭和30年)当時小学校5年の私の記憶にも紫雲丸事故が鮮明に残っている。死者168名、その内私と同じ位の小学校の児童の犠牲者は108名、悲劇の修学旅行であった。これを契機に四国と本州の連絡橋の構想が持ち上がったのも当然の話であろう。何回目かの高松が私を温かく迎えてくれた。今回は新しい幼稚園教育の制度に関する話がメインテーマであるが、香川大学教授による今話題の希少糖(rare sugar)についての話及びその研究過程で学んだ様々な知恵、処世訓等も有意義なものであった。文科省の役人は幼児教育の現状と課題について、戦後の出生数の推移や幼稚園及び保育所の利用者数の推移から始めて、子ども子育て新制度の導入についてその理由等を話された。様々な意見がある中で、この新制度もそれなりに導入されていくのだろう。現在新制度への移行幼稚園は全国的に20%強、この数字が多いか少ないかは議論の分かれるところだ。霜月、11月、今月は作品展の月、子ども達の力作、活動ぶりを是非幼稚園に来ていただき、ご自身の目で見て頂きたいと思います。子どもたちの生長と幸せを願って今月も保育に全力投球です。

01 10月 2014

37年目の秋
ー10月のことばー

  朝の冷気が肌に心地よい。秋の気配が充満しているのだろう。その中にかすかに秋の匂いが漂っている。草花や樹木の匂い、生きとし生けるものの匂い、季節は四季それぞれの独特の匂いで私たちに迫ってくる。自殺すると木にされると言う西欧の諺、移動できないもどかしさの中で、匂いで自己主張しているのかもしれない。大阪を俯瞰している金剛、葛城、岩湧の連山、その稜線が一段とはっきりしてきた。PM2.5や黄砂に汚された空気が精気を取り戻し、その透明感で様々な景色を変えている。神が大挙して出雲を訪れている今、10月、神無月、私たちは一年の一番いい時期に浸る幸せをかみしめたい。そして今年は美木多幼稚園にとって37回目のOctober、開園式の時は32歳であった。行政、学校関係、地域の人々、様々な人に祝福していただいた。司会の任に就いた。それまでビジネスの世界にいたせいか、匹夫の勇のせいか、怖れるものはなかった。心は比較的落ち着いていた。創立に伴う多額の負債があったが、楽天的な南米で何年か過ごしたせいか、「どうにかなる」という気持ちが強かった。もっとも綿密な計画を立てていたが。それよりも「どうしたら園児や保護者の皆様に喜んでもらえるか。どうしたら子供のためになるか。その成長を助けることができるか。」という事が大きな要素を占めていた。当初は1クラス40人が定員であった(現在は35人)。先生も少なかった。しかし一人が二人近くの仕事をこなした。どの教職員も同じ方向を向いて力を合わせて取り組んだ。幼稚園は活気にあふれ、次から次へと斬新なアイデアを教育活動に導入した。どの幼稚園と比較されてもその内容や活動は決して見劣りしないという自負があった。先生も大変だった。しかし意気に燃え、労苦はいとわなかった。やり方がスマートでなかった。それどころか泥臭かった。それが自然と共生し、自然の懐の中に抱かれて生きる美木多幼稚園の姿であった。あれから37年、共に創立に加わった内の園長と理事長がこの世を去った。人の世の習いとはいえ、永遠の別れは寂しい。その教育活動は時の流れとともに少しは変化したというものの、大筋では何ら変化なく、脈々と私たちの中に引き継がれている。まだまだ伝統と言えないまでも、変わることのない大きな心柱となって私たちの教育活動の根源になっている。これからも困ったとき、悩んだとき、その心柱に問うてみたい。 10月1日は願書提出の日となっています。美木多幼稚園はこれからも教育活動を益々公開してまいります。しかし保護者の皆様やご紹介された皆様には決して後悔していただくことのない活動です。幼児教育は人間成長の根幹であり、これから始まる小、中、高の教育を左右すると言われています。ただ可愛いだけでなく、そこに何かをプラスする活動を目指して、教職員一同心を一つにして取り組んでまいります。今後ともこれまで同様、ご支援、お力添え賜ります様心よりお願い申し上げます。

01 9月 2014

著名人の文章から
ー9月のことばー

  山路を登りながらこう考えた。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。(夏目漱石)春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。夏はよる。(清少納言)恩を受けた人はその恩を心にとめておかなければならないが、恩を与えた人はそれをおぼえているべきでない。(キケロ)学問とは唯むつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ詩を作るなど世上実のなき文学を云うにあらず。(福沢諭吉)養生の術は先心気を養うべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさえ、うれひ・思ひをすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。(貝原益軒)良い憲法さえ作れば国が良くなるなどという軽率な考を以て、これに御賛成になりますと非常な間違いである。憲法で国が救われるならば、世界に滅亡する国はありませぬ。(尾崎行雄)昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ この命なにを齷齪 明日をのみ思ひわづらふ(島崎藤村)人と人との接触に関心する人々の心にあって最も重き地位を占むるものはいうまでもなく愛の問題である。愛は初め花やかなる一団の霞のごとくに、たのしく、胸をおどらす魅力を備えて私らの前に現れる。(倉田百三)子日わく、学んで時に習う、亦説ばしからずや。有朋、遠きより方び来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならずや。(孔子)春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけ出でし むかしの光いまいづこ。(土井晩翠)わたしにとっては、人生には美もなければロマンスもありません。人生はあるがままのものです。そしてわたしは人生をあるがままに受け入れるつもりです。(バーナード・ショー)バスの中で三歳の子が母に言った。「ね、あのおうちも向こうのおうちも大きいね、ボクんとこどうして小さいの」すると若い母がいった。「あんな大きなおうちだったら、ママが坊やにお話ししても聞こえないでしょう。ひろすぎて」坊やがいった「ホントだね」私はこの母に感動した。(淀川長治)日本料理にはまた、料理以外の美的要素といいますか、日本人独特の繊細なセンスを生かすことも必要でっせ。なにしろ、朝の山の色と、ゆうがたの山の色とが変わるという国やさかい、そのデリケートなところが料理法にも反映して、世界に冠たるものやと思います。(辻嘉一)約束の時間を守らないで、他人に迷惑をかけることの悪徳であることは、なんびとも否定できまい。にもかかわらず、どうして私たちはこんなに時間についてルーズなんだろうか。その根本の原因は、私たち日本人は、時間をムダにしたり、ムダにされたりすることにあまり神経質でないからだと思われる。(河盛好蔵)蔵書数がどんなに多くても整理のできていない図書館は、冊数はほどほどながら整理に行き届いた書庫ほどには役立たない。それと同様にどんなにたくさんの量の知識でも、自分で一度考えぬいてない場合には、量としてははるかに少なくてもいろいろ考えつめた知識より、その価値ははるかに低い。(ショーペンハウエル)武士道は刀の正当なる使用を大いに重んじたるごとく、その濫用を非としかつ憎んだ。場合を心得ずして刀を揮った者は、卑怯者であり法螺吹きであった。重厚なる人は剣を用うべき正しき時を知り、しかしてかかる時はただ稀にのみ来る。(新渡戸稲造) 代々木ゼミナールが規模を縮小したというニュースが流れた。50年前の受験生のころ、大阪は予備校が群雄割拠していて、代ゼミがあったのかどうかわからない。私はYMCA土佐堀校を選び多くの友を得た。当時は大学の数が少なく、学生の半分以上は浪人生であった。今は大学の数が極端に増え、誰でもはいれる状態になった。換言すれば浪人してまで行きたいという大学が減ったのだろう。人口減に伴い、栄枯盛衰が様々な分野にまで忍び寄っている。将来に対する予測が難しくなってきた、ひょっとすると同じような現象の国や過去の時代も参考になるかもしれない。しかしどんな時代になろうとも、人はその状況の中でたくましく生き続けることも事実だろう、この地球号が破壊されない限り。一段と元気で頼もしくなった姿で私たちの前に現れた子供たち、本当にお帰りなさい、先生たちはいろいろ準備をして、今か今かと待っていました。さあ2学期、運動会、作品展、登山、ミカン狩りにサツマイモ堀、秋の遠足、様々な楽しいことが皆さんを待っています。大きな成長を目指してともに集いましょう。9月、長月、September, 教職員一同力を合わせて同じ方向を向いて今月も張り切って進んでまいります。尚、今月、願書配布、来月入園受付となっています。勝手なお願いですが、何卒ご近所お知り合いの皆様に私たちの幼稚園をお勧めいただきたく、伏してよろしくお願い申し上げます。皆様方の期待に背くことなく、推薦して良かったと言っていただけますよう努力を重ねてまいります。

01 8月 2014

Republica Argentina (レプブリカ アルヘンティーナ)
ー8月のことばー

  アルゼンチンが敗北した。惜敗とは言え、負けた。人はチームプレイに徹した又はこの日のために10年かけてチーム作りに取り組んだドイツが、比較的個人技による南米のチームに勝利したと論じた。又ほぼ白人の国、アルゼンチンに対して移民政策をとっているドイツの勝利と言う人もいた。労働力確保の為に数十年前からトルコやギリシャ等の南欧の国々やアフリカ諸国からの移民の流入を認めていた国、そして東ドイツと一緒に大帝国を築き上げたヨーロッパ一の経済大国ドイツ、東ドイツ出身のメルケル首相も応援に駆け付けたドイツ、片や南米第2位の国とは言え、経済力は日本の九州と同じくらい、そして今や再びデフォルトの危機に見舞われ、首脳がサッカー観戦どころではない経済困難国、アルゼンチン。東西ドイツの象徴、ブランデンブルグ門で大歓声のドイツ、一方Casa Rosada(大統領官邸)前の広場で悲嘆と失望に暮れるアルゼンチン。しかしこの国は過去ワールドカップ(Copa Mundial)に2回勝ち、西ドイツにも決勝で勝ったこともあるサッカー大国。45年前、取引先の上司に連れられて初めて行ったRiver Plate(リーベル プレート)の本拠地、サッカーを何も知らなかった私に衝撃を与えたその熱狂さ、ビジネスの世界ではサッカーの話は必要不可欠だと悟らされた。貧困から抜け出すためにサッカーをするのと違って、有名なクラブで競技をしたいためにサッカーに身を投じている懐かしい第2の故郷、アルゼンチン。対岸が見えない広いラ・プラタ河沿いで愛を語り合う恋人たち、中に飛行場がある広い広いパレルモ公園、強烈な暑さと砂漠と歴史の州、フフイ、フォークソングで有名なツクマン州、炎熱の地、サンチアゴ州、ワインで有名なアンデス山脈の麓、メンドサ州、ハッとするような美人の多いサンタフェ州、2番目に大きいコルドバ州、風光明媚な湖と山々に囲まれた南米のスイス、ネウケン州、荒々しい自然が残るパタゴニア、そして日本の東京と同じく一極集中が進む人口1100万人のブエノスアイレス州、2年余りにわたって駐在していた国アルゼンチン、23州全てを踏破した思い出が45年の時空を超えて今鮮明に蘇っている。今回は完敗、しかし4年後、8年後、12年後、3度目の頂点を目指してもう動き出しているだろう、国の力を結集して。さて、いろいろな事件が起こり人を不安に陥れている。ベネッセ(進研)の漏洩問題は小さな子供たちの一生涯について回るだけに深刻度が大きい。あの手、この手で個人情報を吸い取ろうとする企業と個人との対峙、私たち幼児教育に携わる者としては、これを他山の石として、教職員一同心して、取り組んでまいります。いよいよ夏休み、怠惰にただ時間を過ごすのではなくて、何か必ず一つのことをするという目標を持って取り組んでほしい。早起きでもいい、お父さんやお母さんのお手伝いでもいいし、新聞取りや水やりでもいい、何か習慣づけて達成できるものであればいいと思う。今年の夏はある意味両極端、新聞報道によれば、ボーナスは昨年比8%UPとか、アベノミクスの影響で企業の業績がV字回復し、それが働く人にまで及んできたとか。そうであれば少しリッチな気分で外出とか旅行とか自然を訪れる旅とかに行かれるのもいいかもしれません。しかし電力需要が逼迫して節電が要請され、家を新築したりして節約の世界に浸りきる人も多いのかもしれません。それはそれで子供たちの大きな勉強になるでしょう。節約は美徳? 消費は美徳?余裕があれば皆さんはどちらの美徳を選ぶでしょうか。今を我慢して将来に備えるか、今の今しかできない消費をするか。難しい選択です。毎年夏休みが明けるとこれが本当に夏休み前と同じお子様かと、びっくりさせられます。心から願うことはお子様たちがこの休みの間に、病気になったり、事故にあったり、様々な事件に巻き込まれたりすることなく、どんな過ごし方でもいい、毎日元気に子供らしく過ごしてほしい事だけです。9月、先生が首を長くしてみなさんが帰ってくるのを待っています。少しのお別れです。アルゼンチン流に言えば、チャオ、アスタ・ルエゴ、アスタ・ラ・ビスタ、アディオス、そして日本流に 又会う時までお元気でさようなら。

01 7月 2014

激変する幼稚園
ー7月のことばー

  1840年、ドイツでフレーベルが小学校に上がる前の幼児の為の学校が始めての幼稚園(kindergarten)と言われて以来170年余り、そして日本では1876年、お茶の水女子大学付属幼稚園が最初の幼稚園として認可されてから130年余り、幼稚園がその役割を果たしてきた。卑近な例を挙げると、堺で2番目に古い諏訪森幼稚園が80年余り、そして前の鳳幼稚園の歴史を加えると今の鳳幼稚園も同じくらいの歴史を誇り、美木多幼稚園も歴史はその半分以下だが、それなりの伝統を受け継いできた。今現在日本にある13000余りの幼稚園も同じように歴史を刻み、幼児の教育に精一杯の情熱を傾けてきた。そして保育機能を持つ保育所(nursery school or daycare center)とそれぞれの役割分担を行いながら、小学校に至るまでの幼児の健全な成長に少なからず果たしてきた役目が大きいと言っても過言ではないのかもしれない。アベノミクスの影響があるのかわからないが、来年、平成27年4月から幼稚園、保育所の制度が大きく変わるようになった。と言っても主に変化のあるのは3,4,5才児対象の幼稚園の激変である。 1. 形態。 今までの幼稚園(すべて大阪府の管轄)は次の4つに分類される。 a. 今まで通りの幼稚園(大阪府が管轄) b. 施設給付型の幼稚園(市町村が管轄) c. 幼稚園型認定こども園(市町村が管轄) d. 幼保連携型認定こども園(市町村が管轄) bは幼稚園であるが、市町村の中に組み入れられ、定員などの調整も行われる。 cも幼稚園であるが、0,1,2才児の認可外保育所も運営できる。原則1日11時間の開所、最低8時間の開所が必要。土曜日開所しない場合もある。 dは認可された0,1,2才の保育所機能を持つ子ども園で、新しい法律に基づく新しい組織になる。原則として1日11時間、年間300日開園する。具体的にどの幼稚園が何型になるのかは各幼稚園が判断し、7月に大阪府でまとめられる。今の決定を後年変更する事も可能。 2. 保護者の皆様にとって。 突然の急な変更のために、全容が分かっている状態ではありませんが、今理解していることだけお伝えします。 a 3,4,5歳の子供は1号認定か2号認定に分けられます。1号認定はどちらかの親が働いていない場合です。2号認定は例えばお母さんが働いている場合で月最低48から64時間で短時間(8時間)の保育認定、フルタイムで働くと11時間の保育認定が受けられます。すなわち認定こども園か保育所でそれだけの時間の保育が受けられます。因みに1号認定は4時間で、それ以降の保育は従前どおり預かり保育になります。3号認定は0,1,2才の子供達で、たとえばお母さんが働いている場合に適用されます。1号認定、2号認定、3号認定などはそれぞれの市町村で行われます。…

