美木多 幼稚園

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01 2月 2023

惻隠の情と積善の家
ー2月のことばー

   共通テストが終わった。その結果で志望校の選択を迷っていることでしょう。蛍雪の功とか二宮金次郎という言葉はいよいよ人々、特に若者の中から無くなってきたと報道されています。大学全入時代に突入したと言っても、何倍もの大学があるかと思えば、定員を充足できない大学も多数存在する。    ただ単に所属しているのではなくて、その目的を達成するために、そして少しでも自分の能力を向上させる目的で選ぶ、故に競争力の差が出てくるのは当然の帰結、大学という名前に昔ほど重きを置かなくなったし、ステータスのシンボルでもなくなった。とは言え、昔の高校生と同じかそれ以上に勉強し、努力した高校生にはうれしい便りが届いてほしい。    残念ながら栄光を手に入れることができなくて、今となっては色褪せた浪人生活を余儀なくされても、次の一年間の頑張りは人生において決して無駄ではない。逆に大きな成功への一歩になるかもしれない。兎に角努力しよう。意欲を持とう。何事にも泣き言を言わずに積極的に取り組もう。そんな姿を人は知っている。言葉に出さなくとも人はじっと見ている。  一年間の予備校生活の間にいろいろな友達ができ、様々な環境があることを学ぶだろう。昔は府立高校はオールマイティーで、私立高校は、ある意味、府立高校の不合格者の行くところであった。しかししばらくして、その立場が逆転した。成績優秀者は私立高校へなだれ込んだ。今、受験競争は幼稚園から既に始まっているとも言われている。    英語教材も含んだ様々な学習教材、私立小学校への受験、小学校は公立でも、私立中高一貫校への進学、勉強する子とそうでない子の二極化が進んできた。勉強の能力、すなわち認知能力も大事だが、自制心、計画性、協調性、忍耐力、意欲 など等の非認知能力も大事であり、これも人生における大きな成功のカギだと言われる。    広い園庭、幼稚園という有利な恵まれた環境を利用して、子どもたちのさらなる能力、隠れた能力を伸ばし、引き出していきたい。ところで、世の中はなぜもこうも索漠としたものになったのでしょうか。円安になり、物価が上がり、給料が上がらなくなって、ドイツに抜かれて、世界ナンバー3からナンバー4になるのは目前、もう抜かれているのかも。    毎日のように一部の若者たちが疑いを知らない、あるいは持たない善良なお年寄りをだましてお金を奪う、危害を加える、命を奪うことが大きなニュースとなっている。一部の若者の暴走に過ぎないと言う人もいるが、由々しき事態になってきた。日本は世界で一番安全な国でなかったのか。私たちは恥の文化を忘れてしまったのだろうか。    それがグローバル化、コスモポリタン化の悪い一面だろうか。日本や日本人の狭い範疇にとどまり、人と助け合い、人の難儀を見過ごしにできない慈悲心、惻隠の情を忘れてしまった、あるいは持っていないのだろうか。西洋の優れたものを取り入れることも大事だが、足元の日本人の長年にわたって培われてきた文化や思想、考えも本当に大切にしたい。最後に一つの言葉を贈りたい。    「積善の家、必ず餘慶あり、積不善の家、必ず餘殃あり」善を積んできた家は必ず孫に至るまで幸福が続く。反対に不善の行いを積む家には必ず子孫に至るまで災禍がつづく。  太陽が少し私たちに近づいたとはいえ、一年のうちで一番寒い時期、天が私たちに与えた試練を克服し、明るい春に向かって一歩踏み出しましょう。    今月もよろしくお願いします。

01 1月 2023

明けましておめでとうございます
ー1月のことばー

   「福寿草 遺産といふは蔵書のみ」高浜虚子。旧暦の正月、花のない乏しい寒期に咲く鮮やかな黄金色の花、そして新年を祝うめでたい「福」「寿」の文字、アイヌ伝説によれば、父君が選んだ婿の神を嫌って結婚を拒み、神の世界から追放されて、野の咲く花に変えられたクナウ。保護者の皆様の2022年はどのような年でしたか?思わぬ運が転がり込んできたり、反対に不運に見舞われた人もいたかもしれません。    しかし大多数の皆さんはいつもの年と同じあまり変化のない年月だったのではと思います。私にとっては勝手に第二の故郷と考えているアルゼンチンがFIFAワールドカップで36年ぶりに優勝したことがいい出来事でした。  最初に訪れた53年前のサッカーの熱狂ぶりからして、痛いほどその感激ぶりが伝わってきます。当事者には全然わからなくても、世界には勝手に、静かに応援する人がいることは誰もが認めることだと思います。それでは2023年はどんな年であって欲しいでしょうか?  物価の急激な上昇が収まり、日常の生活が少しは楽になる、お子さんが無事進級、進学してほしい、懐かしい人に会いたい、いろいろな思いがいっぱいあると思いますが、突き詰めていけば、いつもと変わらない平凡さが一番かもわかりません。思いの10%位が実現し、50%も実現すれば、超感激でしょう。  お子さんが健康で、勉強にスポーツに一生懸命取り組んでほしい、幸せや運がもっと来てほしい、そんな保護者の皆さんの願いに少しでも応えることができますように、私たちもこの2023年は様々な観点からSDGsへの取り組みも含めて、幼児教育を再確認していきたいと思っています。  保護者の皆様に寄り添い、保護者の皆様からの厳しいご要望にも誠意を込めて取り組んでまいります。手を携えて子供たちの成長発達を図っていきましょう。  その為にも「親の背中を見て、育つ」の諺通り、私たち大人が様々なことに努力し、子どもたちの模範になるような姿を見せなければなりません。さて国の根幹は教育です。戦後アメリカ軍は日本の教育を根本的に変えました。今でも、ある国では自由で主体的な教育を認めずに国民の意見を同一化しようとしています。  「三つ子の魂百まで」、その時期から徹底的に負の教育をされたら、いったいどんな意見を持つ子が育つのでしょう。日本はある意味恵まれていますが、自由の中にも一定の規律が必要であるのは言うまでもありません。  「何事にも努力すること」「礼儀作法を身に着けること」「日本の歴史を学び、伝統的歴史文化に誇りを持つこと」日本人が日本人であることの規範であり、証でもあると思います。コスモポリタンの中にあってもやはり「日本人は違う」というアイデンティティが必要です。  残念ながら日本の少子化は止まりません。2022年の出生数は80万人を切ることは確実です。周りを見ても幼児の少ないことに驚きです。そんな中で子どもたちはますます自立の必要性に迫られています。保護から脱却して独り立ちの世界です。子供たちの自立を促す意味で、私たちは何をなすべきか。  その土台作りをしっかりと私たちは取り組んでまいります。何事にも挑戦する子どもたちを育てていきます。新年は不断に流れていく時間につけた一つの目盛りであり、命が新しくなる時です。足踏みせずに動き続けます。前進続けます。若さは可能性がいっぱいです。十分それを意識しましょう。  年取ってその可能性に気付いたとしても、それを伸ばす力が失われていることが多い。  アメリカの政治家で科学者のフランクリンは13の徳を言っています。1.節制 2.沈黙 3.規律 4.決心 5.倹約 6.勤勉 7.誠実 8.公正 9.中庸 10.清潔 11.平静 12.純潔 13.謙譲 私はこれに感謝と素直も付け加えたい。  ある幼稚園の主任の先生がいみじくも語っていました。家族に感動を与えることができる幼稚園でありたい。子育ては一筋縄ではいかず、沢山の苦労があります。特に幼児期の保護者は心配事が山ほどあり、お母さんという立場の人は産後うつ、育児ノイローゼ等、体がマイナスな状態になるリスクを抱えながら子育てをしています。  そんな中でこの幼稚園に入園させて良かった、母親(父親)になってよかった、子育ては大変だけれどもこんな経験をさせてもらえる園に入れてよかった。逃げ出したくなる日もあるけれど、お母さんになって本当に良かったと思っていただけるような園でありたい。  私たちもお母さんからゆるぎない信頼を得、頼ってもらえることができる幼稚園を目指して、2023年ひたむきに取り組んでまいります。  本年も変わることのないご支援、お力添えをお願いいたします。

01 12月 2022

厳しさの先に見える一縷の光
ー12月のことばー

  「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」51歳の時に旅をこよなく愛した松尾芭蕉は、旅の途中、病床に伏しながらも、「夢に見るのは今なお枯野を駆け巡る私自身の姿」と詠んだ。今では想像もできない情景だが、私が生まれた泉北の地は、開発される前一部このようであった。虫の音も聞こえず、寒風が吹きすさび、ススキの穂が大きな波を打っている。荒涼とした大地、荒れ地、自然の厳しさを身をもって教えられた寂寥とした風景であった。芭蕉自身も、もう旅に出ることはできないのではという悲観的な考えをする一方、反対に今は病で伏しているが元気になったら、夢の中で枯野を駆け巡っている希望的な解釈、まさか4日後にはこの世に別れを告げる時が来ようとは思ってなかったであろう。古今東西を問わず、私たちは苦しい時に何か明るい希望の情景を作りだしたり、思い出したりして生きる意欲を駆り立てる。いつのまにか12月、冬の季節を迎えた師走、老人たちにとってはもっと遅く来ればと思ったりする年末、されど子どもたちにとっては大きく、たくましく育ったこの一年、保護者の皆様の2022年はどうでしたか。勿論悲しい出来事もあったかもしれませんが、子どもたちと過ごすたくさんの小さな喜びも存在したことでしょう。どうぞその喜び、幸せを大切にされて、2023年、新しい時を迎えられることを心より祈念しています。 さて、長崎での研修大会では、まず初めに私は初めて名前を聞いた高校でしたが、創成館高等学校校長の奥田修史さんの話がありました。1971年生まれ、ハワイ大学を卒業し、帰国後祖父の代から続く奥田学園に就職し、32歳で理事長、34歳で校長に就任した。それまでは「偏差値なし」、経営破綻寸前、年間生徒指導数300以上、名前を出すのもはばかれる学校、地域から嫌われる学校であったが、数年で立て直すことに成功し、今や有名国公立にも多数合格するほどに実績を伸ばし、野球部は甲子園常連校になるほど成長した。以前の入試説明会では体育館がガラガラであったが、今やあふれるばかりの志願者が押し寄せている。ラジオ、テレビの出演も多く、その経営手腕は高く評価されている。赴任したころは「そんなことをしても無駄」「どうせできない」というような「負の考え」が充満していた。若さも大きな武器だったのでしょう。まず学校の常識を疑ってみた。次にオリジナルな物に変えていった。又批判されようが独自性を貫いていった。そして負け犬になっていた生徒、教職員に自信と希望をつけさせた。I PADを生徒全員に持たせたり、定期考査を廃止して、毎週テストしたりした。教職員の朝礼では笑顔のない朝礼はいらないと言い、先生がアロハシャツを着ての勤務も行った。いわゆる型破りを実践した。「本気で生きる姿を見せる」「本気しか物事を動かされない」と断言し、宿命と運命の違いを述べた。 次に文科省の藤岡幼児教育課長の話があった。文科省の官僚だが、実際横浜の旭中学校の校長として3年間勤務した。校長を経験した官僚は二人目であった。安全な環境の確保として、スクールバス事故を受けて、子どもの安全安心対策支援パケージの導入支援を言われた。実際スクールバス所有の全ての園に行政からの実施調査があった。近々文科省主導でバスに再発防止機器が取り付けられる予定だ。次に出生数の推移を述べられ、1973年に210万人が2021年には80万人に減少した。この事で、経営者及びミドルリーダーの意識の醸成が重要だと説いた。施設の数では令和3年度は幼稚園9418園、100万人、認定こども園8535園106万人、保育所31238園209万人となっている。又待機児童は2017年には約2.6万人いたが、2022年には3千人になった。教育基本法では幼児期の教育は生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものと定義され、粘り強さ、好奇心などの非認知能力がついているかどうかが求められている。そして学校教育法第22条では幼稚園は義務教育及びその後の基礎を培うものと定義され、あきらめるのではなくて、やってみよう、教えられたことだけやるのではなくて、いろいろなことに興味をもってやってみることが大事と言われ、そして幼稚園と小学校の接続、連携の重要性を強調された。次に新潟大学の溝口教授の少子化と新しい家族の創成についての講演がありましたが、その中で家族持ちは「しんどい」、結婚の意思があるのに、結婚しなくなった。子を持つコスパ悪化で、「しんどい」結婚生活になるので、未婚化の一つの要因かもと言われたことが気になった。今回の研修大会を通じて、私たちは子供たちの可能性を伸ばすために、様々な方策を考えるべきであり、それが「三つ子の魂百まで」の格言に沿う努力目標ではないかとの思いを新たにした。

01 11月 2022

エキゾチックな香りに魅了されて、長崎へ
ー11月のことばー

  スペインの国の花、グラナダ(ザクロ)が家の軒先で最大のおめかしをして、その実を食べるように私たちを誘惑している。昔スペイン語の教授がザクロはその実の形、内容から手りゅう弾と同じ意味を持たされているのを残念だと語っていたことを思い出す。秋が深まっていく10月下旬、その日、暗闇の中、早朝5時30分に家を出て、伊丹の大阪空港に向かった。駐車場はまだ余裕があった。久しく来ていないせいか、手荷物検査場の場所が変わっていたのには驚いた。7時20分発のJAL2371便の搭乗口は一番遠かった。待つこと30分、機内はそんなに混雑していなかったが、ランウェー(滑走路)は混んでいて、15分ほど待たされた。その遅れを取り戻そうとしているかのように、飛行機は出力を最大限ひねり出して、急角度で高度を9000mまで引き上げた。1時間ほどして、大村湾の上空に到達し、低空飛行を維持しながら無事長崎空港に着陸した。タクシーの運転手や町の人にいろいろ聞くのが好きだ。この飛行場は元は大村空港と言って、海岸沿いにあったが、騒音などの関係で、1975年、対岸2km先にある箕島を買い取って、日本で初めての海上空港になったそうだ。箕島には10世帯弱の住民が住んでいたが、町に移住してもらった。先祖代々受け継がれ、住み続けてきた人たちの心情はいかほどのものだったか?人は重大な決断をせねばならない時が何回かやってくる。何を大義名分にして決断をするのだろうか。そのお陰で今の大村市は長崎県の中では長崎市、佐世保市、諫早市についで人口では4番目で、町はきれいで、発展し続け、住みたいという人が増えていると、その人は自慢げに語っていた。通過するだけの新幹線はいらないと言って、又水は他県に流れるとか言って、リニアに反対する、それぞれの知事はあまりにも狭い了見の持ち主ではと思ったりする。今は一地方の問題であっても、将来的にはどのように展開するかわからない。レンタカーのカローラを借りて、40kmほど離れた長崎市を目指して、右手に大村湾を見ながら車を進めた。第37回全日本私立幼稚園連合会設置者・園長研修大会の会場、出島メッセ長崎はJR九州長崎駅の目の前であったが、ホテル同様、ナビにはなかった。新しすぎるせいであった。連合会会長の二つの発言が印象的であった。一つは丁度真冬にフィンランドの幼稚園に行ったとき、保育時間は朝8時から4時までと言われた。フィンランドの冬は夜が長い。それでは昼の長い夏の保育時間はもっと長いですかと質問すると、3時までですと答えられた。その理由は家族と過ごす時間が本当に大切だからですとのことであった。それに後の一点は非認知能力のことであった。認知能力はIQ等に示されるように点数などで数値化できる能力、それに対して、テストなどで数値化が難しい、内面的な能力、例えば意欲、忍耐力、自制心、判断力、行動力、協調性、思いやり、創造力や応用力等、子どもが人生を豊かにするうえでとても大切な能力。そしてこれらの能力は幼児期から学童期に育ちやすい。それらの涵養のために、園庭の活用が大切であり、広い園庭を持つ幼稚園は大きなメリットがあり、その活用方法も十分認識すべきだと説明した。最後に子供とともに育つ楽しさ、うれしさ、そしていかに良質な教育をしていくか、子ども自身が生まれてきてよかったと思える社会、伝えたい思いがある社会、そんな社会ができるように私たち幼稚園関係者は身をもって努力していかねばと述べた。次に長崎県の大石けんご知事と長崎市の田上富雄市長の話が続いた。知事は千葉大学出身のお医者さんで、この前まで厚労省のコロナ対策委員であった。今年39歳で日本一の若さで知事になり、3,4,5歳の3人の幼稚園児の親、一方の市長はお孫さんが幼稚園児、両氏とも長崎県五島の出身だが、異国の香りがする長崎、グラバー邸、オランダ坂、出島など等、長崎のいいところをいっぱいアピールしていた。実際新しい長崎駅の1階の食堂街で食べた海鮮丼ぶりは本当においしかった。又その夜に市内の稲佐山に登ったが夜景が見事であった。両氏は幼児期の重要性はいくら強調してもしすぎることはないと述べられ、変えてはいけないもの、変えなければならないものをしっかり見極めながら行政を進めていくとお話しされました。そのあとの記念講演、文科省の役人による行政報告、基調講演については12月の園便りで報告いたします。いよいよ今年もあと二か月、それが短いか長いかは別として、季節の変わり目、十分に気を付けて日々を過ごしましょう。

01 10月 2022

未来の立役者、幼稚園児たち
ー10月のことばー

  ピラミッド、アンコールワット、マチュピチュ等々、世界には大昔から建造物や遺跡が数多く存在する。中国の歴史には及ばないが、日本にも古くからの遺跡や建造物が今でも輝きを放って存在している。そしてそれらが日本の景観美と相まってインバウンドの目玉となっている。最近では明治時代に建築された建物が優れた建築家の作品であるという理由で保存運動がおこったり、実際保存されている。卑近な例では南海本線の諏訪森駅や浜寺駅の駅舎が保存されつつある。それはそれで確かに過去の人々の歴史を知るうえで貴重な遺物だろう。何も目に見える大きな構築物だけではない。路傍の記念碑、胸像、はては小さな石碑にしても現在まで残っているのは何かのいわれがある。建築家の名前にばかりスポットライトを当てて、それを実際に作り上げた人々、その建築にゴーサインを出した人々には何も光が当たらない。私の周りにいた、例えば型枠大工さんはある設計家が設計した複雑な建物の型枠を作ることに大変苦労していた。イラン出身の有名な女性建築家、ザハ・ハディッド(Zaha Hadid)が設計した東京オリンピックのメイン会場は、一度決まったものの没になった。決定権を持っている人が一度決めたものを世間の圧力に屈服して、それを反故にした。審査委員長の無責任な言葉が印象的であった。後世に残った建築よりも優れた建築物が設計の段階であったかもしれない。日の目を見なかったのは何も建築に限らない。例えば自動車でもモックアップモデルの自動車で実現されなかったモデルは実際販売されたモデルよりも多いと思う。Isuzu 117クーペは本当に素晴らしいデザインだと思ったが、弱小販売力の悲劇であった。建築家、設計家、デザイナーの自己満足だけではうまくいかない。当時批判されたが、それを押し切って後世に残る奇抜な建物を許可した、時の権力者に大きな拍手を送りたい。 さて、幼稚園には様々な行事、いろいろな参観や研修、遊び、人や動物とのふれあい、花や野菜の栽培等、数多くの活動があります。それらのことに真剣に取り組み、情緒的にも知的にも豊かに育ってほしいとの願いはどの幼稚園でも共通のものです。しかし公立幼稚園と違って、私たちは自力で経営していかねばなりません。その意味でも、いくら立派な教育・保育理念やそれを実行しようとする強い意欲や意思を持っていたとしても、そしてそれは当然のことですが、その対象となる園児がいなければ、経営が立ち行かなくなり、絵に描いた餅になってしまいます。私たちの幼稚園には園内でのお子さんの様子をよく知ってもらいたいとの思いで、行事や参観が多くあります。そのことが両親とも勤務している保護者には不都合であるとの話も聞きます。しかしその場合でも当該園児には何ら不都合になったり、寂しい思いをしないように十分教育的配慮を考えています。10月1日は毎年園児募集、すなわち願書受付の日になっています。極端な話をすれば、今までの教育、保育が支持されてきたか、そうでないかの審判を受ける日だと思っても過言ではありません。ところで幼稚園は1840年、ドイツのフレーベルが小学校に上がる前に幼児のために作った学校が最初であり、kindergartenと呼ばれました。尚保育所は厚生労働省所管の児童福祉施設であり、保育(養護と教育)を行うもので、学校教育法による学校ではありません。日本の最初の幼稚園は1876年開園のお茶の水女子大付属幼稚園であり、146年の歴史があります。諏訪森幼稚園も鳳幼稚園も90年以上の歴史があり、美木多幼稚園も45年目を迎えている。それぞれ卒園児も多く、今では各界で活躍している。私たちの希望はただ私たちの幼稚園に通園している子どもたちだけが恩恵を受けるのではなくて、結果として通園していない子どもたちにも何らかの良い影響を与え、挙って成長・発達を促していきたいと思う。私たちの国は何度も資源を持たないと口が酸っぱくなるほど言われ、教えられてきた。その代わり、優れた頭脳の持ち主が他国に比較して数多く存在すると言われてきた。しかし今現在、その面でも自信が揺らぐ確かな証拠や数字が列挙されている。自信とプライドを失いつつある今の日本人に将来に誇りを取り戻せるように幼稚園児や幼子にも頑張ってもらえる基礎を作りたい。その為にも幼児教育の重要性をいくら言っても言いすぎることはない。私たちは保護者の皆さんの全幅の信頼を得て、その熱い思いに応えることができるよう教職員一同力を合わせて進んでまいります。ご期待ください。 10月、神無月、October,八番目の月、今月も元気いっぱい出帆です。

01 9月 2022

Life is short, Art long.
ー9月のことばー

  美木多幼稚園は45年、老人施設「ハーモニー」が25年、諏訪森幼稚園は12年、鳳幼稚園は10年目を迎えました。通算の歴史をたどると、鳳も、諏訪森も90年以上にもなるのですが。緑あふれる施設、自然との共生、子どもたち、保護者の皆様、そして高齢者の皆様に喜んでもらえる施設、建物、先生や職員との暖かい心の通った関りや運営を、当然ですが、心がけてまいりました。私たちの成長と同じく、樹木も生育し、枝が道路にはみ出し、影を作り、迷惑をかけていることもある。人との共生という観点からは、お互いに譲り合わなければいけないのは当然と思いながらも、根元から無残に切り倒されているのを見ると、本当に悲しい気持ちになる。そんな中で特養などの老人施設では終の棲家として、何が必要なのか?長年日本経済発展のために、日夜努力されてきたお年寄りが、今いる所が最終の場所として、満足してもらえているのか?十分なケアをしてもらっているのか?誰もが例外なく迎える老いの姿、100%とはいえないまでも、楽しかった、有意義な人生であった実感して、最期を迎えてほしいという思いを職員の皆さんと共有したい。団塊の世代が後期高齢者にさしかかった今、問い合わせや入所希望者が増加してきた。対して幼稚園はどうだろうか?泉北ニュータウンの開発、発展につれて、最初の15年くらいは園児の増加がうなぎ上りで、マンモス幼稚園と呼ばれたこともあったが、今はピークの三分の一、これは何も自然減や人口減だけの理由ではなくて、美木多幼稚園、「もっとしっかりしなさい」という戒めの言葉であり、捲土重来の励ましの言葉でもあると思う。諏訪森幼稚園は堺市で最初の幼保連携型認定こども園として認可を受け、90年余りの基礎の上に、今は高齢者となった卒園児や地域の人に愛されて素直に成長してまいりました。鳳幼稚園は民営化された当時の熱気や高揚感が徐々に静まってきたとは言え、まだまだ熱望されて、鳳幼稚園を選んでいただく保護者の皆さんが多いのは本当にうれしい。毎年9月、10月は願書配布と願書受付の時、保護者の皆様にどれ程信頼されているか、頼りにされているか、それが私たちにとってのバロメーターであり、一喜一憂の瞬間です。どちらにしてもこれからも子供たちの楽しくて、幸せな顔、そしてその後ろにいる保護者の皆様の大きな喜びと、信頼感をいただけるよう、今以上に教職員一同力を結集してまいります。どうぞ今一度私たちに任せていただき、私たちは悔いのない、後悔をさせない保育に努めてまいります。よろしくお願いします。 あなたの趣味は何ですか?よく聞かれる。野球とか、写真とか、読書とか音楽鑑賞とか答えていた。30歳の時に一般企業に勤めていた大学の同級生にゴルフを勧められ、その後それが趣味になった。勿論友達と一緒に行くこともあるが、ほとんどの場合、一人で行って、知らない人のグループに入れてもらう。サラリーマンや会社経営者、弁護士や医者などの自由業の人、様々な職種の人に出会い、いろいろ知識を得たり、見聞が広がることもある。私たちの年齢ではもうボールも飛ばないし、方向性もうまくいかないし、スコアもまとまることが少ない。ただ「昔はもっと上手かった。」というのが関の山であり、言ってもどうしようもないし、「又昔のことを言っている」と非難気味にけなされる。そんな時に、80代になったのに、まだまだ上手くなろうとして、練習したり、プロに教えてもらう人が多い。そのことにも感心していたのに、90歳を超えてもまだプロに教えを乞うゴルファーのことを聞いた。あと何年ゴルフができるのか、あと何年生きながらえるのか、微妙な歳であるのに。高齢者でプレーをしている人の中には足が痛いとか、腰が痛いとか言う人が多いが、逆に考えれば、そんな境遇でも、それだけ前向きの考えを持っているのだから、神は命を伸ばしてくれるのだろうか?あるいはその意欲で、その人の寿命がどんどん伸びていくのだろうか?生物学的、医学的に人間はいくら努力しても、限界がある。しかし少しでもそれに近づこうと努力している。人生は一生勉強だと賢人たちは言っているが、本を読むだけが勉強ではあるまい。何事にも打ち込むこと、没頭すること、何事にも前向きに努力することがこの世で生きた証であり、私たちが見習わなければならない教訓だ。幼稚園の子供たちにとってはこれからの90年は長いように思えるが、それに近づきつつある私の感想からすれば、本の瞬きのような瞬間であり、陽炎のようなはかなさだ。すぐにやって来て、すぐに消え去っていく。その意味でもこの瞬間を大切にし、後悔のない時にしたい。Life is short, and art long. 運動会の練習に忙しい9月、長月、台風の月、雨や風に負けることなく、運動会の練習頑張ります。当日保護者の皆様方によく頑張ったねと褒めてもらうことを期待して。

01 8月 2022

閑話休題
ー8月のことばー

  ある識者は滅亡するあるいは衰退する民族として、次のような例を挙げている。 1. 理想を失った民族。 2. すべての価値をものでとらえ、心の価値を失った民族。 3. 自国の歴史を忘れた民族。 私たち日本人は果たしてどうだろうか。その崇高で高邁な理想を持つ民族として、世界から尊敬と畏怖の念で見られていたのが、近年ともすれば、拝金主義の横行と大いなる利己主義に苛まされている。民族の誇りと矜持を持ち続けることが少子化に悩む日本のあるべき姿と思う。時あたかも凶弾に倒れ、不慮の慚愧に堪えない非業の死を遂げた元首相の主義主張とも符合する。意見は異なっても何とかして民族の魂を揺さぶり、惰眠をむさぼる民族を叱咤激励する姿はだれも否定できない。どんなに怒りがあっても、どんなに逆上しても、どんなに我慢できなくても、人が人を殺めることは、例え戦争であっても、してほしくない。若い青年男女がその先を見ることなく、この世に別れを告げている。西洋と東洋では死生観が異なるといえ、本当に痛ましいことだ。どうか幼稚園のこの子たちが22世紀の世界を見るまで、元気に生き延びてほしいと心より祈らずにいられない。太平洋戦争で命を落とした100万人以上の日本人がもうこんな馬鹿げた殺し合いを止めてほしい、自分たちだけで十分だと彼の地で願っている。終戦の年、私はまだ1歳にもなっていなかった。そんな私が今まで生きながらえてきた事に、祖父母、両親、知り合いの人や近所の人、そして名も知らない多数の親切な人々にいくら感謝してもしすぎることはない。 閑話休題、少し前に伝説的なカーレーサーの中嶋悟の話を読んだ。「レーシングカーは少ない距離の走りに耐えたらいいだけだから、そんなに強い車体はいらない。」驚いた。あんな高速で走っているのだからずいぶん丈夫に作っていると思っていた。実はその逆。若い時より車に少し興味があった。しかし基本的なことを知らなかった。小林旭の「自動車ショー歌」は有名だが、今は存在しない車や会社がある。目という岸和田出身のセールスマンを通じて、日野自動車のコンテッサが家にやってきた。リヤエンジンの優美な車だった。学生時代には親のブルーバードSSSに乗った。当時としては高馬力の100馬力であった。プリンスのスカイラインGTBは垂涎の的であった。月給3万円の時のフェアレディは100万円、しかも現金での販売のみであった。手に負えなかった。20代の会社員の時は堺から門真まで、最初は2ドアのカローラ、その後セリカのリフトバックに乗り換えた。教員時代は日産のローレル2ドアであった。私の好きな車であった。50代ではスバルSTIと三菱ランエボを交互に何回か乗り換え、マニュアルシフトを楽しんだ。エボファイナルは今でも惜しい車だ。25年前のランクル100は盗難にあって、嫌な思い出だ。300にも乗ったが、25年の進歩はどのレベルかよくわからない。GTRは異次元の瞬発力だが、タイヤの溝があまりないので、4WDにも関わらず、スリップが本当に怖い。15歳で50CCの免許を取って以来、幼稚園バスの運転も兼ねて、大型免許も所持している。SDGsの問題もあるが、時計も含め、メカメカしたものには心を惹かれる。今年の夏休みはコロナの第7波が押し寄せている。厚労省は高齢者の接触以外ではマスクの不要をTVで流している。対人や環境にも十分気を付けながら、マスクのない爽やかな夏、生活を楽しみたい。今年の夏は海や山、行楽地へ出かけるのもありかなと思う。毎年休み明けには一段と大きくなった子供たちの姿がまぶしい。病気に罹ったり、事故にあったりすることなく元気に2学期、幼稚園に帰ってきてほしい。幼稚園号は新しい冒険の世界に出発です。尚、厚かましいお願いですが、9月は園児募集の願書の配布、10月は願書提出となっています。ご近所、お知り合いで、対象の園児さんがおられましたら、ぜひとも入園を薦めていただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

01 7月 2022

和顔愛語
ー7月のことばー

   母は師範学校を卒業し、小学校の教員として働いた。若いときには満州にも行ったそうだ。何事にも活発な進取の気性に富んだ女性であった。最初は自転車やバス通勤をしていたが、スクーターが発売されると(確か三菱のピジョン)、すぐに購入し、通勤方法がそれに代わった。家の前の坂にその音が響くと、帰ってきたことがすぐに分かった。勿論昭和30年代にそんなことを許す父親も寛大であった。    赤坂台小学校を定年の一年前に退職して、美木多幼稚園設立と同時に初代園長に就任した。私から見ると、何事にも意欲的で、優しく、近所の子供を集めては文字や書道などを教えていた。母はお花、お茶、書、体操などが得意で、特に書道に関しては年老いてからもその道の先生に教えを請い、数多くの作品を残した。私は書を書いているのを知っていた。    ある時母が表装の話を私にしたが、私の中では想定外の高さの費用であり、その希望を実現させてあげることができなかった。それ以降その話をすることはなかった。あの時の医者の対応に満足したわけではなかったが、国立大阪病院で2年間、ただ天井を見上げるだけ、話すことも手を動かすこともできずに過ごした。    ただ瞼を少し動かし、顔の表情を変えるだけの生活であった。頭はしっかりしていたので、余計悲しみが募った。もし追体験できるならば、表現するすべての手段を奪われた気持ちはどうだったのか、どの位残酷なことなのか、知りたいと思った。その母の死後、いろいろ整理していると、たくさんの書が出てきた。表装をすることを拒否されたそれらは、いつかは立派な額に入れられて、飾られることを待ち望んでいるように私には思えた。表装をする、額に入れる、それ自体は決して安くはないが、奢侈品を買うことを思えば、大きな額ではなかった。    私は自分の罪滅ぼしの意味でも、母への敬慕の意味でも、残されていた全ての作品を表装し、私の関係する幼稚園や老人施設に掛けさせていただいた。その中に「和顔愛語」があった。母の大好きな言葉であり、作品も多かった。額に入ったその言葉は毎日見慣れているせいか、何も意識することはなかった。時々いい言葉ですねと言われることもあったが、「ありがとうございます」と通り一遍の返事をするくらいであった。    しかし人は思いがけないときにふと目についた柱にかかった額の文句などにはっと心を打たれ、目を見張ることが少なくない。そしてそれが思いがけない時に思い出され、心の養いになり、決断する時の大きな力になる事もある。今回の私はこの言葉を見て、母を思い出し、優しさを知り、巧言令色でなく、笑顔になり、優しい言葉,いとおしい言葉で人に謙虚に接することの大切さを再認識することになった。私が生まれてきたのは勿論父親や母親のおかげ、もっとさかのぼれば、先祖代々のおかげだろう。  この事について、日本の戦前・戦後の首相等に大きな影響を与えた思想家の安岡正篤は次のように述べている。「わが幸福は祖先の遺恵、子孫の禍福は我が平生の所行にあること」「平生、己を省み、過ちを改め、事理を正し、恩義を厚くすべし」「成功は常に苦心の日に在り、敗事は多く得意の時に因ることを覚えるべし」「用意周到なれば、機に臨んで惑うことなし」今まで何事もなかったような物が急にある瞬間大きな意味を持つことがある。そんな思いを抱くことが多い。一種の好奇心を持ち続けているせいだろうか。  熱い暑い日々が続きます。どうぞご家族の皆様にはご自愛していただき、今しかない2022年の今月も有意義に充実して過ごされますことをご祈念いたします。  7月、文月、July、子どもたちの健康と幸せを願い、そしてコロナ撲滅を目指して Bon Voyage.