01 6月 2014

6月、水無月、今月も期待
ー6月のことばー

  先日、東京から新幹線「のぞみ」に乗って帰ってきた。夜9時過ぎ、東京駅出発、2時間30分の快適な時間を享受させてもらった。私たちが対価を支払っているのだから当然だと言う人がいますが、この列車を安全に快適に運行させるのにどれほど多くの人たちが気を使い、神経をすり減らして仕事を遂行しているかを考えると対価以上の感謝を感じてしまう。うつらうつらしながら創業時のことを思い浮かべた。それまでは6時間30分であった。それが一気に3時間10分、ひかり号は夢の超特急、弾丸列車であった。老若男女を問わず、ただ体験するためだけに新幹線に乗った。新大阪を出て、名古屋往復が定番であった。50年前の話であった。大学生で近所のお年寄りを連れて行ったこともあった。混雑していて座席が無かったこともあった。この世での一つのいい思い出だったかもしれないが、今はもう誰も例外なく別の世界に行ってしまった。阪急電車と国鉄(JR)との景観に関する補償問題もなぜか関係のない私の頭に残っている。大きく報道されたせいなのか。京都に入ったあたりで、新幹線と並行して走るために今までの景色が台無しにされ、補償を払えというものだったと思う。京都へのお客が奪われるという阪急電車の危機感があったのだろう。何事も新しいことに対して本能的に拒否反応を示すのが昔から続いている私たち日本人の特徴なのかもしれない。生物体としての人間は確実に退化している、例えば食物の安全性や賞味期限の問題はそれぞれの個人で判断していたのが、今やその自信がなくなった。天気の予想に関しても気が付かないほどの小さな気象の変化にも注目し、明日の予報に役立てていたが、今はそれが全く話のタネだけに終わるようになった。科学的には今の方が優れているというものの、人間の機能が失われつつあるようで、残念で歯がゆい思いがする。エボリューション(進化)を繰り返して50年、新幹線の形状や性能は変わったが新大阪周辺やそれにつながるアクセスは開業時とほぼ同じ、その50年前に高校を卒業した私たちの古希を祝っての同窓会が先日あった。府立高校400名の卒業生のうち、90名余りが出席した。紅顔美少年や美少女のあの時の面影はどこへ行ったのやら。輪郭で少しは分かるものの、名前を聞いて無理やり思い出すのが精いっぱい。どの顔にも50年の風雪に耐えた重みや皺が刻み込まれていた。今は社会の一線から退き、引退している人がほとんどだが、現役の時には目を見張るような大活躍をしたのだろう。本四架橋公団で橋の設計に携わった人、スーパーゼネコンで副社長にまで上り詰めた人、弁護士や医者、自分で起業した人、今でも東南アジアで赤ひげ先生と慕われて活躍している医師、音楽家としてその能力を発揮している人、K大の野球部出身で社会人野球での活躍者、同じK大で野球部4番バッターとして息子が華々しく脚光を浴びたI君、外での活動はあまりなかったが子供を立派に育て上げた主婦の皆様、世間的にはたいしてスポットライトを浴びなかったが、一隅を照らす活躍をした大多数の皆さん。家に帰れば、あるいは世間では69歳や70歳と言えば高齢者でそれなりの思慮分別が備わっている範疇の人、しかし同じ仲間内では、いつまでたっても高校生、子供じみたセリフがあちこち飛び交っている。人は本当に進歩するのか。今になって若さに憧れ、嫉妬し、若者に迎合しようとするのか。結局人はこの世に生を受け、それなりの様々な経験を積み、子孫を残し、子供に帰って旅立っていくのか。その人生の中で小さな幸せを見つけ、刹那の冒険を楽しみ、肉体的、精神的に苦しみ、悶えながら一抹の光を希望の糧として生き続ける、その対象が何であってもいい、私たちに幸せと正義をもたらすものであれば。 今年の梅雨は少し長いとか。嫌われる雨も生きていくために大切な大切なものであることを子供達に十分知らせていきたいと思います。今月は鴨谷体育館で「親子で遊ぼう大会」があります。一緒になっていい汗を流しましょう。そのお手伝いをさせていただきます。プールも始まります。水の楽しさ、怖さを正しく知るいい機会です。6月、水無月、今月も少しでも子供たちが何かを学ぶことが出来ますよう教職員一同力を合わせてまいります。ご期待ください。

01 5月 2014

新たな旅立ち
ー5月のことばー

  2008年3月7日9時過ぎ、門の前に立って園児を迎えていた私に職員室から呼び出しがあった。家からの電話であった。「大阪大医学部に合格した」という連絡であった。話す方も興奮していた。センター試験がよかったので、阪大を受験することは知っていたが、多分浪人するか後期の大学だろうと思っていた。まさか合格とは私の想定外であった。本人は満更そうではなかったと後で言っていたが。早速お祝いで食事会を開いたのをよく覚えている。あれから6年の歳月が流れた、その間本人は泉北の家から吹田まで毎日通学した。その6年間、ひたすら医学部歯学部ラグビー部で青春を謳歌した。3年生の時に西医体の大会で優勝したことも本人には一つの大きな勲章だろう。学問よりもまずラグビーありきだった。勉強している姿をあまり見たことはなかった。同じ仲間が何人か留年していく中でよく6年間で卒業できたものだと思ったのは私だけでなかった。ひょっとしたら知らないところで勉強していたのかも。今年2月、桃山学院大学で行われた3日間の医師国家試験にも無事合格し、4月からは晴れて研修医となって病院に赴任していった。私が45歳の時の子供であった。70歳になるまでには必ず卒業するようにとの冗談じみた約束を守ったようだった。医師という資格はある意味恵まれた資格かもしれないが、本人の努力と母親のコラボの賜物と言っても過言でないかもしれない。美木多幼稚園で3年間過ごした後、公立小学校に入学した。取り立てて何かできるという児童でもなかった。小学校4年生から堺東にある日能研という塾に通い始めた。公立の学校しか知らない私は塾など行かずに公立の中高へ進んだらと話をしたが、母親は何がそうさせたのかわからないが、必死であった。小学校を終えると電車での塾通いもあったが、母親の送り迎えも多かった。6年生の3学期は小学校に行くことが少なくなった。塾の勉強と私立中学校の受験のせいであった。私の考えと相いれないものであった。失敗した受験もあったが大半は合格した。大阪の星光学院に入学した。その学院は基本的には塾は反対であった。本人も星光の水にあったのだろう。喜々として学校に通学した。先生との良好な関係を保ち、友達もたくさんできたようだった。しかし小学校時代は良くても中学校に入ってみると成績は中位であった。そのまま高校に入っても1年次は同じような成績であった。本人はZ会に真剣に取り組み始めた。駿台では授業料無料の特待生になり、それと同時に梅田の鉄緑会にも通い始めた。帰り梅田の吉野家の牛丼を食べる日々が続いた。母親も必死だったのだろう。ほぼ毎日梅田まで車で迎えに行った。本人はいたって普通の高校生であった。校内、校外模試が3年生になると頻繁に行われるようになった。成績も今までの地味な努力が実ったのか、200人中100位くらいから2ケタ台後半、中位、前半と上昇していった。最後の校内模試では1ケタ台前半にまで上り詰めた。奇跡であった。校外模試も志望校のB,C判定が続いた。本人の着実な努力とそれなりの環境があったのかもしれない。今いよいよスタート台、学校の教員と同じようにいつまでたっても現場労働者、しんどい、厳しい仕事や日々が続くことだろう。先生が子供やその周りの人の喜ぶ姿を見ると今までの苦労が報われるのを感じるのと同様に、患者やその周りの人の喜ぶ姿を見ると気持ちが癒されるのも事実です。国から受けた支援、周りの人々からの暖かいサポート、何らかの社会的な貢献をすべく使命感を持ってこれからの人生を歩んでほしい。もっとも親の私が言うまでもなく、本人が一番自覚していることだろう。今回何かの参考になればと思って初めて個人的なことを園だよりで書かせていただきました。これに不快感を持たれた人がおられましたら、心よりお詫び申し上げます。 さて、5月、子供達は4月の緊張から解き放たれて行動も活発になる時です。連休明けは少ししんみり悲しくなる時があったとしても、もう完全に美木多幼稚園っ子、母の日をはじめとする様々な行事や保育活動を通じて成長、発達への階段を登っていきます。大きな期待の始まりです。園児たち、保護者の皆様そして私たち教職員が同じ仲間意識を持って子供達が楽しい園生活を送ることができますよう力を合わせていきましょう。皐月、5月、今月もよろしくお願い致します。

01 4月 2014

前途洋洋
ー4月のことばー

  春、spring  primavera・・・・ 泉が地中から湧き出るかのごとくに春が来る。春は何と艶めかしく、躍動的な言葉でしょう。何かしらこの季節の中にいるだけで、楽しく、心がうきうきし、体がひとりでに動き出す。陽光あふれる春、命がみなぎる春、全ての物が生き返り、現生でその生を満喫する春、歓喜と至福の37回目の春が私たちの上に廻ってきました。新しい年度の始まり、入園、入学の希望と期待の季節、新入園児の皆様、ご入園おめでとうございます。お母さんの胎内から生まれてまだ1000日前後、皆さんはまだまだこの世では未熟なひよこのような存在です。しかし私たちは皆さんをしっかり支え、教え、サポートしていきます。私たちの仲間になったのです。遠慮は何もいりません。7000名にならんとする卒園児、在園時の皆さん、保護者の皆様、元・前を含めた教職員の人たち、どこかで美木多幼稚園と関わりのある大きな大きな大切な仲間です。皆さんがこれから健康で活躍し、勉強を続けるうえでの目に見えない無形の財産です。皆さんはこれからの2年、3年、4年の幼稚園生活の中で、健康の大切さ、食の重要性、友とのかかわり、知識や技能の向上、遊びの多様性など、様々なことを美木多幼稚園という集団の中で学んでいきます。春のお花摘みや遠足、夏の水泳やサマーキャンプ、そして秋の運動会や登山、作品展、そして冬にはクリスマス会や音楽生活発表会、楽しみや期待の行事が皆さんを待ち構えています。元気いっぱい挑戦し、乗り切って、良い思い出をたくさん作ってほしいと思います。皆さんは日々の日常活動やこれらの経験や体験を通じて心も体も立派に成長し、相手の気持ちのわかる心の優しい人、思いやりのある心豊かな人、誠実で素直な人になっていくのではとひそかに期待しています。しかしこれからの幼稚園生活の中で、大事で、大切なお父さんやお母さんを悲しませることだけは決してしないでください。さあー始まりです幼稚園の1時間目が。 在園時の皆さん、ご進級心よりお喜び申し上げます。皆さんは入園したころに比べると、ずいぶん大きく成長しました。美木多幼稚園での生活もだんだん少なくなってきました。今まで以上に日々の保育や行事に年長者として意欲あふれる態度で接してほしいと思います。皆さんの活躍が美木多幼稚園の栄光です。保護者の皆様、ご入園、ご進級おめでとうございます。これからの生涯教育の第一歩が始まりました。子育ては尊い仕事です。子供とともに成長する喜びはこれからが本番です。子供を持つ喜び、子供を育てる幸せ、苦労を十分に意識しながら子供たちの大きな大きな成長につながるように一緒に手を携えていきましょう。今後ともご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。最後に全ての人の上にご多幸とご健勝の女神が宿りますよう心よりご祈念申し上げます。