01 6月 2022

団塊 ビートルズ 全共闘 の世代
ー6月のことばー

   久しぶりにアメリカでの出生数が増えたとのニュースが報道されました。コロナ下での自粛や忍耐生活に対する反動ではないか?ちょうど世界大戦の終戦後に各国でベビーブームが起こったように。この現象はアメリカ独自のものか、それともこれから出産ラッシュが世界中で続くのか?日本の昨年の出生数は80万人余り、現状では日本が日出る国から日没する国と揶揄されても仕方がない。適齢期人口の減少、晩婚化、子供を欲しがらない、経済的な悪条件、未来に対する悲観的な考え、自由に生活を満喫したい、漠然とした未来への不安、子どもの人生に責任を持てないこと、様々な要因が浮かび上がる。戦前の産めや増やせや政策は現在には即しないが、子供を持つ喜び、子供を育てる喜びや楽しみを享受する人が増えてもいいのではないかと思ったりもする。    その絶望感の裏返しで、強い意見を言うと、パワハラだとかセクハラだと声高に非難される。誰もが本音で本音のことを言うのが難しくなった今の日本、言葉を慎重に選びながらの発言、ダイナミズムに欠けた日本の将来は私たち自身の双肩にかかっている。村八分にされない程度で、自分の意見を大胆に発することも必要だ。ところで、それまで毎年200万人位の出生数が戦争が終わると、270万人に増えた。1947から1949年。いわゆるベビーブーマーの時代、「団塊の世代」とも「ビートルズの世代」とも「全共闘の世代」ともいわれる。    日本だけでなく、欧米でも同じ現象が起こり、「ヒッピー」の言葉がはやり、ベトナム反戦運動が最盛期を迎え、様々な反戦歌やフォークソングが一世を風靡した。月から石が届き、「love story」の映画がヒットした。私は団塊の世代より少し上ですが、270万人の勢い、活力はマグマのように大きなうねりとなり、現状の社会に対しての大きなはけ口を求めてさまよい続けた。大学に行っても校門が閉ざされ、ロックダウンの状態であった。毎日警察とデモのせめぎあいがテレビで流れ、それに参加していた有名大企業のエリートの息子たちも大勢逮捕された。  中には悲惨なリンチ事件もあったが、デモや闘争はほとばしるエネルギーの発露となっていた。共産党系や社会党が大きな勢力であったが、若いときによく陥る憧憬のようなものであった。勿論それに組しない学生も数多くいた。企業や公務員に就職し、管理職に進むにつれて、それらは青春の時代に罹るハシカのようなものと考えられた。    しかし毎年270万から260万人が社会に出てくる迫力、熱量は大きく、経済の成長とともに、それを受け入れる大きな度量が日本国にあった。オリンピック、万博、新幹線、高速道路、新しい技術の創造や品質管理の追求、海外市場の開拓、夢があり、希望があり、企業や社会の応援があった。学生運動に費やした膨大なエネルギーを今度は企業戦士として、大いに発揮した。  正直言って、この団塊の世代を社会は吸収できるのかと心配されたが、社会も、企業もものの見事に受け入れ、日本発展の原動力となっていった。一部まだ過去を引きずる人もいるが、全体は穏やかな、心優しい日本人に変身した。日本社会は罪を犯した人には厳しい見方もある半面、すべてを受けいれる寛容さもあった。今は退職しているとは言え、現役世代の時の幹部の中には学生時代の活動家も多い。  ハシカがハシカで終わればいいものを、慢性病になるのであれば、困ったものだ。団塊の世代は後期高齢者に差し掛かった。あと何年かそのような状態が続くであろう。社会保険、医療保険、介護保険など等、様々な面で大きな負担が現役世代にもかかってくる。世は先送りとまで言わないが、一時期の日本のダイナミズムの形成に大きな貢献をした団塊の世代にも、豊かな健康で文化的な老後を送ってもらいた。その為にはただ援助を受けるだけでなく、それに感謝し、積極的に対応することも必要なことだ。同じ大地に生まれ、同じ空気を共有する私たちは同じ仲間として、お互い尊重と礼節の精神を持ち続けたい。  「上に居りて驕らず、下と為りて乱れず」人の上に立って傲慢にならず、人の下となっても秩序を乱すようなことはしない。 私たちには限られた命しかない、言い換えれば、私たちの命は有限。その中で切磋琢磨して、楽しく人生を過ごしてみたいものだ。  6月、水無月、アジサイの月、そして 幸せになるというJune brideの月、園児たちと一緒にたくましく前進していきます。

01 5月 2022

明日ありと思う心の仇桜
ー5月のことばー

   地上に住んでいる人、小鳥たちと同じように空中に住んでいる人、北海道に住んでいる人、沖縄に住んでいる人、裏日本や表日本(この表現が不適切ならば、日本海側や太平洋側)に住んでいる人、日本国中に住んでいるすべての人に5月の到来です。5月は行楽の月、一年のうちでもっとも爽やかな季節であり、心行くまで楽しむのもまた5月です。仕事と同じように、楽しむときは徹底的に楽しむことが必要であり、うじうじためらっていれば、いつしか人生の春は過ぎ去ってしまう。    人生が限りあるものゆえ、晩年になって悔いを残さないようにこの季節を大いに楽しみましょう。半袖にしようか、ベストが必要か、長袖に戻ろうか、いろいろ考えた4月と違って、5月は半袖、また木々の緑も濃淡様々、こんなに微妙な濃淡の緑色が存在するのかと驚きの連続です。私たちにはまだまだ自然界から教えてもらうことがいっぱいあります。自然を征服すると誰かが言ったとしたら、その人は自然の偉大さに盲目になっているのでしょう。    その緑色の隙間から洩れてくる「木漏れ日」、なんという優雅な響きなのでしょう。思わず木々の間につるしたハンモックの中で横たわっている姿を思い浮かべてしまう。大げさに言えば、自然界の大きな力が地上に降りたって、私たちを奮い立たせてくれているような錯覚に陥ってしまう。限りある命、せっかくの与えられた素晴らしい季節、惰眠をむさぼることなく、元気いっぱい爽やかに生きましょう。さて先日、子ども家庭庁が新聞で話題になっていた。    幼保一元化が叫ばれ、認定こども園制度が作られ、幼稚園や保育所から参入する施設が増えた。年長5歳児はイギリスのように小学校の義務教育に入れるべきだという意見は一応封印され、子ども家庭庁は認定こども園と保育所を管轄することが決まった。幼稚園は従前通り文科省の監督になった。日本全部で30000園の保育所、幼稚園と認定こども園はそれぞれ8000か所くらいであるが、最近は幼稚園から認定こども園に移行する施設が増えている。    これは偏に国からの補助金の増加で経営の安定に寄与することが大きい。幼稚園、認定こども園、保育所の利点などについては又別途お知らせします。 若い9歳の親鸞が仏門に入ることを決心したときに、周囲の人にそんなに急いで決断をしなくても、明日でもよいではないかと言われ、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐のふかぬものかは」という歌を詠んだ。「明日も見ることができると思っていると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。」転じて「今を一生懸命生きたい。明日になれば自分の命がどうなっているかわからない」諸行無常を歌に託した親鸞の心情ですが、私たちは得てして明日も明後日もそしてこれからも、未来が永遠に続くと思い、生活習慣もそういう風に慣れ、今の今を大事にせず、先にのばすことが多い。明日になったら始めよう。もう少し落ち着いたらとりかかろう。    まだまだ先が長いからこの辺で一区切りしよう。というように自分に都合のいいように解釈して結局何も手を付けられなかったことが多い。この際、先はないもの、明日は来ないかもしれないと考え、今日できることは今日するという習慣をつけたいものです。と書いたところで、高校で習った英語のフレーズを思い出しました。Do what you can do today. さわやか五月、皐月の季節、元気いっぱい出発です。    今月もご支援、お力添え、よろしくお願いします。

01 4月 2022

桜満開 春爛漫
ー4月のことばー

   その花の美しさにもかかわらず、不愉快な名前を付けられたボケの花、チューリップ、大好きな椿、トキワ、マンサク、モクレン、こぶし、クレマチス、蘭、数えればきりがないほどの沢山な木々や草花が最大限のおめかしをして、私たちを現世の桃源郷に招待しています。何の装飾も誇大もなく、本当に春爛漫の世界です。そんな世界に皆さんを迎えることができるのは私たちにとっては本当に幸せであり、喜びの極みです。入園・進級おめでとうございます。私たちの仲間に加わっていただき本当に感激です。これからは仲間の一員として、うれしいこと、寂しいこと、喜ばしいこと、悲しいこと等など、様々な環境の中で、手を取り合い、切磋琢磨して、大きな成長を遂げていきましょう。  進級する皆さん、幼稚園は第二の故郷です。皆さんはこの一年で大きく、たくましく成長を遂げました。これからは、お兄ちゃん、お姉ちゃんとして優しく、仲良く、時には強く、新しいお友達に接していきましょう。  アフリカやアジアのどこかの国で、種族の違いで争いがあるというニュースが頻繁に報道され、そのことに慣れきっている私でも、大規模の戦争が現にウクライナで行われているということが私たちの理解の範疇を超えている。新式のミサイル、戦車、航空機、対戦車ミサイル、超音速兵器、私たちの想像を超えた殺戮が進行している。極端な話をすれば、それらの兵器を作っている会社の株式を買えというブラックユーモアまで出ている。  そんな死の商人みたいなことが許されるだろうか。二つのことを思い浮かべてしまった。ウクライナの男性は国境を超えて避難できない。祖国のために残り、祖国のために戦わねばならない。その先に死が待っているかもしれない。ロシアの若い兵士もあまりその意義を理解せずに、戦場に送り込まれている。    そしてそこで命を失う可能性が高い。私たちは生きる世紀を間違えたのだろうか。戦場でたくさんの人を殺害したものは英雄と言われた。現在では犯罪だろう。両親にかわいがられ、育てられた若者が将棋の駒のように配置され、わずか20代でこの世から去ってしまう。理不尽な出来事であり、悔やんでも悔やみきれない。  命を全うするのが人間としての荘厳な生き方でないのだろうか。人が虫けらのように近代兵器の犠牲になっていくさまに身の毛のよだつような恐ろしさを感じてしまう。2点目は日本の敗戦のことを考えてしまう。全国民が玉砕するまで戦うということが言われた1945年、しかし時の政府は全面降伏を受け入れた。無意味な殺生を避ける意味でも、日本民族を絶やさないためにも、大義名分を捨て敗戦を受け入れた。    毎日毎日放送される戦争の状況、私はそんなことは見たくも聞きたくもない。その原因がなんであるか、そんなことはどうでもよい。人が人を殺める行為だけは決してしてはならない。これ以上その背後にいるお父さん、お母さんを悲しませないためにも。    大事に大事に慈しみ、育てられた園児の皆さん、たとえ私たちが平和ボケだと言われても、皆さんがこの園で、この国で、安全安心、幸せに暮らすことができるように、例え非力であっても、全力を出して何らかの貢献をしていきたい。それが私たちの責務であり、未来につなぐ架け橋と思う。今年は美木多幼稚園45周年、鳳幼稚園10周年、そして諏訪森幼稚園は91歳の誕生日を迎えます。特に諏訪森幼稚園の地域では、私もこの幼稚園の卒園だというお年寄りの話をよく聞く。本当にありがたいことです。    少子化や園児減少が止まりませんが、幼稚園に来ていただける園児がいる限り、私たちはしっかりと幼児教育に取り組んでまいります。毛利の三本の矢ではないですが、三園が力を合わせて教えあい、学びあい、協力し合って、皆様方の期待に応えることができますように頑張ってまいります。これからも暖かいご支援、お力添えをよろしくお願いいたします。 四月、卯月、今月も元気いっぱい出発です。

01 3月 2022

Viva Primavera(Spring)
ー3月のことばー

   今はビルに囲まれて、そんな風景は想像することもできなくなったが、春はどこから来るかしら、あの山超えて、野超えて、遠い国から来るかしら?という歌は野山に囲まれた土地に住んでいた人にとっては簡単に思い浮かんだ情景だったのでしょう。春にまつわる歌や語句を拾い集めても、すぐに何かが頭をよぎることになる。    「愛も希望を作り始める。遮るな、どこまでも続くこの道を」「春は名のみの風の寒さや、谷の鶯、歌は見えど、時にあらずと」「梅は咲いたか、桜はまだか」「東風吹かば、にほひをこせよ梅の花」「春よ来い、早く来い、あるきはじめたみいちゃんが赤い鼻緒のじょじょはいて、おんもへでたいと待っている」「春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が」「春が来た、春が来た、どこに来た。山に来た、里に来た、野にも来た」「春の小川はさらさら行くよ」「ちょうちょちょうちょ菜の葉にとまれ」「さくらさくらやよいの空は見わたすかぎり」「今春が来て、君はきれいになった。去年よりずっときれいになった」「春を愛する人は心清き人」「白い光の中に、山並みは萌えて、遥かな空の果てまでも」それに「蛍の光」や「仰げば尊し」、「ビリーブ」、「贈る言葉」、そして大好きな中島みゆきの「時代」、春や春を連想させる歌は枚挙にいとまがない。    そんな春、大地に根ざしたすべての生き物は眠りから覚め、小躍りして躍動的に走り出す。冬の厳しさから解放された嬉しさはそんなに無上の喜びなのだろうか。厳しい受験競争を勝ち抜いて栄冠を勝ち取った諸君、本当におめでとう。期せずして本望を遂げられなかった君たち、捲土重来の試練に耐え抜いてほしい。神はいたずらに苦難を与えているのではない。君たちの大きな成長と飛躍を期待しているのだ。苦しめば苦しむほどあなたの人格は深くなり、そして人格の深まりとともに、あなたはより深く人生の秘密を読み取るようになる。意図せぬ転勤や退職で心が折れかかっている人たち、社会は皆さんに乗り越えるべき大きな試練を与えている。    しかしそれは決して絶望ではなくて、これからの生きていくうえでの大きな原動力に繋がるものだ。そして卒業式を迎えた諸君、「どうせ未来は大したことはない」というような事を言わないでほしい。定年を控えた中学校の校長先生が巣立っていく生徒のために書いた「旅立ちの日に」の中で「はるかな空の果てまでも君は飛び立つ 勇気を翼に込めて 希望の風に乗り、このひろい大空に夢をたくして」と書いている。今の時代は閉塞的ではない。若者にはチャレンジしがいのある時代。人生の終わりになって後悔しないように頑張ろう。何回も言おう、「人生は一度きりだ」と。そして幼稚園の良い子のお友達、ご卒園おめでとうございます。これから始まる小学校、中学校、高等学校、大学や専門学校などへの道では、友を沢山作ろう。勉強しよう、限りある時間を無駄に使わずに有効に活用しよう。  そして楽しく生きよう。皆さんの先輩も不断の努力を重ねてきた。誰にも負けない強い意志をもって突き進んでほしい。未来は君たちの指定席だ。保護者の皆様、お子様の卒園、進級おめでとうございます。  どれほど苦労されて今まで頑張ってきたことでしょう。しかしその頑張りに応える子どもたちの成長・発達は皆様方に大きな励ましとなって返ってきます。自分を信じ、子どもたちを信じて、掛けがえのない人生を送られますことを心より願っています。年少、年中の皆さん、いよいよ年中、年長への進級です。  今までの弟や妹の立場がお兄ちゃん、お姉ちゃんにかわるのです。小さな子にも優しく接していろいろ教えてあげましょう。皆さんがそうされてきたように。    弥生三月、さまざまな人の思いを乗せて、未来に向かって出発です。

01 2月 2022

15の春は泣かせない
ー2月のことばー

  スペインかぜ、いわゆる100年前のパンデミックは3年経過して、終息を迎えた。今のコロナ感染症はもう2年以上たつのに、まだその兆しが見えない。これだけ医学が進んでいるにも関わらず、当時と同じような大きな衝撃を人類に与えている。ある人は今のオミクロンはコロナの最後のあがきで、徐々に終息し、今までの日常生活に戻るだろうと言う。そんなに怖がらなくても、もうそこに明るい光が見えていると楽観的に予想している。又ある人はまだまだ変異株が現れて、終息するまでに時間がかかると悲観的に言う。テレビ出演の大学医学部の関係者はもう単なる風邪に過ぎないので、そんなに恐れる必要はないと言うし、政府にかかわる学者はまだまだ用心しなければいけないと言って様々な規制の解除を先延ばしにしている。正しく恐れることが必要なのだろう。陽性の人が10日間の隔離が続くと、経済も、病院も、高齢者施設も、学校などの教育施設も機能が麻痺しかねない。物事には終わりがある。必ず終息する。いつそれが宣言されるか誰もわからない。イギリスではすべてに規制を撤廃した。日本はどうするのだろうか?積極的な終息宣言や規制の撤廃は大きな責任と非難を伴うだけに日本政府はそのリスクをとることができるだろうか。時あたかも高校大学受験の真っ最中、いろいろ柔軟な試験対策が報じられているが、あくまでフェアで誠実であってほしい。受験人口が減り、多様性のある専門学校や職業を選ぶ人が多くなったとはいえ、不必要で理不尽な挫折感は人の成長に寄与するものでない。京都の蜷川虎三知事は「15の春は泣かせない」と言って、1校区1高校の制度を作り、高校全入の道筋をつけた。勿論当時低かった高校進学率を上げ、働き手の拡充をする狙いもあったかもしれない。現在は反対に学区制が取り払われ、公立高校の序列化が進んできた。40年前、高校3年生の担任をしているときに、「先生、どんな大学でもいいから推薦してほしい」と生徒から言われ、大阪のある大学を紹介し、無事4年間を充実して楽しく過ごした。スポーツマンであった彼は明るい人を引き付ける性格と物事に積極的に取り組む姿勢で、今は立派な企業人になっている。しかし大多数の受験生は自分の実力以上に世間的に評判のいい大学を選びたがる。昔は浪人することは何も気にしなかったが、少子化の今の時代、浪人することはどうなのか。現役で入ったことが将来の栄光につながるのか、苦節10年まではいかないにしても、艱難辛苦の努力が将来の希望に通じるのか。「If winter comes, can Spring be far behind? 」冬来たりなば、春遠からじ。そんな2月、ふと目を下に落とすと、クロッカスが土の中から少し芽を出している。年齢を重ねたからいうのではないが、つい最近黄色に咲くクロッカスを見つけたのではなかったか?あれからもう1年もたつのか。梅の花も開花の準備の真っ最中、季節の中で生活しているとはいえ、その移り変わりの速さは私には残酷に感じてしまう。最近読んだ本の中で論語の一遍があった。「之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」(仕事でも勉強でも知っていることはいいことだが、それを好きだというのには及ばない。好きであるのはいいのだが、それを楽しむのには及ばない)つまり仕事でも勉強でも楽しむ境地に至れば一流の経営者になりえる。ある哲学者は「一生懸命やると楽しくなるのが仕事の本質である」と言った。仕事が楽しみになれば、時間も名誉も金銭も超越することができます。故に仕事を楽しめる人は本当の経営者になれるのです。渋沢栄一流に言えば、このようなことでしょうか。 寒い中にもどことなく春の気配が色濃く感じられます。コロナもまだまだ油断できませんが、明るい未来を夢見て、2月、如月、元気いっぱい乗り切っていきましょう。

01 1月 2022

明けましておめでとうございます
ー1月のことばー

  いったい、いつになったらマスクなしの昔の日常に戻るのでしょうか。コロナが蔓延してはや2年、生活様式が極端なほど変化をしました。毎日子どもたちを見ていると、本当にマスクのない世界を味わせて上げたいと強く思います。律儀にマスクをする子、鼻の部分だけを出している子、下のほうに下ろしている子、マスクをしないで園庭を駆け回っている子、同じ姿の子どもは存在しません。ちょうど子どもたちの個性が異なるように。さて、2001年は保護者の皆様の多大のご協力、有難うございました。お陰で無事新しい年を迎えることができました。クラスターも大きな事故や怪我もなく、泣いたり、ぐずったりする子はいても、すぐに元気になり、友だちと駆け回っています。創立時の1978年ころの子どもと比べると、コンピューターやAIの分野では格段の進歩がみられるものの、無邪気な子どもたちの姿は昔も今も同じ、ただハナタレ小僧がみられなくなったくらい、そんなことを考えながら、令和3年、2021年を終え、新しい年を迎えました。毎年毎年繰り返される悠久の歴史の一コマにすぎない2022年、私的に来年の一年を予想すると 1.多分コロナのパンデミックはほぼ終息することになるだろう。2.それに伴って極端に減少した子どもの出生数はかなり上向くことになるだろう。3.しかしながら人口の減少に歯止めがかからず、出生数はピーク時の三分の一以下の80万人を切るかもしれない。4.それに従って待機児の言葉は過去のものになり、幼稚園は勿論のこと、認定こども園も、保育所も大きく定員割れを起こし、50年前に雨後のタケノコのように乱立した府立高校と同じ運命をたどることになるだろう。5.極端に言えば、幼児教育施設の統廃合や倒産という事態に陥るかもしれない。それはかなりの勢いで新築された民間の老人施設が今やケアする人の減少や入所者の選別によって倒産の危機に陥っている場面が多々見られるのと同じかもしれない。6.しかしながら少なくなっても、子どもたちは必ず生まれてくるものだし又人は必ず高齢になる。まじめに、真剣に幼児教育に取り組み、又老人介護に力を注いでいるそれらの施設や組織はどんなことがあっても生き残ることができるだろう。In the long run, 長い目で見れば結局、人は流行や巷のフェイクニュースに踊らされることなく、真に必要なもの、真に信頼されるものに向かっていく。一時的に目がくらんでも、人の目は節穴ではない。誠実さと真面目さと感謝の気持ちが最後の勝利者であるだろう。経済の面ではどうだろうか。諸物価が高騰し、日用品の値段が上昇するか、量が少なくなる。しかし消費者に直結する企業はおいそれと同調値上げができないし、消費者の厳しい目が光っている。企業が値上げできない分、人件費の抑制をしなければならず、給与が上がらないという負の連鎖が継続し、先進国では最低の給与水準になっていることも事実。勿論、人手不足から人件費の上昇圧力がかかり、その面でのせめぎあいが激しくなることが予想される。アメリカや欧州のように容易に物価上昇を図ることができればいいが、株式や有価証券重視ではなくて、貯蓄第一の日本ではそれも難しい。政府がこれほど借金して、コロナ対策でお金をばらまいても、インフレにならないのは不思議な現象と思う。しかし今年は企業も業績の回復と増益、驚異的な内部留保が見込まれ、政府方針の成長と分配で私達にも恩恵が降ってくるかもしれない。不平、不満な人を出来るだけ少なくする意味でも、アメリカのような格差の拡大ではなく、誰もが満足できるような社会の実現が少しでも見られたらと思う。スポーツの世界では冬季オリンピックでも夏のオリンピック同様、日本人の活躍が多く見られるだろう。社会的にも政治的にも安定した一年になるだろう。しかし夏の参議院選挙次第では不安定な面も残されている。新たに参政権を持った18歳、19歳の若者の参政権の行使や政治へのアプローチはもっと活発なものになって欲しい。医学の面では日本の製薬会社のワクチンや飲み薬が審議会で認可され、病院や老人施設での面会禁止が解除され、コロナ以前のように自由に会うことも許されるようになる。倫理面では日本古来の伝統的な道徳、長幼の序、礼節、謙譲、挨拶、感謝の気持ちが薄れ、権利を主張し、理屈っぽいきらいがあるが、総じて日本人は活力を失ってきたように思うのは私だけだろうか。それとも急激な人口減がそう思わせるのか。そんな大人の背中を見て育つ子どもたちには、立派で力強く誠実な後姿を見せて、暗黙の教育にしてほしい。2022年、また一つ歳を重ねる新しい年、皆さんはどのような旅立ちをしますか。いずれにしても無駄な一年にしたくない思いがいっぱいと思います。幼稚園の教育に携わる私たちにとっては、どんな小さなことでも何かお役に立てればこの上ない喜びです。最後になりますが、SDGsがますます声高に叫ばれ、、実現性が試される年になります。将来世代への禍根を残さないためにも真剣な取り組みが求められています。一緒になって美しい地球、この大地を残すために私たちは何ができるか、たとえ小さなことであっても一つ一つ実行していきましょう。2022年、今年もよろしくお願い申し上げます。、と同時に皆様方のご健勝、ご多幸を心よりご祈念申し上げます。

01 12月 2021

ゆく年くる年、2021 師走
ー12月のことばー

  2年前に始まったコロナ狂騒曲、世界中に多大の不幸をもたらし、人々の日常生活をまったく変えてしまった。100年前のインフルと比較され、科学技術が進んだ現代では終息するのも時間の問題と誰もが考えたのに、一部日本では少し落ち着きを取り戻したものの、諸外国ではまだまだ猛威を振るっている。マスクや熱測定から解放されるのは未だ見通しが立たない。そんな中、厳しい対応と子供の成長・発達との相矛盾する中で、日々の保育と行事活動を行ってまいりました。時には叱咤激励のお言葉を頂きながら、保護者の皆様のご期待に応えられる努力も重ねてまいりました。お褒めの言葉も多数いただいた反面、中にはまだまだ対策をという無言の圧力も感じることもありました。これからも子どもたちの安全、安心と保護者からの信頼を目指して、努力してまいります。さて、時は師走、昔流に言えば、盆に延びた支払いも暮れにはどうしても取り立てることで「越すに越されぬ歳の暮」とは打って変わって、現在では年度末の3月のほうが大事、と言っても12月の声を聞くと何かじっとしていられない苛立ちや、一年の悔恨や反省を思う。しかしそんな懸念を払拭して、「来年こそは」と思う者はもっとも良く人生を送ることができるだろう。私の楽観的な見方かもしれませんが。ついでに書くと作家の石坂洋次郎は人生を終えるにあたって、次のように書いた。私自分は働けなくなって、ただ長寿を保つことはごめんだという気持ちである。また、人生は一度だけでたくさんだというのも私の場合の実感である。シミや偽りや傷あとだらけの私の人生をもう一度!そう思える人はよほど神経の鈍い人だと思う。私は地獄、極楽を信じないが、もし人間が死後、そういう世界に移り住むのだとすれば、私は泰平無事だが、少しばかり退屈そうな極楽よりも、血の池、針の山の責め苦がある地獄に住みたいと思う。自分の首を片手にぶらさげて歩いていく亡者であることも変わっていて面白いのではないだろうか。  保護者の皆さんはどう思われますか。というより、まだまだお若い皆様にとって無縁の事象かもしれません。 2021年、今年もいろいろありました。物議をかもした2020東京オリンピック、日本人は大活躍でした。精神的ストレスを告白した二度目の優勝を飾ったテニスの大坂選手、二刀流の前代未聞の大活躍の大谷選手、稲見選手の銀メダル、松山選手のマスターズ優勝、笹生選手の全米オープンの優勝、藤井4冠の超人的な活躍、衆議院選挙と岸田首相の選出、バイデン大統領就任、等々がありました。個人的には60歳から始めて18回目に頂いた生まれ年の新聞、1944年11月3日の記事には「荒鷲レイテ湾を猛攻」の勇ましい記事の反面、「B29悪天候でも爆弾1トン積んで飛来」の記事で、日本の敗戦を予感させるような記事も。10年後の1954年のトップの記事は日本一の健康優良児と優良校が決まったニュース、いまはもう消えてしまったが。様々な事件や出来事が起こり、さまざまな道筋をたどって解決し、消えていく。それは私たちの人生に通じるものであり、喜怒哀楽の境地なんだろう。あるものはハッピーエンドの結末となり、またあるものは後味の悪い結果を残していく。粛々とそれを受け止め、自分の成長の一過程と考え、それに対処する知恵を身につけていく。人はもろい反面、堅固な一面も併せ持っている。  入園、進級で始まった4月以来、先生や友とのふれあい、新しい環境との出会い、いろいろな行事や保育活動を通じて、それぞれの学年にふさわしい知識を身につけ、体験や経験もしてきました。子どもたちは保護者の皆様が思っている以上に大きく立派に成長発達を遂げたと思います。三つ子の魂百まで、幼児教育の大切さを今一度かみしめながら、2022年も全力で子どもたちと楽しい時を過ごしてまいります。ご期待ください。

01 11月 2021

ならぬことはならぬものです
ー11月のことばー

  鳳幼稚園や諏訪森幼稚園の入園式や卒園式で使っている有田焼の華やかな花瓶、美木多幼稚園もと思い、70%引きの文字に踊らされて、鉄道を乗り継いで行った佐賀県有田町、何回か行った瀬戸物市の時の賑わいとは天と地の差、有田駅から周囲を見渡しても誰もいない。暇そうにタクシーはこちらを向いている。5月連休のその時との落差にびっくり。この町にある深川製磁も香蘭社も売り上げに苦しんでいるとか。昔は引き出物によく使われた食器類も、今やカタログギフトに代替わり。訪れたことのある70%引きの店には伝統工芸士の作品がいっぱい。美木多幼稚園にも有田焼の花瓶が期待できそうだ。それはさておき、窯元が所狭しと並んでいる有田、先人たちがこの土地に魅惑され、営々と技術を継承されてきたのだろう。しかし近頃は不要不急の物が排除され、又生活様式の変化によって、昔の隆盛が見られないのも残念な事と思う。昨年はコロナ禍で見送られた全日本私立幼稚園連合会の研修大会が福島県郡山市で開催された。今年のテーマは「新しい明日に向けて幼児教育の振興を考える」です。今幼稚園はさまざまな問題に直面しています。団塊の世代では250万人を超えた出生数は今や80万人余りに減少、極端な少子化に直面している。又幼稚園の義務化が俎上に上り、子ども庁の創設も浮上している。この大会で福島の小児科医の菊池先生が講演し、その中で、原子力発電所の事故以来、子どもたちの精神的な恐怖が増大し、内にこもる子どもたちが増え、それに伴って、肥満傾向児の出現が他県よりも多く見られ、又体力、運動能力の低下がみられるようになった。このことはゲームやネット、メール、食事の過多によって日本全国的な傾向だが、特に福島県では顕著に表れている。これはまた保護者の生活環境の変化や保護者のストレスによる虐待、保護者の不安などに伴う子どもの心の不安定化や差別や風評によって助長されていると述べられた。その為には、福島だけの問題ではないのだが、子どもが主役の居心地の良い街作りが必要だと説き、子どもが居心地良ければ、保護者も家族も幼稚園も学校も企業もそして地域が居心地良くなると説明した。そして次のような社会が必要だとしている。子どもたちの心と体が健やかに育つ社会。子ども中心の社会。子どものためにお金が投じられる社会。子育てより子育ちが重んじられる社会。その為にも子どもたちの成育環境の創造が必要だと強調した。この医師の偉い所はただ自説を主張するだけでなく、実際にその為に何をすべきを考え、子どものための施設や遊び場を作って有言実行していることだ。 福島は私にとっては未知の県だった。この機会にこの県を知りたくて、何の前知識を持たずに、一日前に福島に入り、レンタカーで動き回った。私には福島イコール猪苗代湖であり、磐梯山であり、会津藩くらいの知識しかなかった。この県が豊かであるかどうかは別として、福島空港から会津若松に続く道は黄金色に染まっていた。有田へ行った時も佐賀平野に感銘を受けたが、福島南部のこの地域も日本の原風景、私に昔を思い出させるような情景であった。会津の人の故郷を思う気持ちは鶴ヶ城に入ったときにひしひしと実感した。故郷の偉人を尊び、15歳や16歳で身を投じた白虎隊、会津藩の徳川に忠誠をつくしたせいで、青森の下北半島の不毛の地に送られたこと、誇りと挫折の相まみえた展示がされていた。会津藩の什の掟はなぜか心に残った。1.年長者の言うことに背いてはなりませぬ。2.年長者にはおじぎをしなければなりませぬ。3.虚言を言うことはなりませぬ。4.卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。5.弱いものをいじめてはなりませぬ。6.戸外でものを食べてはなりませぬ。7.戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。 ならぬことはならぬものです 善悪は別として、昔の会津藩の矜持が感じられる指針だったのでしょう。 海抜500m以上に存在する猪苗代湖は周囲80㎞、日本で4番目に大きな湖であった。こんな高地にこんな大きなものが、感嘆させられた。高所にあるがゆえに、会津盆地やその他の地域の農作物の水源になる一方、発電にも大きな貢献をしている。湖畔にある野口英世記念館には生家を含め、数多くの展示がなされていた。アメリカに渡った英世はたった一度だけ日本に戻ったきっかけを作った母親の切実として帰国を促す手紙は人の心を打つものであった。 秋が深まり、寒さが増してきました。コロナ禍がまだまだ油断できない中、インフルエンザの流行も心配されています。心と体の健康に気を付けて、今月も元気いっぱい、幼稚園号は出発です。

01 10月 2021

隠された真意
ー10月のことばー

  その高齢の弁護士の一言が忘れられない。「代々続いて私で4代目、ずっとその仕事に就いてきて、本当に弁護士であってよかった。私にとって弁護士は本当に天職だ。いかなる圧力や意見にも屈せず、正しいことを言い、行い、正義を貫いてきた。この仕事を続けることができて良かった。近頃お金に絡まることで、弁護士が不祥事を行うことがよく見受けられる。私はそのために3年間仕事がなくても、収入が途絶えても、それを補うことができる不動産や配当収入を心がけてきた。それ故、自分の主張が脅かされ、脅迫されても、正義を貫くことができる」成る程、誘惑はお金だけではないが、それも一つの大きな人生転落の原因となっている。80歳を超えた老弁護士にとって、いままでの来し方は自信にあふれ、満足したものであった。最近の若い人を中心に、天職を求めて、頻繁に仕事を変わる傾向を考えれば、ある意味、うらやましいほどの自信のなせる業だ。何が天職かは誰も決めることはできないが、その人が満足し、自信をもって天職と言っているのであれば、他人がとやかく言うことではない。その人にとってはそれが天職なのだろう。勿論天職は自由業の人だけでなく、市井の目立たない、片隅の小さな仕事でも、それは大きな社会的貢献の礎であり、その人にとっては光り輝く天職となっている。短い人生、一度限りの人生、後戻りのできない人生、天職に巡り合う、というより自分が今一生懸命取り組んでいる仕事はまぎれもなく天職に違いない。 最近読んだ新聞記事に犬ぞりの話があった。政治家の話だが、あるエリート政治家が総裁選挙の応援で、自分の属する派閥の領袖で、総裁候補者に、選挙資金の融通をお願いした。その時にその派閥の長に「君、犬ぞりを知っているか?」と問われ、「ハイ、犬が引っ張るそりですね」と普通に答えた。それに対して「たくさんの犬が引っ張るそりのことだ。ただその犬の中には、そんなそぶりも見せずに、一生懸命引っ張っている犬もいれば、見かけは一心不乱そうだが、適当に引っ張っている犬もいる。さまざまだ」と言った。それを聞いたその政治家はそれ以降、今以上に忠誠をつくし、そのボスのために何事にも懸命に取り組んだそうだ。その言葉の裏に隠された真意を理解して、直接の表現以上に底知れぬ恐怖を感じたのかもしれない。 ある小学校で二宮尊徳の銅像を見た。彼が偉いとか、蛍雪で勉強したのが立派だというのではないが、少なくともその精神から学ぶことは多い。車を運転していると、自分の家や会社は雑草一本もないのだが、それにつながる公共用地は雑草だらけの風景に出くわす。そしてそんな人ほど、役所に雑草を刈ることを強く要請していることがある。自分の土地の雑草を刈る時に、少し広げてそこもきれいにしたらと思うのだが、損得勘定が働くのか、公徳心の面で欠けるきらいがあるが、言うは易し、行うは難しなのだろう。私たちは一般に変化に対して、損得に対して、理性的、合理的な判断を超えて身構えてしまう傾向がある。案外大昔のように、所有権の概念がない時のほうが、公共心があったかもしれない。 10月、いよいよ運動会がやってきました。私の願いは演技の上手下手、運動能力の優劣よりも、その子が汗水を垂らして真剣に取り組んでいるその姿、その表情をしっかり見ていただきたい。その思いが運動会のすべてだと思っています。 2021年10月、すべての神が出雲に行ってしまう神無月、今月も子供の成長発達を夢見ながら、前を向いて進み続けます。ご期待ください。

01 9月 2021

時の流れの中で
ー9月のことばー

  日本語の語呂合わせで必死に覚えた英単語、その中には考えたくもないような「死刑だ」の発音の単語があった。そう、cicada, 蝉だ。今年アメリカでその大量発生で話題になった。英字新聞に興味のある記述があった。 The Cicadas are coming. It’s not an invasion. It’s a miracle.のタイトルでマーガレットさんが寄稿していた。Deep beneath the spring-warmed soil, a great…

01 8月 2021

夏が来れば
ー8月のことばー

  「夏が来れば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空」夏の定番のこの歌は私たちを無意識のうちに尾瀬に誘ってくる。「夏を愛する人は心強き人、岩をくだく波のようなぼくの父親」冬のお母さんに対する夏のお父さん、夏を好きな人の心情は強い心の持ち主だろうか?思わず自問自答してしまう。「あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに」アリスの秋止符、夏にはどんなことがあったのだろうか。夏は開放的ですぐに恋に陥りやすい環境、しかし冷静になって考えれば、それが自分の意志でなかったと苦い思い出に浸る夏の日。いろいろな思いを秘めた夏、2021年、又その夏がやってきた。昨年は行動も制限されての一週間の夏休みでした。今年はコロナの影響はまだまだ残るものの夏休みは従来通りの期間、行動自粛の要請はあるものの、ワクチン接種が進み、少しは行動様式が緩和されつつある。そんな中で密にならない対策を維持しながら、夏にしかできない、この時期にしかできない事に取り組むことも子供たちの成長発達にとっては大事なこと、それと共に家庭にいる子どもたちにとっても、ただ怠惰に夏休みを過ごし、それが過ぎるのを待っているだけでなくて、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんとの良好な関係を築き、子どもたちの節度ある日々の生活が求められています。私たちは子どもたちが病気になり、事故に遭遇しないか本当に心配しています。どうぞ安全・安心にも十分ご配慮お願いします。私は福泉町立美木多中学校出身です。その3年前は美木多村立美木多中学校と呼ばれていました。今の美木多中学校とは名前が無くなった時期があって、縁が切れていますが、今その跡地は住宅地になっています。そこでの3年間は一学年60人の友達と話をしたり、スポーツを楽しんだり、夏になると近くの池でおよいだり、何かあると、光明池まで行ったりしました。少しは家の農業を手伝ったことがありましたが、真っ黒になりながら日々野球をして過ごし、3年生になってから受験勉強を頑張り、この年2人、田舎の中学校から三国丘高校に入学しました。高校では運動部も考えたのですが小説や随筆などのいわゆる書き物が好きだったこともあり、図書部に入りました。そこで手あたり次第本を読み、そのことが確実に何らかの形で役立っているように思います。それ故、高校の教師をしていた時も「本を読もう」「どんな本でもいいから活字を読もう」「それが君たちの生きる力になる」等と何回も言ったことがあります。ネットが発達してきたから新聞、雑誌はいらない、よく言われます。しかし瞬間的に消えるネットのニュースと印刷された新聞のニュースとは大きな違いがあるように思います。マスコミはそれぞれの会社が主義主張を持っていて、偏向とは言わないまでも、中立ではありません。私は読売,産経、日経、The Japan Times(大きなタイトルを読むくらい)の4紙に目を通していますが、今日(7月15日)の読売の時代の証言者のコラムに田村哲夫(渋谷教育学園理事長)さんの話が連載されています。その中で大学時代の恩師丸山真男先生がロマン ロランの一節を引用した次の文章に感銘を受けて、生涯その一節を持っているそうです。「力の限り善きことを為せ、何ものにもまして自由を愛せよ、たとえ王座の階(きざはし)にあるとも、絶えて真理を忘れるな」私たちは日常の雑念に追われて自分を見失うことが多いが、時には心の洗われる文章に接していたい。