01 3月 2014

巣立ちと偶然
ー3月のことばー

  厳しい寒さが続いていますが、それでもどことなく心を温かくしてくれるような春の足音が近づいてくるのを感じます。それは待人の期待からだろうか。実際気づかない程度に暖かくなっているのだろうか。それとも樹木や草花の微妙な動きに刺激されてそう感じるのか。とにかく野を越え、山を越え、川を渡り、一面春景色に染めながら私たちの許に到着し始めました。躍動の瞬間、歓喜の瞬間です。3月、喜びに浸る受験生もいれば、捲土重来を期す人もいるでしょう。美木多幼稚園児の何年か後の姿かもわかりません。喜び、期待にあふれる人はこの幸福感を忘れないでほしい。苦しくつらいときは思い出してほしい。挑戦に失敗した人はそんなに嘆かないでほしい。与えられた試練に毅然と立ち向かってほしい。人生は長く、最終的に勝利するのはあなたであるかもわからないから。年長の皆さん、卒園本当におめでとう。幼児期のかかわり方が重要なことは万人が万人肯定している事実であり、それがこれから生きていく人生の中で根幹部分を成すことも誰も否定はしない。そういう観点で見てみると2年、3年、4年間美木多幼稚園で得た経験や体験は君たちのこれからの人生の中で大きな宝となり、掛け替えのない役割を果たしていくことでしょう。しかしそれにはこれからも不断の努力や勉強が必要なことは言うまでもないことです。怠惰からは何も生まれてこないからです。これからの行く道には必ずしも好ましい人物だけに遭遇したり、自分の好きな、得意な事象や自分と同じ意見や考えばかりに出会うとは限りません。強烈な反対意見にぶつかり、心が折れそうになることもあるでしょう。しかし誠意をもって真面目に対応することによって道が開かれる場合も数多くあります。幼稚園で学んだこと、友達と遊んだこと、様々な行事を頑張ったこと、皆さんにとって大きな大きな財産です。きっと皆さんの役に立ちます。日本は今、ある意味四面楚歌の状態かもしれません。皆さんが半世紀後、苦境の日本を救った立役者になるような活動、何も大きな活動を言っているのではなくて、小さくとも社会に役立つ活動、そんな活動を誇らしげにしている、そんな姿が目に浮かぶようです。りんご、年少、年中組の皆さん、この1年の成長は目を見張るものがありました。あんなこともこんなこともできるようになりました。弱虫だった子もこの1年で見違えるように強くなりました。本当にこの1年よく頑張りました。来年も美木多幼稚園でお友達や先生と楽しく仲良く過ごしましょう。きっと良いことが一杯ありそうです。さて11月の園便りで「道央道旭川への道」という文を書きました。個人的に驚いた経験になりました。「何の知識もなく旭岳温泉という所に泊まった。知らなかったとはいえ、そこは会場から40km近く離れ、そのうえ海抜1000mを超えていた」。そうです、泊まった旅館の名前は「湯元 勇駒荘」、この旅館を選んだ理由はJTBの時刻表の中の旭岳温泉の最初に列記されていたに過ぎなかった。暖炉のあるロビーには政財界の有力者や有名人と若い女性が一緒に写った写真が何枚も飾られていた。なんでこんな写真がと思って尋ねると、ここの経営者の娘さんで、スノーボードをやっているとの返事、それなりに頑張っているのだな位の印象でしたが、ソチオリンピック銀メダル竹内智香さんは旭川出身の旅館の娘という記事に、ひょっとしたらあの時泊まった旅館かなと思って調べると、まさにその旅館のその人。今はそのせいで予約がいっぱいだとか。偶然にびっくりしたソチオリンピックへの私の思いだった。年長さん、小学校へ行って最初は少し戸惑うかもしれないが、誰も経験すること、何も恐れることはない。皆さんが美木多幼稚園に在園したことに自信を持ってほしい。友達をたくさん作って小学校でも楽しく過ごしていこう。皆さんはすべての人の期待の星です。時々幼稚園のことも思い出してください。いつまでも元気でいることを心より祈っています。

01 2月 2014

隠岐の島と激動の幼稚園
ー2月のことばー

   厳しい寒さの中にも、なんとなく春の気配が感じられる頃になりました。この間朝礼で今は何もない木だけれども、2月から3月にかけて咲く花は何?と聞くと「桜」と言う声があちこちから聞こえてきました。桜のイメージが強いのでしょう。桜に似ているけれどもそれは梅の花だよと答え、幼稚園の周りにある白や赤の枝垂れ梅の蕾も少し膨らんできたよと話すと朝礼後早速担任と一緒に走ってそれを見つけに行ったクラスもあった。子どもたちは何事にも興味津々です。好奇心が強く、どうにかしてそれを良い方向に伸ばしてあげたいと先生も一生懸命です。そんな朝礼を終えると、私たちの仲間のお母さんが104歳で亡くなったとの知らせ、私にできることと言えばお葬式に参列する事位、葬儀は島根県隠岐の島、行く方法は午後出発の飛行機かフェリー、後者を選択、パソコン等で道路状況を調べ、午前3時30分、一人で泉北の自宅を出て、阪和、近畿、中国、の各自動車道を経由して、車の温度計が途中の蒜山高原や大山の麓で-2度を表示するも普通タイヤでOKとの道路情報を信じて、雪の米子道を終点を目指してまっしぐら、終点から国道を通って島根県松江市七類フェリー乗場に7時30頃に到着、9時発のフェリー、地元の人もびっくりのべたなぎ、3,000トンのフェリーは港内こそ穏やかだったが、外海に出ると大海の中のちっぽけな存在、波にもまれての揺れの激しさ、大げさな表現を借りれば、自然の大きさ、力強さにびっくりした2時間30分の船旅であった。初めての隠岐の島、後で知った事だが、島は島前(douzen)、島後(dougo)の2つに分かれ、前者はまた3つの島から成り立っていて、よく観光ポスターに使われるのが島前、詳しくは西ノ島だそうだ。私は島後の西郷港で下船した。レンタカーを借りて島を半周したが道路はよく整備され、辺境の地に来たという違和感もなく、どこにでもある日本の原風景であった。無事ご遺族にお悔やみの言葉を述べ、3時40分発のフェリーに乗船、七類港に6時過ぎに着き、途中米子市内で食事をとった後、同じ米子道を通って堺市の自宅に11時ころに到着した。19時間余りの急ぎの旅であったが、隠岐の島を身近に感じた旅でもあった。どの地域でも人々が素晴らしい営みを送っていることを再認識した時間でもあった。 1月28日、幼稚園研修会は今までにないくらいほとんどすべての設置者か園長400名余りが出席した。平成27年度に迫った新しい幼稚園の制度はこれからの各幼稚園の未来を決める非常に重要な決断になるからです。それは今までの幼稚園として残るか、認定こども園あるいは施設型給付を受ける幼稚園として残るかという選択です。今までの大阪府の関与から市町村などの基礎自治体の関与が大幅に強まるからです。認定こども園にしても幼保連携型と幼稚園型があり、その組織、給付体制が異なる。前者は別法律によって運営され、幼稚園の名前が消えることありえる、後者は従前どおり幼稚園の名前が残る施設になる。0~2歳の保育所機能を付けることも可能である。今まで通りの幼稚園として残ることももちろん可能だが、保護者や施設への補助金の減少が見込まれるかもしれない。又保護者は1号認定(教育のみ)、2号認定(3~5才の保育の必要性あり)、3号認定(0~2才の保育の必要性あり)の区分があり、1号認定者は従前どおりですが、2号、3号認定者は市町村で認定を受ける必要があり、保育料も同一でなくなる可能性もある。市町村の影響が強くなることは必定である。まだ基本となる公定価格や消費税10%が決まっていない等で流動的な要素がたくさんあります。保護者の経済的な負担を軽減しようとするこの新制度はまだまだ未知数の所が多いかもしれない。 今月は音楽・生活発表会の月、今練習、練習です。当日子どもたちは待っています、大好きなお父さん、お母さんから褒められることを。

01 1月 2014

希望と期待、新しい年
ー1月のことばー

  慈愛に満ちた光輝く陽光がやさしそうに微笑みかけながら私たちの幼稚園の上に降り注いでいます。新しい年の始まりです。 この日を1月1日新年と決めたのはまだまだ歴史が浅いとは言え、新しい年を迎えるという喜びは人がこの惑星に姿を現して以来持ち続けてきたのではと思います。師走は何かもの悲しい気分が漂いますが、新年は悲しいこと、つらいことや様々な身に降りかかった禍に別れを告げて希望と勇気がわき出るときです。人生はやり直しがきかない。ただぼんやりとその日暮らしをしているとすぐに終幕を迎えてしまう。人はどんな逆境や悲観的なことに遭遇しても、最後の一瞬まで希望と勇気を見捨てることはできない。私たちはたくさんのシニカルな人と違って、最大限素直に新年を祝い、大きな夢を託したいものです。考えれば新年は不断に流れ行く時間の中の一つの目盛に過ぎない。しかしそれは大きな一つのけじめであり、極論をすれば新しい生まれ変わりの時であるかもしれない。その陽光が美木多幼稚園にも降り注ぎ、36回目の新しい年の到来を告げました。明けましておめでとうございます。2014年(平成26年)、皆様方にとって本当に素晴らしい年でありますように、又皆様方に大きな幸をもたらしますように、特に21世紀を背負って立つ幼稚園っ子の上に明るい未来の希望と期待の光が燦々と光り輝きますように心より願ってやみません。意外にも今巷では夏よりもたくさんの花が咲き乱れています。寒牡丹、冬椿、侘助、仙寥、万両、南天、思いつくまま並べてもこれだけの花が、そしてほとんど赤色の花が葉の緑色と補色をなして、時には強く、時には控えめに、しかし凛として冬の寒空の下で耐えて私たちにその力強さと優しさを示して、私たちが大きな気持ちで心強く、優しく生きることを示唆しています。昔から続く幸せと長寿を祈願しての神社、仏閣へのお参りや教会でのお祈りや説教、私たちは過ぎ去りし過去に感謝しながら、又一つ齢を重ねていきます。若い人にはいろいろな可能性や芽吹きがあります。年取ってそれに気づいてもその可能性の範囲は非常に狭く、その上芽生えも枯れたものになっていることが多いものです。その可能性を広げ、その芽生えを伸ばすことは大人の責任、と言っても大人自身もそれに気づかねばなりません。幼稚園で見る子供たちは限りない可能性や芽生えがあります。できる、できないという以前の問題です。なるほど親から受け継いだ素質やDNAのこともあるでしょう。しかしそれよりも重要なものはどのように育ち、どのように努力するかにかかっているのです。なぜなら努力は裏切らないからです。未来を託す子どもたちがこの世に生まれた甲斐があったような活躍、能力を眠らせ続けるのではなくて、その能力を精一杯発揮できるような環境を作る、大人も安閑としておれないような新年になりそうです。 昨年度私たちに頂いたお力添え、ご支援、励ましのお言葉、叱咤激励、大変ありがとうございました。本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。最後になりましたが皆様方に幸多き事、又いつまでも健康であられます様ご祈念申し上げます。  

01 12月 2013

感動 旭山動物園
ー12月のことばー

  動物園と聞いたらどういうイメージを思い浮かべるだろうか。まず天王寺動物園、この頃は大分きれいになったが、いかんせん敷地が狭いためにごちゃごちゃした感じ、あるいはアフリカを少し真似した各地のサファリパーク、それらが私たちの頭の中に固定化された動物園の姿、そこでは動物が見世物であることが強調され、本来の姿をあまり見ることはできない。旭川市の中心から少し外れた郊外にそれがあった。小高い丘すべてが動物園であり、今までのイメージと全くかけ離れた公園の中の動物園、樹木に囲まれた動物たちの緑のオアシスであった。ここには人をそれで呼び集めるような「珍しい動物」はいません。普通の動物たちの素晴らしさを伝えることに主眼を置いているそうです。さらに言えば、動物の価値に差があるような見せ方をしていないし、「ありのまま」の素晴らしさを感じ、価値を見つけ、「自然の大切さ、命の温もり、命の尊さ」を気づいてもらいたいと考えている。10年前に廃園の危機に会った動物園がいかによみがえったか、そして年間20万人しか来なかった動物園に同じ顔ぶれで300万人の来場者(単純計算で1日8000人強、1日何万人の来園者もあるとか。北海道の人口36万の旭川市ということを考えればこれは驚異的)を迎えるようになったか。そしてリピータも多い。私は危機に際して職員一丸となって、動物園の原点に立ち返り、動物たちの凄さと命の輝きを多くの人に伝えることをテーマに動物本来の能力を引き出し、ありのままの営みを見られるように工夫した事等、様々な創意工夫した事に尽きるのではと思っています。1時間30分にわたって坂東元旭山動物園長の話を聞きました。その中で聞いたことを少し書いてみます。ある時見学者が「なんやラッコやない、ただのアザラシやないか」と言われて本当に悔しかった。そしたらただのアザラシがラッコよりもすごいところ、本来の姿を見せてやろうやないかと考えて人を水の中のトンネルに導き、また太い透明の円柱の中をアザラシが元気よく泳ぐ姿を見せて大好評になった。動物の命を預かっているのだからこっちの動物がすごい、あっちの動物がたいしたことはないという意識が持てない。みんな同じという考え、珍しいものを入れてお客さんに来てもらうことはしない。私たちは生かされている。死の順番を待っている。動物たちも私たち同様生きたいと思っている。動物たちは与えられた環境の中で生きている、たんたんと生きている。たとえ狭い檻の中であってもオオカミはオオカミらしく発揮させてあげたい。動物園では動物が生まれたのはニュースであるが、死はタブーであるのはおかしい。命を閉じ込めているのだから死にましたという知らせをするべきで、死を認め、心の中で生き続けるようにしたい。死は日常の中にあり、動物たちも命を次世代に伝えることを本能的に行っている。誕生するだけ死があり、命を終わらせてくれる仕組みの中で命があふれているのが自然である。次の世代にバトンタッチするために動物は生まれてくる。私たちはそれぞれの種として一生送れる環境を整えてあげることが大事であり、ありのままが一番美しいと考えている。広い野生の地の動物が狭い場所で生活するのは動物の虐待と批判されることに対して、動物の居場所が次の世代に暮らす場所でないと繁殖しない。動物園で生まれ、育ったものがすぐに野生に返しても無理でないか。実際のところ、動物園の動物の80%以上が動物園(その動物園に限らないが)で生まれた動物で野生とは言えず、野生にいるから幸せとは限らない。初めての旭山動物園であったが感動があり、また来たいと思わせるような何かがある動物園でした。 2013年、平成25年もいよいよ最終月、うれしいこと、悲しいこと、思い通りにいかなかったこと、いろいろあったでしょう。しかしけじめをつけて新鮮な気持ちで新しい年を迎えましょう。この1年間保護者の皆様には貴重なご意見、多大なご協力本当にありがとうございました。来る年も皆様方にとって幸多き年になりますよう心よりご祈念申し上げますと同時に21世紀を支える尊い人の育成に手を携えて一緒に進んでまいりましょう。最後になりましたが来年度も本年同様よろしくお願い申し上げます。  