01 7月 2021

日本人の矜持
ー7月のことばー

  「梅雨晴れの明るい夏空とあなたの来訪を心より待っています。」「梅雨明けももうすぐです。どうか元気にこの憂鬱な時期を乗り切ってください。」の結びの挨拶の6月も終わり、「梅雨明けの夏空がまぶしい日々となりました。寝苦しい夏の夜、皆様ご機嫌いかがでございますか。」の時候の挨拶の7月、文月を迎えました。今月は山開き、海開きが毎年のように予定され、天の川、ロマンいっぱいの七夕祭りは子どもたちにとっては興味津々です。又京都の祇園祭や大阪の天神祭りもカレンダーの上では存在してもコロナのせいで中止、浴衣を着て、うちわをもって、暑い夏をいかに楽しく気分の上ですごしていくか、先人たちが考えた行事が全て中止、いやクーラーがあるから部屋の中で涼しく過ごそうと考えるのとは異次元の考え方の相違、自然の中で生かされ、自然の懐に抱かれ、自然の豊かさからちょっぴりおこぼれを頂く振る舞いが、私たちの中からするりと逃げていく。今年の7月は昨年同様、自然の営みから少しかけ離れた生活様式を強いられている。5年前のリオのオリンピックで、次の開催都市の東京がバトンを受けつぎ、日本中が歓喜の渦に包まれた。その開催が一年延期され、今年7月、いよいよ実現される。私にとっては1964年の第18回に続いての2回目、56年ぶりの日本での開催、それも私の10代と70代の時の開催、個人的には興奮や過度の期待はないが、前回の国威発揚の時とは様変わり、その変容と言えば、国民の大多数や一部マスコミが強く反対していたのに、近づくにつれて、賛成が圧倒的に増えてきた。世界各国から集うアスリートへの敬慕の表れだろうか?日本人のおもてなしのせいだろうか。同時に驚いたことにオリンピック村やその他の競技施設が世間一般で大きな反対のうねりがあった中でも、オリンピック関係の人たちは粛々と開催に向けて準備を整えていた。私たちは表面的に、無責任に反対、賛成を叫んでいるが、それに携わる実務者たちは英知と経験と自負の心と誇りをもって、やるべき仕事を着実に誰に知られることもなく、誰に自慢することもなく、淡々とこなしていた。コロナ禍の中でのオリンピックは普通の何倍もの努力と完遂力が必要だ。しかしそんなことは日本人の力量をもってすれば、たとえ国難だとしても、うまくやり遂げることができる。そんなオリンピックについて人はさまざまなツールを使って発信している。そのほとんどがオリンピックに否定的な意見、しかしどこかの国のように自由な発言が抑制されたり、禁止されたり、または身体を拘束される状態にはならない。発信者にとっては留飲を下げたり、ストレスの発散になっているかもしれないが、それが他人を貶めたり、非難するようになると、看過されない問題が生じてしまう。肉体的暴力は大きな苦痛やダメージを与え、死につながることもある。同じように言葉や文字の暴力は物理的でないが大きな大きな精神的打撃を相手に与え、死に追いやることもある。大多数の善良な小市民にとっては、肉体的暴力以上の苦痛を強いられることがある。私たちは他の動物よりも少し沢山知能を与えられた生き物だ。何もかも自分で判断できた。自分で考えることができた。自分で食べ物の安全や賞味期限を考えることができた。仲間ともうまくやっていけた。困ったときはお互い助け合い、知恵を出し合って困難をくぐりぬけてきた。人はおおらかで疑うことをしなかった。正直で素直であった。今は何の努力もなしに見たり、聞いたりすることやあまり価値のないものに心や時間を奪われてしまった。便利なツールは人間性の破壊かもしれない。ビートルズがインドに逃避し、大金持ちのロックフェラーの息子がボルネオの山奥に逃げ込んだのも人間性を取り戻したかったのかもしれない。そんな鷹揚な日本人を騙したり、利用する人がいれば、それは有害な存在以外の何物でもない。私たちは日本人の持っている人を信頼し、敬う心の優しい人間であり続けたい。

01 6月 2021

変化と順応
ー6月のことばー

  最近、子ども庁の創設が議論され、就学前教育や小学校・中学校の問題を一元的に扱うとされ、近い将来本格的に活動することが報道されている。その中で就学前の教育・保育を10年後を目途に、一元化、すなわち、幼稚園、認定こども園、保育所が同一の施設として機能することが一部の委員の間で検討されていると報じられた。その後さまざまな人や団体からの意見があり、その案は一応凍結された。それぞれの三つの組織の生い立ち、役割、仕事内容、目標が違っている。最近、幼児教育を受けた大卒の70%近くが保育所志望だとか。幼稚園は音楽をはじめ、様々な教育活動、仕事内容、時間的制約の面でも忌避されている。しかし私たちは就学前の教育・保育を充実したものとし、立派に小学校につないでいきたい。3施設の役割が異なり、それぞれの施設が存在することに大きなメリットがある。 さて、世の中は刻々と変化を続けてきたし、今も不断に変化している。これからも留まることなく変わっていくだろう。その中で昔の常識が現代ではそうでなくなり、今の常識が未来の非常識になりえる。その変革のスピードに取り残され、順応していかなくなると、世間からの疎外感を味わうことになりかねない。私事で申し訳ないが、高校では理科系に入っていたが、大学は文系を受験した。海外で働きたいとの思いであった。小・中学生頃から宇宙にあこがれ、頭上に浮かぶ無数の星や天の川、北斗七星に心を奪われた。ソ連の人工衛星スプートニクの成功が興味を加速させた。実際私が生まれ、今も住む南区のこの場所でも南米の真っ暗なパンパスの草原で見た空と同じように、無論星の種類が異なるが、無限の数の星が空から降るようであった。毎日、誠文堂新光社の宇宙の本や星座表を片手に持ちながら空を眺めていた。電気のことも大好きで、大学を卒業して入社した会社では輸出用の外国語のパンフレット作りに励み、技術的なこともそれなりに習得に努めた。当時はオーディオ全盛時代であり、どこのアンプやスピーカーがよいとか、トランジスターか真空管か?評論家が好きなことを言い、それがまたマニアに受け入れられた。メーカーは技術を競い、人は新技術を求め、競って購入した。ドルビーもCD―4も開発され、今では見ることのできないAKAIやTEACのオープンデッキが垂涎の的であった。輸出用カセットデッキ付属のデモテープ作りに東京青山にあったビクタースタジオに行ったのもこの頃であった。音楽や楽曲にそんなに精通していたわけではなかったが、その当時の流行の曲やダイナミックで、心に響く曲を選んだ。会社を離れ、教育の世界に身を置き、時代が過ぎ去るままに身を任せていると、急速な技術の発展、アナログならまだしも、デジタルの世界には取り残されてしまった。何よりもむかし根を詰めて読んだ取扱書を読まなくなった。というより面倒くさくなった。今までやってきたのだから、わざわざ取説まで読む必要もないだろうと思うことが多くなった。根気の問題だろう。そしてこの位なら大丈夫と思うことが世間からは高齢者になれば注意散漫につながっていく所以でもある。まだまだ若いと思っていたのが、他人から見れば、そうではない。時代の流れに取り残されないように前を向いて進まねばならない。どのような変化を遂げたのか、少し書いてみたい。1960年代、アポロ宇宙船が月に到達した時代、北欧やアメリカを中心にして、ベトナム反戦運動と相まって、いわゆる性の解放が叫ばれ、自由恋愛やエロ・グロ全盛時代を迎えた。その時に清涼感あふれるLove Story が公開され、清純プラトニックへ少し舵が切られた。同時にウーマンリブ運動がおこり、女性解放が叫ばれ始めた。池田首相の所得倍増計画があり、月給は目を見張るほど増えていった。それに伴い、1ドル360円の固定相場が変動相場に移行し、1ドル200円から100円、それ以下になった。航空券も半額以下になった。外貨を稼ぐ方針が180度見直され、輸入奨励に切り替わった。日本の首相がデパートで輸入ネクタイを買うパフォーマンスも放映された。エズラボーゲル教授によるJapan as No.1 が刊行され、日本人は有頂天になってニューヨーク、ロスやロンドンで不動産や絵画を買いあさった。買えないものは何もないように思えた。バブルがはじけ、失われた10年、20年が始まった。高値で買った不動産は二束三文で買い戻された。絵画もしかりであった。60年代にそんな国に行くことは不潔感をもって見られた韓国や台湾、シンガポールに今や個人所得も抜かれ、世界第3位の立場も危うくなってきた。出生率の低下、人口減、未来への希望が潰えてきた。最近多様性が主張され、男女別姓が大きな問題となり、LGBTも声高に主張されている。それらに何も反対するつもりはないが、様々な急激な運動には常識はどのように対応していくのだろう。社会制度が安定していたころは常識が幅を利かせていたが、今はAさんとBさんの常識が異なることが多々ある。倫理観の違いと言ってもいいのだろうか。うかつにも「それが常識だろう」と言えなくなってきた。私たちは大量の役にも立たない情報に翻弄され、個人情報も白日の下にさらされている。人との共通点は必要だが、流されない自分の意見は世間の常識と違っても大事にしなければならない。何日も早くに始まった梅雨、水の大事さ、怖さを学びながら、この6月を乗り切っていきます。今月もよろしくお願いします。

01 5月 2021

食欲と給食
ー5月のことばー

  この間のたけのこご飯についてお子さんの反応はいかがでしたか?たけのこは以前は業者から国産品の調達がなぜか難しくて、食材で唯一中国産でしたが、10数年前に岸和田市内畑から購入が始まり、そこの竹藪も人手不足により、良いたけのこが収穫できないということで、今年はミカン狩りでお世話になっている村木農園の親族のムラタケ農園の村木さんにお世話になりました。村木さんは本来の計画の日であれば、たけのこはもう既に地上に出ているから、黒くなっている。出来るだけ土の中にいるたけのこを提供したいという思いで、調理する一日前に孟宗竹の藪から掘っていただいて、諏訪森、美木多、鳳の給食に使いました。やわらかくて、おいしいたけのこだったと思います。私のまわりにはコメ作り、野菜作り、果物作りで生業をしている友だちや知り合いが沢山いて、道の駅やハーベストにも出荷しているのですが、たけのこを見落としていました。何でもそうですが、スーパーやお店で売っている食品がそのものの本来の味と思っていますが、そうではなくて、もぎ取ったばかりの果物、収穫したばかりの根菜類や新米は本当においしい。少しでもスペースがあれば、野菜作りをしようとする目的は、なるほど健康上の理由もありますが取れたてのおいしさも大きな要因になっているようです。食材が持っているそれぞれの食感だけでなくて、本来のそのおいしさを最大限に引き出すことが食事を提供している私たちに求められる大きな役目です。勿論衛生面での重要性は大切ですが、それをあまりにも過度に考えて、何もかも煮沸処理して本来の味を損なうことを残念に思う。45年前の創立期より業者の給食に頼らずに、食材を選び、調味料を取捨選択し、安全・安心の言葉と共に、おいしさも追及してきた美木多幼稚園の給食、できるだけ旬の食材、信頼できる食品を使い、時には豪華にマッタケいっぱいのマッタケご飯(これだけは外国産)や富山県氷見市直送の冬の寒ブリを使い、子どもたちの食べる意欲を高めることも考えている。国産のウナギを使ったうな丼や混ぜご飯、おいしい牛肉がいっぱいのすき焼き風煮物、子どもたちの残食がほとんどなくなっている。10年前に厨房がなかった諏訪森幼稚園に、厨房の設備ができるまでの少しの間、美木多幼稚園で調理して、ワゴン車で運んだことも今は懐かしい思い出、その後にできた鳳幼稚園も同じように美木多幼稚園の給食システムを導入して今につないでいる。最近ではそれぞれの幼稚園の管理栄養士がカロリー計算をしながら子どもたちの健康の向上に努めている。私たちは外食するときはその料理がどんな食材、どの国の食材を使っているかはわからない。私たちはどうしてもの場合は外国産を使うことがあるが、そんなことは頻繁にあるわけでない。子どもの口に入るものは当然大人の責任です。そんな基本的なことをかみしめながら、これからも愚直に給食作りに励んでいきます。 さわやかな薫風の季節の到来です。木漏れ日が豊かに私たちに降り注ぎ、生きる清涼感や喜びをもたらしてくれます。そんな安らぎの瞬間もいたずら好きなメイストームによって厳しい試練の中に追いやられることがある。それらすべてがあっての人生、若い時に裏日本(日本海側)と表日本(太平洋側)と比べるとなぜ裏日本の人が、外国で言うと、なぜ重苦しい空のドイツ人が陽光注ぐイタリア人よりも成功者が多いのだろうか?必然的に努力を強いられる為だろうか。裏日本と表日本、ドイツとイタリア、それぞれの前者と後者には、環境以外に特筆すべき差はないし、それぞれ能力的にも何ら問題はないが、そう考えさせられるのは、一つには成功者を羨むことがあるのだろうか。子どもたちにとっては少しは慣れてきた5月、この月を無事乗り切ると、幼稚園生活の楽しさが見えてきます。子どもたちがそうなるように精一杯努力を傾注してまいります。5月、さつき、今月もフルパワーで発信です。

01 4月 2021

ご入園・ご進級おめでとうございます
ー4月のことばー

  心と体が一体のものであり、体が朽ちても心が未来永劫に残るものと仮定すれば、そしてそれが過去から未来につながるものと考えれば、私たち個人個人は果てることのない長い長い歴史の中で生き続けている。そんな悠久の歴史の中で、ほんのわずかな瞬間、心と体が一緒になる。それは何億分の一の瞬間であるかもしれないが、そんな瞬間の現世で巡り合えた皆さんとの偶然としか言いようがない邂逅、本当に神からの贈り物として、この縁を大事に大事にしたい。そしてそれが一期一会の世界、ほんの少し前まで宇宙のどこかに漂っていた皆さんが具体的な形となって、私たちの前に現れました。ようこそ私たちの世界へ。これから同じ仲間として、お互い尊重し合い、努力し合って、後に続く人たちのために、少しでも何らかの有意義な貢献をしていきましょう。生まれて1000日前後の年月を経て、私たちのもとに集まってくれた、それも破格の偶然、これから私たちと過ごす時間はこれからの人となりを形成する本当に大事な時間、基礎基本を形作る時、友を作り、規律を知り、物を学ぶ姿勢を身につけましょう。今の今の習慣や得たものは将来の君たちにとっては大きな財産となり、人生を渡るうえでの的確な判断基準を形成していくことでしょう。先生と過ごす時間、友だちと接触するひと時、外へ行った時の経験や刺激、物事を学んだり、音に触れたり、体を鍛えたり、自分の思いを白紙のキャンバスや画帳に表す動作、すなわち、知識、音感、体力、絵画表現、それらすべてが有機的に結びついて、これからの君たちの生きる指標(道しるべ)となっていく。幼稚園の先生や君たちのお父さん、お母さんは必死になってそのお手伝いをしていきます。 新入園児の皆さん、そして進級児の皆さん、幼稚園は君たちがのびのびと過ごし、学び、心休める場所です。幼稚園の先生は皆さんを励まし、皆さんに寄り添い、皆さんを見守っています。 保護者の皆様、お子様のご入園そしてご進級おめでとうございます。私たちは皆様方に委託されたお子様、大事に大事にされた宝物のお子様を保護者の皆様の愛情に勝ることはないとしても、それに近い愛情を注いで、寄り添い、見守ってまいります。そして子どもたちと同じように、幼稚園を大好きと言ってもらえるように頑張ってまいります。そして卒園、進級時には幼稚園にやってよかったと言ってもらえるように努力を積み重ねてまいります。4月から始まる今年度は途中でオリンピックが開催予定ですが、まだまだ新型コロナウィルスが跋扈し、この一年間は全く安心というわけではありませんが、適切な感染症対策を立てながら、保護者の皆様の期待にも応えてまいります。この一年、保護者の皆様からのご支援、お力添えを受けながら、私たちは全身全霊頑張ってまいります。2021年(令和3年)4月、いよいよ大海に向けて出帆です。

01 3月 2021

卒園、進級、おめでとうございます
ー3月のことばー

  「東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」、菅原道真が九州に左遷された時に読んだこの歌にもあるように、東風が吹いたら、その匂いを九州まで届けてほしい。決して忘れてはいけないよ。大宰府に行ったことがないが、冬から春への季節の移り変わりを告げる梅の花、家の庭に咲く白い枝垂れ梅と幼稚園に咲く黄色や白のクロッカスの花で冬と春のせめぎあいの季節を知り、又その花の桜以上のはかなさを毎年毎年過ぎていく時間の速さに一抹の人生の黄昏を実感する。自然界は「私たちは毎年毎年の営みをしているにすぎない」と言うだろうが、それを愛で、心の豊かさを求める私たちにとっては永遠にそれが続くわけではない。未曾有のコロナ禍の中で、昨年大学生になった若者はどのような学生生活を送っているのだろうか。3年生、4年生の就職はうまくいっているのだろうか。私たちの幼稚園を卒園した人の中にも今そんな境遇に置かれている人もいるだろう。蛍雪の功なって、今年志望校に晴れて合格した学生にはどのような運命が待っているのだろうか。捲土重来を余儀なくされた受験生もいるだろう。どうか人生を甘く見たり、あきらめたりしないでほしい。「努力は決して裏切ることはない」私はこのことわざが好きだ。今の苦悩や苦しさ、困難を耐えてこそ、その何倍もの価値となって返ってくる。そのようにして大きな人物になった人を探せば、枚挙にいとまがない。そんな先輩や祖先の人が身を犠牲にしてまで築いてきた日本は先進国の中では一人当たりの所得が最下位と言われている。日本に住んでいる限り、実感することはないが、外国に旅すれば痛いほど思い知らされる。私たちの愛する円がなぜこんなに価値がないのかと、ある経済学者は働いている人の給料を低く抑えているからだと言うし、又ある人は日本人の生産性が低いからだと言う。中国に負け、台湾に負け、韓国に負け、そしてフィリピンにまで負けるようなことがあれば、安閑としていられない。若い時にそれらの国に行くと言えば、遊びのツアーとして、非難されてきた。最近の日本はどこまでその地位が下がるのだろうか。GDPはまもなくインドに抜かれるという。人が減り、住まなくなり、価値が下がった国土が外国から狙われているという。そのことが事実だとしたら、私たちは惰眠から目を覚まし、一致協力して日本のアイデンティティーを守っていかねばならない。連綿と歯を食いしばって守り続けてきた先祖の人々に申し訳が立たない。勿論、地球全体で考えたら、日本の土地をどこの国の人が売買し、住みつくのも、自由であるのかもしれない。さて、本題に戻そう。私たちは何のために勉強するのだろうか。勉強しなくても、立派に成長し、事業を起こし、成功する人も沢山いる。勿論それ以上にその反対の人もいるが。勉強することは良い会社や役所に入り、良い職業に就き、収入を安定させて、生活を楽にする、勿論そのこともあるだろう。私たちは勉強することによって、心の豊かさを確実なものにする。たとえその過程で失敗しても次の成功への足掛かりを見つけることの選択肢を多数知ることができる。勿論、勉強だけでは完璧でないかもしれないが、少なくとも何もしないよりは何倍も何倍も確率が高い。 年長組の皆さん、卒園おめでとうございます。皆さんは前途洋洋です。怖いものは何もありません。昔と違って、努力すれば、与えられるものが沢山あります。これから続く長い学校生活、いろいろ悩み、苦しみ、戸惑うこともいっぱいあるでしょう。自分一人で無理に解決しようとしないでください。親がいます。兄弟がいます。そして友がいます。先輩も後輩も控えています。君たちの成功をみんな応援しています。いろいろな人のアドバイスを受け、参考にしながら、逞しく自分の道を勇気をもって切り開いていってください。リンゴ、年少、年中組の皆さん、来年も先生と一緒に幼稚園で過ごします。まだまだ幼稚園で学ぶこと、経験することがいっぱいあります。今が人生の中で一番大切な時です。心行くまで、楽しく、元気よく過ごしてください。病気になったり、事故にあったりして、お父さん、お母さんを悲しませないでください。皆さんを見守り、皆さんに期待している人が皆さんのまわりにはいっぱいです。 保護者の皆さん、この一年間、本当にありがとうございました。今後とも今まで同様、ご支援、お力添えを賜りますようお願い申し上げます。

01 2月 2021

私たちの役割
ー2月のことばー

  Argentina legalizes abortion. Japan Times のNew York Times 版3ページに載っていた大きな見出し。まず懐かしいアルゼンチンという単語に目が留まり、次にlegalize(合法化する)に目が移り、最後のabortion (中絶)という言葉に隔世の思いを感じた。1969年、ビジネスで降り立った南米の大国アルゼンチン(と言っても、ほとんどの人はそんな国の名前も知らないし、ましてその内情となると、その国に関係する人しか知らない)に降り立った。東京・羽田を出発してニューヨークを経由して24時間、まさに日本の裏側であった。サッカーに興味のある人なら違った感想を持ったかもしれないが、ワールドカップもその当時の有名な釜本の名前も知らなかった。ただパンパとか牛の数が人間の数よりも多く、南極に近くて、パタゴニアという地域があって、白人の国、スペイン語を話す国くらいの知識しかなかった。日本人の私は一応仏教徒であり、真言宗であったが、仏壇とか、葬式でかかわりを持つ程度であった。しかしこの国は違った。ローマカトリックの流れを受け継いだ敬虔なカトリックの国であった。その力は絶対的と言ってもよかった。離婚は勿論、中絶はもってのほかであった.その時私は24歳、その地の同じ世代の若者は宗教と現実の狭間で苦悶していた。それから50年、やっと中絶が法制化された。今までの数多くの悲劇や非合法が合法的になった。それも議会の賛成が反対を大幅に上回った。あの時若かった人はどのような心境だろうか。恋の国アルゼンチン、情熱の国アルゼンチン、こぶしを挙げ、抱き合って喜ぶ人々の写真は長かったその歴史を雄弁に語りかけていた。 偶然私はその記事が目に留まったから私なりに知ることが出来た。しかし私たちは四六時中アンテナを張り巡らせているわけではない。見逃した事実、知らないうちに過ぎ去った過去、事実が次々と私たちの周りに現れ、ほとんどのそれが私たちに無視され、つかみ取られずに消えていく。人はそんなすべてを知ってどうする?取捨選択して受け止めていれば十分だと反論する人もいる。この頃よく思う。あの事実は知った方が良かったのか?あるいは知らずに人生を送った方がよかったのだろうか?何でも、たとえそれが自分に不利な状態になるとしても、今の幸せな生活が暗転して、もがき苦しむような状態になるとしても、真実を希求する人がいる。他人が好意的に考えて、隠し通そうとしても、その善意は通じない。反対に自分のすべての不利な状態をシャットアウトして、今の瞬間が満ち足りたものであれば、過去がどういう状況であっても、どういう立場であったとしても、関知しない人がいる。幸せとは何か、プライドとはどんなものか。人は他人を面白おかしく、たとえそれが事実でないとしても、さも見てきたように得意げに話すことがある。知人や親族や関係する人の自慢をしても、それを聞く人はまたかとうんざりしているのに、それを自覚せずに滔々と続ける。真実はすべて正しいとしても真実を知ることは不幸の始まりになるかもしれない。案外作家の原点はそんなところにあるのかも。翻って私たちのこの世での役割を考えてみると、それは誰かに幸せや喜びをもたらすこと、大きな意味では利他の心を持つことである。えてして人は自分を中心にして、地球が回っていると考えがちだが、人の幸せを考え、人の喜びを追い求めるなら、私たちの社会は概して明るい未来が待っている。そのためにはどんな仕事でも仕事を好きになろう。個人的には学校を出てからPanasonicの社員、府立高校の英語の教師、幼稚園や特別養護老人ホームやケアハウスに携わってきたが、幸いなことにそれぞれの仕事に音を上げる程いやになったことはない。老人施設設立前は年寄りや死の淵にいる人の面倒なんか嫌だと思ったこともあったが、実際に接してみると、人生の先輩たちに教えられたことも多いし、頼りにされたことも多かった。人のお役に立っている。たとえ小さくても、何かの社会的貢献していると自覚が芽生えた。この人たちを喜ばせるために何をなすべきか、どうしたら最後の短い期間を楽しく過ごしてもらえるか、それなりに考えることが出来た。幼稚園でも同じ、未来を支える子どもたちが少しでも立派に成長するように、どういう保育、どういうカリキュラム、どういう環境がいいのか。いろいろ思い悩ますことが多い。先人たちが長年にわたって努力し、考えてきた幼児教育をその根幹を大事にしながら、未来発展へのシナリオ作りをする,仕事に不平、不満を言っている時間がない。今月も先生。園児、保護者の皆さんと密接に連携を取りながら、皆を喜ばす保育を目指して努力してまいります。

01 1月 2021

2021年、あけましておめでとうございます
ー1月のことばー

  新しい年、新しい希望と意欲に燃える時、保護者の皆様には2021年が本当に思い出深い、素晴らしい年になりますよう心よりご祈念申し上げます。人生にはやり直しがない、漫然と日を暮らしていたのではじきに終焉を迎えてしまう。「今年こそは」という意気込みをもってこの一年に挑戦したい。さて、その前に2020年は皆様にとって、どのような年だったでしょうか。幸せな1年であった、健康に恵まれた1年であった、子どもが生まれ、仲間が増えた、給与が上がった、昇進した、友だちが沢山できた、欲しかったものを手に入れた、行きたかった所へ行くことができた、子どもが嫌がらずに元気に幼稚園に通園している、小さな喜びの連続が大きな喜びに変わった。反対に経済的には恵まれなかった、家族や仲間に不幸があった、先々を考えて欲しかったものをあきらめた、行きたいところにも我慢した、と少し嘆きの人もおられるでしょう。しかし幸せや幸運の神はいつまでも寄り添ってくれるとは限らないし、反対に不幸せは未来永劫続くわけでもない。お金や地位や物質的豊かさの人だけがこの世の勝ち組であり、幸せを一手に引き受けているとは限らない。実際そうではない。ある知り合いの牧師が大学の学長を目の前にして、その大学をあえて退職して、一牧師に戻った。妻は収入が減ることを嘆いたが、牧師にとっては自分の進むべき神の道であり、使命に燃えた選択だった。我々凡人には考えの及ばない超越した考えである。幸せ、不幸せは外から見ただけではわからない。ある人が不幸せであると嘆いていることが、他人から見ればうらやましいほどの幸せであり、反対に幸せだと感じていることが、別の人にとっては不幸に違いないと思うかもしれない。すべてが相対的なものであり、絶対的な基準がない所に、又面白みや機微がある。少し2020年を振り返ってみよう。この年は誰もが予想しえなかったことであふれている。何と言っても新型コロナの世界的pandemic、東京オリンピックの延期、安倍長期政権の突然の崩壊と菅首相のジェットコースターの様な政権、幼稚園を始めとする学校、大学の休園,休校とズームの普及、テレワークやマスクの着用と密からの回避、有名人の死と死への恐怖、私たちの小さな脳が張り裂ける位の大きな変化にさらされた未曽有の年でもあった。いつ終息するかわからない展望のない状態では私たちの恐怖心は治まらない。そんな2020年にも別れを告げての2021年、社会、経済、政治の世界を見てみると、新型コロナとワクチンの問題、オリンピックの問題、首相選挙と衆議院選挙、日本特有の派閥の問題、経済の落ち込みと中国の問題、様々な思惑の絡まるこの年、大きな問題も大事だが、目の前の一つ一つの障害を取り除き、約束や決まり事を守って、一歩一歩着実に進んでいくことが、困難から身を守る方法であると思える。100年前に未知のスペイン風邪と恐れながらも勇敢に戦った祖先の例を見るまでもなく、近い将来、あれは何だったのだろうと思える日が来る。そしてその日も先が見えている。この2月下旬、諏訪森、鳳、美木多の年長組の第2回合同音楽発表会を西文化会館で開催する予定でした。その為の合唱曲も練習してきました。しかし会館のほうから舞台には50名しか登場できないと言われ、残念ながら今年は見送ることにしました。来年度はしっかり実現していきます。コロナだからとか、すべてコロナが悪いから、その為だからと言ってそのせいにするつもりはありませんが、感染を避けると同時に、子どもたちの今しかない活動、行事を実現するためにも、注意深くコロナと付き合っていかねばと考えています。私たちはお父さん、お母さんの子供を思う気持ちを痛いほど感じています。バスの車掌さんからもそのことを聞きますし、保護者の皆さんの何気ない言葉やしぐさにも、子を思う母の気持ち、父の気持ちが十分伝わってきます。そんな熱い気持ちに支えられた私たちの幼稚園です。その気持ちに少しでも応えるべく、今年も精一杯努力してまいります。小学校では幼稚園で学んだ基礎、基本が大きな実を結ぶことを、そして年少、年中さんにはますます活発な幼稚園生活が送れますことを願ってやみません。今年も、今年こそは保護者のみなさま全てが、限りない幸せと健康な人生を送られますように心より願っています。厚かましいお願いですが、今年もご支援、お力添えいただきますようお願い申し上げます。Gentlemen, Start your Engines.

01 12月 2020

徒然草
ー12月のことばー

  徒然なるままに頭に浮かぶものを起承転結なしで筆をすべらせた。私たちはある意味、非現実的な世界、バーチャルな世界に住んでいると言っても過言ではない。そこでは何が正解で、何が間違いであるのか、本当のニュースであるのか、フェイク・ニュースであるのか、黒白をはっきりしなければいけないのか、ファジーのままではダメなのか?誰が善悪を見極めるのか?トランプ大統領は本当に負けたのか、それとも劇的な復活はあるのか?バイデン支持者にとっては議論の余地がないことだと言うし、トランプ派にとってはフロリダもテキサスも奪取したのに、負けたはずがないと今でも思っている。それにマスコミは何と罪深いのだろう。前回はトランプを好意的に捉え、今回はバイデンを好ましく報道している。巨大IT企業も両者平等に扱っているのではなく、一方に偏ったりしている。真の勝者は本当にアメリカ国民だろうか?それとも連日連夜、それが本当であれ、フェイクであれ、報道を流し続けたマスコミの勝利と言ってもいいのかも。反トランプのニューヨークタイムズ紙はそれを売りにして、反トランプ派の大きな購買力を得て、青息吐息であった部数が大幅に伸びたと言われている。真実を報道すると言われているマスコミもいわばビジネス、ビジネスも大事、どちらに立てばよりビジネスが成功するのかを見極めての行動、ビジネスは真実よりも大事なのか?それぞれの人がそれぞれの意見をもって行動している。すべて同じ意見というのはあり得ない話、ありえるとしたら、相手が様々な立場を考えて、意見を合わせているだけ、忖度の世界では普通のこと、生活の知恵として、日本人の中に存在し続けたが、それが白日の下にさらされ、非難の対象になってきた。一方、それに反すると、つまはじきにされ、変わったやつだとレッテルを貼られてしまう。忖度のない世界に生きる子どもたちにとって、目に見えたもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだもの、口で味わったもの、皮膚で感じたもの、それらが全て忖度の必要もないし、そんな言葉や知恵もない。彼らは見えたままに、匂ったままに、感じたままに表現し、誰に遠慮することもない。正直そのもの、一点の曇りもない。しかし大人は他人からどう思われているのかは大変気になり、自分の意見が発言する人のそれと異なっていても、相手が強い立場の人だったら、黙り込み、意に反して同調の声を上げる。このことは日本人のある意味良き点でもあるが、太平洋戦争に突入していった悲劇の根源でもあった。逆に考えれば、そういう一致協力の関係を築きやすいが故に、団体として、大きな力、国力の発揚に寄与している。1970年、大阪万博が千里丘陵の竹藪を造成して華々しく開催された。25歳の時であった。三波春夫や佐良直美が得意気に万博の歌を披露していた。その当時私が勤務していた会社は今から言えば何でもないことだが、1インチのTVを開発して世間を驚かせた。50年後、100年後に掘り出すタイムカプセル、未来から過去を見直すこの言葉が流行った。今年はあの時から50年、今はタイムカプセルを開けるには早すぎる。あの時月から石を持ち帰ったのだから、技術的にはびっくりするほどの大きな進歩がないのかも。自分の生きているうちにその成果を見ようと考える人は多いが、自分の亡き後を考え、長期的な視野をもって都市計画を作ったり、公園や街路に小さな木を植樹して、次の世代に残したり(最も日本ではすぐに頭の先を切り落とされてしまうが)する人は少ない。昔、田舎の人は先祖から受け継いだ田畑をしっかりと次の世代に引き継ぎ、その世代はまた次の世代へ送っていく。少しでも財産を失うと、周りから白い目で見られ、批判され、その場所に住むことは居心地が悪くなる。個人のものであってもそうではない、いわば運命共同体のようなもの。神社仏閣に対する寄付も同じこと。 さて、11月の作品展のアンケートをすべて読ませていただきました。コロナ禍の中でも頑張って作品展を開催したこと、展示がよかったこと、絵画の説明を受けて納得したとか、9割以上の人が私たちにとって心地よい意見を書いていただきました。しかし記名式であったが故に、書きたいことも書けなかったという保護者さんがおられたかもわかりません。私たちは保護者の皆様すべての意見を、それが好意的であれ、私たちへの叱咤激励の言葉であれ、真摯に受け止め、次への大きな飛躍への通り道だと考え、より一層努力してまいります。今後とも大きな励ましをよろしくお願いします。 さて、今月はクリスマスの月、幼稚園もイルミネーションでいっぱいです。南半球の真夏のクリスマスも趣があってよい。しかし私たちには白銀とトナカイのイメージがいっぱいです。西洋の風習といえども、良いもの、ロマンあふれるものは、洋の東西を問わず、子どもたちの成長の過程には欠かせないもの。早くコロナが終息して、冬の野山を子どもたちと楽しみたい。2020年、いろいろありがとうございました。来る2021年も変わらぬご厚情とお力添えを賜りますようお願い申し上げます。

01 11月 2020

道徳と倫理
ー11月のことばー

  中には私たちを叱咤激励するお言葉もありましたが、圧倒的にお褒めの言葉を頂いた運動会、暑い中頑張った先生(それが仕事だと言われれば何の反論もありませんが)それにみなさまの大事な大事なお子さん、その努力が結実した瞬間だったと思います。何よりも子どもたちの表情が素晴らしい。生き生きして、得意気に演技に取り組んでいる姿は人に感動を与え、思わず目頭が熱くなるものです。新型コロナの影響で様々なご不便を保護者の皆さんに強いる結果となり、申し訳なく思っています。しかし皆様方のご協力とお力添えで無事運動会を終えることができ、本当に良かったと思っています。今年もあと半分、コロナの終息が予想できませんが、与えられた環境の中で、精一杯前向きに取り組んでまいります。私たちの役割は勿論保育・教育活動を通じて、子どもたちの成長、発達を促し、将来への持続可能な生活基盤を確立することにあります。しかしながらこの世に生を受けた限りは、大小関係なく、社会貢献をすること、他人の役に立つことをすることと教えられてきた、換言すれば、広義の意味で人に感動を与えることではないでしょうか。幼稚園活動を通じて、毎日毎日そしてその瞬間、瞬間に人に感動を与える、そしてその対象者によって感動を受ける、感動を与え、感銘を受けることによって世の中が緊張から和らぎ,鷹揚の世界に代わっていく。昔は今ほどストレスのかかる社会ではなかった。人が人を打ち負かし、非難し、自分の存在を誇示するような人は少数であった。確固たる自分の意見を持つ人も少なかった。その意味で50年前に初めて外国に駐在したときに、議論ばかりが沸騰して、まとまりがつかない場面を何度も経験した。多民族国家であるが故に、自分の存在を認めさすことが必要だったのだろう。それとも生存本能のなせる業だったのか。翻って今の日本を見てみると、50年前の外国の光景によく似た気がする。自分の権利を主張し、意見を言い、相手を打ち負かそうとする気風が顕著になってsilent majority でなんとなく決まっていた過程が、物言う少数派によって奪われかねない状態になってきた。50年前にアメリカの後を追ってそれを模倣してきた日本では識者が危惧したことが現実になってきた。弁護士の大量生産もその一環だろう。と同時に恥という言葉が死語になりつつある。黙っていても先輩から、世間から無言のうちに教えられてきた道徳や戒めが壊れつつある。私は幼稚園の子供たちが将来、豊かで、人間的・文化的な生活を享受することを心より望んでいるが、同時に他人に寄り添い、他人の幸せをも希求するような道徳心を持ち合わせてほしいと思う。道徳と聞けばアレルギー反応を起こす人もあるが、私も若い時にそんな感情にかられたこともあり、おざなりな道徳教育をホームルームで行ったこともある。しかし年齢を積み重ねるにつれて、日本人の本質は道徳や克己心に裏付けされた豊かな心の輝きではないだろうか?と思うようになった。人をだまし、裏切り、私腹を肥やす、それが能力のある、できる人の典型と言われれば、そんな人はこの世では表面的には褒められ、崇められても、きっちりした道徳心に裏打ちされた表現や思想の持ち主にかなうはずがない。この園たよりが配布される頃には大阪市の存続に決着がついている。私は泉北郡美木多村に生まれ、70数年間今は堺市となった地に住んでいる。大阪市には何回も行ったことがあるし、梅田にも何となくよく行った。ある時高校の中間試験が終わって、梅田の阪急百貨店でカメラかラジオの新製品を見ていた時に、警察官に呼び止められて、カバンに中を見せるように言われたことがあった。昼過ぎなので、何か不審者のように思われたのか。又市電が走っていた。天王寺から上本町8丁目の大阪外国語大学にはその市電に乗って通学した。授業が終わるとその市電に乗って淀屋橋経由で梅田に行ったこともよくあった。市電は足であった。それがなくなって久しい。そして今度は大阪市が無くなる?世の中の動きは私たちの思いを考慮せずに変化していく。変化についていけない人、変化を喜ぶ人、様々な意見の中で私たちは今存在し、命をつないでいる。それともう一つ、USAの大統領も決まっている。4年前には友達とどちらが勝つか、ヒラリーとトランプ、私は前者を言い、負けてしまった。今の時点では圧倒的にバイデンが強い。そして勝ち馬に乗ろうとトランプ減税で大儲けしたウォール街の投資家たちが莫大な金額を安全パイとして、バイデンに寄付している。3年前にアメリカに行ったとき、カリフォルニア州ではトランプの評判は惨憺たるものであった。私の旅でお世話になった人はほぼ民主党支持者で反トランプであった。そうでない岩盤支持者のトランプ応援団も数多く存在した。私はトランプ大統領の思想・信条はわからないが、その実行力は人一倍であり、アメリカを思う気持ち、昔の良きアメリカへのノスタルジアが目に見えて強い。Black Lives Matter 運動も理念としては何も非難されることはないが、それに付随する暴力行為が頻発すれば、それもアメリカなのだろうか。統制経済の大国、中国がヒタヒタと背後に迫る中、アメリカのとるべき道は何だろうか?アメリカの威信の低下、衰退もささやかれるけれども、アメリカは昔の輝きを取り戻し、American Dream の国になって欲しい。

01 10月 2020

死と生とラボアジェ
ー10月のことばー

  9月初めAさんが死んだ。享年93才、若い年ではなかったが、死んでいい年は存在しない。長年JAの組合長の運転手として、定年まで勤めあげた。いろいろ秘密なことも知っていたと思うが、そんな個人的なことは、だれもが知っている以上のことは決して口外しなかった。定年後も3年間、同じ職を務め、63才の時に縁あって美木多幼稚園のバスの運転手になった。Aさんは一番の年長者でなかったが、持ち前の性格の良さによるものか、すぐに運転手の取りまとめ役になると同時に、その損得のない気性からか、若い先生にも人気があり、何でも相談に乗っていた。又幼稚園の為に率先して先頭に立って活躍した。その後70才になり、東区南野田に特別養護老人ホームハーモニーを開設したために、そこの運転手になった。家に近いことも大きな理由であった。そこでも人に好かれる性格と男意気でどの職員からも慕われ、信頼され、自分の居場所を確保することができた。80歳くらいまでは近場の送迎などをしていたが、それ以降は施設内で軽トラックの運転があっても、送迎に出ることはなかった。90歳を目前にして、免許証の返納をし、息子さんに送ってもらってハーモニーに通勤した。ハーモニーに移ってしばらくして、Aさんに「一生ハーモニーで面倒見るから、途中でやめてもらうようなことはしないから、たのむで」と本気で言った。そのことがAさんには本当にうれしかったらしく「理事長がこんな事言うてんね」と知り合いなどによく言うことがあった。そのためでもないが、本当によく働いていただいた。送迎バスの運転手をやめた後、さまざまな樹木に囲まれた9000㎡のハーモニーと6000m²のハーモニー美木多グループホームの植木の剪定と草刈りを一年かけて毎年行ってくれた。そのお陰で、いつも花の絶えることのない老人施設を維持できた。そのAさんが今年になって弱弱しくなってきた。私も口には出さなかったが、心配していた。そしてある日、息子さんからトイレで倒れて、病院に入院したとの知らせを受けた。今の時期面会はできなかった。しばらくして療養型老人病院に転院した。この世で最後の場所であった。転院してからあまり日がたっていなかった。葬儀は家族で行い、だれも参列しなかった。施設と職員からのお悔やみを届けに行った。職員にはお墓の場所を知らせるように言われていた。死んでよかったとはだれも言えない。人に良い影響を残してこの世を去ったという事実は私にとっても一つの区切りであった。最近の敬老の日に因んで、100歳以上の人が5万人を超えたとか、毎年1万人の減少なのに、今年は5万人も新生児が減ったとかの報道がなされている。そんな中でも元気に私たちの仲間に加わる赤ちゃんの誕生がある。10年後、30年後、50年後、どのような運命が待っているのだろうか。個人の意思で解決できる問題もあれば、社会的状況に翻弄される問題もある。どんな場合でもお父さん、お母さんの愛情を受けて生まれ、育ったお子さんが天寿を全うしてほしい。それはご両親の願いだけでなく、この地球上に住むすべての人の願いでもあるのです。ラボァジェの質量不変の法則でないが、誰かが死ぬと、同じ質量の誰かが生まれる。日本では死ぬ人が圧倒的に多いが、その分アフリカなどで増えているのか、はたまた未知の惑星で増えているのだろうか?人は生物体である以上、死はだれにでもやってくる厳粛な事実、そして誰も気が付かないふりをしている事実、直視したくない事実。Aさんは優しさと無私の心で一隅を照らしてこの世に別れを告げた。 10月からは2020年度の後半部、運動会、作品展、発表会などの様々な行事が控えています。子どもたちは着実に肉体的、精神的に大きく育っています。保護者の皆さまのご協力、ご支援を得て、充実した後半になるよう教職員一同精いっぱい努力してまいります。

01 9月 2020

9月を迎えて
ー9月のことばー

  爽涼の候、というにはもう少し待たねばならないようで、今年の残暑は非常に厳しいものがあります。初夏のころは比較的涼しかったせいか、その暑さが余計身に染みる感じがします。今年は普段の季節の変化に新型コロナ感染拡大を加味しなければならず、余計複雑な思いでいっぱいです。しかし時はその心配事や悩みの上を超越して過ぎてゆきます。野山に咲く花や樹木もその流れに沿って実をつけたり、花を咲かせたり、老葉を散らせたりして、目に見える形で季節の移り変わりを知らせてくれます。私たちにとって、とても大きな出来事であっても、自然界の支配者から見れば、何をちっぽけなことで悩んでいるのだ?という感覚になるのでしょう。換言すれば、コップの中の嵐、どんぐりの背比べ、五十歩百歩、中国風に言えば、蝸牛角上の争い、だろうか。しかし現実に戻ってみると、私たちにとってとても大きな問題、例えばコロナ一つにしても即座に解決できない。さて、パンデミックは忘れて、9月に浸ってみよう。9月は何と言っても食欲の秋、おいしい野菜や様々な果物が所狭しと八百屋の店先を占拠しています。昔は色や形、見た目そして下品な形であれば触覚で判断したのが、今や糖度計、それを信じると、思わぬ期待外れに終わってしまうことがある。それにスポーツの秋、2020 Olympic は延期されたものの、2021 Olympicは無観客の開催か中止になる可能性も。現実クラスターを心配する声もあるが、私たちのまわりにスポーツや運動をする人が目立ってきた。所詮人は動物、一か所に留まってじっとしているわけにはいかない。それに今月は敬老の日、踏みとどまって敬老の意味を考えたい。長幼の序という言葉を知っている人は少ない。年配者を敬うということなのだが、一般に老人の心は秋のように淋しい。だからたとえ一日であっても高齢者の心を慰める心遣いが必要だろう。若い時にあんなに速く走れたのに、あんなに高く飛べたのに、あんな動作も簡単にできたのに、取扱説明書なんか簡単に読んで、すぐに商品の使い方を習得できたのに、しかし今やスマホやパソコンの使い方も不得手、動作の緩慢さと繰り返される質問によって若い人にはのけ者にされ、邪魔者扱い。極端に言えば、不用品と不遜なことを言う輩もいる。成る程老人の中にはプライドが高く、声高に叫んでクレーマーになる人もいるが、今の日本はよいか悪いかは別にして、老人のおかげによるところも多い。もちろん若者と同じように同じように元気な高齢者はこの頃増えてきましたが、このことについて、よく考える日にしましょう。そして秋分の日、私たちは今あるのは祖先のおかげ、先祖に敬意を表し、亡くなった人たちをしのぶ大切な日、NHKのfamily history でないが、自分のルーツをたどり、祖先の活躍や生き様を知り、自身のこれからの指標作りの一助にしてもと思う。中には天災や戦争で短い生涯を閉じた人がその中にいるかもしれない。あるいは大きな武勲を挙げたり、大きな勢力を築いた人もいるかもしれない。アメリカのフォード自動車の創業者は昔の古代帝国の統治者の生まれかわりだと言った。そんなことはユートピアだとしても、過去を知ることは現代にも役立つ。私の父はあの土地もこの土地も戦前までは所有地であったとよく言っていた。しかし歴史は輪廻、今いくら栄華を極めていても、次の世代、又次の世代まで永遠に続くわけではない。過去を振り返ることは現在いることの感謝に繋がっている。今月で最後に気を付けなければいけないのは、昔よく言われた210日であり、220日。最近は異常気象で計算できない時に嵐や大雨がやってくる。防災教育の徹底を図っていくと同時に安全、安心の環境作りをしていきます。4月から始まった幼稚園も9月で半分、折り返し地点、いろいろな行事が詰まった後半を控えて、助走期間の最終段階をうまく乗り切って次につなげていきます。今月もご指導、お力添えをよろしくお願いします。また10月1日は園児募集の日になっています。どうぞ大きな力を私たちに与えていただきますようお願いいたします。決して期待を裏切ることのないように全身全霊頑張ってまいります。

01 8月 2020

艱難に感謝
ー8月のことばー

  8月、葉月、夏の盛り、いつもであれば夏休み、海に、山に、旅行に,帰省にと汗をかいている真っ最中、今年は収束しかけたコロナが息を吹き返し、大きな脅威となって私達に迫ってきた。人はインフルエンザのようなものだから過度に怖がることはないと言うが、最初の報道が事実を伝えたのか、誇張して伝えたのかは知らないが、死の恐怖が付きまとう新型コロナには例外なく誰もおびえている。正しくおびえ、正しく怖がることは絶対必要なことであり、その為には冷静で、沈着な行動様式が望まれる。若者は軽く済むからと言って、無謀な行動を繰り返すと、家族の高齢者に大きな負担をかける。みんな同じ地球の乗組員、助け合い、協力し合って安全航海をしなければいけない。しかしながらある意味、トリアージ(triage)とも言えるのでしょうか。そして皆様はどう思われますか。フランスやスペイン、イギリス等の欧州諸国は限りある医療資源を有効活用するために、トリアージ(治療の優先順位)によって分類している。例えば75歳以上の人には積極的な治療や有効な医療器具の使用を行わず、若い人の命を優先して助けていく。又、日本では80歳、90歳以上の高齢者にも保険医療から何千万円の医療費を使うこともある。そのほとんど99%を保険(税金)で負担する。治療してもあと何年生きながらえるのか。このことについて、疑問視している医師も沢山いるだろう。年齢に関係なく人の命は重い。最大限の敬意を払うべきだと考える人から見れば、それは理にかなった正当な治療行為だろう。しかし、限りある資金や資源を考えればと思う人もいるかもしれない。コロナによって人の命の重さが再認識され、これは私達の避けて通れない問題である。1%の大金持ちが20%の富を独占し、国民健康保険がないアメリカでは人の命は金次第、そしてファーベラ〈貧民街〉のあるブラジルでは貧困層の感染がすさまじい。そんな中で日本電産の社長がピンチはチャンスだといって、M&A(合併、買収)によって会社を次々と買収していった。そしてそのほとんどを3Q6Sの標語の下に結束し、大きな成果を上げた。3Qとはquality worker,良い社員、quality company,良い会社、quality product,良い製品であり、6Sとは整理(いつもきっちり片付けられた職場)整頓(いつも全てのものが使いやすい職場)清掃(いつも汚れのないすがすがしい職場)清潔(身だしなみのさっぱりした社員)作法(正しい行動ができる社員)躾(決められたとおり正しく実行できるよう習慣付けられる社員)。 コロナは邪魔で忌まわしい存在だが、考えによってはいいことがあるかもしれない。明治、大正、昭和を駆け抜けた有名なキリスト教者で評論家の内村鑑三は様々なたとえをあげて、「艱難に感謝する」と言った。苦労をし、挫折を経験してこそ、人は成長し、成功体験も大きなものになると述べている。成る程、コロナショックはリーマンショックを上回るものだろうし、私自身こんな一つの小さなウィルスが人類を恐怖に陥れ、世界経済を麻痺させ、軍事大国や経済大国の威信を低下させるとはまったくの驚きであった。何も武器やお金は要らない。小さなウィルスだけで世界を征服できると思うと空恐ろしい気持ちになる。よく世間では、この世で起きたことはどんなことでもこの世で解決できると人は言う。まさに私達の英知を結集すれば、このコロナ問題も過去の遺物として、解決されることになるだろう。それは今に始まったことでないが、近頃の若い者はと年配者はよく言う。特に60歳を過ぎると、又、スポーツ関係者において、特によくそんな言葉が発せられる。しかし、今の世界の困難、日本の苦境を切り開き、解決できるのはそんな若い世代の人々だ。10年後、20年後のリーダーとして、今の幼稚園児が活躍しているかもしれない。期待と夢を膨らませながら、真夏の8月を乗り切っていきましょう。 二学期には様々な大きな行事を予定し、今そのための準備や練習の最中ですが、コロナ感染の拡がりで非常に流動的です。その都度的確な情報をお伝えしてまいります。

01 7月 2020

諦観と希望
ー7月のことばー

  7月文月が始まりました。普通であれば、いよいよ2020 TOKYO Olympicのまさにその月ですが、その開催も来年に延期され、そして次の2024 Paris Olympicが決まっているために、2021 Olympicは正念場、肯定的に考える人もあれば、悲観的な人もいる。果たしてどうなることやら。20代、30代は感染しても死の恐怖はないと言われ、そのせいでないかもしれないが、若い人の感染者の報告が多い。ウイルスが勝つか、人の英知がそれを凌駕するか、今はせめぎあいが続いている。未来を担う小さな子供たちがそんな災禍に見舞われないためにも、より一層安心、安全と保育・教育活動の共存を目指して、保護者の皆様と協力し合って、様々な行事を進めてまいります。さて、私たちは生涯にいろいろな人に出会い、感動し、教えられ、心豊かになり、また反対に悲しい気持ちにさせられる事もあります。運命のいたずらと言うべきか、その出会いによって上昇のきっかけをつかみ、頂点にまで上り詰めた人もいれば、疫病神的な存在の人に出会い、感化され、悪の道に誘われ、身を亡ぼす人もいる。それが長く続く友情のきっかけになりえるし、反対に一期一会のように、生涯にただ一度まみえること、一生に一度限りである場合もある。それ故、一期一会を大切にと考えるのが本来の筋だが、概して旅の恥はかき捨て的な気持ちでやり過ごしている。その結果不本意な評価がどこからともなく聞こえ、戸惑い、不利益を被ることがある。最近マドンナ主演のエビータ「EVITA」のビデオを再び見る機会があった。第2次世界大戦中のアルゼンチンは何の影響も受けないどころか、反対に豊富な農産物を輸出して、莫大な富を蓄積した。その時に労働者階級の圧倒的な支援を受けて、大統領になったのがフアン・ペロンであった。一方エバ・ペロン(EVITA)はブエノスアイレスから遠く離れた田舎で私生児として育ち、15歳で野心と成功への夢を見ながら大都会へ無一文でやってきた。大きな声で言えないような様々な仕事や人間関係を通じて、次第に頭角を現し、ついにはペロン大統領と知り合い、結婚するようになった。詳細は映画の中で語られている。豊かな富を惜しげなく人々や戦争で疲弊した欧州や日本にまで差し出し、その人気は絶大であったが、若いころの無理がたたったのか、33歳で子宮がんでこの世を去った。彼女の葬儀には数十万人の市民が参列した。映画の中でも描かれているが、彼女のモットーは「負けを嫌って強いものになびく」又「鋼鉄のような強い意志を持っていても、それを包む肉体が朽ちていく」とも言った。当然と言えば当然、非情といえば非情であった。しかしどんなに栄華を極めようとも、どんなに人から好かれようともいつか人は朽ちていく。その諦観の中で古代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスは次のように書いている。絶えず思うがいい、どれほど多くの医者たちが、病人の為にしばしば眉をひそめながらやがて自分も死んでいったか、どれほど多くの占い師が他人の死を何か大ごとのように予言しながら、死んでいったか、またどれほど多くの哲学者が死や不死について幾多議論を繰り広げながら自分たちも死んでいったか、またいかに多くの英雄が、多くの人を殺しながら死んでいき、どれほど多くの暴君があたかも自分は不死身であるかのように、恐ろしい傲慢さで他人の生命を左右しながら、自分も死んでいったか。またおよそ君の知っていた者を一人一人数えてみるがいい。一人が他の人を世話して、それから自分が参ってしまい、その人を第三の人が世話をする、これらすべてはちょっとの間のことだ。一言でいえば、人間的なことはいかにはかなく、つまらなく、そして昨日の小滴は今日はミイラか灰であることをいつも思え。かくてこの短い時間を自然に従って通り過ぎ、ちょうどイチジクが熟すると、産んでくれたものをほめ、養ってくれた木を感謝して落ちるように、おちついて旅路を終わるがいい。 一学期は8月7日まで、元気いっぱい夏を乗り切っていきましょう。

01 6月 2020

力を合わせて困難を克服しよう
ー6月のことばー

  2020年、6月、水無月、オリンピックイヤー。 青葉の季節となりました。目の覚めるような木々の緑です。そしてそろそろ海、山の恋しい頃になりました。本来ならば高らかにこの6月を称賛するこのような言葉が、何かむなしく、場違いな感を与えている。しかし考えによっては、この年は学校・園の臨時休園もあり、人々は自粛、自粛の掛け声で巣ごもり状態になり、オリンピックも延期された、私たちの短い一生の中での忘れがたい年にもなりそうです。新型コロナウイルス、novel coronavirus , covid19, トランプ流に言えば、武漢ウイルス、なんと多くの人に死の恐怖心を植え付け、又実際に私たちから数えきれないくらいの尊い命を奪った憎い見えない敵、こんなに科学が進んでいるのに、解決策が見いだせないばかりか、第2、第3の波状攻撃を恐れている。消毒をし、マスクを身に着け、密を避ける努力をしても、一瞬のスキをついて私たちに忍び寄ってくる。今月になって、というより、暑くなって、インフルエンザと同じく終息の兆しが見えたとはいえ、まだまだ心の奥底から喜ぶ気にはなれない。ましてや生まれてまだわずかな期間しか私たちの仲間になっていない、十分にものを言ったり、考えたりすることができない幼子たちのストレスはいかほどだろうか。将来の成長の妨げにならないか、私たちは十分な注意と配慮をもって、教育、保育活動に当たらねばならない。その意味で、幼稚園、こども園の存在意義をいくら強調しても、しすぎることはないと考えます。子どもたちがそれぞれの年齢の通過点を今までと同じ成長を見られるように、教職員一同寸暇を惜しまずに支えていきます。そしてそれが保護者の皆様の不安や心配の種を取り除くことができれば、本当にうれしい限りです。私たちはスタートアップの助走期間をかなりの日数過ごしてまいりました。お子様も幼稚園、こども園に慣れていただいたと思います。いよいよ従来の通常保育・教育活動が始まりますが、一学期に計画していた行事や参観などのすべてが実現できるわけでもありません。コロナのせいでと言われないように、充実した代替プログラムを組んでいきます。保護者の皆様の熱い思いとご支援、お力添えを受けて、力強く進んでまいります。皆様の期待に十分こたえることができると思っています。私たちの幼稚園の強みは何といっても先生であり、職員であり、運転手や車掌さん、そのほかの縁の下の力持ちの職員の皆さんです。力を合わせれば解決できないことはないと確信しています。どうぞ皆様方と力を一つにして、今の困難な状態からV字回復を果たしていきましょう。もちろん幼稚園だけでなく、皆様のご家庭も、会社も、お店も限りなく明るい未来に向かって一歩を進めましょう。6月は紫陽花の月でもあります。子どもたちには紫陽花の花の種類や色の変化を知ってもらったらと思います。しかし何といっても6月は梅雨の季節、しとしとと降る長雨、バケツをひっくり返したような大雨、小雨や小ぬか雨、霧雨の少しロマンの匂いがする雨、そして私たちに迫りくる洪水、災害、その危険性についても子供たちに知ってもらうことが必要ですが、水は私たちの体の70%を占める重要な物質であり、今月に始まる田植えには欠かすことができないものです。しかし水の事故は致命的になることが多い。そんな水のいいところ、怖いところを十分にこの6月の中で知識を共有していきたい。リンゴやイチゴから始まった果物も今はビワを超えて、サクランボの時、美しい花を咲かせるソメイヨシノの桜と違う別の種類の桜の木から生まれることも教えてあげたい。お百姓さんが一生懸命作った畑では5月に新玉ねぎを収穫しました。今月はジャガイモ(私の小さい頃は二度取れるから、ニドイモと呼んでいた)の収穫、さつまいもとジャガイモの違いも教えてあげたい。先生は意欲満々、知識旺盛です。さあ、明るい笑顔を絶やさないで、旅立ちの始まりです。保護者の皆様には、いろいろ至らない点があったこと、又ご不便やご心配をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます。これからも子どもたちの成長・発達を楽しみに進んでまいります。今後ともご支援、お力添え賜りますようお願いいたします。

01 5月 2020

歴史に学ぶ
ー5月のことばー

  100年に一度、天は私達に試練を与えるのだろうか。1929年の大恐慌の前、第一次世界大戦の時のアメリカの町の壁には、スペインかぜ・インフルエンザの注意すべき要点のポスターが貼られていた。今の新型コロナ・ウィルスと同じ警戒の内容です。いくら科学技術が進歩し、月に行く、遠い天体の小惑星から砂を取ってくることができたとしても、目に見える敵を倒す武器はいろいろ開発され、実用化されているものの、新しい目に見えない敵にはほとんど無力で、対抗策がなく、事前にそのための準備ができない。本当に私達は21世紀の科学の時代に住んでいるのだろうか。それをあまねく享受しているのだろうか。100年前のスペイン風邪は何もスペインで発生したものではない。このスペイン風邪・インフルエンザで世界中では4000万から5000万人が死んだと言われ、日本でも40万人前後の人が命を落とした。その特徴は99%の死亡は65歳以下で、特に15~35歳の健康な若年層に発生した。今と同じように、有効なワクチンがなく、人と人との距離を保ち、マスクを着ける。そして感染者は自分で広げないように、最大限の注意を払うことであり、その基本となるのは呼吸器衛生と咳エチケット(cough etiquette)であった。実際当時咳き込んだだけで、罰金等もあった。この文章は国立感染研究所のものから引用しているのですが、研究所によれば,スペイン風邪などを世界的に研究し、会議を行い、その結果「人の世界において流行する新型インフルエンザ・ウィルスが早ければ数年のうちに出現する」と警告がなされ、専門家の間では、「いつ来るかわからないが、いつかは必ず来る」が定説になって「もし来た場合には、大きな被害が予言されるにもかかわらず、準備が無ければ、社会が混乱するのみ」と結論付けていました。ヒトからヒトに容易に感染する新型インフルエンザが出現し、ひとたびそれが一定以上の人口の間で拡大を始めると、パンデミックを防ぐ確実な方法は現時点では知られておらず、ただ世界及び各地域で、国で、広がることを遅らせるという対策(国際間の移動制限、患者の早期発見と隔離、集会の延期等)をとるしかありません。新型インフルエンザの出現と流行は確実に抑えることのできない自然現象の一つとして捉えるべきでしょう。しかしながらヒトからヒトに容易に感染する新型インフルエンザが出現した場合でも、発生した地域を特定し、住民の移動制限とその地域内で抗ウィルス薬の一斉投与を早期に行うことで、パンデミックを止めるか或いはその拡大を遅らせることができる可能性があると2005年の研究報告は結んでいる。過去に事例があり、研究者が貴重な提言を多数しているにもかかわらず、どうしてこんなに拡大をし、大きな社会的困難を引き起こすようになったのか。医師,看護師、特に感染症の病院で日々獅子奮迅の活躍をしている医療従事者は自分が感染する危険と恐怖と戦いながら、患者のため、社会のために働いている。そしてそれに関連する様々な職種の人たちへの感謝はいくらあっても足りることはない。よく行く町の中華やさんの主人から携帯に電話があって、何事かと思って聞いてみると、「先生の息子さんは今ニューヨークですか」との質問。前に息子の1人は呼吸器外科の医者と言ったこととテレビでニューヨークの病院で新型コロナの治療に当たっている先生の名前が偶然宮下医師ということで連想したのだそうだ。それ程全ての人の中に新型コロナが大きな場所を占めている。今回大阪府や堺市の要請により、臨時休園中ですが、一年の一番いい今の季節、子ども達に味わって欲しいとの思いがいっぱいです。このコロナはすぐに完全には終息しないでしょう。しかし行政や感染症の専門家が大丈夫と言った暁には、今までの分を取り返すくらいの気構えで、子ども達と接し、保育環境作りに励みたい。先生方も休むことにはうんざりし、早く、早く子どもの顔を見たい、クラスを運営していきたいとの意欲にあふれています。どうかコロナ・ウィルスにお引取りを願って、寂しい園庭や保育室に明るい笑顔やワイワイガヤガヤの賑やかな声が戻ってくるのを切に願っています。この臨時休園中には、保護者の皆様から何かとご支援、お力添えを賜り、本当にありがとうございます。尽きせぬ感謝の思いでいっぱいです。

01 4月 2020

令和2年、2020年、4月、新しい始まりを迎えて
ー4月のことばー

  淡い色の桜のつぼみが陽気と共に一気に膨らみ、開花する。一年で一番艶やかなこの季節、草花も、我も我もと競い合うかのように色々な色や形で私達を桃源郷の世界に誘惑する。今まで死んだふりをしていた大小さまざまな落葉樹も、これ見よがしに、化粧直しをし、着飾り、この一年の成長を約束し始める。地上で生活している人も、鳥と同じ高さで日々暮らしている人も、無意識のうちに、その小鳥達の鳴き声が何かしら「春が来た」と歓迎しているかのように声の質も艶っぽくなってきたことを感じている。池では水底から這い上がってきた魚達が喜びで飛び上がって、水面に波紋を広げている。スプリング、プランタン、プリマベラ、春がいつのまにか野を越え、山を横切って、私達の下にやってきた。生きとし生きるもの全てが生気にみなぎり、躍動感があふれています。こんな4月は入園、進級のうれしいときです。入園された皆様、ご入園おめでとうございます。これからは今までと違った仲間との世界、仲良く遊び、学び、楽しく過ごしましょう。進級された皆様、幼稚園では一つ上のお兄ちゃん、お姉ちゃんになりました。下のお友達には親切に、優しくお願いします。今まで以上に様々なことを経験し、知識を身につけて、大きく成長していきましょう。先生はそんな皆さんをじっと見守っています。なんでも疑問に感じたら、すぐに先生に打ち明けてください。きっと素晴らしい答えが見つかると思います。保護者の皆様、私達幼稚園と縁を繋いでいただき、本当にありがとうございます。皆様との固い絆を頼りに、皆様の信頼や今までの実績を裏切らないように、そして又皆さんの期待に充分応えることができますように、教職員一同身を引き締めて、幼児教育に邁進してまいります。3月の卒園式や修了式には保護者の皆さんに「よくやっていただいた」とお褒めの言葉をいただけるよう、私達に与えられた責務を果たしてまいります。どうぞご期待ください。 尚、今年は今までにないコロナウィルスによるパンデミック(世界的流行)に遭遇しています。いつか終息するであろうという楽観的な気持ちが先の見通せない不透明感をもって私達に降りかかってまいりました。そのために、3月の卒園式や修了式を行ったものの、長期間に渡って臨時休園や自主規制をせざるを得なくなりました。この文章を書いている3月末には4月の入園式を行うことを決めていますが、いつ新しい状況になるかもわかりません。世の中が混沌とした状態です。いつ如何なるときでも、危機意識を持ち、幼児の安全、安心を中心にして物事を進めてまいります。かけがえのない命、保護者の愛情を一身に受けて、慈しみ育てられた子ども達、なんとしても立派に成長して欲しい、その思いは私達に共通する願いです。令和2年、2020年、オリンピックは延期されたものの、この年が私たちや保護者の皆様にとって、素晴らしい、忘れがたい年になりますよう、一緒に力を合わせて行きましょう。よろしくお願いします。 最近読んだ至言 3月19日付けの日経新聞に掲載された花王の澤田社長の言葉。メリーズ躍進の貢献者 部下に接するとき「マイナスの部分は一切見ません。見てもどうしようもないからです。人の資産を最大化するにはプラスを伸ばすべきだと思っています。プラスを伸ばしてマイナスをなくせばいいと言われますが、両方できるはずがありません。マイナスを指摘するのは一番やってはいけないことです。人間誰しも得意、不得意があります。できるだけマイナスを言わずプラスのことを言い、プラスが伸びれば、マイナスはいつの間にかマイナスでなくなっていきます」又「いつも明るく頑張っていると言われることが多いですが、ストレスをためないのは切り替えがうまくできているからだと思います。寝る前に一日を振り返り、反省することもありますが、それはそれでいいかという考え方です」 参考にさせていただきたいと思います。

01 3月 2020

弥生3月、卒園と彼岸の季節
ー3月のことばー

  心地よい香りに誘われて、鶯が飛来し、清涼な声で空気を震わせている。地上を見れば、寒暖に関係なく、季節を待ちわびたように、様々な草花が目覚め、今までの眠っていた遅れを取り戻すかのように、エネルギーを一気に放出して、精いっぱいの艶やかな姿に変身している。その姿、その色合いを見て、デザイナーはそれを模倣し、自然界から貴重な知識を吸収して、それに自分の才能を加味して、人間の世界に新たな興奮をもたらし、名声を勝ち得ていく。人は自然界とは決して離れることができない。というよりは自然界の大きな優しさに包まれ、その庇護のもとに生命体を維持している。人がこの世界の主役だと、おごり高ぶった考えはこの謙虚な世界ではありえない。薬品にしても自然界から習得したものが多いし、ある時に欧米の大きな薬品会社が、多民族と接触していない、未開発地域の部族から、そこに暮らす人々から採血して、研究に使ったと聞いたこともあった。自然は征服するもの、人間の自由にできるものという考えの持ち主には強力な鉄槌が下される。花を愛で、自然を愛し、自然の懐に抱かれ、自然に帰ってきてもいいよという呼びかけで自然に戻っていく。医学の進歩で多少の誤差があっても、自然界ではその輪廻が変わることはない。生き物すべての原理原則となっている。もう少しミクロの目で眺めてみると、いよいよ3月、日本独自の年度末、一年の終わり、そして彼岸の月。彼岸はよく此岸(現生)と対比して述べられている。人は此岸に今住んでいる。喜怒哀楽を感じ、生老病死の世界にどっぷりつかっている。恋をし、人を敬い、呪い、嫉妬し、栄華を極め、没落し、理不尽に憤り、人の親切に涙する。地位や名声や富に憧れる人もいれば、そんなものは一時的で、はかないものだと蔑視する人もいる。陽炎の世界を望む者もおれば、鶴・亀の世界、不老長寿に真剣に取り組む人もいる。あきらめの早い人もおれば、粘り強く生き抜く人もいる。そんな此岸に対して、彼岸は一種の観念の世界、別次元の世界、換言すれば、空想の翼に乗って自分の思い通りの世界を徘徊できる季節。現生の束縛を離れて、自由に羽ばたくことができる空想や理想の世界、そんな現実逃避の世界に遊ぶことができるのもこの彼岸の季節3月、理想郷の月。なぜ一年の終わりにしたかはわからないが、学業をする者にとっては社会に巣立つ季節、そして何事においても社会に変革をもたらすのは若者の力、今の屈曲した、汚濁と不信と不自由に満ちた此岸をその力で大きく改革しようとする強い意志と決意をもって人生を進んで欲しい。幼稚園から始まる長い長い学業の世界を終えて、今飛び立とうとする若者にとってはこの3月は夢と希望に満ち溢れた月、いつになってもこの日を忘れないでほしい。卒園する皆さん、卒園おめでとうございます。6年、日数にすると2000日弱、皆さんは体は小さくとも立派な人です。まだまだ大人の助けが必要です。しかし自分で見、自分で考え、自分で行動できる賢い人です。皆さんには素晴らしい未来があります。頑張ればそれが実現できる社会に住んでいます。「努力は決して人を裏切ることはない」私はこの言葉大好きです。今報われなくともいつかその成果が血となり、肉となって私たちにかえってきます。しかし同時に優しさも、人を許す寛大な気持ちも持ってください。今から大きな海原に飛び出します。健康に気を付けて、日本人であることの誇りをもって、自分の道をまい進しましょう。年少、年中組の皆さんは来年も幼稚園で楽しく素敵な時間を持ちましょう。その年齢でしかできないこともたくさん経験しましょう。先生はいつも皆さんの側にいて、皆さんを見守っています。さようなら皆さん、こんにちは皆さん、幼稚園で過ごしたこと、これから過ごすこと、誇りに思ってください。