01 11月 2013

道央道旭川への道
ー11月のことばー

  全山黄葉、紅葉ではなくて文字通りの黄葉、10月下旬、北海道道央道自動車道札幌から旭川に向けての目を見張るような、うっとりするような魅惑的な風景、よく見ると落葉樹の上の方が黄色に色づき、下の方はまだ幾分緑色が残っている。しかし全体でみると輝くばかりの黄色に染まっている。北海道のある種の樹木はこの時期朽ち果てる前の最後のお化粧をしているのだろうか。不思議なことに本州のように燃えるような真っ赤に色づく木々はほとんど見られない。桂や白樺やその他の名前の知らない木のせいだろうか。その黄色とところどころに残る常緑樹の緑色とが人には想像つかないような鮮やかなコントラストを呈している。自然界の色の配色や配合、組み合わせは人間の英知を超えている。数えきれないほどの微妙な色彩、デザイナーや建築家が惜しみなく研究してもその内容を把握し、その域に到達することは可能ではないとしても、その一部くらいは享受させていただいている。昔のことを言って申し訳ないが、紅葉は当たり前だった。そんな事気に留めたことはなかった。初夏に燃えるような緑が芽吹き、夏を越して秋に真っ赤になったり、まっ黄になったりして落葉して朽ち果てていく。当たり前のことであった。そんな光景は珍しくなかった。きれいとか素晴らしいとか感動したとの感情を持たなかった。年月がたち、自然が周りから消えていき、それと同時に書物や報道を通じて再認識され始めた。当たり前のことが貴重な存在になって初めてその価値を見直したのかもしれない。いわゆるないものねだりになったのだろう。そんな事を考えながら車を走らせていると千歳から170km, 2時間弱、旭川市の目的地に着いた。毎年この時期、全日本私立幼稚園連合設置者園長全国研修大会が開かれる。今年も600名余りの人が全国から集まった。今幼稚園は様々な課題に直面している。一つは平成27年4月から新制度が始まり、今までの幼稚園が0歳からの保育所機能も備えた認定こども園になるか、従来通りの3,4,5歳の幼稚園のままで存続するかということです。もう一つは幼児教育の無償化がどのような形で実現されるかということです。その他に年長組を小学校に組み入れるという考えも提起されています。100年以上続く企業は珍しいのと同じように幼稚園や学校の制度がこのまま続くとは思いませんが、この激動の時代をいかに乗り切っていくか、私たちに課せられた大きな試練であることも事実です。どちらにしても私たちは「子どもは次の世代の宝物」であることを深く自覚し、子どもの自由に生きる権利を認め、子どもが真ん中の保育をしっかり進めてまいります。話を元に戻します。会場近くのホテルが満室であったために時刻表で調べて、何の知識もなく旭岳温泉というところに泊まった。知らなかったとはいえ、そこは会場から40km近く離れ、その上海抜1000mを超えていた。6時過ぎに研修大会を終えて、レンタカーで暗い山道をひたすら登って約1時間、目的地に着いた。外は雪が積もる0度の世界、そこが大雪山国立公園のひとつの入り口であること、そして旭岳に向けての500mの落差のあるロープウェーの駅であることを初めて知った。又大雪山という名の山がないこと、一番高い山は目の前の旭岳である事を知った事は山音痴の私にとっては貴重な知識になった。旭岳2291mの頂上は雪をかぶって威厳を誇っていた。姿見駅(1600m)を降りると雪が氷となって一面を覆い、麓にあった黄葉も、もうここにはなく、すべての葉を落とし、荒涼とした景色の一部になっていた。樹木の生存限界を超えているのだろう。スーツ姿の私はバッグを持って700mほど革靴で雪の上を歩いて姿見の池まで行って引き返したが、轟音を立てて水蒸気を吹き上げ続ける旭岳には何か恐ろしさと同時に一種の包容力を感じた。日本再発見、まだまだ私たちの知らない日本の美が至る所に隠れている。 この時に聞いた旭山動物園の園長の話や実際に見た光景をいつか書いてみたいと思います。  

01 10月 2013

ビフォアand アフター 50 years
ー10月のことばー

  秋晴れの埼玉県狭山市、お茶の香りがいっぱいの狭山市は大阪狭山市と異なってほぼフラットな地形、突然空気を切り裂く高い金属音、気流の流れを分断し、強引に重力に逆らっていく。視界に入ったと思えばすぐに視野の外に出てしまう。何回も何回も直線飛行を繰り返す戦闘機、そして周回や低空飛行も訓練の輸送機、狭山市は自衛隊中部方面隊司令部のある入間基地に隣接、首都圏を守る陸上自衛隊の中央即応集団の一翼を担う重要な基地だそうだ。しかし戦闘機や輸送機の姿を見、音を聞くと、こんな状況を経験したことがない私にとっては紛争地域にいるのかと錯覚してしまうほどだ。音や姿、形で人を恐怖に陥れる面もあるのだろうか。国を守る尊い使命を持った集団の一面であるのかも。最近身近に戦闘機の操縦士がいたことに驚かされた。高校の同級生2人は航空自衛隊に行き、その後ANAのパイロットとして定年退職を迎えた。又航空自衛隊の幹部として活躍した人も何年か前に家の近くに引っ越してきた。口には出さないが、USAでの訓練や幹部としての活躍もいろいろあったのだろう。今は見守り隊での活躍だが。そんな狭山市で東京から来た3人と出会った。いずれも私と同じ60代、年齢が近いせいか共通の話題がいっぱい。彼らの話の今の中心は2020Tokyo Olympic.そう私も経験した丁度50年前のOlympic,その時高校3年生であった。聖火リレー、メインスタディアムでの点火、泉州のバレーボール、東洋の魔女の回転レシーブの活躍、マラソンでのエチオピア勢、刺激的なポスター、市川昆監督による東京オリンピックの映画、血気盛んな青春時代、ほろ苦さとロマンを加味したセピア色の向こうには思い出が凝縮していた。共通の舞台があった。しかし今はどうか。同じオリンピックの話題とは言え、明白に異なっていた。マラソンコースはお台場が外れるとか、聖火コースは前と異なるとか、どの競技はどこで行うとか、新しいスタディアムができるとか、近くの道や大きい環状道路が加速度をつけて建設されるとか、景気が持続的に良くなるとか、オリンピックの話題を語りながらローカルの話が中心、それも良いことばかりの話、500km離れた大阪にはおすそ分けはないのだろうか。逆に物価が急上昇してマイナスの恩恵かもと自嘲気味に考えたくなる。理性ではオリンピックは日本の誇り、日本の喜び、日本の国威発揚等々と、陳腐な言葉の羅列だが、重要なイベントとして理解しているが、感情的には東京一極集中には少し抵抗を感じることもある。理性と感情のはざまをスイングしている私、天邪鬼の私にとっては、それでも日本での開催を心から喜んでいる自分がそこにある。あと7年はそんなに遠くではないが、後輩に託すあと50年はどうなっているのだろうか。欧州の貴族の道楽と言う人もいるオリンピックもアフリカや中東のパワーを無視できず、その地で行っていることは100%当然のことだろう。4月から始まって9月まで、1年の半分が過ぎ去りました。前半は子供とのコミュニケーションを深める、すなわち保育者の考えや指導計画に従って子供の思いを受け止め、大人たちが感じたり考えたりする方向に子供たちを向けていくということでしたが、後半は前期の指導を踏まえて、先生の思いと子供の思いの間の溝を埋めていく、換言すれば一層子どもたちの思いに寄り添って保育活動を広げ、彼らの大きな成長発展の礎を作る、そのために後半に大きな行事が目白押しです。行事活動を通じての生長も大いに期待したいものです。人生はくり返しです。私たちが受けた恩や愛情、教育、モラル、その他目に見えない数多くの有意義なものを私たちは次の世代に引き継いでいきましょう。そしてそんな引き継ぎの人生の中で少しは甘い夢も見せていただこう。この子たちがどんな夢を見させてもらうのか今から楽しみです。尚10月1日は願書受け付けの日です。決して後悔させない、しない保育を目指して頑張っていきます。ご近所、お知り合いの方にもお誘いの上よろしくお願い申し上げます。  

01 9月 2013

過去からの訪問者
ー9月のことばー

  今年も近くのお墓へ鬼籍に入った大事な大事なお客様を迎えに行った。もう何回になるだろうか。海外で生活した年月を除けば60回余り、年月の長短はあれ、一緒に同じ空気を吸った家族は祖父母と両親の4人、市役所の壬申戸籍や除籍謄本、お寺の過去帳や墓石に刻まれた名前を含めると本当に多数の人々、いわんや存在がはっきりしない人を含めると、もう手におえない。今と違って医学の進歩のない過去では、年老いた人から順番に死んでいくのではなかった。逆転現象が起きたり、幼児で命が尽きた人も数多くいて、悲しい思いをしたこともいっぱいあっただろう。しかし今となっては同じ黄泉の国で手を携えて幸せに暮らしている、少なくともそう思いたい。と同時に次にやって来る人の準備をしているかもしれない。大きな災害などがあるとその準備が間に合わないかと心配だ。ある人は「手遅れの幸せ」と言い、繁殖を終えて、生きものとしての賞味期限の切れた年寄りには「早過ぎる死」はないと公言している。時には老害として忌み嫌われることもあるが、活躍の場所を与えられて意欲的に生き続けている人も多いし、大きな社会的貢献をしている人も少なくない。個人的にはどちらの範疇に入るかわからないが、訪問者の仲間に入るのをもう少し待ってほしいと心ひそかに思っている。もちろん認知症などになって自分の存在が不安定なものになった時にはその考えは変わることもありうるだろう。そんな私がつい最近ある場所で突然声をかけられた。「失礼ですが宮下さんですか」「そうですがどちらさんですか」人を覚えていない、あるいは忘れてしまっている事を恥じて決してそんな問いかけをしないが、その時は全く不意打ちで、その顔に記憶はなかった。「Yです。録音機輸出部の」、頭の中はまだ混乱していたが、徐々に記憶を取り戻していた。「一緒に一回橋本カントリーに行ったことがあります。」その言葉は決定的であった。そう40年前二人とも平社員で私は輸出部の宣伝の仕事、彼は業務で製品輸出の仕事をしていた同僚であった。私はしばらくして30歳で会社を辞めたが、彼はその後アメリカで勤務し、日本に帰って事業部長の職責を全うして会社を辞めたそうだ。会社を辞めてもうすぐ40年、一度も彼に会ったことはなかった。もし逆の立場だったら決してわからなかっただろうし、ましてや声をかけることもなかった。若いときに彼に与えた印象は強かったのだろうか。それともこの長い年月、皮肉的に考えれば、私にはほとんど成長や進歩がなかったのだろうか、変化しなかったのか。再会を約して別れたが、不思議な瞬間であった。それから1週間ほどして別の場所で、私が勤務を続けていれば確実に同僚になる人にあった。全く未知の人であったが、話を進めていくうちに共通の知り合いが一杯いることがわかり、もちろん上記のY氏もそうであったが、私と同じように若いときに海外勤務をしていたN氏であった。私と違って当時の社長の親戚筋の人であった。なぜ立て続けに珍しい、懐かしい人に会ったのだろうか。年老いて行動範囲が狭くなったことも大きな要因だろう。さて話をもどそう。現世に戻ってきた人は今の若い人がゴキブリや小動物を見て、身の毛のよだつほど怖がるのをどう思うだろうか。ゴキブリやクモなどの小動物に囲まれて生活していたのだから間違ってもそんなものはほとんど存在しない高層階に住みたいという発想はない。人を懲らしめるのに化学兵器はいらない、ただゴキブリやクモがあればよい、と言うのもまんざら冗談でなさそうだ。飛行機から外を見ると当然雲を上から眺めている。何の違和感も感じない。しかし連れ帰ったお客様は、両親は経験があるとはいえ、ほとんどの異邦人は下からしか雲を見たことがなかった。あの上はどうなっているのだろうかと何回も考えたことだろう。そうかと言って近代科学が発達し、生活水準や衛生概念が発達した今が昔の彼らより、あるいは戦中、戦後活躍した彼らより幸せであるかと問われるとすぐに返答できない。物質文明の豊かさが必ずしもイコール人間の幸せであると思わない。人が日々働き、生活し、社会に少しでも貢献し、人として少しでもその存在を認められて幸せを感じるというか、案外日々何も感じないのが望外の幸せであるかもしれない。何はともあれ、短い帰省の旅は終わりを告げた。今年も彼の地に送り届ける大きな仕事を無事終えることができた。人生は繰り返しだとよく言われる。今の幼児たちも何年か先に同じようなことをしているのだろうか。それとも劇的な社会の変化で現世に帰る道を閉ざされているのだろうか。2学期夏休みが明けて、いつもの年と同じように、子供たちは一回り大きくなって幼稚園に帰ってくることでしょう。運動会、作品展、そして自然との触れ合いを求めての郊外での収穫体験や登山、メニューは盛り沢山です。どれも成長への大事な大事な教育課程です。今学期も教職員全員足並みをそろえて元気にさまざまなことに取り組んでまいります。1学期同様よろしくお願いいたします。  

01 8月 2013

未来予想図
ー8月のことばー

  日々が流れていく。風に吹かれて漂う浮雲のように。言い訳や弁解などは時間には無用である。日々は待ってもくれない。一時停止さえも眼中にない。何もなかったかのように無表情に生誕の喜びから旅路の果ての悲しみまで人を運んでいく。私たち凡庸な人間にはそれが定めと思っていても、悲しみから目をそらすために糊塗してしまう。強がりを言っても所詮いつも何かにおびえる弱い存在。そんな生命体がこの掛け替えのない地球で、もっと狭義に言えば、国や都市や町で、もっともっとミクロで見れば、企業や学校や家族内で、もみ合い、諍いを繰り返している。尤も皮肉的に言えば、それが人であることの証明であるかもしれないのだが。そんな愛すべきか弱い存在が先進国では急激に数を減らしている。人口増が成長の起爆剤とするならば、著しく正反対の方向に進んでいる。人を輸入すべきだという意見もあるが、欧州の国々のように今まで住んでいた人々との軋轢が生じる可能性が大きい。もっともアメリカのように最初から移民で構成された国ではそうでないのかもしれないが。しかしこの考えも昔から住み着いているアメリカの原住民や日本のアイヌの人たちにはどう解釈されるかわからない。美木多幼稚園の未来予想図は栄光だろうか、悲劇だろうかそれとも何も変わっていないだろうか。35年前の創立期と今ではカリキュラム(教育の内容と指針)の内容は基本的なところは変わっていないが、その周辺では時代や環境の変化に対応して少なからず変わってきた。それぞれの時代にマッチしたものになってきたと思う。園児数から考えれば、創立期は泉北ニュータウン勃興期で毎年園児数が倍増していった。ピーク時には600名に達したが、住宅増が峠を過ぎるにつれ、園児の数も減少していった。その後和泉中央駅周辺の開発に伴って一時的に園児数の増加がみられた。最近では堺市の今年6月以降の調整区域(美木多幼稚園周辺の田園地帯)の開発申請は認めないとの方針で小さな開発が至る所に見られるようになり、若干の人口の移動があるものの、今後は今の園児数(400名あまり、堺市では50園中10番目くらい、泉北では16園中5番目)が徐々に減り、定員とのかい離が大きくなっていくかもしれない。私たちの今後の課題として園児数の増減にかかわらず、幼稚園が経営できる環境作り、子どもたちの持続可能な成長発達を促す保育指針の設定と具現化、そして子ども中心や保護者の目線に立った保育活動をより一層進めていく。そしてこれからの10年、20年さらには50年先を見据えた長期ビジョンを策定し、いつまでも美木多幼稚園がこの地で大きな活動や社会的貢献をし続けることを夢見ようとしている。平成27年4月より幼稚園、保育園の形が変わることが言われています。幼稚園のままで行くのか、0,1,2歳児を併設したこども園になるのかこの2年間で熟慮していきます。企業の存亡がよく話題になります。それを他山の石と捉え、園児の皆さんがいる限り、皆さんの要望がある限り、そして卒園児がいる限り、美木多幼稚園はこの地に居続けることもまた自明の理となることでしょう。 さて、いよいよ夏休み、その年齢にあった夏休みは一生に一回だけ、安全、安心を心掛けていろいろな経験や体験をしましょう。私は子どもが眠りにつく前に、少しでも本を読むことを心掛けました。何か一つでもと思います。今年も昨年に引き続き節電が言われています。全ての物に節のつく行動を心掛けるのも一考かと思います。大きく成長するのもこの時期、元気いっぱい、先生も戸惑うくらいの変貌を遂げて、美木多幼稚園に帰ってくるのを楽しみにしています。 Bon  Voyage  しばしのお別れです。 愛しの皆さんへ  