01 2月 2020

苦しい中にも希望の光
ー2月のことばー

  1月,往く、2月逃げる、3月去る、3学期は光のように過ぎ去ってしまう。この間元旦を迎えたばかりだというのに、もう2月。今は受験制度の多角化で、この時期それ程悲壮感を持った受験生が多くない。しかしそれでも、「冬来たりなば、春遠からじ」の言葉を胸に秘めて、必勝を期す受験生がまだまだ多い。人は絶望的な状態、耐え難い環境、精神が苛まされる事象、人間関係が微妙な現実、そんな状態や関係、環境がいついつまでも継続し、先が見えない、希望がない状態になると、意欲やモチベーションが低下し、絶望的な気持ちになる。その意味で、辛いことの後には良い事が待っているというこの激励の文は今の受験生にはぴったりの言葉だろう。しかし少子化の為か、大学全入を迎えた今、受験勉強なんか誰の事?と考える受験生もいる。人は苦しいときには何か明るいことを、例えその可能性がわずかであっても、求め、予知し、生き続ける糧にし、苦しさから開放されようとする。今の季節にもこのようなことがあてはまる。寒い、寒い冬の真最中に「立春」という言葉が存在する。少なくとも暦の上では春が来たと思い、心の中に何かしら「温もり」が来ることを連想する。その後に余寒とか春寒とかいう言葉も存在するが、本格的に春に移行する前の季節の逆戻りとして、なんら春が来ることをさえぎるものでない。又春浅し、春めくという言葉を使い、春のうきうき感を演出しようとする日本人古来の叡智がもたらした心の暖かさであろうか。クロッカス、水仙、椿も私達に春の近づきを教えてくれる。白や黄色のクロッカスを見るたびに、過ぎ去りし1年の速さを悟り、水仙の花を見れば、恵まれない環境の中でも、白い清楚な装いで、私達を和ましてくれる。私は椿が好きだ。さざんかとよく間違えられる椿、武士の時代には落首と重なって忌み嫌われた椿、しかし日本古来の花、椿、五弁の椿や侘助の質素な椿、日本の椿は決して華麗で、華やかでないが、私達に訴え、ワビ、サビの世界に私達を誘い、一隅を照らして私達にほっとする雰囲気を醸し出す。茶道になくてはならない椿、西欧椿、所謂カメリアは品種も豊富で1000種類以上あるとか。又椿をめぐる争いが起こったり、超高値で取引されたり、今の錦鯉のように、品種改良をされ続けられた椿、一昔前までは黄色の椿を見つけた人には賞金を出すといわれた椿、幸運にもベトナムと中国雲南省の境で幻の黄色の椿が見つかったというニュース、そしてその葉を1枚日本に持ち帰って、日本にも黄色の椿が広まったという事実、椿のことを言われると、断片的な知識ながら、俄然筆が進んでしまう。1年に10cm位しか延びない椿、大きな椿の木を見ると思わず長年生き続けたことに畏敬の念を抱いてしまう。そして2月11日は建国記念日、戦前は紀元節、戦後はさまざまな議論を呼んでの建国の日、はなはだ個人的なことですが、私の母親は初代美木多幼稚園の園長で、父親と共に美木多幼稚園の礎を築いた。母は大正10年(1921年)2月11日生まれ、堺市立小学校の教員として勤務し、昭和53年に幼稚園を父と共に設立した。因みに私が33歳のとき。その母の名前が紀久子、紀元節から1字頂いたと千種小学校(鳳小学校)で勤務したこともある小学校教員の祖父(紀久子の親)から聞いたことがあった。今月は幼稚園にとって一番大きな行事、音楽・生活発表会の月、色々紆余曲折して今のような形の音楽・生活発表会が生まれた。音楽の指導、劇の指導で、担任も腕の見せ所、毎日毎日ハードな勤務が続きますが、子ども達の喜ぶ姿を見たい、その後ろにいる保護者の皆様の期待に少しでも近づけようと一生懸命です。又それを盛り上げていく裏方も担任以上に頑張っています。どうぞ当日は暖かい気持ちで見守っていただきますようお願い致します。御来園を心よりお待ち申し上げます。

01 1月 2020

令和2年 明けましておめでとうございます
ー1月のことばー

  時代は平成から令和に変わりました。これを考え出した中西先生の著作を読むにつれ、その教養の深さに驚きの連続です。政治的には安倍首相が明治維新以降一番の長期政権になったとか。一年ごとに首相が変わっていた時とは隔世の感があります。経済的には1ドル110円前後の円安が続き、各国との一人当たりの所得が離されるばかりです。かっての世界第2位の実力はどこへ行ったのでしょうか。預金金利が低くなったせいで高齢者がお金を使わなくなったのがインフレ2%を達成できない大きな要因の一つだとか。又海外に出て行くことも少なく、内向きになった日本人からは今後もノーベル賞級の人がたくさん輩出されるのか?日本人の矜持が試されています。教育の世界では、いろいろ言いたい理由もありますが、読解力の成績が最底辺に沈んだとか。アルバイトに明け暮れて、勉強しなくなった学生、それとは反対に、いける大学よりも行きたい大学を目指して、一心不乱に、寝食を忘れて勉学にいそしむ一部高校生、教育の世界でもますます二極化が顕著になってきた。恵まれた家庭環境に生まれてきたからと言ってそれがいつまで続くか分からない。不透明で、混沌とした時代、一人ひとりの確固たる自覚が必要です。もっと大きなマクロ的に考えるとどうだろう。昔の新聞はアジアのニュースはほとんど話題にならなかった。しかし世界ナンバー2の中国をはじめ、アジアには経済的繁栄を謳歌する国々が現れ、新聞に占める比率も変わってきた。何と言っても好き嫌いは別として、中国は無視するには大きすぎるGNP No.2の国にのし上がった。識者によれば、USAを抜くことも遠い将来でないそうだ。面白くないアメリカはなんやかんやと難癖をつけて中国を貶めようとしているが上手くいかない。そのアメリカのトランプ大統領も一年も持たないかのように言われていたが、もう3年、共和党支持をしっかり取り付けて、今や二期目を目指しているがその可能性は誠に大きい。アメリカに対抗する勢力として、EECもイギリスの脱退によってその真価が問われている。しかしそんな心配は杞憂に終わる可能性が高い。丁度トランプ政権がそうであったように。昨年韓国人旅行者の激減があったが、全体として、未曾有の数の外国人が日本に押し寄せた。外国人が乗っていない電車、歩いていない都会に遭遇するのが難しい。一方で大きな観光公害を引き起こしている。誰が観光客から恩恵を受け、誰がそうではないか。どちらにしても私達の祖先がまだまだ美しい日本を残し、維持し、そしてその温和な日本人気質を受け継いできたことに大きな感謝です。戦争で歴史的遺物を完膚なきまで破壊してしまう人々、例えそれが自分たちの主義主張にあわないとしても、先人達への大きな冒涜となっている。いつの日か、その風景は日常の光景として、私達はなれてしまうのだろうか。先人達の残したものを子孫に今以上の形で伝えていくことも私達の責務であり、必然であろう。スポーツの世界では若い人がその若さを遺憾なく発揮した。初出場、初優勝、全英女子オープンゴルフの大きなタイトル、価値観で計れない大きな手、見えざる力、そしてそれを逃がさずに、がっちり自分の元に引き寄せる力、実力、渋野選手の優勝はラグビーワールドカップの大健闘同様に日本人に感動をもたらした。今年完成した国立競技場が2020年の東京オリンピックでその大任を果たす。思えば1964年10月10日、東京オリンピック、青空の下、私とほぼ同じ年齢の広島生まれの青年が聖火台に立ち、高々とたいまつを上げた。感動の渦であった。前年にケネディー大統領が凶弾に倒れ、世の中が少し沈んでいた。今回はオリンピック終了後は経済の悪化が予想され、少子化対策がますます喫緊の課題となってくる。 前と後ろに子どもを乗せて幼稚園まで毎日送り届けてくれるお母さん、バスの到着を今か今かと待ちわびているお母さんやお父さん、そして毎日、子どもと一緒に雨の日も、風の日も通園してくれるお母さん、子どもを思う気持ち、将来健やかに、幸せに過ごして欲しいと願う親心、数ある幼稚園の中で私達の幼稚園を選んでいただいた感謝の気持ち、今年も今まで以上に子どもに向き合い、子どもを理解し、お母さん、お父さんが安心して私達に任せていただけるよう誠心誠意頑張ってまいります。いろいろご心配、ご迷惑をおかけし、又ご期待に応じることができなかったことがあったかも分かりませんが、本当に昨年一年間ありがとうございました。今年も宜しくご指導、お力添えお願い申し上げます。最後になりますが、今年一年が皆様方にとって、最良の年になりますよう、心より願ってやみません。

01 12月 2019

Jorge Mario Bergoglio
ー12月のことばー

  懐かしい聞き覚えのあるイタリア語が混じったようなポルテーニョ訛りのスペイン語が耳に入ってきた。ローマ教皇フランシスコが長崎で信者や集まった人に語り掛けていた。その声は優しく慈愛に満ちた、それでいて何物にも屈しないという威厳に満ちた語りであった。世界平和を訴え、核兵器自体を持つことを戒めていた。英語、伊語をはじめ、さまざまな言語に精通しているとはいえ、自分の心からの叫びを表現するのには生まれ育った母国語で話すのが良いと思ったのだろうか。本名Jorge Mario Bergoglio (ホルヘ マリオ ベルゴリオ)、1936年12月17日、南米 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生を受けた。嘘か本当か、若い時に好きな女の子にラブレターを書いて、それを受け入れてくれなかったら、聖職の道へ進もうと考えていた。その手紙は彼女の父親に握りつぶされ、彼女には届かなかった。そんな逸話が残っている。1969年から1971年まで私もブエノスアイレス駐在していたが、当時は今でもそうだと思うが、カトリックの国で、離婚や中絶は認められていなかった。それでdivorciado(離婚者)ではなくseparado(別居中)と呼ばれていた。実際この言葉は何回も会話に現れた。私はJunin 923番地に住んでいたが、その前がブエノスアイレス大学の医学部、歯学部、経済学部、教皇もこの大学を卒業した。その後、厳粛なカトリックの道を進むのだが、私も何回か友達の結婚式やミサに行ったことがあるので、ひょっとしたら出会っていたかもしれない、というより同じ町の同じ空気を吸っていたのだろうか?教皇になってからフランシスコと名前が変わったが非常に質素で、何事にも贅を嫌い、名誉や地位に対する欲もないと言われ、前教皇の選出の時には自分を選ばないようにほかの司教にお願いをしたほどであった。教皇は終世であるが、前教皇と同様に途中で退位するともいわれている。カトリック系の高校や大学は日本にも数多く存在するが、その総本山的存在の上智大学で離日にあたって教育の重要性を説き、すべての人に教育を受ける権利を主張した。アメリカはカトリック教徒が少ないが、ニクソンと争ったケネディは「宗教よりも国益を優先する」と言って、大統領になった。体に鞭を打って性的欲望を鎮めようとする厳しい修練、その裏でひそかに進む少年虐待の忌まわしい現実、欧州以外から初めて選ばれた教皇には様々な問題や慣習が待ち受けているが、どんな問題にも持ち前の英知とユーモアで乗り切っていく。キリスト教、イスラム教、仏教をはじめ、世界には数えきれないほどの宗教がある。しかしそれらは人類の歴史に比べれば浅い。これからは宗教の人へのかかわりがどうなっていくのだろうか。人は寂しい時、気弱になったときに何かに頼ったり、すがったりする。多くの宗教は生まれてもう何世紀もたっている。厳しい弾圧も経験した。しかし炎は消えなかった。むしろ燃え盛るようになった。順風満帆な時ばかりとは限らないが確かに生き延びていくだろう。私の周りには若い世代がほとんどいない。現実65歳以上の高齢者は3500万人、逆に昨年生まれた人は90万人を切った。昨年亡くなった人は130万人あまり、毎年40万人以上の人口減で、日本政府は移民で労働力を確保しようとしている。反対する経済学者は移民が入ってくると労働賃金が上昇しないし、企業も生産効率を上げる動きも鈍くなると主張する。要約すれば、移民政策をやめて、働いている人の賃金の上昇を図るべきだと考えている。 今子供たちは作品展も終わり、比較的ゆったりした保育環境の中で、元気いっぱい走り回って、楽しんでいる。また2月の音楽・生活発表会に向けて、徐々に取り組み始めている。きっと保護者の皆様の期待を裏切ることがない活躍を見せることでしょう。幼稚園で過ごし、経験し、体験したことが血となり肉となって、子どもたちの今後の大きな活躍の源となっていくことでしょう。 令和元年12月、この1年間、保護者の皆様ありがとうございました。

01 11月 2019

感動を与える、感動を受ける
ー11月のことばー

  テントの後ろから聞こえてくるひそひそ声、「ほんまにいいものを見せてもらった」「そうやそうや」異口同音に同じようなことを話し合っている。渋野日向子が全英オープンで優勝し、ラグビーは全勝で8強に進んだ。日本中が感動の渦にのまれ、にわかファンが巷にあふれている。運動会では子供たちのひたむきな演技、競技、組体が大きな感動を呼び起こした。子どもたちがひたすら一生懸命すればするほど、それを見守る大人にも感動の嵐が押し寄せ、目頭が熱くなり、涙となって、頬から流れ落ちている。利害関係で動いているわけではない。ただ先生にこうしようと教えられた事を一途に頑張っている。中には運動が苦手な子もいるし、この瞬間を考えれば、能力的な差がある子どももいるだろう。しかしそんな差を感じさせない位、みんな同じ動きで、みんな笑顔で、仲間と一心同体になっている。子どもたちにひたむきさが見えれば見えるほど、大人たちには何とも言えないような大きな感動が押し寄せる。そんな年長さんの大きな活躍が小学校1年生になっても消えてしまわないように幼小の連携の大切さが最近声高に叫ばれている。21世紀の未来の若者、日本人であることを誇りに持って、世界の誰からも好かれる素晴らしい日本国を作ってほしい。しかし今の日本はどのような状態に置かれているのだろうか。昔の私には理解を超えたものがたくさん存在する。しかしそれを強調したところで、それは昔の話、今は違うと一蹴されてしまう。若いころは韓国、台湾へ行くというと、遊びに行くのか?と疑いの目を向けられた。しかし今や若者の韓国、台湾びいきが止まらず、マスメディアの世界でも、その存在を無視できない。長らく日本がアジアで所得が一番高いと惰眠している間に、韓国やシンガポールの所得が高くなっている。大学のレベルでも、東大や京大などの旧帝大が上位に顔を出すだけで、それらの大学も、世界のランキング、いやアジアのランキングからも低位置に甘んじている。アメリカの大学で学ぶアジア人でも、日本人は中国人、韓国人に大きく水をあけられている。今年も日本人がノーベル賞に選ばれ、アジアの中では受賞者の数が卓越しているが、その傾向はこれからも続くのだろうか。ある知識人は昔の大学には無駄とおもえるような研究にも取り組む余裕があったが、今の大学は早急な成果が求められ、寛容さや余裕がなくなっていると主張する。ある人は日本の国力の低下を嘆いている。実際、長らくアメリカに次いで、世界2位の地位を占めていた日本は、中国にその地位を明け渡すと、その格差が拡がる一方だ。2011年、世界のGDPで日本が6,7%を占めていたが、OECDの予想で、2030年には4,2%に低下している。因みにアメリカも22,7%から17,8%に下がっているが、中国は17%から27,9%に上昇している。成る程人口減による影響は大きいが、日本よりはるかに人口の少ない国、換言すれば国内消費の少ない国でも、国民の所得の高い国がたくさん存在する。「マネーは国のメンツなどを気にしない。成長をやめた国を去り、成長する国に向かう」こんなことを言われないためにも、日本が世界中から羨ましがられる、環境に配慮した豊かな国作りを目指していきたい。 先日全日本幼稚園園長、設置者研修大会で、何回もチームを甲子園で優勝に導いた智辯和歌山高校の高嶋仁監督の話を聞いた。人は感動を受けて変わる。監督は今まで2回大きな感動を受けた。1回は高校生の時の監督に、あと1回は代表になって甲子園のグランドを歩いているときに感動し、指導者になることを決意し、日体大に進み、卒業して、智辯の監督になった。智辯和歌山は1,2位を争う進学校、当然野球部は野球の特待生ばかりと思っていたが、一般入試の生徒、それも学年10人しか野球部に入れない。少人数の弱小チームがどうして何回も勝利をつかむチームに変貌していったのか、今でいえば、パワハラと紙一重のような厳しい指導、他チームの倍の練習をし、やる気、意欲、悔しさを教え、意識改革を実行し、技術力、精神力、体力を身につけさせた。「努力は決して人を裏切ることはない」を実践した。指導者として、①くやしさを教える②信頼関係を築き、辛抱強く、決して裏切らない③自信を持たせる④人を動かす武器(言葉)を磨く⑤指導者自身勉強する、学ぶ。学ぶことをやめたら教えることをやめる。生徒には①志を持て②知識を磨く③力を養う④行動する事を教え、その条件として、①反省する心②柔軟な思想③視野を広げる④忍耐、辛抱が大切であることを知らしめる。人にはいくら成功者だからと言って、100人中100人すべてが肯定するとは限らないが、指導者として大きな実績を上げたことをだれも否定する者はいないだろう。今年もあと2か月、やり残したことがないかどうか過去を顧みて、未来に備えましょう。今月もご支援、お力添えよろしくお願い致します。

01 10月 2019

私の履歴書
ー10月のことばー

  その人は数ヶ月前より、いつもよく来ていたゴルフの競技に来なくなった。80歳を超えていた。分け隔てのない人で、気さくで、気取らず、誰にも好かれていた。会社が大きくなったのは義理の息子のおかげやと、いつも感謝し、決して自慢をしなかった。その人が亡くなったと最近聞いた。その人はある大きなクリーニング会社の会長で、満州出身であった。日本が戦争に敗れ、満州から引き揚げてきたが、先に子どもだけが帰ってきた。残された母親はロシア軍が攻めてくることを恐れ、現地で自決した。父親は日本に帰ったが、若くして亡くなった。天涯孤独になったその人は親戚に預けられ、小さい時に、クリーニング店に奉公に出された。どれほど厳しい環境の下で働いたのか分からないが、21歳の昭和30年(1955年)頃、独立した。それからの話は分からない。そんなに早く亡くなるのであれば、もっと聞いておきたかった。しかしそれ以降も劣悪な環境の中でがむしゃらに働いたに違いない。今は立派で、地位も名誉もある立場だったが、私はその先輩に失礼ながら、若い時は本当にご苦労されたのですねと何回か言ったことがある。実際には私が想像する以上に辛酸を嘗め尽くした生活を送ったかもしれない。おしんのヤオハンや赤福の女将の物語はテレビで報道され、ドラマ化されて、世界中で感動を呼び起こしている。運命のいたずらの人もいるかもしれないが、大多数の人は努力と勤勉と忍耐と人に言えないような苦労で勝ち抜いてきた。勿論それだけの覚悟で努力してきても、成功の女神に見放された人もいる。いや、そのほうが多いだろう。成功し、立派になり、生存中は確かに注目を集めたとしても、やがて時代の流れと共に、過去になり、忘れ去られて行く。二代記憶に残ったとして、三代目は過去の栄光は消えているのが普通、というか、そんなに長い期間思い出が残っていると新しい出来事が入る余地がなくなってくる。昔はその家の悪い出来事は三代続くといわれたが、今や直ぐに人々の記憶の外に追いやられる。日経新聞やこんな出来事に触発されたわけでないが、そして又私には何の特筆すべきことがらもなく、まして褒章を受けたわけでもないが、この地の、そして何らかの参考になればと思い、何回かにわたって私の履歴書を書いてみたい。 1944年11月3日、太平洋戦争終戦の1年前の昭和19年、泉北郡美木多村大字上148番地で産婆さんに取り上げられた。私の家の上の147番地(美木多幼稚園の専用駐車場)には、防空壕(今は擁壁で無くなっている)があり、こんな田舎にも米軍のグラマン戦闘機が来たので、何回かそこに逃れたそうだ。父正計(初代理事長)は美木多村役場勤務で、その父正治は終戦前の官選の美木多村の村長であった。しかし戦後は公職を退き、一農民として、田畑を耕作し、ため池を守り、山林の保全に努めた。よく一緒に山に言って、適当な大きさの木を切り、家に持ち帰って、薪にした。ガスも水道もない時代であり、ご飯を炊くにも風呂を沸かすにも、全て薪であった。木を切っているおじいさんに、なぜ切り株に傷をつけるか聞いたことがあった。こうすれば、新しい芽が出て、又大きな木になると言った。その山は今庭代台になっている。この時代の交際範囲は狭かった。祖父と祖母は同じ美木多村の親族同士であった。祖父は村のため、祖母は祖父のために一生懸命であった。昔からだんじりがあった。美多彌神社の境内は今よりもっと下にあった。そして下から上がってきた道は神社で行き止まりであった。だんじりは7台あった。それが美多彌神社に登る道に並んだ。人は老若男女を問わず、私の家だけでなく、近所の家に集まって、食事を楽しみ、秋祭りを祝った。みんな一心同体であった。だんじりが止まった道は祖母にとってはモミを乾燥する最適の場所であった。朝からむしろを何枚も何枚も敷き、その上でモミを乾かした。1日に何回も籾を混ぜ、方向を変えた。夕方には籾を持ち帰った。ちょっとやそっとのモミの量ではなかった。4km以上はなれた別所等の遠い所の小学生は自転車通学をした。そのために家の門は自転車置き場になった。それが当たり前で、何の文句も意見もない鷹揚な時代であった。 いよいよ10月から幼児教育無償化が始まります。いろいろな意見がありますが前向きに取り組んでいきます。消費税も10%になりますが高額耐久商品は別として、大きな混乱は無いといわれています。そして10月1日は私達にとってとても大事な園児募集の日です。私達の今までの努力や成果が試されるときです。少子化と受け皿が多くなってきたことで、ますます保護者の厳しい評価を受けそうですが、どうか私達を信頼していただき、皆さんの温かいご支援、お力添え賜りますよう宜しくお願い致します。 神様全て出雲に行ってしまう神無月、今月も力を合わせて出発です。 尚、運動会にはご家族おそろいでお越しください。お待ちしています。

01 9月 2019

知る喜び、知らない喜び、知らないでいる喜びと不幸
ー9月のことばー

  私たちは膨大な情報の中で生きている。昔の人に比べるとその情報量は半端でない。 過去を知り、現在を生き、未来を思う私たち、そして所狭しと世界の端まで飛び交う数え切れないほどの航空機、宇宙から私たちを見つめ、監視している人工衛星群、そこからもたらされる信じられないくらいの情報、アフリカの片隅、南米アマゾン、果ては北極熊の生態まで、国内では昔は無視されていたような、そして知りたくもないような些末なニュースも大きく広がりを見せ、SNSを通じてさらに拡散し、NET難民の餌食にされ、攻撃の対象になってしまう。個人が裸にされ、個人情報保護法は意味を失いつつある。一人一人は善良な一市民であっても、素性が隠されると、牙をむくオオカミになるが、何かの拍子に実態が明かされると、小心者に還っていく。情報過多のこんな社会は果たして幸せだろうか。誰と誰が結婚しようが、離婚しようが、知らない遠い地域で強い風で倒れて軽い傷を負ったとかは私たちの日常生活に関係ないし、出歯亀趣味が私たちに幸福をもたらしてくれない。国内外で日本人が活躍したニュース等はリアルタイムに私たちに届いている。それは現在に住んでいる特典だと思うが、知りたくないニュースをさも仰々しく聞かされると、遠くても10km位のコミュニティーで生活していた昔の人がhappyだと思う。さて、私も70代真ん中、いつもこれが最後の旅と思いながら、航空券とホテルだけを予約して、今年も夏休みを利用して海外に出た。今まで行ったことのない都市が目的地。西ベルリンは東ドイツに高さ3mくらいの強固な壁で取り囲まれていた。その壁の象徴的なブランデンブルグ門は1989年12月の東独政府の崩壊とともに開かれた。しかし未だ西独と東独市民の間には意識の差があると報じられている。ソ連とアメリカの捕虜交換場所になったクロスポイント・チャーリーを見たかった。しかし今は観光地の一部に過ぎず、普通の街並みであり、映画で見たような感動はなかった。一番感動したのは世界最古のベルリンの動物園、広い敷地、よく整備された樹木の中にあるこの動物園はパンダを始め、様々な動物が住んでいて、ケージの中ではなく、あるがままの自然の中で生活していた。毎日が飛行機の駆け足旅行、エアポートからホテルまでの移動はタクシーに頼ったが、ストックホルムではタクシー乗り場に着くと、タクシードライバー達が手をあげた。どれも正規のタクシーだが、料金が違った。ガイドブックを見て、黄色のタクシーに乗った。降車の時に現金を渡したが釣りがないと言う。これも作戦だろうか。日本を出るとき、成田で5万円をユーロに替えた。しかし使ったのはドイツだけ。スエーデンに行くときに2万円をクローネに替えたが、無意味だった。デンマーク、ノルウエーも含めて、電車の切符、タクシー、レストランやデパートの支払い等は全てカードでOK、それぞれの通貨に替える必要は毛頭なかった。ストックホルムは顕著であったが、公共のトイレ(例えば飛行場)には男性が立って用を足す便器がない。場所によっては男女同じで、女性が出てきた後に男性が入っていった。飛行機で慣れているとは言え、男女平等のトイレは日本で普及するのだろうか。飛行機も男女別々のトイレを考えているのに。コペンハーゲンの人魚の像は予想外に小さかった。陸地近くの岩の上でこちらを向いた像は大方の期待を裏切るものかもしれないが、そこに来たという証になる。実業家が寄贈したこの像はあまり観光資源のないこの町にとっては、名前で有名なチボリ公園と同じくらい貴重な存在なのだろう。食器などが好きな人にとってはロイヤルコペンハーゲンの本拠地、工場や事務棟は高い煙突のある大きな建物であるが、今はほとんど人気がない。端の方でOUTLETの食器などを売っているだけ。実際はほとんど東南アジアで作られている。この北欧三カ国でオスロは一番印象に残った。この町は飛行場から約50km、タクシー代が高かったのでびっくりした。しかしここは静かな落ち着いた王国であり、少し前に銃撃事件があったとは信じられない。女性はほとんどブロンドかプラチナブロンドで、黒髪の人はほとんどいないし貴重な存在。思い出に、縦横無尽に走る地下鉄に乗って、ムンク美術館に行った。朝早いせいかあまり混んでいなかった。よく目にする「叫び」と「マドンナ」を間近で見ることが出来た。やはり良いものは良い。実感であった。昼は港まで歩いて、少しリッチそうなレストランに入った。新鮮な魚介類やロブスターが豊富だった。来るときのタクシー代に懲りて、帰りは列車で飛行場に向かった。地下の駅から乗って空港へ、乗り心地の良い高速列車で20分たらずで到着した。費用もタクシーの六分の一位であった。この三カ国はそれぞれ飛行機で1時間くらい、通貨はそれぞれ異なるが、全てクローネであった。そして気温もよく似ていて、日本が35℃を越えているときに、20℃余りであった。いつまでも好奇心と知識欲をを持ち続けたいと思う。 園児募集のお願い 来年度の園児募集は9月1日より願書配布、10月1日より受付となっています。「三つ子の魂百まで」のまさに正鵠を得たことわざのように、3歳児からの保育の重要性を十分認識し、真摯に幼児教育に取り組んで参ります。そして幼稚園に通園させてよかったと笑顔で言ってもらえるように教職員一同力を合わせて頑張ります。どうぞご近所、お知り合いの方にもお勧めいただきますようお願いいたします。9月、長月、食欲とスポーツの秋、明るい未来を目指して、今月も出発です。

01 8月 2019

子どもを持つ喜び、子どもを育てる楽しみ
ー8月のことばー

  先日大阪で就活フェアーがあった。私達を含めて、40法人あまりが参加し、集まった学生は120人くらいであった。因みに私たちの鴨谷学園や諏訪森学園は園長先生や卒業生が直接沢山の保育者養成校を訪問し、又求人票も日本のほとんどの大学に送付し、求人活動もしているのですが、目の前にあるのは卒業予定者一人につき、求人が四人から五人という大きな壁、これを乗り越えていくための一つの手段としての就活フェアーへの参加、そこでは参加者の代表者が一分間スピーチで自園をアピール。最近株式会社の保育業界への参入が激しく、大きな会社では100園以上を運営している。主に運動場もない、遊ぶ場所もない、お部屋での保育活動。一番目にたったのが多数の保育所を日本全国に展開している株式会社の代表者二人。開口一番私達の保育所では東京の初任給が26万円、千葉は27万円、そして大阪はーーーと言葉を濁した。たぶん他の参加者からの批判を意識したのだろう。次に言ったのが有給100%取得、残業0の言葉、単純な疑問に思ったのが、部屋借りであれば設備投資はほとんど0ではないか。初任給は高いが、ボーナスはどうなのか。2~3年でやめることを想定しての給料か、果たして昇給は順調にあるのか。大都会での社会保障や労働環境、高い下宿代、生活費はどうなっているのか。この初任給作戦で地方の養成校の卒業生は押しなべて大都会を目指し、地方では深刻な保育士不足に陥っている。それ以外でも大阪市は家賃100%補助、子どもがいれば、優先的に保育所で預かってもらえる。堺市でも新人の保育士さんに20万円のボーナス。神戸ではその上に USJのパスポート無料配布とか。一番目の人に続き、残り39園の人も一分間スピーチを行いましたが、どの園もさすが初任給を訴える園がなかったのですが、残業がない、連続した休暇や有給休暇の取得、そして人間関係の良さをアピール。養成校に行って、担当者から言われた内容とほぼ同じ。私達の幼稚園は子ども第一です。子ども大好きな先生の集まりです。子どもと共に先生自身も成長していくのが楽しみです。子供の保育、教育活動に従事する幸せ等を訴える園は見事に一園もなし、これでは参加した学生もどの園を選ぶか迷ってしまう。結局は初任給の高さにつられていくのか。昔のことは言うまい。猛烈社員のことは封印したい。しかし資源のない国、日本は生き残るために棄民政策として、戦前は移民を奨励した。日本よりは少しマシだろうと人減らし政策で海外、主に中南米に送られた。劣悪な環境の下で歯を食いしばり、子どもたちに教育をつけ、偏見や差別の強い国で徐々にその地位を高めていった。資源のない日本の資源は優秀な「人」、そんな人が国のため、自分のため、家族の為に一生懸命働き、努力して世界の中の日本を築き上げてきた。なるほど、人は奴隷でないし、自主独立した個体であり、存在する十分な権利を有することは自明のこと、しかし権利ばかりを主張して、義務を怠ると日本の将来はどうなるのだろう。50年位前にアメリカの訴訟社会を見て、日本ではありえないと笑って話し合ったことが今の日本にも着実に押し寄せている。 さて、来年4月からは鳳幼稚園に隣接して、小規模保育園「オオトリ メノール」の開設、19人を預かって、お母さんの働きやすい環境に努めていきます。ご期待ください。 いよいよ夏休み、子どもが家にいることを鬱陶しいと感じている人がいるかもしれませんが、この機会にしかできない経験や体験はどうでしょうか。きっと子供を持つ喜び、幸せを再認識するかもわかりません。この頃、こどもへの虐待が大きな社会問題になっています。今まで秘密のうちに葬られていたことが白日の下にさらけだされ、大きなペナルティーが課されています。子どもの前での夫婦喧嘩さえも虐待だと認識されます。子どもは独立した人格の持ち主であることを再認識されて、子どもと一緒に楽しく過ごす機会になればと思います。そして8月26日の二学期始業式には今以上に元気な姿で子どもたちは幼稚園に帰ってくることを待ち望んでいます。今年の夏休みは、消費税10%を控えて、節約志向で過ごすことを一つの目標に掲げたらどうでしょうか。例えば、旅に出たとしても、節約交通機関、節約ルート、節約宿泊、等々、その代わり体を余計に動かして、汗をたくさんかくかもわかりませんがそれも節約、節約の汗、「もったいない」を復活させても悪くないのではと信じています。

01 7月 2019

幼児教育の無償化について
ー7月のことばー

  6月18日午前7時過ぎ、生まれ育った南区の自宅を出発、泉北高速鉄道「光明池」に向かった。40年から50年にかけて、泉北ニュータウンの発展と共にこの鉄道は整備されてきたが、それまでは最寄りの駅は国鉄阪和線の鳳駅(家から約7㎞)だった。高校も大学もこの駅にお世話になった。しかし、車の発達と共にほとんど電車に乗らなくなった。何年、天王寺に行ってないのであろう。何年、泉北高速鉄道に乗っていないのだろう。鉄道利用はこの程度だった。せっかくの便利な交通機関を上手く利用していない。新大阪駅までは中百舌鳥で乗り換えて行く予定であったが、それよりも絶対この方法の方がいいと教えられたのが、新今宮8時22分発乗り換えで、大阪駅8時40分着。ここで乗り換えて1駅、新大阪駅8時51分着であった。しかし、実際乗ってみると、果たしてこの方法がいいのか、ある意味、納得できなかった。新幹線の切符を買って、乗り込んだ東京行きのぞみ118号9時20分発、横に誰もいないので、ゆっくりしようと思っていたのに、名古屋から老夫婦が隣の席、それにしても久しぶりの新幹線は速い。昭和38年(1963年)に東京の大学を受験したときに「早い、早い」と言って乗った特急が6時間余り、私たちの知らないところで、名もない多数の技術者たちが切磋琢磨して安全安心の技術を磨いてきたのであろう。無事、東京駅に11時23分に到着した。そこから、電車を乗り換えて市ヶ谷に12時27分に着いた。市ヶ谷と言えば、防衛省のあるところ、ここにTKP市ヶ谷カンファレンスセンターという貸し会議室があり、今日の舞台だ。大阪に比べて東京はやはり人が多い。人口増になっているのが東京だけ、日本の若者をどんどん吸い上げていく魔の都市と言っても不思議ではない。この会場には、日本全国から600名以上が詰めかけていた。希望者だけだが、大阪から何人参加したのかわからない。希望者が多かったので、東京の人は別日に回ってもらったそうだ。13時から17時まで途中15分の休憩を挟んでみっちりの4時間であった。無償化の道筋を作った文科省の役人に説明を聞きたかった。まず始めに私も何回も園便りで書いたアメリカのヘックマン博士の幼児教育に投資するのがどれほど効果的であるかの具体例があった。そしてまた、日本が生き残るための理想の子どもの数は2.32人だが、実際に生まれたこども数は1.94人であり、これは子育てや教育にお金がかかりすぎる56.3%、高年齢で産むのは嫌だ39.8%、欲しいけれどもできない23.5%であった。昨年6月に経済財政運営の基本方針が示され、高齢化対策よりも幼児教育に軸足が移された。「人づくり革命」では第一に幼児教育無償化を一気に加速する、すなわち3歳から5歳までのすべての子ども達の幼稚園、保育所、認定こども園の費用の無償化が謳われた。0から2歳児については、住民税非課税所帯を対象として無償化がすすめられることになった。《対象者、対象範囲等》①3~5歳・・・幼稚園、保育所、認定こども園などの保育料無償化。新制度の対象とならない幼稚園(美木多・鳳幼稚園)については、月額上限2.57万円まで無償化。②開始年齢・・・小学校就学前の3年間を無償化。③・・・保護者から実費で徴収している費用(通園バス・給食費・行事費等)は無償化の対象外。給食費については保護者が負担する考え方を維持し、幼稚園による実費徴収を基本とする。 幼稚園の預り保育・保育の必要性の認定。新2号認定(例えば両親が働いている場合) まとめ(幼稚園・認定こども園関係) ①満3歳児(認定こども園2号は3歳児~)は卒園までは保育料無償化。美木多幼稚園、鳳幼稚園は2.57万円/月まで。食材料費・通園送迎費・上乗せ徴収などは保護者負担。 ②保育の必要性のある子どもについて預かり保育の無償化。(利用日数に応じて1,13万円/月まで) ③諏訪森幼稚園の保育料は利用者負担分に相当する施設型給付の増額+不徴収により対応。美木多幼稚園・鳳幼稚園の保育料・預かり保育の無償化については子ども子育て支援制度に無償化のための新たな給付を創設。 ④新たな給付は 1、対象施設は対象施設の確認を受けた施設 2、支給認定を受けた子どもが利用した場合 3、保護者の申請を受けて市町村が給付する (追記)預かり保育は1日450円支給。そのために50円/日の負担となる。 幼稚園の事務量が大きなものになり、まだまだ紆余曲折があると思います。市町村の対応などが未知なところもあるので、詳しい保育料なども含めて、決まり次第、説明会を開きたいと思います。