01 7月 2013

天の川から富士山へ
ー7月のことばー

  夏が来れば七夕があり、天の川が浮かび、悲しい戦没者のわだつみの声が聞こえてくる。以前にも書いた戦地の兄から幼い弟に送った遺書めいた手紙。「昨年の7月7日、持ち慣れない筆をとって形ばかりの七夕を祭り、庭の竹の枝にお母様のために「平癒祈願」と書いた短冊を星空にかざしたことを思い出します。のりはる君、元気で勉強していることと思います。久しぶりで兄さんものりはる君と会いたくなりました。本当に偉い子になりなさい。兄さんはのりはる君のためならどんなことだってします。幸福な日が一日も早く来るように祈っています。今度会える日があったら、最早のりはる君を肩車に乗せて歩くことができないほど大きくなっていることでしょう。その日が楽しみです。本当に元気にやりなさい。体が一番大切。病気なんかしないように。誰にも負けてはなりません。今晩はのりはる君と一緒に天の川の歌を唄いましょう。天の川のこっちには、牛を引くお星さま。天の川のあっちには、機をおるお星さま。七月七日七夕様は、お空のお星さま。さあ、もうやすみましょう。少し兄さんも疲れてねむくなりました。お休み、のりはるくん。」戦争が終わる1年前、昭和19年の7月7日、戦地より家族に送った最後の手紙。母を想い、二度と会えないと心で思いながら、やはりもう一度会いたいと切実に思っている大学生の兄の心情。この年戦死した兄の無念さが19年生まれの私の魂を揺さぶります。運命にゆだねられた環境の中で、精一杯の役割を果たすことで死につながったことを、無駄な死と誰が非難できようか。戦争はどんなことがあっても避けるべきもの、そして最後の、最後の悪魔の手段、しかし彼らの献身的な役割があって今私たちが平和を享受しているのも事実。戦争で死ぬことはないとしても私たちはいつかこの世から消え去るのは絶対的な真理、できるだけそれが来るのを遅らせようとして予防の実践をしようとする。しかし物の価値観をどうだろうか。西欧の諺に「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲むのは馬自身だ」というのがある。いくら医学が発達して病気の予防に大きな貢献があったとしても、本人が前向きな姿勢で取り組まなければ上の馬と同じだ。歩いていて突然雨が降ってきたら大事な服や着物は濡れないように努めるが体は濡れても平気である。車や高額商品、レジャーなどにお金を使っても健康診断や自分の健康を守ることにあまりお金を使わない。最近はだいぶ傾向が変わってきたが、まだ昔からの傾向がみられる。私たちは病気にならない、健康を維持しようと切に願うが、実際の優先順位は車や旅行の後塵を拝する。小さな幼子のためにも優先順位の一位であることが求められる。優先順位といえば、最近富士山の世界遺産への登録が話題になった。外国人がハンマーをたたいて登録を宣した映像が放映された。それに対して日本人が何回も何回も万歳を叫んでいた。日本の象徴の富士山が外国人に認められてそんなにうれしいのだろうか。登録自体は何も反対でないが、少し違和感を感じたのは私だけだろうか。なるほど外国人がたくさん来て日本に利益をもたらし、関係者がハッピーになるだろう。シニカルに考えると富士山は古代から不死の山として日本人に崇められた大きな存在であって、日本人誰でもそれなりの崇敬の念を持って接してきた。そして今や世界中のだれもがフジヤマとして知っている。それは私たちの憧れであり、大きな存在であり、神聖であり、自慢である。外国人が認めようと認めまいと富士山は富士山であり、私たちの態度もまた同じである。それが外国人に強力に働きかけて今更外国人に認められたと言って大騒ぎするほどのものだろうか。返って日本人の富士山に対する思いを浅くみられるのではないだろうか。富士山は凛としているから富士山であって、もし富士山がしゃべることができれば、なんと言うだろうか。確実に「俺のところに来るのはいいが、もっときれいに清潔にしろ」と言うだろう。世界的に認められたから価値があるのではなくて、昔から価値があるから今でも価値がある。  

01 6月 2013

一蓮托生
ー6月のことばー

  私たちの体はいろいろな組織や臓器から成り立っている。それらは私たちの一部であり、私たちの意のままにどうにでもなると思っている。いわば私たちは絶対的な権力者であり、組織や臓器はその命令に背くことはできず、服従することは自明の理と考えている。実際そうであろうか。私たちが病気になり、精神的に追い詰められるのも彼らの一つの反乱と考えられないだろうか。もし彼らが明確な意思表示ができる独立した個体と考えるならば、私たちは生き続けるために彼らの意見をよく聞き、従順に対応することも必要だろう。そんなことを妄想しながら次のように考えてみた。胃や腸がなくても人は生き続けることができる、心臓や肺が機能していればと医学者は言う。胃はどう思っているのだろうか。前は自然食品だけだったのに、近頃は加工食品ばかり、たまに自然食品が来たと思ったら、薬品漬けになっていたりする。脂っこいものやゲテ物が多いと嘆いているかもしれない。たまには何にも毒されていない自然のおいしいものを食べたいと願っている。しかし主人は暴飲、暴食、反乱を起こす寸前であるかもしれない。腸はどうだろうか。昔は吸収性の良いものが多かったのに、今は油こいものや肉のかたまり等の固形物が多い。スムーズに腸の中を流れずに苦しんでいる。腸に穴があき、有害物質が拡散して腸壁を傷つけ、悪性腫瘍物が現れるかもしれない。もっともっと繊維質の多い食品を欲しがっているのも事実だろう。人が生命を維持するのに絶対必要なもの、心臓、一日10万回も鼓動しているのに、それが当たり前だと言われ、その割には少しでも不整脈があるともうだめだと弱気になる。なんと勝手だ主人は、と、憤慨している。そんなに心配なら過度のストレスを強いられたり、よどんだ血液を流さないでくれ、そして一回も休まずに働いているのだからもっと感謝しろと声高に叫んでいる。今は心臓を止めたり、バイパス手術をしたり、様々な心臓回復方法があるから大丈夫だと高を括っている人がいるが、事はそう簡単ではない。私たち人間は彼を怒らせないようにいくら気を使っても損にはならないだろう。生命維持に絶対必要なもののあと一つは肺。私たちは毎日空気を吸って、吐く動作を無意識に繰り返している。彼はそれが仕事だと思ってご主人のために一生懸命尽くしているが、怒りや納得できないこともあるだろう。そして思っているに違いない。工場の煤煙や車の排ガス、たばこの煙、今問題になっている中国からの有害物質、アスベスト粉塵、こんなもので苦しめないでほしいと。たまには都会を離れた田舎のいい空気を吸いたいと切実に思っているかもしれない。今、戯画的に4つの臓器を思うままに素人判断で書いてみましたが、私たちの体は様々な臓器から成り立ち、それが有機的に協力し合って毎日の私たちの活動を支えている。彼らがそれぞれ主張し、反乱を起こすとどうなるのだろうか。そうならないためにも私たちは日々彼らをねぎらっていかねばならない。年老いてからでは遅すぎる。今の小さな子供たちから健康に対する理念を持ち、その大切さを意識することはなんと重要なことだろうか。当たり前のこと、当然のことに敬意を払うことに躊躇する私たちにとって、こんな主人のもとで日夜一生懸命働くことはなんと無駄なことだと彼らに思わせないためにも。  

01 5月 2013

一隅を照らす
ー5月のことばー

  一年で生から死までの過程をたどる樹木の葉、それに比べると人生は80年、人は何と長く生きる生き物だと思う。その反面、80年ではまだまだ短いと主張する人もいるし、「いや、私は様々な経験をし、十分に生活を享受したからもっと短い一生で充分」と考える人もいる。人の生死の長さを一律に規定するのは愚かなことだが、逆にあえて自らの意思で短く終わらせることもないし、死の定義を超えて生き延びることも議論の分かれることだ。何歳まで生きたから満足だったとか、何歳で亡くなったから不幸というのは大いにその人の生き様にかかっている。樹木の葉は人の80倍の速さで一生を終え、寿命15年の愛犬達は人の5倍以上の速さで生命が止まってしまう。人よりも長く生きる生命体はどうだろうか。ツルや亀は一般に長いと言い伝えられているが、もしそれが事実だとしたら長く生きる彼らは幸福だろうか。はかないカゲロウが一番の不幸で、最大のカメは最高に幸せだろうか。その与えられた一生の中でどのように生きるかが一番大事なことだろう。最も樹木の葉自体は一年で朽ち果ててしまうが、木自体は命ある限り生き続け、屋久杉のように1000年以上も生き続けるものもある。それらの樹木は歴史の変化を見届けているから素晴らしいと思うかもしれないが、移動することは許されず、邪魔だと言っていつ何時切られてしまうかもしれない。100年以上もそこにそびえているのは環境に恵まれた奇跡の一本にすぎないだろう。そんな奇跡の樹木が林立する天台宗総本山比叡山延暦寺、それまでお寺の中に入った事はなかった。昭和43年、会社に就職(大卒理系250名、文系150人の入社であった)、導入教育の一環として観光バスで延暦寺に入った。一泊であった。大きな寺に行ったことがなかった私には驚きであった。ある意味すべてが新鮮であった。質素な食事、簡素なたたずまい、最低限の身なり、そして到る所に「一隅を照らす」の文字、織田信長に反抗し、さまざまな一揆にも登場する驕りやその姿はなかった。そこでの一泊、そこでの一隅を照らすの言葉が半世紀近くたった今でも私の脳裏に深く焼き付いている。お寺に関してはいろいろ毀誉褒貶があるだろう。しかし静かな所で座禅を組むと平常心に戻って心が洗われるのも事実だろう。そんな深山や私達のまわりの小高い山の樹木が春になると急に自己主張し始める。存在感を誇示し始める。「私達はここにいるのだと」そう、今まで何も気に留めなかった樹木がきれいなピンクの花を咲かせ、白い花で居場所を知らせている。普段は同じように他の樹木と並んでいるのに、その時が来れば大きな存在感、山桜やこぶしの花、その存在に私達は人生を重ね合わす。ある意味日本人の様であるかもしれない。いつもはおとなしく優しい人たち、しかしいざとなった時には存在感を示す。時には大東亜戦争のようなこともやったが、いつもは真面目な頑張り屋さん、時期が来れば大きな存在感を示すことができる。いつもは誰とも仲良く協調して助け合い、一隅を照らして生活し、必要な時が来れば、立場を明確にし、自己主張することもある。全ての人に好かれようと波風を立てずに生き続ける努力をするが時には山桜やこぶしのように自己主張する必要があるのではと思う。幼稚園っ子達も成長して、時には自分の存在をアピールする機会もたくさんあるだろう。今の今、そのために基礎の基礎を着実に築いてほしい。立派な人になる為に。  

01 4月 2013

未来を担う君たちへ
ー4月のことばー

  If winter comes,can spring be far behind? 冬来たりなば春遠からじ。苦しかった冬、辛かった季節が過ぎて春の到来です。厳しい試練に打ち勝って満面の笑みを浮かべてこの季節を迎えた君たち、残念ながら希望を遂げられなかったあなた達、捲土重来を期す熱意ある人たち、貴賤上下や貧富の隔て、老若男女の区別なく、すべての人の上に躍動の春がやってきました。Spring has come.目で春を見、耳で春の足音を聞き、匂いで春を満喫です。 四季が明確な日本、自然が細やかな装いを見せる日本、こんな素晴らしい日本に生まれ育って私たちは本当に恵まれていることを実感しましょう。反論はいろいろあるでしょう。しかし今私たちは肯定することから始めましょう。成程息を呑むような風景や自然環境の良い国は枚挙にいとまがないでしょう。しかし心の豊かさと移り行く季節、私たちは世界に誇ってもいいのではとよく思います。ようこそ私たちの仲間へ。桜満開、春爛漫の今、皆さんを美木多幼稚園に迎え入れることができて本当に幸せです。これからの2年、3年、4年の期間、私たちと一緒に楽しいとっても素敵な時間を共有しましょう。素晴らしい未知への探検や経験もしよう。自信をもって美木多幼稚園を巣立っていく時が来るまで。お父さん、お母さん、お子様の子育て大変ご苦労されたことと思います。しかしそのご苦労も子供たちの成長につれて過去の楽しい思い出になっていくことでしょう。子供たちと向き合い、その成長を自身の成長のように目を細めて優しく見守る、子育ての大きな喜びであり、得難い経験ではと思います。今の子供たちは春の季節の頼りげない新芽のよう、深く色が染まらず、薄色のままそよ風になびいている。手入れの仕方によっては右にも左にも上にも下にも成長していく。大人の都合でその利益のためではなくて、子供の未来を見据えた子供の利益のための接し方をしていきたい。子ども中心、子どもがまん中、そんな保育活動を続けたい。私たちの希望は廃れることがありません。幼子にたとえた樹木の芽吹きは5月か6月になると成長し大人の葉になって真夏の炎天下に耐え、成長を助け、命ある限り生き続ける生命の源となっていく。しかし光合成の大きな役割を果たした木々の葉はやがて栄養が途絶え、最後に最高の美しさを見せて朽ちていく。その一生は200日余り、あまりにも短い。人の一生と似ているとはいえ、人は理論上は36000日以上、しかし現実は30000日足らず、それでも他の生き物と比べると圧倒的に長い。その中では受けるべき喜びも多いだろう。またそれと同じ以上の苦労と困難もあるだろう。超えるべきハードルも存在するだろう。ほっておいてくれないこともあるだろう。自分の道を切り開いていく必要もあるかもしれないし、戦いを余儀なくされるかもしれない。しかし生命は脅かされることがなければ、どんな困難や苦労にも毅然と立ち向かっていってほしい。そこから逃げ出さないでほしい。そんなことをすればもっと困難が降りかかるだろう。こんなこともわかってほしい。人間は地球の支配者ではないことを。その狡猾な知恵を働かせば他の生命体にとって大きな脅威となるだろう。しかしそれはやがて人間に向かって刃を向けることになる。どんな小さな虫にも、どんないやな小動物でも私たち地球の共存者であることを考えよう。腹の立つこと、踏みつけたくなること、存在を終わらせたいと考えることもあるだろう。私たちは大人の対応、寛大な考えを持ち続けよう。共生は私たちが存在し続ける唯一の方法だろう。謙虚で真摯な道を歩んでいこう。これから始まる学校生活は長い旅路、前を向いて無事安全に乗り切っていこう。そのためにはしっかり勉強しよう。そして何より健康に気を付けよう。「始めよければ全てよし」、いいスタートを切ろう。「前途に大きな幸あれ」と心より願って4月園便りの言葉と致します。  

01 3月 2013

巣立ち、育ちゆく人への贈る言葉
ー3月のことばー

  いつもの白い枝垂れ梅が満開となって私たちの目を楽しませ、潤いをもたらしている。卒園式までは順次咲き乱れることでしょう。人にも絶頂の時期が異なるように、梅にも一番華やかな時が微妙にずれている。桜は満開の期間の短さを儚さに例えられることが多いが、梅はそうではない。国花としての競争に負け、桜よりも低位に見られる梅は、ある意味不遇をかこっている。最もそんなことは人の勝手な思いで、梅にとっては迷惑千万、種の保存の為に一生懸命花を咲かせ、実をつける努力をしているのだから余計なお節介だろう。さて、そんな仄かな香りに包まれた梅の花咲く弥生、3月、その時が巡ってきました。卒園、進級です。私自身も教員として、園長として何回迎えたことでしょう。若い頃は当たり前だと思っていたことが、徐々に子どもの将来を憂え、世の中の現状を踏まえて、その行く末の幸せと健康を願う気持ちが強くなってきた。全ての人が同時に満足し、幸福になり、健康を謳歌する事は難しいかもしれない、しかしできるだけそれに近づけることは可能だろう。最も他力本願ではなくて、幸せと健康をつかみ取る努力も必要だし、満足を知る、分を知るということも大事だろう。そうでなければ、何時まで経っても自分が不幸であると思いがちになるから。人生は旅人だと誰かが言った。人生は航海に例えられるとも言った。人は重荷を背負って遠い道のりを行くようだと言う人もいた。人生50年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなりと、いにしえの言葉で語った人もいた。人は、人生は色々に比喩されるだろう。個人の一生をとっても、長いスパンで人間を観察しても、極端に言えば、繰り返しの連続にすぎない。この世に生を受け、這い、つたい、歩き、親からの愛を受け、知識を授かり、友を得る為に学校に行き、生活をし、生き甲斐を見つけ出す為に働き、伴侶と出会い、愛の絆を交わし、結婚し、子どもが生まれる。その子どもの成長を見守り、期待を抱き、齢を重ねていく。その道程では筆舌しがたい喜怒哀楽があり、子どもの生長と共に、自身も経験を積んで、大人としての風格を備えていく。やがて子どもたちが独立し、新しい領域、高齢者の仲間入りをしていく。遂には後に続く者へバトンを引き継いで、消え去っていく。日本だけ考えても非常に荒んだ不幸な時代も多々あったが、種の保存行為は営々と続けられた。本当に驚くべき繰り返しである。その繰り返しの中で君たちが生まれた。2年、3年、4年の幼児教育の過程を終えて今巣立ちの時を迎えた。本当に大きくなった。本当によく生長した。賢くなった。それなりの礼儀を身につけることができた。これから始まる人生の第一歩は無事完了したと思う。人生は陽炎のように儚いと言う人もいるが、考えによっては随分長い。活躍し、腕をふるうには充分だ。失敗してもやり直せるだけの時間もある。その為にこれからの学校生活では思いっきり勉強して知識を深め、友をたくさん作り、体力を強固なものにしよう。貪欲さも必要だが、謙虚ということも忘れないでほしい。自分一人でないということも憶えておきたい。人それぞれ生き方も千差万別だろう。しかし決して諦めたり、自暴自棄にならないでほしい。勇気を持って進んでいこう。希望は君たちの頭上にあるのだから。  

01 2月 2013

私と歴史
ー2月のことばー

  高校時代は世界史が大好きであった。と言うよりも漢字を正確に書けなければ、日本史の試験は通らないと言われて、必然の結果であった。当時世界史にも大学入試の難問集があった。ほとんど何の問題も無く解けた。3年の模試では結果が廊下に張り出されたが、世界史では断トツであった。それが他の教科の自信につながった。しかし社会人になって日本史の重要性がますます大きくなった。日本の歴史、ルーツを知ることが大切だと思うようになった。例えばシェクスピア時代の英語、ドン・キホーテ時代のスペイン語が仮に理解できたとしても漢字ばかりの古事記や日本書紀を読めない。NHKの大河ドラマでは散々の悪評であったが、はじめての仮名交じり文の「平家物語」になって、ようやく理解できるようになった。戦記物語というジャンルのせいだろうか。「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人もひさしからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。・・・・ まぢかくは六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣清盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」歴史を知り、先人たちの働きをよく理解し、いかにして日本を日本たらしめたのか、そして今の日本に至ったのか。たくさんヒ―ロが出現したが、その反対側には無念にしてこの世を去って行った幾多の人がいたであろう。そんな大勢の無名の人に助けられて今の私達が存在する。日露、太平洋戦争、有能な人たちの損失は計り知れない。「聞け、わだつみの声」を読むと涙が止まらない。誰もが戦争の悲惨さをよく知っていた。しかし他に選択の余地がなかった。堺ゆかりの与謝野晶子も激しい反戦歌を詠んだ。リベラルの幸徳秋水でさえ、そんな中で兵士に激励の言葉を送った。「行矣従軍の兵士、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。諸君今や人を殺さんが為に行く、否ざれば即ち人に殺されんが為に行く。吾人は知る、是れ実に諸君の希ふ所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し諸君は思想の自由を有せざる也、・・諸君の行くは諸君の罪に非ざる也、・・・ 現時の社会制度の罪也。・・吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、」比較的自由な立場にいる日本人は国益とは? 愛国心とは? ということについてよく考えねばと思う。昔の通信手段や交通手段も限られた世界では藩が全てであった。藩を出ることは自分を殺すことであり、他の藩は敵になることもあった。それが文明開化と共に大きな単位になり、国家意識が芽生え、国益や愛国心になって行った。国の為に殉じるのが愛国心なのだろうか、国益のために戦うのが愛国心なのだろうか。家の周りや公共の地をきれいにすることも立派な愛国心だと思う。フォークランドで戦ったイギリスのサッチャー首相、石油利権で戦ったブッシュ大統領、フランスのナポレオンやド・ゴール大統領、彼ら全てが強烈な愛国者なのだろうか。ミサイルの名前にもなっている愛国者、私達は自分の国を愛するのは当然の義務であり、その為に一生懸命働くのは自明の理だが、それはこれから生まれる子どもたちの幸せのために取っておきたい言葉であるのかもしれない。  

01 1月 2013

実るほど頭の下がる稲穂かな
ー1月のことばー

  陽光に照らされた美木多幼稚園に35回目の新年がめぐってきました。明けましておめでとうございます。2013年、平成25年が始まりました。昨年はいかがだったでしょうか。子育てに幸せいっぱいで取り組んでおられる皆さん、新しい命を授かった皆さん、子育てに悩み苦しんでおられる皆さん、嬉しい出来事あるいは悲しい事件に遭遇された皆さん、健康で過ごされた皆さん、残念なことに健康を害された皆さん、経済的に少し余裕ができた皆さん、反対に厳しい環境に晒された皆さん、家族が増えた皆さん、逆に愛しい人との別れを余儀なくされた皆さん、幸せな共同生活を続けることができた皆さん、不幸にも別れにいたった皆さん、さまざまな運命に出くわし翻弄された皆さん、例え2012年が自分の思いとは異なった年であっても、そんな年はいつまでも続く事がありません。一時的にそうであっても心の持ち方によってはそうならないこともあるはずです。誰の上にも陽が登り、どんな人にも時間の流れがやってきます。2013年が皆様の上に大きな幸せをもたらしますよう、特にこれからの日本を背負って立つ幼稚園っ子の上に明るい未来と希望の光が降り注ぎますよう心より願ってやみません。私の机の後ろの壁には私達教職員が守るべき方針を以前から掲げてあります。 1.仕事を愛し、子どもを育み、自己の成長を図る。 2.CS(顧客=保護者、子どもの満足)、ES(社員=教職員の満足)の充実を図る。 3.コンプライアンスを心がける。(法令順守) 4.感謝、謙虚、素直を忘れない。 5.園児に集まって頂けるよう各自努力する。 私達はこれが完全にできているわけでありませんが、いつもその年の目標としてこのような考えで進んできました。今年も同じ目標で細部にわたって肉付けしながら実行してまいります。私達はあくまで子ども第一と考え、判断に迷った時、子どもにとって何が一番大事であるか、その為にどのように対応すべきかを考えてまいります。子どもの喜んでいる姿、その後にいる保護者の笑みの浮かんだ表情に接するときに私たちの努力が成就された瞬間であり、何事にも増して強い喜びを感じます。その為には教職員にも人を喜ばせる心の余裕が必要であり、大切な事と考えています。2013年、美木多幼稚園は子どももHappy,先生もHappy,そんな両者がHappyな幼稚園を理想として追い求めてまいります。初代園長、宮下紀久子(母親)はいつも私に向かって「実るほど頭の下がる稲穂かな」という諺を投げかけていました。私も毛頭そんな気がないのですが、母にとってはそう見えたのかもわかりません。謙虚にその言葉を遺訓として保育活動に生かしてまいります。そしてもう一つ、何時も招かれた結婚式で言う言葉「人事を尽くして天命を待つ」を皆様にというより皆様を通じて小さな幼子に送りたいと思います。先人たちがこの国を立派な国にする為に努力されてきたこと、その努力を後に引き継ぐ幼子たちにもしてもらいたいと思うのです。努力は決して人を裏切ることはない。いつかは大きな果実となって実を結ぶのです。保護者の皆様も我が子がどのような成長を遂げられるか楽しみだと思います。私も保護者の皆様以上にこの子たちが社会に出てどのような活躍をするか、その姿を見る時間がないかもわかりませんが、大きな大きな期待なのです。社会に出るまでの環境の整備は今の大人の責任です。その責任を果たし、未来への希望をつなぎ、世代が変わっていく。今年も教職員一同、子どもたちの喜ぶ姿、無垢な笑顔を求めて保育にまい進してまいります。昨年度私たちに頂いたお力添え、ご厚情、叱咤激励、大変ありがとうございました。本年も何卒昨年同様ご支援、お力添え、励ましのお言葉を宜しくお願い申し上げます。本年も皆様方に幸多き事そして健康であられますよう心よりご祈念申し上げます。  

01 12月 2012

健やかに、元気いっぱい
ー12月のことばー

  春に命を与えられた生命体が燃え尽きる前に、今までで一番艶やかな姿を見せる、そんな例えが全くふさわしいように、どんな形容詞を使っても表現できないような、筆舌しがたい美しさを、「もうこの世に何も思い残すことはない」という吹っ切れた思いで私たちに表現している、そんな真っ赤に色づいたモミジの対生の葉、カエルの手に似ているからカエデとは少し興ざめだが、燃えるような朱に染まった赤色は凛とした姿で、官能的な艶やかさで、私たちに迫ってくる。特に明るい太陽越しに見るその姿と色はこの世のものと思えない程の美しさだ。その美と紅葉を求めて何種類か庭に植えてみたが、「美人薄命」ではないが、結構育てるのが難しい。私たちは自然の中で、自然界の掟に従って生かされている。中国の「愚公、山を移す」や大分県の「青の洞門」、そして近年山々を切り崩して造成した宅地や工業用地、それらは地球の表面のほんの超些細な点を触らしてもらっているにすぎない。自然に対抗して人が考案した自然界ではありえない直線も、自然界の大御所である曲線にかなうはずがない。人の体をはじめ、様々な生き物や自然界に存在する物体の優美な曲線やその彩色は私たちが感嘆と驚異の念を持って、ただ茫然と眺めるだけだ。涙の形から自動車をデザインしたイタリアの有名なカーデザイナー、その形や配色から大きなヒントを得ている建築家やファッションデザイナー、物理学者、科学者、哲学者、小説家、枚挙にいとまがないほどの人たちに大きなそして決定的な影響を与えている。自然界に存する物には無駄がない。すべて合理的なものであり、理にかなっている。あるとすれば合理的なものの中に存する余裕であるかもしれない。私たちの色の組み合わせでは決して考えられない配色も自然界では何の違和感もない。それどころかその不思議な色の組み合わせに見とれてしまうことがある。丁度子どもたちが絵を描くときに、大人たちが常識として使う色とは異なって、大胆で不可思議な色の組み合わせをするかのようだ。逆に言えば、子どもたちの本能は自然界そのものであるかもしれない。そんな素晴らしい子どもたちに命を恵んでくださったお母さん達、この子はどんな子に育つのだろう、どんな大人になるのだろうかと、丁度お母さんが今まで育ってきた環境や状況を考えると、日々心配の種が尽きないと思います。私たちの責任はこの子どもたちが健やかに、元気いっぱい、何の恐れや怯えもなく生きていく環境を作ってやることだと考えます。男女共同参画で社会進出して仕事を積極的に続けていくことも大事なことですが、それと同じくらいに家事と育児に励んでおられるのも本当に大切なことだと思います。私たちはたとえ些細な力であっても、いつでも保護者の皆様のお力添えになりたいと考えています。年の始まりが迫った師走、12月、今月も明るい幼稚園を心掛けてまいります。保護者の皆様も2013年が幸多い、明るい年になりますよう心からお祈り申し上げます。  