01 6月 2019

私達に残せるもの
ー6月のことばー

  一人の年老いた職人が握っている小さな堺の寿司屋さん、そんなに商売が繁盛しているわけでないが、それなりに精一杯ネタを揃えて意地を見せている。齢70歳あまり、山口県出身のすし屋のオヤジだ。私がアナゴの握りを注文したときにそのオヤジが言った言葉、「アナゴは触った瞬間、いいアナゴかどうか分かる。アナゴは大阪湾や堺沖でたくさん獲れるのに、いいアナゴは京都や大阪の高級料亭に直ぐに高値で出荷されて、わしらのところには地元なのにいいアナゴはまわってこない。たまにいいアナゴがあったりすると、何か儲けた気がする。」と。京料理は美味しいとか、大阪の高級料亭はミシュランの星に輝いて、素晴らしいとか言われているが、料理は所詮食材が80%以上(私の独断)、腕前に頼る部分はわずか10%あまり、日本航空の機内食で仰々しく有名シェフの作った料理が出てくるが、宣伝ほど、美味しくはない。反対に安い店でも食材が立派であれば、美味しい一流の料理が作れないわけがない。今は前ほど頻繁に行かないが、河内長野の蕎麦屋さんとは40年以上前からの知り合い。店はそんなにきれいでないし、実際見た目を重視する今頃の若い人には敬遠されそうな雰囲気、しかし私はここの蕎麦が好きだ。ぞんざいな作り方のように見えるが、出汁もそばも美味しい。なにがそうさせるのか?それは甲府を出て、東京経由で河内長野にたどり着き、蕎麦一筋に半世紀、実直に努力してきたせいかもしれない。「屏風と食べ物屋は拡げたら倒れる」という言い伝えを守っているかどうか知らないが、店の風格、たたずまいは昔と変わらない。同じように河内長野の小さな中華料理店も半世紀前から知っている。ここはご夫婦で切り盛りしているそれこそパパ・ママ料理店、しかしラーメン、焼き飯、餃子など等、味は昔のままだ。昭和、平成、令和 の時代を超えて生き永らえたのは地域の人やファンの人もあるが、料理する人の生真面目さ、実直さ、そして美味しいものを作って人に喜んでもらいたいというサービス精神、上から目線でないが、そんなものがあると思う。つい最近読んだ記事の中に、俳優の世界にもこんなことがあるのかと思った。里見浩太朗さんは舞台で元気に立ち回りをしている83歳と思えない元気さだ。リーガルハイや警視総監では渋い演技を披露している。しかし他の有名役者のようにバックや支持者があったわけでない。又主役を張ったりしていないし、脇役に徹していた。過去に何かとハプニングあったにせよ、長く真面目に役者の仕事に取り組んできた。そのせいばかりとは言えないが、浮き沈みの多いこの世界で有頂天にならずに生き延び、今も活躍している。彼の最近言ったチクリの言葉「ゴルフよりも舞台のほうが面白い」。最近、スタートアップ企業が何かと話題になっている。群れを嫌って企業から、仲間から離れて、あるいは助けられて、会社を創設する。国も、社会も、そして大企業までもがそれを後押ししている。一度失敗しても、再挑戦の機会を与えている。そんな人を意欲的と考えるか、野心的、好奇心に富んだ人と考えるか、あるいはリッチを夢見て挑戦する人と考えるか?群れの中にいる人よりも優れていると思わないし、どちらも同じように功罪があるかもしれない。しかし10%にも満たないスタートアップの企業の成功者になって大金持ちになったらどうだろうか?最近どの分野でも、少し上手くいけば、その企業を売り飛ばしてお金を稼ぐ人がいるが、そんな人の会社に対する、働く仲間に対する、愛情とはどのようなものだろうか。若くして成功し、資産を形成し、その先何十年、どういう暮らしをするのだろうか。上手くいくのだろうか。何もその年代にふさわしい成功者としての生き方を賞賛しているわけでないが、本当に成功者として称えられることを望むのであれば、この世に生きた痕跡を残したらと思う。人はいつか死ぬ。免れることはできない。何を残せるだろうか。名前を残したい人は学校に寄付をして、何とか記念館を建てることも、名前を残したくない人は無名で多額の寄付をする。財団を作って後進を育てる人もいるし、芸術家は、例えば江戸時代の伊藤若冲のように、その芸術作品をこの世に残せるし、思想や経済理論を残せる人もいるだろう。私達大多数はそれでは何を残せばいいのだろうか。只一つ言える事は私達が受け継いだ美しいこの日本、この地球をこれ以上穢れることのないようにして、次世代へ引き継いでいくことだろう。いくら金持ちが立派な建築物を寄付したからと言っても、せいぜい100年、仁徳天皇陵や履中天皇陵の前方後円墳の歴史に及ばないし、それも、これからの何千年、何万年の歴史の中ではいつまで存続するか分からない。今を一生懸命生きる次世代のエース、子ども達に、マクロ、ミクロ、両方の面でも大きな期待をしたい。

01 5月 2019

ケイオス・混沌とした世界
ー5月のことばー

  動体視力がついていけないほど、周りの景色が瞬間に変わっていく。340kmまで刻まれたスピードメーターにはまだ十分な余裕があり、タコメーターにいたっては3000回転を過ぎたばかり、IHI製のツインターボから加給された燃料はV6,3800cc、最高出力570HPのエンジンに吸い込まれ、身震いするような心地よいエグゾーストサウンドを響かせながら吼え続けている。拙いながら、ハードボイルド流の表現を借りれば、このようになるのだろうか。今は亡き大藪晴彦はその著の中で「羊の皮を被った狼」と表現した。小さくて弱いが、一度アクセルを踏むと、表情は一変、羊が狼に変わる性能を発揮する。見かけは何の変哲も無い普通の車なのに、足回りを強化し、エンジンを高性能に変えて、いざというときに、その能力を引き出すことを喜びとしていた。一種の「能ある鷹は爪を隠す」だろうか。今は外国の車も含めて、高性能であるというエンブレムをつけて、自分の主張を押し出している。どちらがいいのだろうか。それにしても、環境の問題が影響しているのだろうか。燃費の問題だろうか。他に安価な手段がたくさんあるせいなのか。若者の車離れ、特にスポーツタイプの車への関心が薄れている。カーレースを見る人はそれなりに多いのだが。電気工事の人に家の近くの山中でダイハツのミゼットを運転させてもらったのが最初だった。その後高校1年生の昭和35年(1960年)、なぜかこの辺りは高石警察の管轄だった、その警察に行って、原付免許をもらった。私の運転免許の原点だ。三国丘高校には最初の半年間、自転車とバイクで通学したが、それ以降は原付バイクで行った。大学生の頃、優美な日野のコンテッサーの後にブルーバードSSSが家にやってきた。この頃、スピードに憧れ、鈴鹿サーキットに行ったこともあった。係員に気をつけてくださいよと言われ、サーキットに入り、高速でバンクを走りぬけた。しかし今の基準からすれば、100km/hを少し上回ったくらいであった。その当時レースで常勝のプリンス・スカイラインGT-Bに本当に乗りたかった。しかしとても学生の私には手を出せるものではなかった。会社に入っておとなしいカローラに乗って門真まで通勤した。何の不満も無かったが、日産のフェアレディにあこがれた。しかし日産はこのモデルだけは現金販売を押し通した。初任給3万円の私には100万円の車はまさしく高嶺の花であった。今の売れ筋はSUVかONE BOX、セダンやスポーツタイプの車は憧れても実需が無い。メーカーも開発意欲を削がれているようだ。環境問題、燃費の問題、女性に一段と優しくなった男性の問題、家族構成や家庭円満の問題、大きな1-boxにひとりで運転している姿を見ると、そしてほとんどの場合はそうなのだが、効率がよさそうに見えないのだが。 大学生の頃、北海道旅行で知り合った友を訪ねて、友人と二人で福井に行った。高速道路の無い時代、大阪から福井までの国道8号線は車は少なかったが、道もまだまだ悪かった。今のようにナビも無い時代、住所が分かるがそれがどこにあるか分からない。近くで小学生に道を聞いた。日本語が分からない。方言そのままであった。まだまだマスメディアが発達していないこの時代、それが当たり前であり、日本のよきイメージもそのまま残っていた。異質のものがいっぱい残っていた。困っていたら誰かが助けてくれたし、田植えや稲刈りは近所、隣組の人が総出で助け合って農作業をした。それが当たり前であり、損得の問題ではなかった。そんな善意の人たちの行為を逆手にとって、金儲けをしたり、事業で成功した人もいるが、そんなことには全然与しない、立派どころか卑怯のそしりを免れない。欧米ではどうだろうか。支配者を殺害し、残忍で、厳しい方法でインカ帝国を支配していったスペインやポルトガル人は極端だとしても、自分を主張し、自分の意見や考え方を述べ、自分の立場を守り続けねばならなかった。その為に人と争うことは正当化された。明治の開化とともに、欧米の思想は尊重されたが、教養ある一部の人の間だけでの流布であった。それが最近、目を通して、耳を通してのマスメディアの攻撃により、いつのまにか欧米流にされていった。私は何も西洋の思想やシステムを否定するものでないが、日本固有のものも大事に慈しみたいと思う。そういう意味で、万葉集からいただいた「令和」はある意味日本人の魂を揺さぶるものになった。退職後、万葉集の英訳を趣味として活動している昔の同僚はこの令和の由来は当然知っていて、なぜか興奮していたのは印象的であった。彼は何も国粋主義者でもない。ただライフワークとしていたものが世間の脚光を浴び、嬉しさに堪えきれなくなった。同じようなことが国についても言えるかもしれない。国は国民が羅針盤を操作するのだが、現実には、国民の負託を受けた代理者がさまざまな決定をし、国の運命を決めている。明治維新、日露戦争、太平洋戦争、大きな節目には必ずそこに大きな影響を与えた人がいた。平和を愛する日本人と好戦的な日本人、私達の中には、相矛盾する二つの血が混じりあって流れているのだろうか。旧石器時代から今までの歴史の中で、迷い、戸惑い、間違いを犯したことがあったとしても、概ね私達の先祖は持ち前の英知で次の世代に受け継いできた。受け継がれたバトンはより洗練され、私達の願いをたくさん込めたバトンとして、次の世代に繋いでいかねばならない。幸い今の世界は1国での反乱は不可能だし、好き放題に言っていても、それが大きなエネルギーに変わることはない。私達の今の幸せは過去の人の努力の賜物であることを心に銘じたい。私が大学生の頃は大学紛争の真っ只中であった。しかし今になっても過去を引きずっている活動家はほとんどいない。ほろ苦い思い出になっているのだろう。時代が変わり、思想、信条が変化していく。100年の幼稚園の世界も今、大きな渦に飲み込まれようとしている。

01 4月 2019

仲良く交流する夢の世界
ー4月のことばー

  41年間歌い継がれてきた私達の幼稚園のオリジナルの「お別れの歌」、あの若かりし頃に子どもを思い、保護者の気持ちに寄り添い、子どもの活動や成長を願って、思いを込めて作った「お別れの歌」、同じ内容で、同じリズムで41年間、歌い継がれてきたことを考えると、思わず目に涙が浮かび、卒園式では無様な姿を見せてしまいました。しかし何かしら感動できることを持てて、幸せであると思う。保護者の皆様も人生で感動する思い出、場面、情景、達成感、喜び等、たくさんお持ちだと思います。例えばお子様の誕生、学校生活の始まりの入園式も感動の一シーンではないでしょうか。感動は何も大きなことばかりとは限りません。ほんの小さな些細なことであっても、そして他人がそれをほんの出来事と片付けることになっても、その人にとっては記憶に残る感動になることもあるでしょう。感動には基準が無く、大小もありません。私達は喜びの中から感動が生まれ、心が震え、生きている実感が伝わってきます。 新入園児の皆さん、ご入園おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます・。幼稚園では皆さんが来られることを今か今かとお待ちしていました。「ようこそ私達の仲間へ」の思いが募ります。今まで過ごしてきた環境とは異なる環境が始まります。保育の世界から教育の世界へ。そして人の根幹を形作る幼児教育の世界へ。未知の世界から可視化の世界へ。不安な世界から安全・安心の世界へ。あなただけではありません、誰もみんな心配で、不安なのです。しかし不安な人が集まって、友達になり、強力な人間関係が形成され、自信あふれる活動が生まれます。幼稚園が素敵な出会いの場所になり、幼稚園に行くことが当たり前のことになり、楽しくなっていきます。それは人によって早い、遅いの差があるものの、ほぼ同じような形となって収束していきます。その中で独自の個性が生まれ、ユニークな存在として活動することもありますが、優しさが生まれ、みんな友達の世界になっていきます。幼稚園では何も心配は要りません。冒険心富んだ遊具、優しい先生、花や緑の環境、さあ楽しい園生活の始まりです。 りんご、年少、年中組であった皆さん、ご進級本当におめでとうございます。入園以来過ごしてきた幼稚園で、皆さんは心身ともに大きな成長を遂げました。見違えるほど立派になりました。今まで大好きなお友達と大好きな遊びやさまざまな活動をしてきました。りんご、年少組であった皆さんは今年は大きくなっての活動です。まだまだ知らない魅力が幼稚園にいっぱいあります。保育室に、園庭に、まだまだ見つけていない宝物もたくさんあると思います。多くの知らない優しいたくさんの先生に会えるかもしれません。又新しく幼稚園に入園してきたお友達に、幼稚園のことをいっぱい教えてあげてください。頼りがいのあるおにいちゃん、お姉ちゃんに、皆さんならきっとなれます。そして年中組から年長組に進級した皆さん、いよいよ幼稚園で一番上の学年になりました。本当に年少、年中組さんから慕われ、敬われ、頼られる存在になりました。後輩をよろしくお願いします。皆さんは幼稚園のことをほぼ全て理解していると思います。又友達もたくさん作ったことでしょう。先生方は皆さんに年長としての大きな活動を期待しています。運動会での組立やリレー、リズム運動、作品展での個性的な作品つくり、そして一人セリフや合奏やきれいなハーモニーを奏でる合唱、は言うまでも無く、活動の一つ一つが注目の的です。先生方も大きな期待を寄せています。その上、小学校につなぐ教育活動もあります。文字の練習から始まって数の学習まで、小学校の先取り教育はしませんが、小学校に行っても誰にも負けない、誰とでも上手くやっていく知識も身につけなければなりません。充実した楽しい最後の幼稚園生活を味わっていただきたいと思います。今から20年後、皆さんは青年であり、若者です。世界のファッションリーダーであり、技術革新の担い手です。30年後、40年後はますます進む少子化の中、日本を支える頼もしい存在になっていることでしょう。日本の矜持を守りながら、世界の人々と仲良く交流する夢の世界、私が皆さんに託する大きなお願いです。

01 3月 2019

思いと贈る言葉
ー3月のことばー

  卒園・進級おめでとうございます。自分の意思とは関係ないとはいえ、この世に生を受け、健康に、順調に成長を遂げてきた皆さん、人生の長いスパンで考えると、まだまだ「ひよこ」の時代、しかしこのひよこの時代こそ、これからの長い人生の基礎・基本が形成される大切な時、その不可逆的でお金ではけっして買えない貴重な時をこの幼稚園で過ごした皆さんには、他の誰にも負けない人間としての生きる力、生き抜く力が備わっています。これからの21世紀の日本を支える皆さんの活躍は、取りも直さず、日本の輝きにも通じるものがあります。今まで培ってきた基礎の上に、人生の中でのさまざまな事象を経験して、応用力をつけ、心豊かな立派な人に育って欲しいと思います。ここでいう立派な人というのは、世間から脚光を浴び、有名になり、お金持ちになることを意味しているのではありません。それらのことは偶然この世で通じたとしても、別の世界ではなんらの価値を持たないかもしれません。例え金銭的にそれ程恵まれなくとも、社会の片隅で光り輝いている人がいます。その人が居れば輪が和み、協力しようとする機運が生まれる、安心感があり、生きる勇気が湧いてくる、ひたむきに一生懸命生きている、そんな素晴らしい人たちです。私の若い頃は、末は博士か大臣かという、はやり言葉がありました。蛍雪の功を成し遂げた人、私財を投げ打って人のために大きな働きをした人もたくさんおられますが、それ以上に名も無く、貧しく、しかし幸福に後悔しない人生を歩んだ人がいます。 1.個人情報の保持 前はそんなことは言わなかった。おおらかであった。みんなが隣人であり、お互い助け合った。冠婚葬祭全てにわたった。しかし、いつのまにか隣人のぬくもりが消え、知らない他人が増えていった。何事にも助け合い、悲しみ、喜び合ったことが億劫になった。一つには機器の発達・普及と共に助け合うことの必要性がなくなったこと、もう一つにはストレス社会の拡大が進み、他人を思いやる余裕やゆとりがなくなった。それと共に個人情報の秘匿が言われ、ますます息苦しさを覚える人も増加した。反面、ネット社会ではそんな秘密性を、匿名を利用して、次から次へと容赦なく、暴いていく。人が人を信用しなくなった社会、会話や話し合いの全てが音声と映像で記録される社会、何でも言える社会はどこへいったのだろうか?過去にスイングしているのだろうか? 2.個性尊重の社会 過去の有名な人の中には変人扱いされ、評価されなかった人も多い。しかし今から考えると、果たしてそんなに個性が強く、変わり者だったのか。今の社会は個性の尊重が強調され、少々のことには目をつぶって見逃されていく。個性尊重も必要だが、所詮人間は人間の中でしか生きていくことができない、換言すれば、何らかの形で他人との関わり無しでは生活できないのも事実になっている。個性尊重、弱者保護も優先事項だが、今までの慣例や習慣、考え方が全て否定され、変えられるのにも違和感を覚える人も多い。先日テレビのドラマでの中で、弱者に焦点を当てることはどんな立派な正義よりも効果があると言っていたが、まさに正鵠を得ているのかもしれない。 3.真面目・正直・素直 一番評価されるべき人はこのような素質を備えている人であろう。しかしそれを逆手にとって、自分の利益を図り、立場を守ろうとする人が多い。特に人の善意や無知に付け込んで、人をだます悪人が増えたのは嘆かわしい。それがセールスの極意であるというならば、セールスや話術の曲解であろう。日本人が古来から守り続けた真面目・正直・素直な気持ちは一時にそれを悪用する卑怯者が増えたとしても、究極的には人の信頼を勝ち取り、生きることを後悔せず、喜びに変わっていくものだろう。と同時に自分のためでなく、人のために何ができるかという利他の気持ちを持つことは結局自分の反映につながっていく。最後になりましたが、皆さんの前には前途洋洋たる海原、未来が広がっています。それを無事航海していくのか、途中で沈没してしまうのかは、全てこれからの皆さんの努力や強い意志、頑張りにかかっています。人を信じ、自分を信じて荒波を乗り切っていきましょう。皆さんならきっとできます。未来が皆さんを待っています。

01 2月 2019

el Camino de Santiago (サンチアゴへの道)
ー2月のことばー

el Camino de Santiago (サンチアゴへの道)   時刻は夜の11時過ぎ、イベリア航空3894便は着陸装置を出して、高度を下げているにもかかわらず、窓から見える景色は霧一色で何も見えない。突然の音で着陸を知り、機は濃い霧の中を滑走してターミナルに向かった。バルセロナ午後7時30分の出発だったが、途中マドリッドに寄航した為に倍以上の時間がかかった。50年以上前に大学でスペイン語を勉強して、この名前を何回も聞いていた。しかし私にとっては初めての地であった。サンチアゴ デ コンポステラ(Santiago de Compostela)、その地の名前であった。スペイン北西部、ポルトガルに接したガリシア地方の一都市に過ぎないが、9世紀に12使徒(ペテロ、マタイ、ヨハネ、ヤコブ、ユダ等が良く知られる)の一人聖ヤコブの遺骸が発見され、カトリック教徒にとっては三大聖地(エルサレム、ローマ、サンチアゴ)の一つになった。それ以降、スペインのイスラムに対する国土回復運動等で、この地が喧伝され、カトリック教徒が巡礼する都市になり、特にフランスからピレネー山脈を越え、スペイン北部を通ってサンチアゴに至る道は el Camino de Santiago と言われ、巡礼の道として良く知られ、現在は世界文化遺産として登録されている。フランスからピレネー山脈を越えて、貝殻のついた杖を持って1000km以上の道程を巡礼する人は何を求めて苦難の道を進んでいったのか?人の弱さを知る反面、神の強さを意識させるのだろうか?Santiago という名前は世界中で見受けられる。Santiago de Chile (チリ)、de Cuba(キューバ)、del Estero (アルゼンチン)、de los…

01 1月 2019

2019年、平成31年、あけましておめでとうございます
ー1月のことばー

    2019年、平成31年が始まりました。平成がどんな年号に変わるのか、未知なものを待ち受けるのもどきどき・わくわく感があります。過去の事例に倣って、英知を集めて新しい時代にふさわしい元号が発表されることでしょう。ちょうど平成がそうであったように。 「Time Flies.」「光陰矢のごとし」の諺通り、一日がゆっくり流れ、一年たっても10年たっても、50年たっても、同じ環境、同じ風景の時代から何もかもすぐに変わり行く時代への変遷、過去、現在、未来が走馬灯のようにめまぐるしく変わっていく。過去は瞬く間に遠いかなたへ飛び去り、現在は一瞬のうちに過去になり、未来は限りない速さで現在になっていく。高齢者の意見は一括りで同一視され、それは昔のこと、今は時代が違うと揶揄される。こんな激動の、めまぐるしい時代に精神的、肉体的に対応できない人も増加の一途をたどっている。個人情報とかハラスメントという妖怪が徘徊し、言葉以上に重く私たちの上にのしかかってくる。何事も適切な対応と常識的な包容力が必要とされるのかも知れない。最近同窓会に招かれることがあった。と言っても私が教員時代の教え子のそれである。彼ら、彼女らは50代前半、とかくこの年齢はそれなりの立場の者と、そうでない者との差があって後者の出席者が少ないのだが、今回は立場に関係なく集まった。そこでは昔の呼び方で接し、40年前の同じ仲良しであった。和泉高校の担任団の同窓会もあった。学年主任の先生が亡くなられ、彼女を偲んでの集まりも兼ねていた。私自身は1年生、2年生と担任したが、次の年に鳳高校に転勤したために3年生は担任していなかった。30年経過して校長で残っている者、講師として勤めている者、又私学の校長として働いている者等、さまざまであったが、リタイアしている人も多かった。30年は人をこのように変えるのだろうか。しかし話の内容は当時のことが中心で、生徒のこと、行事のこと、活躍した事等、昔話に花を咲かせた。4月には学年全体の同窓会があり、それにも招かれるそうだ。過去を思い出したりする事はあまりないが、これらの同窓会を通じて、そんなこともあった、そんな経験もしたと懐かしく又感傷的になった。クラスの合唱コンクールを見守ったあの時、教壇にたって英語の構文を教えていたあのとき、クラス全員と観光バスに乗って十津川へ行ったあの時も私であり、何十年かたった今も、過去とは違った形の私がいる。思い出が、過去の経験や体験が私を形作り、私の心の中に宿っている。過去は戻ってこないが私の片隅で小さい炎を燃やし続けている。瞬間、その儚さを悔恨と甘いメロディーで思い出すが、すぐに遠くに飛び去ってしまう。過去があって、現在がある。その思いがいっそう具現化していく。今の幼稚園児はある意味幸せであろう。映像と記録で生まれたそのときから確かな過去といつも向き合うことができる。そして一瞬のうちに過去の自分に浸ることができる。良いように考えれば、自分史を作るのも簡単なことだ。 さて、今年は十二支の亥(い)の年、中国流の獣に当てはめれば猪、うりぼう(瓜坊)は可愛いが成長すると人に害を与え、時には死に至らしめることもある動物。20年少し前、河内長野の小さな鮨屋さんで「和泉市から河内長野の山にいるすべての猪を狩猟した」と豪語している人がいたが、何と可哀想な事をしたのかと強い憤りを覚えた。猪も生きる権利がある。今金剛山系に猪がいると聞いて少し安心した。人とうまく共存して欲しいとの思いが強い。しかし何と言っても猪の特徴は猪突猛進、私たち人間にもそんなバイタリティーに富んだ人も見受けられるが、少し立ち止まってみることをすれば、もっと素晴らしい人になることも多い。幼稚園児たちも今年は猪のようにしっかり前を向いて、元気に突き進んで欲しい。しかしそれが間違った道であれば、お父さんやお母さん、友や先生や君たちを支えてくれる多くの人の意見を聞いて元の正道に戻って頑張っていこう。いつまでも元気で、前を向いて、しっかり行動することを今年の目標にしよう。

01 12月 2018

師走を迎えて
ー12月のことばー

    2018年もあと一ヶ月を残すだけになりました。師走、12月、昔は一年の決算の時期として支払いに追われ、「越すに越されぬ歳の暮」などと言われたが、今では支払いが月ぎめになり、必ずしも歳末は総決算の時点でなくなり、むしろ三月末が総決算の時期になった。しかし、それでも一年の終末ともなれば、過去一年を振り返り、悔恨や反省を思うようになる。翻って考えれば、この12月は「来年こそは」と思う時期ではないだろうか。日本では年と年度の違いがあり、何かと煩雑なことも多いが、カレンダーの区切りで考えると、この一年は皆様にとってどんな一年だったでしょうか。全てが良かったと言える人も中にはおられるかもしれませんが、総じて2割や3割の満足があれば、幸せな年を送れたと考えてもいいのではと思ったりします。しかし、それはあくまで主観的な満足、他人から見て、そうでないように見えても、当事者がそれで満足と考えているのであれば、それも十分ありかなと思う。限りがない欲を持った人も多いが、「足るを知る」を自覚している人も多い。他人の満足、不満足の判断を第三者が声高に言うのも奇異な感じがする。皆さんのご家庭ではどうでしょうか。小さな幸せ、人に言えないような満足、お子さんの成長、働く楽しさ、友人、知人との邂逅、家の内外でうれしかったこと、又反対にどうしようもない悲しみやつらさ、不幸に襲われたこともあったのかも知れません。しかし逆に考えれば、そんな悲しいことがいっぱいあったのだから、そしてそれを耐え抜いてきたのだから、今度は楽しみと幸せの連続であるかも分かりません。人の喜びと悲しみの総量は誰にとっても同じようなものです。一代目で非常に差が出たとしても、二代目、三代目となると、平準化されていくのです。喜びや楽しみは心を広くし、悲しみやつらさは心を強くします。今月は22日頃に冬至があります。幼稚園でも伝えますが、昼が短く、夜が一番長いことを教えてあげましょう。23日は天皇誕生日です。今の天皇陛下が即位されてから30年の歳月がたちました。そしてこの天皇誕生日も今年平成30年で終わりです。来年はどんな年号になるか。もう決まっているという人もいますが、いろんな観点から考えて決められるのでしょう。平成30年、31年は一つの大きな区切りになりました。そういう意味で来年のラグビーワールドカップや2020年の東京オリンピック、さらに進んで2025年の大阪万博(私には50年前の青春時代の思い出ですが)も、子ども達にとっては、私のように、後に思い出す大きなイベントになるでしょう。25日はクリスマス、西欧の大きな行事とはいえ、何事も宗教に関係なく祝う日本人にとっては、老若男女を問わず、心躍るロマンの香りがするイベントです。そして31日の大晦日、普段の月では味わうことのない12月、子ども達ともども幸せを感じる瞬間であって欲しいと思います。今年の冬休みは12月22日から1月6日までの17日間、例年に比べて長くなっています。この間に先ほどのクリスマスやお正月があります。正月も昔ほどでないといっても、特別な感情や雰囲気があります。子ども達にもその気分を味わってもらいたい。この長い休みがあるから休むのではなく、少しでも休みを利用しての活動や知識の吸収をしてみたらどうでしょうか。この時期この季節にしかできないこと、例えば雪とか、氷とか、寒さとか、年が変わるとか、街角のイルミネーション、町の様子、動物園の動物たち、さまざまな事象を体験したり、経験したり、知識を吸収することも将来きっと何かの役に立ちます。無駄な経験や仕事は何もない、換言すれば、全ての経験や体験は子ども達の血となり肉となって成長の過程で欠かせないものになるのです。私もそろそろ退場しなければと思うようなさまざまな事象が現れたり、弱者の論理が優先されたりして、それらがすぐに正当化されていく。判官びいきでないにしても、こつこつとまじめに努力した人が正当な評価を受け、安心して人を信頼し、天寿を全うできる世の中であって欲しい。槇原敬之の「世界に一つだけの花」、歌は大好きで、彼の非凡な才能を認めるのにやぶさかでないが、「僕ら人間は比べたがる」とか「一番になりたがる」の歌詞には少し違和感を覚えることもある。「一生懸命勉強しなさい」「精一杯働きなさい」。偉くなるのだったら、勉強しなければいけない。会社でそれなりの地位を得るためには粉骨砕身働かなければならない。私が学び、経験してきた世界であった。成る程、今の世の中の状態が変わってきた。働き方改革のせいでないが、働くことが生活をしていく上での単なる手段であると考える人が多くなった。これからは松下幸之助や本田宗一郎、稲盛和夫のような人が出ないのだろうか。最近新聞紙上を賑わしている不良品、欠陥品の多くを読んでいると、品質確保で争ったデミング賞やISOの規格はなんだったのか。下町の太陽は単なる作り話で終わってしまうのか。この一年間ご支援、お力添え本当にありがとうございました。来る年も今まで同様宜しくお願い申し上げます。

01 11月 2018

運動会参加ありがとうございました
ー11月のことばー

    毎年この時期になると、全日本私立幼稚園設置者・園長研修大会に行ったときの紀行文を書いていました。今年は栃木県宇都宮市での開催でした。連続して参加していましたので、今年も直接文科省の役人のお話をと思って申し込んでいましたが、当日になって諸般の事情で参加できなくなりました。多分今年は来年10月からの消費税の増税とセットになった幼児教育の無償化が大きなテーマだったと思います。内容については今までのアウトラインをさまざまな形で書いてきましたので、そう大きく変わることはないと思います。政府の消費税増税の本気度を考えると、この幼児教育無償化は限りなく100%に近い形で実行されると思います。国や市町村の負担額は25,700円ですが、それを超える分は保護者の皆さんに負担していただくことになりますが、具体的な金額は来年度まで不明です。バス代、給食代、諸経費等で毎月何千円かのご負担お願いしなければと思います。さて、2018年もあと二ヶ月、月日のたつのは本当に早いものです。先月10月には3園とも運動会が終わりました。諏訪森幼稚園は予定の土日とも雨にたたられて中止になり、火曜日の平日にスポーツ広場で、それも限られた時間内での活動を余儀なくされました。美木多幼稚園も天気予報を見、検討し、決行を決めましたが、準備の最中に強い雨が降ってきました。それでも雨雲がすぐに去ってしまうという予想の下、運動会を開きました。どちらの幼稚園もまず園児の頑張ってきた演技を優先する形で行い、いろいろ考えていた保護者競技は実行できませんでした。今回の運動会について、好意的な意見もたくさん頂きましたが、中には厳しいご意見も見られました。その事は来年度の反省として、謙虚に受け止めさせていただきます。日程に関してはなぜ日曜日にしないのかと言うご意見もあります。この時期の不安定な天候の中では土曜日だめなら、日曜日という形をとらざるを得ないことをご理解お願い致します。それでも今年の諏訪森のように土、日悪天候が続くと小学校を借りている以上、今年のような選択になりました。美木多も判断に迷いました。グラウンドを取り囲む保護者の皆さん、天気予報、日を変えたときの対応、保護者の反応、苦しい中での決断でした。しかし子ども達はそんな苦悩を吹き飛ばすかのように、練習で見せた以上の最高の演技を発揮したと思います。子ども達の底力に感服でした。最後の鳳幼稚園は快晴に恵まれました。時間通りに始まり、昨年までの競技を引き継ぐメイポールも実施しました。満点の青空に向かって響き渡る行進曲や流行歌、子ども達の声援や保護者の一生懸命な応援する声、全てが混じりあい、溶け合っての運動会でした。時間が長すぎたことは来年度に残す大きな反省のひとつでした。諏訪森も、鳳も、美木多も子ども達は精一杯の頑張りと笑顔でした。保護者の皆様も何らかの感動や心のときめきを持っていただいたとすれば、教職員一同これほどうれしいことはありません。私たちはこれからも子どもあっての幼稚園、保護者に支えられた幼稚園、先生一人ひとりが輝く幼稚園を目指してまいります。今後ともご支援、お力添え賜りますようお願い申し上げます。個人的なことになりますが、今月3日は私の誕生日、終戦前の1944年生まれの私は、朝鮮戦争、池田首相の「貧乏人は麦を食え」発言、三種の神器、パブリカ、カローラ、サニーの「隣の車は小さく見える」の自動車時代、今の天皇陛下のテレビ中継された結婚式、高度経済成長時代、新幹線や名神高速の開通、開通と同時に走りに行った友は「やはり日本の車は高速はだめだ」との否定的な意見が印象的だった。それに大阪万博、衛星通信、携帯電話、奄美大島や沖縄の返還、まだまだいっぱいの時代を過ごさせていただきました。いろいろの場所に行ったとか、さまざまな経験をしたからと言って、その人が偉いとか幸せであると言っているのではありません。一箇所にとどまっても立派な人はいっぱいいますし、学歴も私が1968年入社した松下電器(panasonic)は輸出部門でさえ、課長が中卒のたたき上げが多かった。その多くの人は今では故人になっているが、本当に尊敬できる先輩であった。私もその一員として、命が許される限り、何らかの価値がある存在でありたい。

01 10月 2018

閉塞感を打破しよう
ー10月のことばー

    言っても仕方がないことがある。しかし言いたくなり、疑問が湧いてくる。どうして日本で生まれたのだろうか。アメリカで生まれていれば、英語はぺらぺらなのに。いつでも世界の中心、ニューヨークを訪れる事が出来るのに。ひょっとしたら大金持ちになっていたかもしれないのに。しかしアメリカ人でも英語が片言の人がいるし、ニューヨークに行った事のないアメリカ人は本当に多い。アメリカは工業国家であると同時に農業国家であり、地方で働いている人は土、日になると地方の小都市に遊びに行き、ニューヨークやシカゴ、ロスアンゼルスまで足を伸ばす人が少ない。まして一部の人は大金持ちだが、残りの人はそんなに金持ちでなく、質素な面も沢山ある。現実アメリカの国民所得は世界8位で、日本が25位、金額にすると2万ドルほど高いが、物価や家賃などを考えると、日本の方が住みやすいかも。反対に低開発国や戦闘状態の国に生まれてきたらどうだろうか。例えば、アフリカ、近代化されつつあるとはいえ、政治の貧困が目につく。逆に考えればビジネスチャンスの宝庫。ISが悪あがきした中東ではどうだろうか。自分の意思とは関係なく軍隊に徴兵され、あるいは死と隣り合わせの恐怖に満ちた生活を送っているかもしれない。そして時代的にはどうだろうか。戦国時代に生まれていればどんな事をしているだろうか。いまの社会ではあまり活躍していないが、そこではトップとの距離が短く、意思疎通がよく働いて、家老職になっていたかもしれない。又男性の会社員は男がもっと大事にされていた時代に生まれていればと密かに思うかもしれないが、昔から日本では女性の力が比較的強かった事を思い浮かべるとよい。表面的には男性は強そうに見えるが、実は・・・・・である。と考えるとどの時代に生まれても、例え世界大戦の時代に青春時代を過ごしても、それなりに時代に合った凝縮された青春時代を過ごしていて、悔いはない。親の決めた人と結婚させられたと嘆くかもしれないが、自由恋愛で破綻の激しい今の時代では過去の見合い結婚の方がかえって長続きする。日本の今の時代は本当に幸せな誰もが納得できる時代だろうか。他人の失態や失敗、秘密を故意に大きく取り上げて、心にたまった鬱憤を晴らしていないだろうか。プライバシーとか個人情報とかの御旗を掲げている割にはそれを本当に守っているのだろうか。昔から愛され、使われてきた日本語がいつの間にか自主規制で使わなくなり、使う事に躊躇するようになった。言論の自由は果たして自主規制の対象だろうか。「物言えば唇寒し秋の風」(芭蕉)の心境で人は自己防衛をし、本音を語らなくなった。そんな中で臆面もなく強く発言する人の意見に恐れおののいている。困った事が起きるとすぐに弁護士に相談するが、彼らとてオールマイティーではない。法治国家の法の解釈人であって、それ以上でも以下でもない。恣意的にすれば法は右にも左にも解釈される。その意味で正義とは何かという難問にぶつかる。法を守るのが正義なのか、法を破ってでも人の命を優先するのが正義なのか。正義に100%の正義はない。それは時によっても異なり、その人の思想、信条によって、又国によっても異なっている。大多数の人が支持するからと言って正義とはいえない。自己判断、自己責任を軽んじ、全て国や政府におもねようとする日本、すくなくとも私にはそう見える事が少なくないのだが、働き方改革や内部告発の奨励と相まって出口の見えない閉塞感に覆われつつあるように見える。少し前まで影・形もなかったアメリカのgoogle等の所謂GAFA,巨大なAmerican dreamを実現したシリコンバレーの創立者達、そこまでいかなくとも何らかの形でAmerican dream を実現した人たち、そんな人を目指して必死に努力するプラス思考のアメリカの人達、日本人もそんな人達を羨むのでなく、Japanese dreamを目指していきたいものだ。幼稚園っ子が成人を迎える10数年後には又別のイノベーションが待っているはずだ。それに挑戦するのは若者の特権だ。人生は本当に短い。過ぎ去った50年前の出来事を鮮明に覚えている。少し前のように感じる。時間を無駄にしないで今できる事に精一杯チャレンジしよう。明るい未来、自由で平和な未来、そして全ての人が幸せな未来を作るために。

01 9月 2018

サルスベリ(百日紅)
ー9月のことばー

    2018年、8月26日、午後3時30分、美木多幼稚園、その門の前でしきりに一人の高齢者が幼稚園や、その周辺を見回している。何事だろう、声をかけようかなと思ったそのとき、カメラを取り出し、狙いを定めて、シャッターを切った。レンズの先に何があるのかと視線を移していくと、正門横に植えている樹齢100年以上の古木のサルスベリ、最後の力を絞るかのように紅色の花を満開に咲かせている。毎日通るがゆえにその変化に気づかなかった。その花の美しさをそのときまで忘れていた。目線が上まで行ってなかったのだろう。せっかくの精一杯のお化粧をしているのを見てやれなかったことで、申し訳ない思いでいっぱいだ。花の絶えることのない幼稚園、今までそのように考え、それなりに実行してきた。春夏秋冬、それぞれの季節にふさわしい花々がある。しかし炎熱の夏に咲く花が少ない。サルスベリはその中にあって、夏に咲く貴重な花、赤、白、紫、紅、で私たちを楽しませてくれる。美木多幼稚園のそれは美原町からで、この木のために門の周りにレンガで大きな植木鉢を作った。鳳幼稚園のそれは大きな株立ちを含めて2本、奈良の宇陀,室生から、諏訪森幼稚園に咲くサルスベリは河南町からそれぞれの幼稚園に運ばれてきた。現地に行って、植木屋さんから譲っていただいたものだ。 2018年8月5日、午前9時、イタリア・ミラノ中央駅、ヴェニス・サンタルチア駅に向かう列車内、大きな旅行用バッグを棚に上げるのを一身に協力してくれた見知らぬイタリア人に気を取られていた。その瞬間、カバンが開いているとの一言、一瞬盗られたと悟った。聞くとその男と女二人の三人組だったらしい。3万円相当のユーロと何枚かのクレジットカード、運転免許証等であった。パスポートは助かった。それにしても何秒かの瞬間であった。今まで何回か海外に行き、私はLAST MAN、決して盗られることはないと思っていた。ヴェニスにつくまでの間、クレジットカードの停止を要請し続けた。その中でVISAカードは親切であった。現金が必要だったらすぐに現地の銀行に送金すると言い、仮のクレジットカードを次の宿泊先に届けるという。その言葉通り、次のフィレンツェのホテルの受付にはUPSの航空便でクレジットカードが届いていた。ヴェニスの現地警察にも行ったが、毎日何人も来るそうだ。10年少し前にロンドンのボンドストリートで財布を落とし、ホテルに帰って気づき、管轄の警察に行くと、「これか」と言って、財布を出された。そのときのうれしさは筆舌しがたい。イタリア人は悪いのは不法移民だと言う。壁に「移民はもう沢山」の落書きがよく見られた。ほんとうはどうなのか?今回時間よりもお金優先でドバイ経由欧州のエミレーツ航空に乗ったが、アラビアの国というイメージを一新、時間の正確さ、機材の新しさ、それに乗務員の対応のよさであった。 幼児教育の無償化 消費税が10%になる事で、幼児教育の無償化が来年10月より実行される。具体的なことは大枠以外何も決まっていない。例えば無償化の金額の中には給食代、光熱水費、行事費等が含まれるのかどうか、預かり保育の場合無償化対象の11300円は働いていない保護者にも適応されるのか。来年度の保育料は今年と同様ですが、10月からは無償化が実現しない場合、4月と同じ保育料、無償化があれば、保育料の変更を行います。幼児教育の世界でも、年々優秀な人材の確保が難しくなり、それに伴い人件費の大幅な上昇になっています。それに設備、教材のよりいっそうの充実を図っていかねばなりません。子どもたちの未来を見据え、41年の経験を踏まえ、一歩一歩前進をしてまいります。 今月もご支援、お力添え宜しくお願い申し上げます。

01 8月 2018

医学の進歩 環境の変化 国民の多様性
ー8月のことばー

    大阪万博の年、1970年1月、南米アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスの広大な公園、「パルケ・パレルモ」の中にあるアエロ・パルケ飛行場から飛び立って約1時間30分、直線距離で942km、道路では1050km、機は高度を下げて、アルゼンチン北部の州都、サンチアゴ デル エステロに着陸した。尚、サンチアゴは聖者の名前、至る所に見られるので、後ろに de Cuba de Chile de Compostera (キューバ、チリ、コンポステラ 等)をつけている。英語に当たる言葉はSaint James. (因みにアルゼンチンには23州があり、面積は278万kmで世界第8番目、日本の8倍弱、人口は約4000万人、日本の三分の一、この州の北部にはフフイ州、provincia de Jujuy があり、ボリビアと接し、有名なウユニ塩湖にも近い。)快適なエアコンの効いた空の旅を少し満喫して機外に出た瞬間、火の中に投げ出されたかと思うほどの熱風が襲ってきた。瞬間、息をするのが苦しい程の暑さであった。砂漠に近い内陸部、当時26歳の私にとっても、いわば炎熱の地獄を見る思いをした。多分40度を超えていたのではないだろうか。しかし木陰に入ると涼しくて、別天地に来たかのようであった。行ったこともないが、孫悟空に出てくる火焔山もこれに似た灼熱の地獄であったのだろう。昔のことを書くと、又か、とか今は時代が違う、という人も多い。事実その通りだと思うことも多いが、昔のことを参考にして現代を生きるという事も一つの方策だ。運動しても、マラソンをしても、喉が乾いても「水を飲むな」という事が鉄則であった。水を飲むと汗が出て、スポーツに支障をきたすという考えであった。しかし今はどうだろうか。昔の指導者が聞けばびっくりするような「水分補給は欠かすな」「水を飲め、飲め」という大合唱、血が濃くなることによる障害の発生が多くなることを危惧している。以前は膚を焼くことが健康の象徴と言われた。海水浴で日光に当たり、皮膚が焼かれて、何枚もめくれた。体中が新しい皮膚と焼けた皮膚でまだらであった。男性だけでなく、女性もしかりであった。白い肌の人は病的に見えた。健康でないように思えた。今は男性も女性も戸外に出ることをあまり好まず、出ても衣服でガードし、日焼け止めクリームを塗りまくっている。紫外線とか、シミ、そばかすになることを恐れている。欧米で日傘をさしている人をめったに見ない。膚を太陽にさらけ出し、日光浴を楽しみ、森林浴を享受している。けがをすればどうだろうか。切り傷、擦り傷では消毒液で消毒し、ガーゼをまいたり、バンドエイドを貼ったりした。しかし今は流水で傷口を洗い、そのままにしておく場合が多い。医学の進歩が人の考えを変えたのか、環境の変化によるものか、或いは国民性なのか。複雑で、多様性の社会で大きく発展・成長を願う園児には他人の意見を尊重すると同時に自分の信念、意見を持つことの柔軟性と重要性をより一層求められている。昨年この便りで幼児教育の重要性を述べ、投資効果から考えても、大人に投資するよりは幼児に投資するほうがより経済的で、そのうえ効果が大きいとアメリカの学者の実証的な意見を紹介し、政府もそれらの検証された意見を参考にして、来年10月から幼児教育無償化を決めた。私たちもそれに呼応して保護者の期待に応える人材の確保、設備の更新に取り組んでいかねばならない。一か月にわたる夏休み、家にいることの憂鬱がある半面、今まで以上に親子のスキンシップを図り、子供たちを持つ喜び、幸せを見直すいい機会となるでしょう。子供の成長は親の喜び、みんなの幸せ、8月下旬、大きくなった子供たちを首を長くして待っています。

01 7月 2018

幼児教育の無償化
ー7月のことばー

    幼稚園の朝礼は3園とも8時から、その2分前の7時58分、建物に衝撃が走った。紛れもなく地震であった。テレビはすぐにこの地域は震度4と伝えた。寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる。」と言った。その通りであるが故に恐怖感も大きい。すぐに園内を点検し、連絡を取り合ったが、異常はなかった。ただ、北野田にある老人施設ハーモニーの4階までのエレベーターが停止した。私たちは日頃、避難訓練をし、防災マニュアルを作り、その時に備えているが、これを機により一層安全対策に取り組んでいきたい。幼稚園の通路には高いブロック塀はなく、園舎も国の安全基準を満たしているが、安全に安全を期すことは大切なこと、しかしその為に行動が萎縮しては本末転倒、バランスの取れた動きを心がけていきたい。私たち大阪南部ではたいした被害もなかったが、震源地近くに親族がおられ、運悪く被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。 さていよいよ、7月20日過ぎより長い夏休みが始まります。休み中には日頃経験や体験できないことをするのも一つの方策、幸い日本は海も山も身近に存在している。ちなみにアメリカ人の中には海を知らない人も多いとか。そんなところに行くのも一つの方策だし、お父さん、お母さんの故郷を訪ねるのも意義あることです。夏休みをただ怠惰に過ごすのでなく、今年は何か一つのことを毎日続けてやってみたらどうだろうか。例えば早く寝る、起きる、新聞を取りに行く、ご飯を一緒に食べる、朝の挨拶をする、何でも良いから一つのことを継続してほしい。そして又お金のことも知ってほしい。何を買えるか、何を買わずに我慢できるか。具体的に学んでほしい。そしてちょっと難しいが節約という美徳も学んでほしい、皆さんが将来お金にその行動を制約されたり、縛られたり、すなわちお金の奴隷にならないためにも。しかし何よりも何よりもこの夏休み中は事故に遭わず、怪我をせず、病気になったりせずに元気いっぱい過ごして欲しい。そして8月27日から始まる二学期には元気な姿を見せて欲しい。 これからの日本を支える幼児の教育の無償化が今の政府によって具体化されつつあります。まだ費用負担の面で、未知数も多いので、保護者の皆様には責任を持って報告できないのですが、かすかに推定できるところを述べてみたいと思います。この施策はあくまで消費税が10%になるのが絶対条件ですが子育て支援法案も消費税が上がらなくても、実施された例があります。 1.実施時期  2019年10月。 2.財源 消費税率10%への引き上げによる増税分1,7兆円。 3.内容 就園奨励費上限の308000円、月額約25700円。これを越えた保育料の場合は 保育料 - 25700円=自己負担。 例えば毎月31000円の保育料であれば、31000円―25700円=5300円。(毎月の保育料)預かり保育は毎月約11300円まで無料。それを越えた部分は自己負担。 具体的な実施方法。 これも未定である。幼稚園は就園奨励費という形で、認定こども園では所得に応じた保育料という形で減免が行われているが、1.従来通りの形でおこなわれる。すなわち毎月決まった保育料を支払う。年度末に就園奨励費という形で308000円が支払われる。2.毎月の費用は決まった保育料から308000円の1/12を差し引いた金額を保育料として支払う。3.その他  従来通りでも事務量は大きいが毎月という形をとると、市町村の事務量も大幅に増えることが予想されるが、目に見える形と言うことになれば、認定こども園で実施されているような2. の形がベターかなと思う。 預かり保育について  預かり保育についても、1万円あまりの減免がされる予定。 費用負担  無償化の費用を誰が負担するかまだ決まっていないが、大方の予想として、国が1/2,大阪府と市町村がおのおの1/4とも言われている。

01 6月 2018

未来に残す遺産を
ー6月のことばー

    6月、水無月(水の月)、農耕民族にとって大切な季節の到来です。体の消耗が激しいこの季節、親子ともども元気いっぱい乗り切っていきましょう。さて、世の中は天下泰平である証明なのかまたは三文記事に興味を持ち始めたのか、マスコミは売れる記事を求めて、針小棒大に報道し、それがどれほど人権を侵害しているのかを検証しないし、コメンテーターはディレクターの言いなりに自分の意見(持っているならばの話)を殺して発言している。週刊誌や新聞は特ダネを取ったかのように人のプライバシーの中に入り込み、パワハラ、セクハラ、マタハラ等のハラスメントに大きなスポットライトを与えている。過去からの全ての言葉がそれに関連付けられて非難され、素直な言葉の表現にも躊躇している。このことに食傷気味で、もういい加減にしろ、という意見もあれば、もっと見たい、聞きたい、知りたいという人もいる。何が正しくて、何が間違っているのか?時代の流れかなと思ったり、反対にもっと寛大な心を持ってほしいと思ったりもする。働き方の面でも同じ。昭和43年、会社に入って2年後に海外駐在を命じられた。そこで見た光景は今でも忘れられない。終業時刻で、幹部社員以外は仕事途中でも、一斉に退勤した。残った幹部はそんなことにお構いなく仕事を続けた。ルーティンワークだけで満足している人は、会社を愛する、仕事が好きというよりは自分の労働を切り売りしているだけで、ほかに良い条件があれば、いとも簡単に会社を替わった。地位やサラリーの向上を目指す者はそんな中にあっても人一倍仕事をした。明治維新からこの方、大きな戦争を経て、世界有数の経済発展を遂げることができた。勿論無謀な命令によって尊い人命が虫けらのように失われた悲惨な事実も存在し、大きな負の遺産となっている。しかし明治維新以来150年、日本人は不眠不休で頑張ってきた。誰が非難できようか。少しでも生活を向上させようと必死であった。その努力が実を結んだ。日本が外国に持っている債権は世界一の規模であり、ひょっとしたら、贅沢を言わなかったら、そんなに仕事をしなくても、暮らしに困らないかもしれない。小、中、高、大と適当にすごすだけで、就職先が見つかるかもしれない。そんな努力しない生活に満足が得られるのだろうか。しかし一方で、子どもが生まれた瞬間から勉強を始めさせる家庭がある。それはなぜなのだろうか。将来に対する漠然とした不安と勉強し努力することは将来大きな実を結ぶことを知っているからだろう。50年前、日本とアメリカの所得の差は10倍以上あった、日本と中国や韓国との差もその位であった。今はどの国とも大して差はなくなってきた。日本には1億人以上の比較的所得の高い人々がいるので、今はまだ企業も国内消費に助けられている面があるが、その優位性も開発途上国の追い上げに直面している。同じ商品を作り、同じ仕事をしているのであれば、遠からずアジアの諸国と同じ賃金体系になっていく。その商品、made in japan は戦前、ドイツ製品と比べて、安かろう、悪かろうの代名詞であったが戦後品質管理に積極的に取り組んだ結果、世界からその商品が垂涎の的で受け入れられるようになった。今は衣服から工業製品までmade in japan を前面に打ち出している。しかし少子化のせいか、人手不足のせいか、made in japan の劣化が始まり、その優位性がなくなるのも時間の問題という人もいる。いろいろ鑑みて考えると、私たちは社会のため、他人のために今以上に一生懸命働く、勉強する、このことが私たちがこの世に生まれてきて、やるべき大きな義務でないだろうか。権利も主張することも大事だが、義務に裏打ちされた権利が大切と思う。今外国人は大挙して日本に押し寄せている。先人たちが残してくれたさまざまな遺産に大きな賞賛を与えている。先人たちのように、私たちには残せるものがあるのだろうか。未来を支える幼稚園っ子、前途多難な道が待ち構えているだろう。子どもたちを立派に、やさしく育て上げるのは社会や親の努め、そしてその道を切り開いて進んでいくのは君たち、大きな期待にこたえることができるよう、頑張りをしてほしい。

01 5月 2018

三園、ともに協力し、力を出し合って
ー5月のことばー

    42年前に泉北ニュータウンO住区(鴨谷台)の開発に伴い、大阪府企業局の幼稚園設置者募集に応募して立ち上げた美木多幼稚園、建築図書だけでなく、幼稚園設置に必要な設備、遊具、教材などの予算及び購入の文書並びに設置に必要とされる教職員の配置と確保、専門家の手を借りずに何回もの行政との打ち合わせ、大阪府からの土地購入や園舎建設の資金、解決すべきさまざまな問題が次から次へと押し寄せてきた。幸い仲間や友達に恵まれ、書類上の問題はどうにか解決することができた。パソコンもワードもない時代、全て手書きの書類であった。一番の問題は資金であった。両親も私も一介のサラリーマンであり、1970年代後半の2億円は今でも大変だが、当時は想像を超えていた。両親の退職金や私の新築の家や先祖代々耕作してきた田地の売却、そして何よりも知人に紹介を受けた住友銀行堺支店の支店長が担保にならない調整区域の田畑を担保にして融資していただいたのが嬉しかった。父親は担保に入れることは隣近所の手前強く反対したが、私は無理を押し通した。それら調達した全ての金額と20年返済の私学事業団からの借り入れで資金のめどがついた。赤い瓦屋根の園舎の建築が始まった。日に日に完成に近づき、昭和53年4月1日に開園することができた。33歳のときであった。当初40人あまり、人数は心配していなかった。どうしたら子供が喜ぶか、どうしたら子供のためになるか、どうしたら保護者の皆さんに理解してもらえるか、応援団になってもらえるか。それまでの幼稚園にないこと、していないことを次々と取り上げていった。それが初代園長の人柄と相まって、加速度的に園児数が増えていった。しかし町が成熟するにつれて、園児数も徐々に減り始めた。諏訪森幼稚園は今から9年前に経営が厳しいから、協力してほしいといわれた。諏訪森は高校の友達がいたせいか親近感があった。諏訪森幼稚園は堺で2番目に古い幼稚園と知った。そして老若男女にかかわらず、地域に卒園されている人が多いと聞き、経営に参加させて頂くことになった。その後、認定子ども園として認可を受け、4年目になった。建物や土地購入に対する国や市町村からの補助金は幼稚園については全くないが、認定子ども園は国の施策でもあり、資金的には苦しかったが、一部補助金を受けて新しい建物が完成した。それから3年余り、教職員、保護者の皆さんのご理解により、園児の皆さんにも来ていただき、負債の返済も順調に推移している。これからも創立に携わった先人たちの意思を汲み取って、地域の幼児教育センターとして、その存在感を高めていきたい。鳳幼稚園は民営化に伴って応募し選考された。前の公立鳳幼稚園も長い歴史を持ち、決定される前に何回か見学にも言った。どことなく歴史を感じさせる幼稚園であったが、古い幼稚園を取り壊し、建物を新築した。幼稚園部門に対する国からの補助金は全然なく、大きな負債を抱えたが、鴨谷学園全体で見ると、負債よりも資産のほうがはるかに上回っている。三園に共通してこだわっている所はどの園も天井の高い遊戯室が備わり、子どもの安心、安全を考えて床が無垢のフローリングになっていることです。保育内容は地域的なことも加味して、園によっては多少の違いがあるものの、カリキュラムは三園共通しているところが多い。遠足も学年によって同じ場所に行くこともある。三園交流会も楽しいイベントです。三園の専門の講師の先生、音楽の小林先生、体操のコスモスポーツの先生、絵画の舟井先生、英語のECCの外人の先生等、皆共通の先生方であり、園独自の園内研修、三園合同での研修もよく行っている。また三園の園長、主任先生が毎月集まっての主任会では保育内容や制作物の話し合いをしている。三園が協力し、高め合いながら独自性を出して、子どもの健全な成長発達を図ることができれば至上の喜びだと考えています。皐月、5月、今月は連休が続きますが、子ども中心の保育活動にまい進してまいります。

01 4月 2018

三つ子の魂百まで
ー4月のことばー

    ご入園・ご進級おめでとうございます。 平成30年度(2018)の新しい学期が始まりました。幼稚園もいつの間にか歴史を刻んでまいりました。私たちの意思とは関係なく、時はすべてを飲み込んで過ぎていきます。さて、秋を好きだという人も多い。日本人の心に寄り添うような「わび・さび」の世界、樹木が生気を失い、燃え尽きる最後のその瞬間に見せる艶やかさに魅了される紅葉の世界、人生の黄昏を迎えた人だけでなく、若い人の心にも訴えるところが多い。しかしこれから生長し、人生を謳歌しようとする意欲と野心に満ちた若い人にとって春はその象徴そのもの、生気あふれ、生きとし生きるもの全てが躍動にあふれ、これでもかと思えるほど、優美で豪華絢爛たる姿で私たちに迫ってくる。野山は薄緑や濃い緑一色、その中に普段は埋没していた木々はその存在感を示すかのように様々な花の色で、そこにいることをアピールしている。命の短い草花もしかり、春爛漫を彩る貴重で大事な要素を成している。気温も18度から25度、寒くもなく暑くもない。やる気と元気を絞り出すちょうどよい温度だ。お子様のご入園おめでとうございます。ようこそ私たちの仲間へ。「三つ子の魂百まで」「As the boy, so the man」のように幼児期の重要性を述べた諺は洋の東西を問わず多い。それは誰もが認識していること。ノーベル経済学賞を受賞したアメリカシカゴ大学ヘックマン教授の著作による幼児教育の経済学「Giving kids a fair chance 」では、幼児教育の重要性を説き、それが将来にどのように影響を及ぼすかを実証的に述べている。日本の国会でも度々この本が取り上げられ、国家の予算も、成熟した人々に使うよりは、同じお金なら、幼児期の子どもたちに使うほうがよほど効果的であると言われている。日本政府もそのことを意識し、幼児教育、保育関連に予算の増額を向け始めた。何も幼児教育にお金がいるから予算を回せと言っているのではない。今のままでも日本の幼児教育を支えていけるかもしれないが、より充実した施設、備品、教材などの確保や他の企業と比較しても低いと言われている報酬なども標準に近づくことができる。そして何よりも保護者負担の軽減が以前に比べて大きくなってきたのも確かである。保護者の皆様からお預かりした子どもたちが幼稚園大好きといってもらえるよう、そして大きく成長したと実感してもらえるよう、日々の様々な活動を通して、子どもたちとスキンシップを重ねてまいります。この間の卒園式でも感激しました。すべての子どもたちが名前を呼ばれたら大きな声で返事をし、お辞儀をし、修了証書を受け取り、又お辞儀をして席に帰っていくのです。小、中、高、大と上がっていくにつれ、能力に差が出ていますが、年長組さんの時は誰もが全く同じ能力と言って差し支えないほど結構難しいと思われることでも同じようにできるのです。ではどうして差ができてしまうのだろうか。育った環境、遺伝、学校教育、人々の出会い等々様々な要因があるのだろう。幼児の時に立派だったことが大きくなっても同じように立派でい続けてほしい。外的要因もあるが、お父さん、お母さん、学校の先生の影響も大きい。幸せな成長・発達を望んでやまない。在園時の皆さん、一つ大きくなりました。お兄さん、お姉さんになったのです。小さい後輩も入園してきました。いろいろ楽しいことや嬉しいこと、面白い遊びも教えてあげましょう。昨年できなかったことも今年はきっとできるようになります。今年も先生たちと一緒に元気に、楽しく大好きな幼稚園で過ごしましょう。これから始まるお子様の新しい幼稚園生活、保護者の皆様の負託に応えることができますよう、教職員一同力を合わせて取り組んでまいります。どうか今後ともご支援お力添えを賜りますようお願いいたします。そしてこの愛おしい、何物にも代えがたい子どもたちの上にいつまでも健康と幸せの女神が宿りますよう心より願ってやみません。

01 3月 2018

音楽・生活発表会が終わって 3月
ー3月のことばー

    先日の音楽・生活発表会はどうでしたか。厳しいご意見の人もおられましたが、概ね好意的なご意見を賜りました。私は予行演習をほとんど、そして本番は32クラス全ての歌や合奏、劇を見ました。音楽発表会では元気に歌っているクラス、小さな声のクラス、ガミガミ声がまだ残っているクラス、自慢そうに歌っているクラス、自信のなさが現れているクラス、様々な姿がそこに反映されていました。生活発表会では私が言うのも何ですが、今年の衣装のきらびやかさが目を引きました。ライブ会場のように照明と音が本当に効果的なクラスもありました。「台詞を声を大にして話そう」を目標にしたクラスもありました。年長さんの最後に話す言葉に涙する保護者の方も沢山おられました。概して良い思い出を抱いて帰っていただいたようですが、私の胸をえぐるように響いた間接的に聞いた一つの言葉「理事長はこのことを知っているのか」というきつい声、私を心から信頼し、入園させたのに、という強い思いがあったのでしょう。保護者の皆様に寄り添う気持ちが少し途切れていたという反省と自己批判の連続です。先生はこんなことをしたい、こんなことに取り組みたいと自分の意欲と要望を主張します。それに対して貴女では正直まだ力不足、こちらの方がふさわしいとか言うアドバイスに少し欠けていたかもしれない。先生方の意見も聞いてあげたいし、出来るだけ意欲を阻害したくない。子どもたちの成就感も達成させてあげたい。これからも子供達の為に、子供中心の為に、成長発達のために何が一番よいかを判断基準にしようと決意を新たにした発表会であった。是非来年にも期待して欲しい。さて、4当5落(4時間の睡眠であれば合格、5時間では不合格)が当たり前だった昔の受験の世界、友には勉強していないと言いながら必死に問題集や参考書に取り組んだあの頃、3月は受験の真っ最中であった。目標は国立一期校、高校の先輩も沢山いて、それなりに自信があった。しかし数学が悪すぎた。嫌いな科目ではなかったが、第1問を見た途端に頭が真っ白になった。次の問題に進めなかった。焦りばかりで頭が働かなかった。100分の時間が瞬く間に過ぎた。大学から結果が送られてきた。合格ラインに20点不足していた。100点満点の数学は壊滅状態であった。4問のうち1問でも出来ていればと、他の科目の点がよかっただけに、何回思ったかもしれない。皆さんにもこんな経験がおありではないでしょうか。半世紀以上前の話、今でも記憶の片隅に鮮明に残っている。高校教師になってからも最初から解く必要はないと何度も忠告した。第1問は必ずしも一番易しい問題とは限らないからです。思うに合格だけが人生全ての成功の切符ではない。捲土重来を期す不合格者の方が後になって成功する場合も多い。合格者はそれなりの実力と運に感謝してほしい。残念ながら一敗地にまみれた人は運命のいたずらを呪うのでなく、自分の実力の不足を再認識し、再度チャレンジしてほしい。幼稚園っ子は10年もすれば厳しいハードルが待ち構えている。今は系列の学校、AO入試、論文や内申書だけの学校もずいぶん増えた。しかし果たしてそれが正解だろうか。安易に通過するのが良い結果を生むのだろうか。巣立ちの季節、弥生3月、卒園児は正々堂々と胸を張って前を向いて進んでいってほしい。そして何事にも努力してほしい。私たち日本人は欧米人のように自分に有利になるようにルールを変える力がない。だから実力で彼らを説き伏せる力をつけてほしい。21世紀は君たちのもの、そしてそれにふさわしい潜在能力は十分にある。卓越した彫刻家が木の中に埋もれている像を掘り出すように、君たちは君たちの中に潜んでいる力を取り出してほしい。しかし何事にも健康が一番、体には十分気をつけて、沢山の友を作り、人生を突き進んでいってもらいたい。在園児の皆さんは私たちと一緒に来年も楽しく元気で幼稚園生活を送りましょう。今年一年間、幼稚園に賜りました叱咤激励の数々、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

01 2月 2018

幼子たちの英語教育
ー2月のことばー

    太陽が近づき、昼がいっそう長くなってきたとはいえ、体感温度が一番厳しい2月、受験生にもその重圧がのしかかっている。今はAO入試や指定校推薦を通じて、早期に学生を確保しようとする大学側の思惑があって、昔ほど悲壮感がないものの、寝食を忘れて、受験勉強に取り組み、第一志望を目指してきた受験生にとっては一つの大きな山場、努力した全ての人に大きな春が来ることを祈るばかり。しかし努力が報われず、捲土重来を期す人も多い。片や40%の大学が定員割れ、片や厳しい大学入試、世の中の矛盾とはいえ、受験生や保護者の大学を見る目は年々厳しくなってきた。昔は一学年200万人以上の人口、今は100万人を切っている。その間に大学の数も、定員も増えた。いくら大学に行く人が増えたと言っても希望者と定員の乖離が大きい。幼児教育から大学教育までそれぞれの段階で二極化が進んでいる。保護者の我が子に対する将来の展望、仕事についての思いや、希望がより大きくなった。換言すれば、我が子が少しでも良い職業、安定する職業に就いてほしいという望みがよりいっそう大きくなったのかもしれない。私たちの幼稚園も保護者の期待に寄り添う保育活動をしなければとの思いが強い。そんな時に英語の早期教育は必要かという番組があった。生まれて間もないお子さんで、日本語もまだ満足にいかないときから、単語を言ったり、簡単な文章を話したり、英語の本を読んだりしている保護者がいた。英語と日本語の混ざり言葉で困っている人もいた。私の育った堺南部の美木多中学校はその当時1学年60人の小さな学校、英語の教員は英語以外に職業家庭も教えていた。好きな先生であった。しかし亀をトートイズと生徒に教え、私も高校までそれが正解だと考えていた。これは一つの例に過ぎなかった。高校の教員もおかしな発音をしていたこともあった。要するに昔の英語教育であった。それでは小さいときに英語圏にいれば、生涯英語が流ちょうかと言えば、そうではない。小さいときは英語に何不自由なくても、帰国して大人になれば、英語を忘れてしまうと言うか、スムースに話せない。反対に20歳前後で語学を習得すれば、それは死ぬまで何らかの形で残っていく。私の事例で申し訳ないが、20歳前後の4年間それなりにスペイン語を勉強し、3年間ほどアルゼンチンに駐在した。現地の人の前でスペイン語で商品説明したことも多々あった。30歳以降スペイン語とも縁が切れた。しかし40年たった今でも、スペインや中南米に行けば、日常会話は十分通じるし、仏語や伊語を見ても、その意味することは大まかには理解できる。美木多幼稚園は40年前から、諏訪森幼稚園は8年前から、そして鳳幼稚園は5年前から英語圏の外国人に来てもらっている。それは幼稚園っ子が沢山の英単語を知るためではない。世界には日本人と異なった肌の色、顔つき、目の色、髪の色を持った人がいること、又日本語以外の理解できない言葉があること、そしてその言葉にはイントネーションやリズムがあること等を少しでも知識として習得してもらいたい、又は頭の片隅にでも置いてもらいたいからです。言語は話せないより話せる方がよい、自明のことです。しかし外国の人と仲良くする、あるいは商行為をするだけではそんなに言語をうまく話せなくともよい。それよりもその人の持っている知識、教養の方がよほど大切だと思う。昨年末、機会があってヘルシンキ、ロンドン、パリに行った。ヘルシンキはそれ程寒くなかった。マリメッコのoutletで来年の音楽生活発表会用として生地を10点ばかり買ってきた。泊まったロンドンのホテルの近くにNobuという日本レストランがあった。日本人の寿司職人が何人も働いていたが、こだわりの食材を説明し、それが印象に残った。パリに行くユーロスター列車の始発駅St.Pancrasの駅員さんは大変親切でパリ行き往復切符購入後その場所から税関の所まで優先的に案内されて驚いた。逆に帰りのパリNord駅では1時間以上も多くの乗客に混じって立って待たされたが、何の説明もなく不満が募った。ドーバー海峡の下を走るユーロスターはロンドン・パリ間が2時間15分、本数も増え、パリ日帰りも容易になった。日本国内いたるところで中国人や韓国人を見るが、外国に行ってもそれは変わらない。中国や韓国のパワーを見せつけられる思いがする。 今月は大きな行事、音楽生活発表会があります。子どもたちも先生も頑張ります。応援よろしくお願いします。

01 1月 2018

Let’s have a dream
ー1月のことばー

    新年あけましておめでとうございます。新しい年、2018年の幕開けです。 新しい年を語る前に、今となっては過去となった2017年はどんな年だったでしょうか。 小さいお子様をお持ちの皆様にとっては、きっと悩まされたことも多かったと思います。しかし裏を返せば、お子様を持つことの喜び、幸せ、を享受できたのではないでしょうか。皆様の世代は人生の一番良い時期であり、何事にも誰からも期待され、頼りにされるときです。人は何事にもネガティブでなく、ポジティブに受け取ろうとよく言われます。「できない」と言う前に「どうしたらできるか」を考えよう。駄目だと思う前に、まずやってみよう。成る程人は立ち止まり、考え、後ろに引き下がることもあるが、過去を引きずらず、前を向いて積極的に果敢に挑戦することの方が大事だと説く人が多い。この時期はある意味、怖いもの知らずだが、すぐに過ぎ去ってしまう大事な年代です。私のその時代は40年から50年前、一生涯同じ会社で働くことは常識であった。もっともその常識はその当時でさえ、海外に駐在すると、そうでないことが分かったが。もし何らかの原因で転職するならば、30歳までが限界であると言われた。そして30歳でその人がどの程度まで会社で出世するかもわかると言われた。しかし今や非連続性の時代、昔の常識は今の常識でなくなってきた。話は横道にそれたが、人はいつも夢見ていた。1970年の大阪万博でタイムカプセルが埋められた。1インチの手のひらサイズのテレビもその中にあった。未来の技術に対する挑戦であった。当時の画面はブラウン管で、奥行きがかなりあった。50年前に南米の片隅でイタリア系の社長は壁掛けテレビを夢見ていた。日本への電話も何時間も待たされる時代であった。それが衛星の中継によって大きな進歩を遂げた。リアルタイムであった。アポロが月面に着陸し、人類が月に小さな一歩を刻んだ。オリンピックを合言葉に、高速道路や1000日で作られた名阪自動車道、3時間に縮まった新幹線、華々しい技術の進歩が遂げられた。日本人は鼻高々であった。自分たちが一番、Made in Japan の勢いは止まらなかった。GNPもアメリカに次いで2番目、国連分担金も2番目、日本人は誇らしげであった。しかし世界は日本人が思うほど日本をそんなに高く評価したわけでなかった。欧米には先進国としての歴史があった。極端な話、オリンピックも貴族の集まりと言ってもいいかもしれない。他のスポーツも同じ。世界には日本人がびっくりするような事もまだまだ沢山あるし、謙虚に教えを乞うことも多い。しかし日本人は器用にそれらの事を自分の物として同化してきた。日本の国技と言わないまでも、人が熱中できるものに育てていった。そしてオリンピックでも、その他の国際競技でも、皮肉なことに普段は日の丸や政権与党に反対している人でさえ、その旗の下、日本人という共通認識で大きな声援を送っている。2017年まで夢であったものが2018年になってどんなことが叶えられるだろうか。目に見える形での急激な技術的進歩はないだろう。しかしながら基礎研究から始まった技術の進歩は徐々に花を開かせるだろう。最初にどの国で花が開くかわからない。ゴルフ場で知り合った自動車用電池のセパレーター(絶縁体)を製造している人が孫に英語ではなく中国語をマスターするように説得していると述べた。その中国がパイオニア的な役割を背負うのか、従前のように欧米諸国なのか。興味深い。技術的な夢は別として、夢には大小がない。人は夢が無くては熱意も意欲も生まれない。奴隷のような生活を続けている人は未来に絶望するし、今は苦しくても明るい展望のある人には希望がある。子育ては苦労や戸惑いの連続かもしれないが、子どもの未来を考えれば、今の苦悩は和らいでくる。人生は短い。人生は長い。どちらも正解だろう。それは何万年も前から続いてきた人間の普遍の営み、その中で、例え小さくとも、限りのある人生、いい夢を見て送ってみたい。新年早々こんな他愛もないことを考えている。 今年も皆様の上に幸福と健康の天使が舞い降りますように心より願っています。本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。