01 11月 2012

言 語 俯 瞰
ー11月のことばー

  人があまり驕り高ぶって、上へ上へと競って建てたバベルの塔、それに激怒して、人の協力関係を断ち切り、懲罰の意味を込めて、言語を細分化して意思の疎通を無くしたという神話。話の真偽は別として今地球上に3000余りの言語が存在する。私たちは人との意思の伝達を図り、社会生活をうまく機能させていく、いわゆる音声言語であり、文章にして記録を綴り、思考形態を確立していく、いわゆる文字言語、私たちの日本語をはじめ、主要な言語はこの両者を兼ね備えているが、未発達の文明の中には会話だけの音声言語しかないこともある。民族の浄化、優先思想、他国との併合、合併、占領、その他さまざまな嫌悪すべき理由によってどれほど多くの立派な歴史を持つ言語がこの地球上から抹殺され、消えていったのだろうか。消えていった言語がすべてそうであると言っているのではない。発展的に進化し、現在の言語につながっているケースも多々あるだろう。しかし世界史で習った民族やその言語は今存在することが少なく、ただ言語学者の研究の対象だけになっている場合が多い。言語を失った少数民族はそのアイデンティティーを失い、大きな渦の中に飲み込まれていく、厳密に言えば、営々と受け継がれてきた言語を失うことは大きな悲劇だろう。中南米を旅していると、多分中国もそうだろうが、多数の主数民族に出会う。彼らは国としての言語、例えばスペイン語や中国語を話すがそれとは別に仲間内だけに通用する言語を持ち、それをコミュニケーションの主要な手段としている。そんな小さな地域社会だけに通用する言語はすべて捨て去って、大きな一つの言語に統一すべきだという乱暴な意見もあるが、その言語こそが彼らがよって立つべき基礎であり自分たちの誇りである。例えばスペイン第2の都市、バルセロナはスペイン語ではなくカタルニア語であり、カナダのケベック州は頑としてフランス語を捨てない。経済的に統合したEUもお金は統一しても言語はばらばらである。今は少数言語を保護し、大事にする国が多い。世界共通語を目指したエスペラントもまだ一部のマニアの中だけだ。それぞれの拭い去ることのできないプライドや仲間意識があるのだろう。日本語について考えてみよう。3世紀ごろに現れた日本語はそれまでの漢字の世界から徐々に変化して今の日本語になり、その過程の中で琉球の言語が派生して独自の言語を形成した。アイヌ語はどうだろうか。日本語との関連性を持たないこの言語は金田一京助博士やユーカラ(英雄伝説)で有名だが、日本人の北部への進出によって消え去り、ただ地名として残るだけの存在になった。痛みをそれほど感じるわけでないが、当事者にとってはアメリカのインディアンと同じ位、大きな悲哀を感じているのは疑いがない。私たちは小さなときから苦労して英語を勉強している。一層日本語をやめて英語を標準語にしたらという意見もある。現に企業の中にそれを実行しているところもある。アメリカ人は外国語を学ぶ必要がないから楽だという人もいる。しかし安易に習得したものにどれ程価値があるのだろうか。私は英語を共通語にという意見には与しない。それどころかフランスのように自国の美しい言語の維持に努めたい。今は外国語を話せる人が増えてきた。時代の流れだろう。しかしそれを話す人の浅はかさも露呈してきた。流暢に話すことがすべてだとは全然思わない。一語一語でもいいからしっかりした味のある言葉を伝えたい。私たちの思いとは関係なく、今の幼稚園児たちが成人する頃には日本はグローバルの波に襲われ、外国語に触れる機会も多くなり、考えればそれを学ぶ手段も手っ取り早く身近に存在するだろう。また日本語以外の第2言語として外国語を活用して活動する日が多くなるだろう。しかし言語はそれほど難しくない。わからなかったらわからないと言ったらいいだけだ。ただそれを言える勇気だけは持ちたい。これからもしっかり日本語を受け継いでいこう。生まれ変わって地上に姿を現した時に意思疎通のできない言語になっていないために。  

01 10月 2012

仲間意識と団結
ー10月のことばー

  戦中生まれの私が小、中、高と進んでいくにつれて新聞の論調が変化していった。それは取りも直さず日本経済の高度成長と重なっていたのだろう。「戦前のGNPに肩を並べた」「戦前のGNPを上回った」という見出しが何回ともなくトップ記事に踊った。しかしあたりを見渡すと、JR環状線はまだ環状でなく、いまの森ノ宮やその周辺は焼け野原でむき出しの鉄骨だけが無残な姿をさらけ出していた。白い服を着た傷痍軍人がいたるところで物乞いのような活動をしていた。実態はそれほど変わっていないのに、数字の世界では戦前を超えたと囃し立てていた。現在の今はどうだろうか。戦後長らく世界2位の経済規模を維持していた日本が「中国に抜かれて3位になった」「そしてその差が開いていく」と言われている。そんな現実を目の前にして、日本人の意識が変わったのだろうか。これも数字の世界だけで表向きは何の変化もない。逆に中国はそれに勢いづいて精神的に加速したのだろうか。中国に行ったこともない私が意見を言うのもおこがましいが、発展成長を遂げているのは大都市やその周辺だけで大多数の貧しい地域が残っていると報道されている。 丁度いくら経済規模で勝っているといっても日本がイギリスやフランスに勝てないように。数字はある意味事実で現実味を帯びることもあるが、時によっては数字ほど信頼できなく、人を裏切る指標はない。しかし一度ことが起こると表面的でなく実質的に数字以上の力を発揮し、敵愾心を燃やし、団結力を誇示する民族は私たち以外にないかもしれない。昨日まで目もくれなかった人は今日は仲間として肩を組んでいる。その源泉はどこにあるのだろうか。その仲間意識はどこから芽生えたのだろうか。「一人では小さな力でも、団結すれば大きな力を発揮する」いい意味では大きな力の源泉だが逆に考えれば無節操な利権団体になり、圧力団体にもなる。元来日本人は一人では大人しく何もできない。外国でも日本人の一人での行動はあまり見られない。グループでの活動や行動であればそれこそ勇気凛凛である。同窓というのも大きな要因だろう。小学校、中学校、高校、大学、専門学校、もっと言えば学年や学級の同窓会、毎日どこかでこんな会合が開かれ、昔を懐かしみ、政治や友の話をし、絆を深めている。これは何も学校に限ったことではない。同じ職業もそうだ。会社全体、各部、各課単位、あるいは同期入社、(私たちはよく花の28組のことを聞いた。昭和28年入社組は優秀で出世をした。昭和の時代は年代の後半は不景気で、前半は好景気であり、不景気の時に入社した人は会社でよく出世した)ドクターの世界でも診療科、出身大学、大学の部活、なんでも会合のネタにしてしまう。生誕地も強い絆だし、同じことが海外でも盛んである。これがある意味昨日までの他人が今日の親友になり、団結力につながる大きな要因かもしれない。社会的立場の高い低いがあっても仲間になればみんな同じ日本人、もっと広く言えば地球人。美木多幼稚園卒園児も7000名弱、ひょっとしたら私たちの知らないところで美木多幼稚園同窓会が開かれ、緑に囲まれた幼稚園や懐かしい先生の話題に花を咲かせているかもしれない。 今月7日は美木多幼稚園第35回運動会、精いっぱい頑張ります。どうぞ奮ってのご参加そして温かい拍手喝采よろしくお願いいたします。  

01 9月 2012

VIVA  美木多幼稚園卒園児
ー9月のことばー

  昨年の夏、今年の春と夏の甲子園、3大会連続して決勝に進んだ青森光星学院高校、その大半の部員は大阪出身であるとは言え、屈指の強豪高校になった。その中でもプロ野球界からドラフトへの熱い期待を寄せられているのが4番北條史也君。自宅は私の自宅の隣、美木多幼稚園、美木多小、中学校出身だ。3兄弟の真ん中、親子ともどもスポーツ万能一家、おじいさんもプロへの道に満更でもなさそう。8月中旬、不動産取引を生業にしている50歳の人がやってきた。昔の美木多村の出身者。話しの弾みで子どもの話題になった。東京の大学に言っているとのことであった。更に詳しく聞くと東京大学理科二類に今年入学したとのこと、やはり美木多幼稚園、美木多小学校出身、中高は東大寺学園、800世帯位の旧美木多村で東大出身者は今まで2人、そして美木多幼稚園出身の彼で3人目、この数が多いのか少ないのかわからないが立派な事だと思う。美木多幼稚園出身者は優秀で成績もいいとよく言われる。何も飛びぬけている人だけが優れていると言っているわけでない。35年間の美木多幼稚園の卒園児は6000名余り、8月だけでも2人と考えると、社会で、学校で活躍している人は枚挙にいとまがない位だろう。その活動場所は日本だけに留まらず、広く世界中にまで及んでいるという事を考えれば、小さな幼稚園での保育活動が何らかの形で潜在的に関わりを見せているのは幸せに感じてしまう。『三つ子の魂百まで』の諺を持ち出すまでもなく、幼児教育の大切なことは遠い将来の人間形成にも大きな影響を持つことは美木多幼稚園卒園児の活躍を見ても明らかな事だと思う。私達は世間によく知られている傑出した人だけでなく、普通の人が生涯にわたって幸せに人生を送ることができる一助となるように今一層、おこがましい言い方ですが、幼児教育に取り組んで、皆様のお子様に対する熱い思いに応えていきます。 過去はますます過去になっていく  1969年7月20日、彼は人類史上初めて月面に上陸した。アームストロング宇宙飛行士、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」That’s one small step for man, one giant leap for mankind. と言って。当時ブエノス・アイレスにいた私は25才、青春の真っ只中であった。その言葉をスペイン語で読んで、何と陳腐な言葉だろうと偉そうに思った。しかし今となってはその言葉に重みを感じるようになった。同じ時期に上映されたLOVE STORY(ある愛の詩)がエロ・グロ全盛のときに私に大きな感銘を与えた。「愛とは決して後悔しないこと」Love means never having to…

01 8月 2012

情報の多極化
ー8月のことばー

  いつか経験したような暑さ、そう 45年ほど前、今は定かでないが多分、南米アルゼンチンの北部、サンティアゴ・デル・エステロ州に行った時のこと、飛行機が到着を告げた。扉が開き、タラップを降りて行った。デッキが今のように飛行機につながる時代ではなかった。近くに空港ビルまで乗せていくバスが待っていた。そこに至る短い距離は実際以上に長く長く感じた。それ程の暑さであった。まるで火の中に放り込まれたようだった。気温も40℃近かったのだろう。涼風の世界から酷暑の世界へ、大げさに言えば天国から地獄への移動であった。孫悟空が越えねばならなかった天竺の火焔山はこれよりもっと暑かったのだろうか。ないものねだりが人間の欲としても、思わず冬の寒さが恋しくなるものだ。そんなうだるような暑さが続く夏、それが夏だと言ってしまえばおしまいだが、私達の昔とは様変わりしてきたようだ。半世紀前、夏になると、海や野山に出てまっ黒になるのが、健康のシンボル、若者の特権でもあった。体の動きが鈍くなると言って水分の補給もできるだけ避けてきた。皮膚が焼け、赤茶けた色にかわり、ぼろぼろとめくれていった。一回では終わらなかった。刺激を与えるとヒリヒリした。太陽にあたる所は男も女もほとんどまっ黒であった。それが健康の証であった。若者のシンボルであった。自慢であった。しかし、今はどうだろうか。医学的な良し悪しはわからない。スポーツをするにしても半袖は極度に嫌われ、吸汗性の長袖が好まれる。日焼けを防止する為にクリームが塗られ、太陽からの直撃を避けるような工夫がいたる所に見られる。それが意図的に作られた学説だったようにも思える程、この頃あまり話題にもならないが、オゾン層の破壊や地球温暖化の影響を避けようとしているものなのか、はたして昔のような生き方は現在には通じないのかどうか。平均寿命が男子78歳、女子87歳と言われると、なるほど医学が発達したせいかもわからないが、昔のやり方もまんざら間違いでもなさそうに思える。 そんな昔の1960年には、国会議事堂を何重にも学生が取り囲んだ。時の首相は岸信介、若者には妖怪のような人物に見えた。新聞、テレビは連日そのデモを報道し、警察官と争う学生の姿、逃げまどう群衆、催眠ガス弾、焼ける安田講堂、東京の様子を茶の間にリアルタイムに送り続けた。何もそのニュースが売れる為だけに報道し続けたのではなかった。真の意味で日本が脱皮する為のプロセスだと感じていたのかも知れない。大きな試練、多大な損失を残したが、その後日本は高度経済成長を遂げ、世界に類を見ないような発展をとげていった。翻って今の日本の報道ぶりはどうだろうか。先日東京代々木公園で10万人規模の原発再開発反対のデモがあった。10人や20人規模の小さな集会でもさも沢山の人が参加したように報道するのに、今回はS紙は全く無視であった。A紙は3面欄に小さな写真だけであった。概して報道はスポンサーに気兼ねしているせいかどうかわからないが、小さな扱いであった。しかし、Japan Timesをはじめとする英字紙は1面トップの報道であった。ある評論家は全学連の流れを組む左翼に誘導されたデモは報道の価値がないと切り捨てるように言った、あるいは言わされた。しかし、私には右翼・左翼のイデオロギーを越えて小さな子ども達の将来の為にこの美しい日本を残すにはどうしたらいいのかを考えて、行動する事の大切さを表明していると思われる事が多い。私達にはある意味幸せな時代に住んでいる。いろいろな情報に接する事ができる時代に。新聞、テレビ、雑誌、インターネット、face book、ツイッター。報道機関も安閑としていられないが、私達も取捨選択する能力を身につけていかねばならない。 この1学期、子ども達は随分大きく成長しました。先生との信頼関係も大きくなったと確信しています。今年は「節」が大きく取り上げられる年、長い夏休み、節電・節約を合言葉に体力を保って良い夏休みの過ごし方をして欲しいと思います。2学期、3学期には大きな行事が目白押しです。一段と大きくなった姿で美木多幼稚園に帰ってくるのを私達一同心待ちにしています。しばしのお別れです。

01 7月 2012

未来のスイマーたち
ー7月のことばー

  平泳ぎの北島選手のライバル、ノルウエーのダーレ・ オーエン選手の死、今は下火になったが、ゴム製のスイムスーツの問題、オーストラリア屈指のスイマー、イアン・ソープ選手の落日、水泳界ひとつとっても話題がいっぱいです。4の倍数の年に開催されるオリンピック、今回はヨーロッパ一の大都市、ロンドン市での開催、果たしていくつのメダルが日本にもたらされるのか。「世界の壁は厚かった。」「こんなはずじゃなかった。」「参加することに意義がある。」等という言葉は聞きたくない。戦前の選手がそうであったように必死の覚悟を持って臨んでほしい。精いっぱいの努力やその結果については惜しみない喝さいを送ろう。選手のために、私たちの日本のためにも。美木多幼稚園のちびっこスイマーたちはどうだろうか。子どもたちは新しいこと、珍しいこと、普段とは違ったことが大好き、特に私たち陸上に生活する者にとっては、水中での行動はなじみのない異空間の出来事、子どもたちの好奇心や興味は最高潮、そんな未知の世界でどのように練習するか、どのように慣れるか、そして最終的にどのように水と友達になっていくか。リンゴ、年少、年中は水に慣れること、水を怖がらないことをテーマに大きな意味での水遊び、年長さんは毎日体操の先生に来ていただいて、顔付けや、浮くことの基礎の体得です。必要以上に水を怖がることはないが、いつも慎重で用心深い態度も肝要。用心深いというのは水そのものに対することと同時に実際にプール遊びを決行すべきかどうかの判断です。幼稚園の基準は水温+気温≧50です。前者が高くて後者が低いときには水の中のほうが温かく感じられ、逆の場合は水をひんやり感じることもある。49や51の場合も機械的に判断せず、子どもの意欲、健康、これからの天候の移り変わり等慎重な判断を要求されることもある。プールの季語は夏、幼稚園では6月から7月にかけて毎日プール遊びに取り組んでいます。いつの日か世界的なスイマーが現れんことを期待して。今の時期、子どもたちを興奮させるもう一つのことは「シャボン玉遊び」。シャボン玉の歌も習いました。その歌を時には口ずさんでさまざまな大きさのシャボン玉を目を輝かせながら一心不乱に作ります。園庭を埋め尽くしたシャボン玉が太陽光に反応して一種幻想的な雰囲気です。今日のこのイメージが一生涯子どもたちの頭のどこかの部屋に存在し続けることでしょう。 経済一流、政治が三流と言われた日本、今やその一流の経済も青息吐息。政を司る組織が弱体化し、私利私欲が多くみられるせいでしょうか。自分の立ち位置がどのようなものか、隠れも出来ないで白日の下にさらけ出されるその姿はまさしく高邁な理想を追い求めるというよりは、どんな組織体の中にもみられるように自己犠牲の対極、自己保身の姿かもしれません。もっともその姿を批判し嘲けり笑う資格は私も含めてほとんどの人は持ち合わせていないのも正直なことでしょう。このままいけば日本沈没です。いや美しい緑の山河、こまやかの人の情、こんな素敵で豊かな国を、私たちが受け継いできたように、この子供たちに引き継ぐことを約束するために、物言わないサイレントマジョリティであり続けるよりは未来のことを考えて意思表示が必要なのではとつくづく思う。 7月、文月、一学期の終わりの月、4月から始まって三か月余り、子どもたちは大きく立派な成長への軌道に乗りました。これから迎える二学期、三学期の活動を通して、それがどれだけ膨らんでいくか本当に楽しみです。一緒に見守っていきましょう。一学期の間に私たちに頂いた保護者の皆様からのご支援、温かいお言葉、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

01 6月 2012

森羅万象
ー6月のことばー

  空気が軽い。そのせいか、重い空気につきものの季節特有の匂いが少ない気がする。 晴天が続いている。私の中では、この時期としては異例の長さだ。たいていの人は晴天が続くことに喜びを感じている。子供たちもしかり。毎日園庭で様々な遊びに興じるのが最高にうれしそうだ。一層のこと毎日雨のない晴天が続きますようにと願うほどだ。いくら晴天が続いても、動くという手段を持つ人間はどうにか生き延びるすべを知っている。同じ生命体であっても植物はどうだろう。西洋では自殺すると木にされると言われた。ある大地に根を下ろした樹木はそこから自分の意思で動くことはできない。生き続けるための水が必要としても、例え根が水分を少しでも吸収しようと一生懸命伸びたところで、蒸発する水分を補うことはできない。人には快適でも植物には過酷な環境だ。プラスとマイナスがすべて等しいわけではないが、プラスの面ばかりを見ていると、マイナスの面を見落としがちになる。今話題になっている原子力発電はどうだろうか。原発再開の判断は、電力会社にとって、英断であり、反対する人にとっては最悪の決断だろう。家庭・企業に節電を要求し、電力不足は企業の海外逃避が不可避と声高に叫ぶ一方、反対派の人は昨年の関東の節電では企業の利益が増加したと説明する。企業にとっても土日の勤務や照明などを含む節電に対する大義名分ができたせいだろう。どちらにしても、2度と福島のような事故を起こしてもらいたくない。日本が生き延びるためにも、幼子たちが人生を全うするためにも。教育の世界を見てみよう。医学の世界と同じように、教員の世界も閉鎖的なことが多く、独自の職業規律、極論すれば一人ひとりの基準で判断することがある。大学入試には指定校推薦などで評定平均値が求められることが多い。例えば、4.1以上の場合、A校とB校では同じ4.1でも子供の学力が随分異なる。たとえ、4.1未満であってもA校の生徒を望む場合がある。評定平均値に色を付けることは可能なのだろうか。逆に考えれば、教員と対立すれば、例え4.1を満たしているとしても、それ以下の判断をされ、推薦されないこともあるのかも。教育に何を求めるのだろうか。幼稚園では当然のことながら、人生の根幹をなす幼児教育の充実を図る。それは知性面、肉体面の両方であり、様々な体験や経験を通じて、知的好奇心の向上を図り、積極的に物事に取り組む姿勢を涵養する。しかし高等教育では何なのだろうか。ただ単に通過点に過ぎないと考えているのか。友達を求めているのか、サークルや部活動を通じて絆とか協力することの大切さを求めているのか、または一流大学に合格するためだけの手段と考えているのか。寸暇を惜しんで勉強し、有名高校や有名大学にはいることは大企業に入る可能性や素晴らしい同窓生に恵まれることが多いという点で、うらやましくもあり、勉強してきた人にとって当然のご褒美であるが、世間でいう、あるいは我々が思うほどその絆や結びつきは堅固なものでなく、仲間や組織を自慢して自分を高めようとするだけであるかもわからない。まして一流企業とはその時の話であって未来にわたってそうであるとは限らない。因みに、大企業の業績は他の企業に比較して低いところが圧倒的に多く、必ずしも安定企業でないのが現状であろう。美木多幼稚園創立以来35年目、一期生28名は今や39歳。人生の働き盛り、さまざまな苦労や重荷が圧し掛かっていることだと思う。しかし、家族のため、自分のために耐えて精一杯働いている。そして、彼らに続く6000名余りの卒園児が日本各地で活躍している。その姿を見たとき、理想の幼稚園を作る意欲に燃えていた初代園長、理事長の笑顔が思わず頭に浮かんだ。これからも子供たちが存在する限り、美木多幼稚園も共に存在し続けたいと心より思う。今後ともご指導、お力添えよろしくお願い申し上げます。今月17日の父の日の参観心よりお待ちしています。

01 5月 2012

賢明な決断
ー5月のことばー

  青い実が年を越えると急速に真っ赤に色づくクロガネモチ(略称モチの木)、関西以西の地で庭の主木や街路樹として広く一般に植えられている。その赤い実をめがけてヒヨドリが押し寄せ、一瞬のうちに実がなくなり、新芽の出る準備をする。因みにこの木は鳥が来る、鳥が入る、なまってトリイル、そこから派生して物が入る、財が増えるということで縁起の良い木とされている。それが今年は何かおかしい。葉をすべて落としたモチの木は赤い実がそのまま残り満開の状態だ。ヒヨドリが来ない。いつもピーピーと鳴いていた大柄のその鳥が一向に姿を見せない。素人なりに考えることがあった。赤い実を食べるヒヨドリの天敵はカラス、そしてカラスの天敵のトンビはほとんど消えてしまった。今やカラスは傍若無人、昨年は家に来ていたツバメの巣も壊し、中の卵も食べてしまった。カラスに個人的な恨みや憎しみはないが、自然の輪廻の輪を壊されるのは残念で仕方がない。この小鳥たちの小さな変化がこれからの大きな変化につながっていく。昔から続いてきた様々な連鎖の世界を壊したのも、この小鳥の世界での出来事と同じ、環境の変化や公害を生み出した人間だろうか。今原子力発電の再稼働が大きな焦点となって人々の話題になっている。10年以上も前にこの園便りで人に聞いたことを少し書いたことがあった。それは当時電力会社と密接に関係のあった大企業の幹部社員で私の高校時代の同級生が言った言葉「原子力に限らず全てのことで、人間のすることに絶対安全はない。人間は誤りを犯すものだ。」ということであった。又当時原子力発電所には電力会社の正規の職員がほとんど常駐せず、大部分は下請け企業の社員であるとも言った。現在のことは知らない。今は安全、安心であるかもわからない、しかし20年、30年以上生まれ故郷へ帰ることができない人々の心情や放射能の子どもに与える影響の恐ろしさを思うと何とも言えない気持ちにさせられる。反対に今はそんな心情を持たれるとしても、時がたてば、原発バブルとか、補償成金といった色目でみられたり、揶揄されたりするかもしれない。原発に賛成、反対であれ、あとからやってくる子孫や次世代の人たちに賢明な結論であったと言われるようにしなければいけない。戦争を持ち出すのは気が引けるが先祖の人々はある意味無謀な戦いに挑み、300万人以上の同朋が生命を落とした。しかしその後艱難辛苦に耐え、世界に尊敬される国になった。日本人は耐えることもできるし、新しいことにも挑戦できる優秀な民族、一時的な迷いがあっても長い目で見れば良い方向に進むことができる人たちだと思う。あとからくる子孫に拍手喝采され、喜ばれる決断をしていかなければいけない。幼稚園の小さな幼子たちを見るにつけ、その思いは募ってくる。この子供たちは立派に大人に成長し、命の終わりが来るまで人生をしっかり享受することを願ってやまない。「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川・・・・」昔の童謡が頭から離れない。昔熊取町に住んでいた女性の先生がいた。ある時、熊取町の原子炉のことが話題になった。そのときそれまで黙っていた女性は急に立ち上がり、「私たちは身近に原子炉があることを忘れよう、忘れようと思って過ごしている。それを今更思い出させるような話には強い怒りを感じる。」と言った。原子力は安全、安心と宣言されたが事故のない時にも近くに住んでいる人々の心境は複雑だった。原子力発電所はなぜ電力消費地から遠く離れた電気を送るにも効率の悪い地域に立地しているのだろうか。職住近接ではないが、発電職住近接ではないのだろうか。安全地帯に身を置いて是非を判断するのは少しエゴイズムでないのだろうか。その女性は強く私たちに問いかけた。今、赤やピンク、白のハナミズキが満開、人通りの多い地に咲いた花はその美しさを大いに称賛されるが、人の目に触れない場所でもその存在を誇示するかのように艶やかさを見せている。時には人の評価に左右されずに自分の意見を主張する大切さを暗示しているのかも。

01 4月 2012

ようこそ 私たちの仲間へ 美木多幼稚園っ子
ー4月のことばー

  美木多幼稚園に35回目の春がやってきました。肩に担いで運んで手植した、道に面した桜の木も、今は大きく成長して花一杯、それに呼応するかのように全ての植物は精一杯のお化粧直し、春爛漫、暑くもなく寒くもなく最高のシーズンを迎えました。「ようこそ美木多幼稚園へ、ようこそ私たちの仲間へ」皆さんの来るのを今か今かと心待ちにしていました。美木多幼稚園へのご入園心よりお喜び申し上げます。生まれて1000日前後の子ども達、ここに到るまで子育てに大変ご苦労された事とご察し申し上げます。とくに近年、経済情勢、社会情勢の変化と共に一部核家族化の減少や崩壊、大家族化への回帰が見られるというものの、基本的な基調は長年一緒に歩んできた親からの独立化。それは独り立ちの大きな喜び、子育ての楽しみと共に大きな責任と義務が生まれ、その対処に大きな悩みやご苦労を持たれてきた事とご推察致します。しかしこれからは私たちと手を携えて子どもたちの発達成長に関わって行きましょう。ご家族、幼稚園、行政が一体となって大きな力を発揮して行きましょう。世の中はまだまだ見捨てたものではありません。アメリカナイズされた経済や金融、熾烈な競争社会、お金に対する執着心等によって人間関係はますます冷たく、希薄なものになってきた面も一部見られるかも知れませんが、まだまだ暖かい心の持ち主が一杯です。「ありがとう」の感謝の気持ちを持ち続けている人であふれています。卑劣にも他人に騙され、苦い思いをした人もいるでしょう。それでもなお善意を信じている人がそこにいるのです。なるほど人は全力で努力することが求められます。しかしそれが萎えたからと言って存在を否定されるものではありません。困った事があれば助け合う事が出来るのです。努力し、前向きに生きようとしている人を誰が見捨てるでしょうか。子ども達にとって美木多幼稚園は初めての大きな集団です。子ども達なりに大きな試練となりますが、早いおそいの差こそあれ、その集団に慣れ、反対にそこに所属する事によって大きな力を発揮していくものと思います。どうぞ大きな気持ちで見守って頂きたいと思います。 進級児の皆さん、年少、年中、年長への進級おめでとうございます。皆さんは私たちの仲間になって1年、2年又は3年たちました。美木多幼稚園で過ごした年月や経験は大きな自信となってこれからの活動に役立つことでしょう。今から始まる1年、今まで以上に大きな成長を遂げて、大活躍して欲しいと思います。美木多幼稚園の先生はいつも皆さんの近くにいて、一緒に行動し、見守っています。時にはけんかもするけれどもすぐに仲直りする優しい思いやりのある皆さん、この1年が健康でありすばらしい年になりますよう心より願っています。幼児期の大事な事はいくら言っても言いすぎる事はありません。幼児期を美木多幼稚園で過ごした皆さんは小、中、高、大と進んでいくにつれてきっと大きな力を発揮します。皆さん方の先輩の卒園児の皆さんも今や社会や学校で獅子奮迅の大活躍です。私たち教職員も子どもたちが将来立派に成長を遂げ、何らかの形で社会に貢献できますように、日々の保育活動に一層努力して取り組んでまいります。最後になりましたが、この1年、暖かいご支援、お力添え、よろしくお願い申し上げます。