01 12月 2017

論理的と情緒的
ー12月のことばー

    10年少し前だろうか、日系人の従妹の結婚式に招かれてサン・フランシスコに行った。彼女はハーバード大学出身の弁護士であったが、そのスピーチに誰もがほめたたえた。それはなぜか。論点、話題を整理し、参列している人に納得のいく、理解しやすい話し方を、冗長でなく、手短に論理的にしたからであった。彼女にとっては高校や大学を通じて、身に着いたアメリカ流の合理的・論理的な当たり前の話し方をしただけであったのだが、参列者はそうは思わなかった。翻って、私たち日本人は一般的に感覚的、情緒的な話し方をする。私も人の前で話す時ですら、次々に頭に浮かぶ言葉を順番に無作為に発言していく。決して論理的でなく起承転結もない。昔よく海外から帰ってきた人は合理的、自己中心的で、人のことをよく考えない発言をすると言って、少なからず不遇の状態に置かれた人もいた。海外で活躍し、おおいに会社に貢献したのに、日本に帰ったら報われない。その為に海外に駐在で赴任したがらない人も増えたこともあった。しかし今はグローバルの時代、こんなことは昔の事と言って、どこの会社も笑っているかもしれない。西欧流の合理的・論理的な方法が感覚的・情緒的な考え方よりも優れていると言っているのではない。海外では論理的・法律的に相手を徹底的に打ち負かさなければ、打ち負かされる世界なのだ。日本も専門職や海外営業マンを中心にそのような筋道の通った論理的な思考をする人も増えてきているとはいえ、まだまだ少数派だ。「相手を傷つけない」「和をもって貴し」「相手の逃げ道を作ってやる」「思いやる心」は私たち日本人が過去から受け継いできた美徳だ。それを逆手にとって、卑劣な犯罪をする者も増えたが、昔の家中心の村社会では考えられない事だ。最近私の青春時代の曲をたくさん聞く機会があった。昔はそんなものかと口ずさんでいたが、歌詞をよく見てみると、感覚に訴える情緒的な言葉が多い。例えば中森明菜のセカンドラブ「切なさがクロスするさようならに」「切なさのスピードが高まってとまどう」卒業写真の「人ごみに流されて変わってゆく私」木綿のハンカチーフ「ただ都会の絵の具に染まらないで帰って」秋桜「薄紅の秋桜が秋の日の何気ない陽溜りに揺れている」きみの朝「別れようとする魂と出会おうとする魂と」恋に落ちて「吐息を白いバラに変えて」いい日旅立ち「あー日本のどこかに私を待っている人がいる。いい日旅立ち、夕焼けを探しに」季節の中で「うつむきかけたあなたの前を静かに時は流れ」なごり雪「なごり雪も降る時を知り、ふざけすぎた季節のあとで」カモメはカモメ「この海を失くしてでもほしい愛はあるけれど かもめはかもめ ひとりで海をゆくのが お似合い」聖母たちのララバイ「この都会は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士」昴「目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ」誰もいない海「わたしは忘れない 海に約束したから」精霊流し「せんこう花火が見えますか 空の上から」花嫁「花嫁衣裳はふるさとの丘に咲いた野菊の花束」安奈「安奈 おまえの愛の灯はまだ燃えているかい」ルビーの指環「くもり硝子の向こうは風の町、問わず語りの心が切ないね」シクラメンのかほり「季節が頬をそめて過ぎてゆきました」心もよう「黒いインキがきれいでしょう 青い便せんが悲しいでしょう」恋の予感「夜は気ままに あなたを踊らせるだけ ただかけぬけるだけ」夢の途中「さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束」贈る言葉「悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣く方がいい」長い夜「長い夜を飛び越えてみたい おまえだけにこの愛を誓う」太陽がくれた季節「君は何を今見つめているの 若い悲しみに濡れた眸で」 先日雨が激しく降る阪和自動車道下り線を比較的高速で走っていた。重心が低い四輪駆動の乗用車であった。右に料金所を見ながら左に少しカーブした所で、急に大きな横滑り、左の車線に急激に移動、ハンドルが咄嗟のことできかない。初めての経験で、一瞬何が起こったのかわからない。幸い横に車はいなかった。最悪、横のガードレールに接触を覚悟したが、ハンドルを真っ直ぐしっかり握っていたのが良かったのか、少しして体勢を立て直すことが出来た。何秒間の出来事が何時間も続いたように思えた。ハイドロプレーン、50年以上前に、名神高速道路の誕生と共に生まれたこの言葉をよく知っていたが、その時よりもはるかに進化した今では死語と考えていた。過信が招いた出来事であった。この現象を避けるために、タイヤ会社は水を逃げやすくする設計をしていた。しかし私の車がはいていたタイヤは晴れ用タイヤで溝が殆どなかった。考えればスリップは当たり前だった。雨の日の慎重運転を思い切り知らされた。ある意味高速道路では視野角度も狭くなるが、低速では左右を見る余裕も生まれる。今まで見えなかったものがどんどん目に飛び込んでくるのだから、他人の迷惑にならない限り、低速ドライブもたまには結構いいものだと思う。 師走、12月、2017年、平成29年もいよいよ終わりです。この1年間、時には暖かいお言葉、時には厳しい叱咤激励を頂きました。皆様方の励ましのお言葉をかみしめながら2018年、平成30年も子どもたちの生長を期待して活動をしてまいります。どうぞ今後ともご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

01 11月 2017

食材と温泉 大分県
ー11月のことばー

    その船は19時05分きっかりに出航した。今まで船とは縁がなかった。その船は大きかった。フェリーであった。今まで何回かフェリーに乗ったが、これほど大きいフェリーは初めてであった。夜の大阪南港第1フェリーターミナル、車の種類や長さを伝えて切符を買った。行先は大分県別府フェリーターミナルであった。その船の名前はサンフラワー(ヒマワリ)であった。瀬戸内海を通って別府まで約12時間弱であった。車を乗せていない乗客も多数いた。九州に行くのには新幹線か飛行機だけだと思っていたが、こういうルートがあることに初めて気づいた。私は1回だけこの航路を経験したことがあった。55年程前の高校生の修学旅行であった。大阪には天保山という港があった。そこから関西汽船が出ていた。ワクワクする九州への修学旅行の起点であった。そこから関西汽船が出ていた。どんな船だったのか今はもう覚えていないが、外国人が珍しく船内にいて、場所を聞かれて頓珍漢な答えをしただけは鮮明に今でも覚えている。上陸した後は別府温泉の地獄めぐりをし、観光バスで阿蘇山に行き、その後長崎まで行って、列車で堺に帰ってきた。道は狭く、舗装してなくて、前のバスの土ほこりが容赦なくクーラーのない私たちの観光バスに侵入した。今だったら耐えられないだろうが、当時はそんなものと思っていた。それからの55年、瀬戸内海を通過したことが無かった。そのサンフラワーには大きな浴場があった。個室もあり、ベッドもあった。食事はバイキング形式であった。フェリーが出帆して1時間、船長は明石大橋の真下を通ると放送した。2日後にこの上を通るとは思っていなかった。今年33回目を迎えた全日本私立幼稚園連合会設置者・園長全国研修大会への参加であった。今年の参加者は500名余り、日本全国から集まった。私もそのうちの1人であった。いつもそうだが、文科省の役人の意見を直接聞きたかった。少しでも私たちの幼稚園に役立つ情報を持って帰れたらという思いでもう何回も何回も参加してきた。内海のせいか、又はフェリーが大きいせいかほとんど揺れることもなく、定刻少し前の7時頃に目的の別府港に着岸した。小雨が降っていた。会場は大分市のオアシスタワーホテルで、受付は12時からであった。5時間あった。ふと思いついたのが関アジ、関サバで有名な、そして学校時代に地理で勉強した製錬所のある佐賀関であった。ナビで教えられた道は朝8時頃のせいか、渋滞の連続であった。やっと着いたが、選挙運動の真最中、有力E議員の選挙カーに何回もであった。半島を少し回ったところに漁港があり、たくさんの漁船が係留されていた。雨で漁に出なかったのか、既に漁から帰ってきたのだろうか。改装中の魚の直売所の建物があった。職員は、今日生魚は入荷していないと言った。ふと建物を見ると、「平成22年度種子島周辺漁業対策補助金」と記されていた。ここは大分県、種子島周辺と言えるのかなと思ったりもした。ここの製錬所の建物は大きかったがそれにもまして、標高132mの丘の上に建てられた高さ200mの巨大煙突にはびっくりした。煙害防止だそうだが、この日は雨空で、煙突の先は雲の中に隠れていた。大分市はこんなに建物がたくさんあり、大きくてきれいな町とは想像していなかった。よく地方再生と言うが、地方の町の方が立派で綺麗で豊かでないのかと考えたりした。初めに連合会の会長は、幼稚園は原点に戻らなければいけない。少子化とか、国の補助金も大切だが、幼児を立派に教育し、小学校につなげていく幼稚園本来の役割を愚直に実行していくべきだと言った。私もまったく同感だと思った。次に長州藩の末裔で、別府でピアニストとして活躍する伊藤京子さんがグランドピアノを時には弾きながら講演をした。その中で心に残っていることは「演奏方法はいろいろあってもよいが、その曲がどのようにしてできたか、作曲家の意図を十分伝えるようにピアニストは演奏しなければいけない。例えばショパンの「革命」の曲は作曲がどのような状況下で書いたかを知らねばならない。ただ楽譜に忠実に演奏しているだけではだめなのです」と言ったことです。昔現地で聞いたタンゴ歌手の藤沢蘭子さんがアルゼンチンの人に「歌は素晴らしいが、何か心に響くものがない」と言われた事と同じなのかも。文科省の課長は幼稚園教育の無償化を進めていて、誰も収入に関係なく、幼稚園に行かせることが出来るように保護者にはその保証をする事と不足する0~2歳児の施設の中で、幼稚園で2歳児を積極的に受け入れることが出来るように対策を考えている、それに来年4月からは幼稚園指導要領が変わるので、その内容と対応などについて話された。最後に危機管理の観点から講演があった。事故は事故が起きるように行動している。たまたまはない。起きたことはしっかりと受け止め、明日は我が身と考える。後悔先に立たず、をしっかり肝に銘じる。事故は0~4歳児が多く、5歳児になると減る。最後に幼稚園は小さいお子様をお預かりしているのだから、毎日何も起こらないのは奇跡である。奇跡が続くように頑張って行こうと言われた。帰りは別府港から愛媛県佐田岬の付け根の八幡浜港をフェリーで目指した。89km、2時間30分。高い煙突が見える佐賀関までは海は穏やかであったが、豊後水道に入るや否やその高さが2m以上と思われる激しい波が船にぶつかり、しぶきが甲板に飛び散った。四国の高速道路、鳴門大橋、明石大橋、神明道路、阪神高速を経由して堺に帰ってきた。八幡浜から400kあまり、まだ返納は大丈夫かなと一人考えていた。 さて今月もみかん狩りや作品展、その他いろいろな行事が待っています。元気に取り組んでまいります。厚かましいですが、ご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

01 10月 2017

消えつつある言語
ー10月のことばー

    お母さん、「おんなもんべつ」と書いているよ。賢そうな小学生の女の子が横にいる母親に「難しい漢字も読めるようになった」と言うことを暗示するように小さな声でつぶやいた。それはめまんべつと読むのよ。優しい声で答えた。伊丹空港を離陸して約2時間、JAL機は北海道東部、網走市近くの女満別空港に満員の乗客を乗せて着陸した。8月下旬、この便は明日で運航を終える。それ以降女満別に大阪から行くには、札幌か東京経由しかフライトがない。最後の激安便であった。今から50年以上前の大学3年生の時に友達3人と北海道のこの地域にやってきた。カニ族?と呼ばれた。荷物を一杯詰め込んだリュックを背負って汽車やバス、ヒッチハイクで北海道中を旅することが流行であった。そのほとんどがユースホステルに泊まった。一方では学生運動がまっただ中であり、一方ではリュックを背負っての観光であった。グループでの旅であった。行程は自分たちで決めていくのだが、そんなに沢山ルートがあるわけでなかった。ある場所で知り合い、別れ、又ある交通機関で知り合い、別れ、又出会うということが多かった。そこでは友情が芽生え、他大学を知り、ロマンも生まれることがあった。沢山歩いて、疲れることもあったが、体力の方が勝った。青春の1ページであり、ほろ苦い経験でもあった。函館に帰る汽車はトンネルが多く、機関車の煙で真っ黒になった。彫りの深い妙齢の女性に函館に着いたら、「お風呂にご案内しましょうか」と言われてみんな喜んだことも旅の思い出だ。青函連絡船の上では何回か出会った福井大学のグループに又会った。青森に着くまでずっと話をしていたのを憶えている。青森から急行「日本海」で無事大阪に帰ってきた。時間に無限の余裕があった青春物語であった。それから50年あまり、再びこの地域にやってきた。今度は汽車でなく飛行機で。この地で印象に残っているのは2カ所。美幌峠から見下ろす屈斜路湖の美しい景観であり、もう一つは2度行った摩周湖で会った。1度目は霧で覆われ、何も見えなかった。しかし麓の町まで帰ってきて、ふと後ろを眺めると、霧が消えていた。急いで引き返し、崖を下って、水辺まで行った。摩周湖の美しさと水の透明さを実感した。あのとき沢山撮った写真はどこへ行ったのだろうか。今回も美幌峠は晴天であった。摩周湖までレンタカーで行ったが、その自然の美しさ、神秘さを堪能してくれと言わんばかりの姿で歓迎してくれた。西にハンドルを切って阿寒湖を目指した。鶴雅別荘鄙の座で見たアイヌ人彫刻家藤戸竹喜氏の熊の木彫りに大きな感動を覚えた。繊細なタッチ、それでいて大胆な一刀彫りの彫刻は私の心に大きく響くものがあった。近くに藤戸氏の店があった。彼の作品は地下に展示されていた。多くは非売品であったが、気に入った熊の小品を分けていただいた。同じような作家で、最近亡くなられた瀧口政満氏の作品も素晴らしいという意外に言葉が見つからなかった。アイヌのことはほとんど知識がない。しかし、コタン(集落)、カムイ(神)、イヨマンテ(熊祭)、ユーカラ(叙事詩)、ラッコ、トナカイ等の言葉は私たちの中に根を下ろしている。金田一京助教授によって再び見いだされたアイヌの言語、言葉、詩、伝説、説話、等々は日本民族との同化政策によって、失われつつある。又その言語も今は語る人も限られ、消えつつあるという悲しい運命に翻弄されている。しかしその源は今でも北海道の各地で受け継がれ、名前を残し、誇り高い民族の矜持を保っている。

01 9月 2017

私たちの仲間
ー9月のことばー

    8月のお盆の時期になると、幼稚園をいつも支えてくださった人々のことを思い出す。その人が物故者であっても、生存中の人であっても。美木多幼稚園40年、最初先生は3人であった。その3人の先生一人は熊本、二人は南区在住、元気でおられるのが本当にうれしい。今まで250人あまりの先生に支えられてきた美木多幼稚園、誰も亡くなったという報告は受けていない。社会の様々な分野で又は家庭の中でこの世に生まれてきたことの大きな責任を果たしている。残念ながら、安全、安心送迎に尽力を尽くしていただいた運転手の中には鬼籍に入った人も。40年ほど前に最初に私たちの仲間になったAさんは観光バス出身の運転手、2年後には友達のBさんも仲間に入った。AさんもBさんも観光バスの経験を活かして、本当に誰からも信頼され、好かれた運転を心がけていただいた。5年後にはCさんも路線バスの運転手から私たちの仲間に入っていただいた。アームをあげたフォークリフトと軽い接触事故があったが、それ以外は毎日定時運行、何年か後には姪御さんも私たちの仲間に加わった。沢山の先生や職員の姿が走馬燈のように私の頭の中を駆け巡っている。私の母親の初代園長は、本人にはその意識がなかったが、創立期の苦労を一身に背負って頑張った。長年の小学校の経験を生かし、目に触れるもの、身近なもの全てが教材であった。野の花を摘み、生け花として園内に飾り、川や田んぼで生き物を捕っては園児に見せて興味付けをし、好奇心を刺激した。父である初代理事長は田舎育ちの地方公務員であったが、何事にもあまり逆らうことはせず、黙々と仕事をこなした好人物であった。いろいろな人に支えられての40年、私には全てが貴重な勉強であった。諏訪森幼稚園は80有余年の歴史、様々な先生が創立以来大活躍して、今に引き継がれてきた。私がバトンを受け継いで8年、その時の先生は、意見が異なったり、方針が違ったりして、今はもう誰もいない。しかし時々いただく便りによれば、同じ分野で大活躍しているとのこと、働く場所が異なっても、幼児教育に架ける情熱は何ら変わることはない。ますますの健康と活躍を祈るばかりだ。5年目の鳳幼稚園も仲良し先生の集団だ。家から遠いという理由で八尾市の幼稚園に行ったDさんも、そこの園長先生から良い先生を紹介していただいたとお礼の電話があった。今の先生方には先人たちの熱い教えや体験を踏まえ、今いる目の前の子どもたちにその大きな遺産を引き継いでいってもらいたい。8月初め、関空からロスに行った。夕食を食べて、映画を一、二本見ていると到着した。アメリカ西海岸は本当に近く感じた。ロスは砂漠の町、というより、何百キロ先から水を供給されて生きている大都会、トランプ大統領のことをよく言わない人が多いのにびっくりする。通過点のラスベガスはロス以上に砂漠の中に忽然と現れる大都市、ホテルは勿論、飛行場までスロットルマシンが沢山あって、さすがギャンブルの町、しかし生き抜くために、エンタテイメントにこだわり、人を喜ばすために精一杯努力している町という印象は大きかった。カジノに行くためにここに来たわけではなかった。グランドキャニオンに行くための15人乗りの小さなプロペラ機から見た光景は何万年もの間に削り取られた奇岩より、それらの岩の一番下を蛇行して流れているコロラド川が気になった。スペイン語のコロラド(カラード、色のついた)は本当に川の色を表しているのだろうか。次回もし来ることがあったなら、是非観光ヘリコプターでもっと近くに行きたいと思った。昔々絵本で見た幹の中を車が通る程大きな木がある(今は折れて禁止しているそうだが)ヨセミテ公園、あちこちに山火事のあとがある。山火事は自然の摂理に任せていて、消さないそうだ。この公園は緑一杯で、やはり大きな岩が有名だそうだが、(アメリカの有名なスポーツメーカーのマークになっているとのこと)交通渋滞が激しい。総じてアメリカの国立公園は大味の感じである。サンフランシスコでお世話になった日系人(若いときに日本からやってきた)のガイドはお金の話を頻繁にしたのが気になった。シスコでは年収1000万円(10万ドル弱)では下層だそうだ。IT長者が多いシリコンバレー近くのシスコは家賃を含め、全て割高だそうだ。何人かの日系人はおしなべて「自己責任」と言うことを口にした。何事をするにもほぼ自由だが、それに伴う責任は自分でとらなければいけない。その為に自己主張をし、自分を売り込むことも必要なのだろう。日本は何かあれば、国や市町村が助けてくれることが多い。資本主義のアメリカと比べれば、みんな助け合いのいわば社会主義国家であるのかもしれない。自己責任が良いのか、それとも多少自由が犠牲になったとしても庇護を求めるのが良いのか。若い人は前者で、高齢者は後者という人もいる。トランプ大統領賛成、トランプ大統領反対の世論が揺れ動くアメリカ、誰が大統領になってもその偉大さは変わりようがない。すでに2学期が始まっています。9月は入園説明会、10月は園児募集があります。少しでも私たちの仲間が増えてほしい。その願いは切実です。私たちは子どもたちの現状と未来を考え、精一杯努力して参ります。入園させてよかったと心より言ってもらえる保育を目指して頑張ります。よろしくお願い申し上げます。

01 8月 2017

就学前教育
ー8月のことばー

    普通の会社生活では、ほぼあり得ない長期にわたる夏休み、教育を受ける生徒、学生として、又教える立場の教員として、私の人生の大半でこの夏休みに関わっている。この夏休みが最近大きく様変わりしてきた。学習指導要領もゆとり教育から教科・知識重視教育へ転換が図られ、それに伴い、夏休みの縮小、補修の充実、教員の毎日の出勤、等が実施されてきた。幼稚園でもほとんど欠勤のない先生の為に、変形時間勤務が採用され、夏休みに充当されている。私たちの園は小学校に準じたと言うよりも自主的に、より一層の保育日数の確保、充実を図るために、今年度より8月25日からの保育になります。まだ少し残暑の厳しさが残りますが、環境を整え、保育活動を進めてまいります。さて、過去に入園前説明会やその他の機会に何回も述べた言葉、「就学前に立派な幼児教育を受けた子供は小学校、中学校に行ってもますます伸びていくが、就学前の教育が不十分、あるいは全然ない場合は伸びる率は相対的に低い」この話は簡略化して特徴的に言ったものだが、その根源を辿れば、シカゴ大学教授で、ノーベル経済学賞受賞のジェームズ・J・ヘックマン氏の理論によるところが大きい。彼はその著Giving kids a fair chance, (子供たちに公平なチャンスを与える)日本語版「幼児教育の経済学」で ペリー就学前プロジェクト(1962年から1967年にミシガン州で低所得のアフリカ系の58世帯の子どもを対象に特別教育や個別指導を行う)、アベセダリアン プロジェクト(1972年から1977年に生まれたリスク指数の高い家庭の恵まれない子供111人を対象に実施、当初平均年齢は4,4か月で年間を通じて8歳になるまでプログラムが実施された。その後21歳まで継続され、30歳時点の追跡調査も行われた。)などを参考にしながら、幼児教育の重要性や幼児教育への投資の効果を主張した。IQを高める効果は小さかったが、14歳の時点で学力検査をしたところ、就学前教育を受けた子供は受けなかった子供よりも学校へ行っている率が高く、より多くを学んできたことから、成績が良かった。最終的な追跡調査(ペリー-では40才、アベセダリアンでは30歳)では就学前教育を受けた子供は受けなかった子供よりも学力検査の成績がよく、学歴が高く、特別支援教育の対象者が少なく、収入が多く、持ち家率が高く、生活保護受給率や逮捕者率が低かった。経済学的見地からすると、「貧困に対処し、社会的流動性を促進するために、所得の再分配を求める声は多いが最新の研究では、ある時点で、確実に社会の不公平を減じるものの、それ自体が長期的な社会的流動性や社会的包容力(立場の弱い人々を排除、孤立させるのでなく共に支え合って生活していこうとする考え方)を向上させない」と主張している。事前分配―恵まれない子供の幼少期の生活改善をすることーは社会的包容力を育成すると同時に、経済効率や労働力の生産性を高めるうえで単純な再配分よりもはるかに効果的である。事前分配政策は公平であり、経済効率がいい。これは幼児期の子どもに投資した方が、成長した子供に投資するよりははるかに安くつき、効率的であると言っている。この面では今日本では幼児教育の無償化が言われているのは正しい選択なのだろう。しかしアメリカでは政治が介入することを嫌い、子どもを自宅で教育するホームスクールの自由化を推進して、学校教育を崩壊させようとしている人も多数いる。ホームスクールで教育されている子どもは200万人を超えている。このような人々に彼の主張は全く受け入れられないだろう。ヘックマン教授の意見に反対の人も多い。例えば、物事を恣意的に(自分に都合のよいように)考えているとか。「社会計画の成果の評価が素晴らしく設計されている程、正味の成果はゼロだと評価される」とか。しかしヘックマン教授の提言は一つの大きな方策かもしれない。夏祭りを経て、長い夏休み、この機会にしかできないことを一つでもいいからやり遂げよう。いろいろな場所に行く機会も増えるだろう。しかし決して事故にあったり、病気になったりしてお父さん、お母さんを悲しませないでほしい。そして8月25日には元気いっぱいな姿を先生に見せてほしい。しばしの別れです。

01 7月 2017

謙虚または卑屈
ー7月のことばー

    今年は空梅雨かなと思っていた矢先、どんより曇り、頭を押さえつけられるような空模様、やはり今年も梅雨は日本にやってきた。水の大切なことは十分理解しているつもりだが、戦後すぐには梅雨が来るたびに悲惨な災害がもたらされ、失う人的被害も大きかったが、高度成長が進むにつれ、河川、山林が整備され、損失が少なくなってきた。しかし自然の力にはとても勝てず、今でも謙虚に自然の怒りが鎮まるのを今か今かと待っている。私たちは静かな安らぎの生活環境の中で暮らしたいと願っている。がしかしそれを希求していくと、ある種の矛盾に遭遇してしまう。人は個人の安寧さ、快適さを極度に追求、すなわち働く時間を減らし、余暇を限りなく増やしていくと、どのような結果が生じるだろうか。生活レベルが下がってもよい、働く時間を見直し、家族の絆を深め、自分の時間を出来るだけ沢山持ちたいと願う人には幸いであろう。高校の教師をしていたときの英語の例文を思い出す。Japanese people are (industrious) (industrial).どちらが正解かよく問題に出した。日本人は世界中から勤勉な民族だと言われてきた。果たして今も同じだろうか。疑問に思うことも多い。実際にアメリカ人や他のアジア人で日本人以上によく働く人も多い。というか熾烈な生存競争を繰り広げている。日本は資源のない国であり、その日本が世界で互角に戦い、存在続けるためには、その優れた頭脳を生かしてよく働く以外に方法がない。それが日本の存在を確固たるものにし、世界に大きく貢献できる道と思う。幸い日本人は個よりも集団を大事にし、又強く日本人であることを意識し、団結する力がある。日本人が活躍していると、熱くなって支援したり必死の応援をしたりするし、made in Japan と書かれていたら、優先的に買いたい気持ちになる。自然科学だけでなく、人文科学の分野においても、ノーベル賞を始め、世界的権威の賞を授かっている人は多い。それはそれで私たちにとって、とても大きい精神的な励みになることは自明の理として、特にスポーツ面での若者の活躍が顕著である。テニス、ゴルフ、卓球、短距離、野球、サッカー、バドミントン、そしてモータースポーツの一つの頂点、インディー500を制した佐藤琢磨選手。彼らの活躍ぶりは私たちの想定の範囲を超えて世界的である。アメリカは?ドイツは?中国は?どうだろうか。日本と同じような国民性だろうか。その違いをまざまざと見せつけられた。6月のある土曜日、朝、関空を飛び立って、昼過ぎに上海に到着した。初めての中国であった。長崎県の真上を通り、長江の河口にある大都市上海の浦東(プートン)空港に着いた。目的はなかった。行く場所も決めていなかった。何の下調べもしなかった。ただトムクルーズの映画に出てくるあの背の高いビルのある地域だけは見たかった。空港の案内所で町の中心街に行きたいと言った。外灘(ワイタン)バンドに行けと言った。すぐにつくものだと思ってタクシーに乗ったが50kmは優に離れていた。タクシーで降りた目の前に日本食レストランがあったので、そこで少し食べ、反対側から上に出た。驚きであった。目の前の風景、カーブを描いた大きな河の向こうには、映画で見たのと同じ風景があった。ここは外灘 バンドと言うのだと初めて知った。その風景は私に強い印象をもたらしたが、反面シンガポールに似ているかなと思った。同じJAL機で時差の1時間異なった上海空港を6時に出発して、関空に戻った。慌ただしい一日であったが、それなりの収穫もあった。日本は外国からの観光客を出来るだけ沢山呼ぼうと努力している。空港だけに限らず、町のあちこち、そして便器にまで英語、韓国語、中国語の案内標識がある。外国人にとっては快適であろう。ドイツはドイツ語だけだし、観光客の多いアメリカ、フランス、イギリスでも母国語以外せいぜい英語くらいだ。先月の台湾でも、今月の上海でも日本語の案内はなかった。逆に考えれば、韓国人や中国人は英語も読めないから母国語で表記してあげているのだと、傲慢に考えていると思われても仕方がない。外国は自国にプライドを持ち、その国を訪れる人はその国やその言語を少しでも調べてくるべきと思っているのか。反対に考えれば、日本人は外国人には奇妙にへりくだり、プライドがなく、「おもてなし」と言って過剰な接待、歓迎をしているだけなのか。小さなこと一つとってみてもそれぞれの国情を垣間見ることが出来る。 7月、July、文月、今月も子どもたちの成長を願って一歩一歩進んで参ります。

01 6月 2017

Formosa  美しい(島)
ー6月のことばー

    15から16世紀にかけての大航海時代、新大陸発見に意欲を燃やすポルトガル船に乗った乗員が台湾海峡に浮かぶ大きな島が、実際そう見えたのだろうか、それとも故郷を離れての寂しさで、うっすらと浮かぶ島影を見て思わずそう言ったのだろうか。その一言がその国の国名にまでなったことがある。私たちにとって、とても近くて、親日的である国、台湾。その国の企業が日本の大企業を買収したとか、卓球の選手がその国の人と結婚したとか、東日本大震災の時には多額のお金を日本に寄付したとか、日本の新幹線が唯一走っている国とか、日本との結びつきも深く、話題も多い。今まで遠くの国を沢山知っているのに、近い国はほとんど知らなかった。まだ中国にも行ったことがない。それにしても台湾は近い。時差は1時間、関空を飛び立ち、四国、宮崎、鹿児島の上空を飛行して、実質2時間あまり、キャセイパシフィック機は台湾桃園空港に降り立った。近い松山空港ではなくて、台北(タイペイ)から遠い飛行場であった。タクシーに乗ってホテルまで行ったが、高速道路経由とはいえ、結構時間がかかった。何の知識も持っていなかった。ただ航空券があったために、土曜日に行って、日曜日に帰ってきただけであった。ホテルは市内中心部にあり、立派であった。時間があったが何も計画がなかった。ホテルで聞き、ネットで調べて、九フンと高層ビル台北101へ行くことにした。九フンは千と千尋の神隠しの映画で有名になったところだそうだ。ホテルは日本語の話せるタクシーを手配してくれた。女性であった。東京に4年間いたそうだ。そのタクシーでも結構遠かった。キールン(基隆)を超えて、山に登っていった。タクシーを降りた所から両側にそれこそ沢山の台湾料理やお土産屋が並んでいる細い道を大勢の観光客と一緒に進んだ。独特の臭いと雑踏で少しつらい道程であった。結局何が沢山の観光客をこの地に引き寄せるのか理解できなかった。比較するのは申し訳ないが、日本にはもっと素敵な景色が一杯あると思った。しかし台湾にあると言うことが、大きな意義を持つのだろう。乗ってきたタクシーで市内まで戻った。台北101が目的地であった。最近のドバイの高層ビルが出来るまでは世界一高いビルであった。ビルには上らなかった。フードコートがあって、いろいろ美味しそうであったが、それもスルーした。夜はホテルで中華料理と決めていた。2F,3Fのブランドショップにも行ってみたが、日本よりも高い値段にびっくりした。今回の目的の一つは美味しい台湾料理を食べることであった。ホテルの中華レストランへ行った。一品は大変高いので、コースにした。それでも日本のホテルと同じくらい値段がした。日本のホテルの中華料理と台湾の人たちの中華料理は基本的に味が違うのだろうか。それとも健康を考えているのだろうか。どの料理も薄味で私にはなじめなかった。中華料理とは本来この様なものだろうか。次の日に、同じホテルのイタリア料理を食べたが、スパゲッティーが三千円以上することにびっくりした。料理は私の嗜好とは異なっていたが、日曜日の朝に行った国立故宮博物院の建物とそこに展示してある中国古来の伝統的芸術品は立派であった。日本でよく書物で見た翠玉白菜もひときわ異彩を放っていた。タクシーでホテルから飛行場まで行ったが失敗した。タクシーの運転手は私を日本人だからJALだと思ってそのターミナルで下ろしたが、私はキャセイパシフィックであった。別のターミナルまで歩き、列車に乗って移動した。迷惑な勘違いであったが、いろいろ勉強できてよかった。それは国民性だろうか。おしなべて建物はきれいでない。リフォームすれば見違えるようになると思うのだが、そんな気はないのだろう。しかし台湾は本当に近い隣人、地政学的な位置関係を変えることが出来ない私たちにとって、これからも大切につきあっていかねばならない大事な隣国だと思った。 梅雨はもうそこまで近づいてきている。雨を鬱陶しいと思わず、大地に恵みをもたらす貴重な天からの授かり物として子どもたちに教えていきます。またこの季節は食中毒も蔓延する時期、食材、調理には十分すぎるくらいの慎重な態度で安全、安心をスローガンに美味しい給食を園児とともに味わっていきます。 水無月、6月、June、 今月も楽しく、元気に、有意義に少しでも園児の成長に寄与できるように努力して参ります。

01 5月 2017

美しい自然との共生
ー5月のことばー

    3月の梅の花、4月の桜の花は確かに私たち日本人の心に共鳴するものがあり、誰もその優雅さや美しさ、はかなさを否定するものはいないと思う。しかし、花の散った後の葉桜の姿に感銘を受ける人も少なくないのも事実だろう。その葉桜が、さも幼児が大きくなって大人に成長するように、弱々しかった葉の形状が本来の姿に変わり、薄緑色が濃い緑色に変わっていく5月、山や野原を歩くと、山ツツジや名も知らない無数の草木や樹木が私たちを気持ちの良い、爽やかな自然の優しさの中に引き込もうとする。例えば、木漏れ日は樹木から受ける大きな恵みだ。その中にいると、生きているという実感が湧いてくる。人は自然の全てのものから享受するものは大きすぎると言っても過言ではないし、私たちはその一部を活用させていただいているに過ぎない。考えれば、人間は本当にミクロの存在だ。たとえば樹木はどうだろうか。個人的には花の咲く木、実のなる木も含めて全ての樹木が好きだ。西洋では自殺すると木に変身させられると言われる。ディズニーの映画では木が擬人化されて、しゃべったり、走ったりしている。その真意は別にして、樹木は私たちの生活に密接にリンクしている。昔、防風林、防火林として、また、美的満足を得るために競って家の周辺に樹木を植えた。成長し、大きくなって立派にその役割を果たした。今は核家族化し、住宅も狭くなった。その為か昔のように大きな木を植える場所が存在しないので、京都風の矮小化した樹木を植えることが多くなった。それはそれでほっとした心の安らぎを得る意味で大きな役割を果たしている。街の植木屋さんも樹木の種類や大きさをそちらの方にシフトしている。人に寿命があるように、木にも寿命がある。日本人が大好きなソメイヨシノの桜の花は60年あまりと言われている。成長するのも早いが、散って朽ちるのもそれにひけをとらない。ひょっとすると近い将来この花は全滅するかもしれない。しかし、これは例外だ。大阪のシンボルツリーの楠は何百年いや千年を超えるかもしれない。私たちの仲間のハーモニー美木多のグループホームの敷地にある楠は、樹齢何百年の後半だろう。考えれば、明治時代も、江戸、戦国時代、そして室町時代もその目でしっかりと見、今も私たちをじっと見守っている。その敷地に今年3mくらいの高さの桜を30本程植えた。何十年か後に、そこを通る人が素晴らしいと愛で、先人に思いを巡らしていただければ本望、この上ない喜びだ。リンゴの種を植えて回ったというアメリカのジョニーアップルシードのまねをしたかったわけではない。山林で暮らしている人は、自分の子どもや孫の時代に立派な木を伐採できるように遠い未来を見つめて植樹している。自然との関わりは目先の利益を求めるのではなくて、遠い将来への投資だと言っても過言ではない。樹木は人と同じように、呼吸し、成長し、生きている。歩くことも出来ないし、逃げることも出来ないし、話すことも出来ない。寿命一杯まで生き続けることが出来そうな、人が入り込めないジャングルに生まれてきたらよかったと思っているかもしれない。過酷な環境の中で育った人があるように、樹木も又しかりである。人に守ってもらったり、人の役に立ったりすることもある。ただ先人が良かれと思って植えた樹木をただ邪魔だからといって、役に立たないからといって、無慈悲に切り倒したり、無惨な姿にされているのは非常に残念に思うことがある。樹木との共存共栄を図ることも私たちが心の豊かな人生を送る意味で大いに必要なことだろう。いろいろ主義主張はあるだろう。特に欧米では自己主張する人が多くて驚いたことがあった。今、日本にも自分の意見を押し殺した奥ゆかしさよりも、自分を主張することに重きを置く人が増えた。批判は甘んじて受け入れるとしても、私は樹木が一本もない施設よりも、緑あふれる施設の方が遙かに好きだ。仲間の幼稚園や老人施設は事情が許す限りの緑で一杯だ。しかし落ち葉や日陰のことで人に迷惑をかけるのであれば本末転倒だ。京都の庭園とまでは遙かに届かないとしても、美しい自然と共生することは大事なお子様の幼児期を預かる私たちにとって本当に大切なことであり、ひいては幼子たちの明るい未来につながっていくのも事実だろう。皐月、五月、緊張がほぐれて、ちょっぴり寂しく感じる月、十分見守りながら、進んで参ります。

01 4月 2017

輝かしい春の到来
ー4月のことばー

    再び春が巡ってきた。花が咲き乱れ、小鳥たちは歓喜の声で歌っている。生きとし生けるもの、静なるものから、走り、飛び回るものまで、全ての生命体に躍動感があふれてきた。生きるもの、特にその地を離れ、動き回ることが出来ない植物は、季節を敏感に感知して私たちにその姿の変化で知らせている。なんともないと言えばそうだが、考えれば考えるほど、自然界の不思議さに驚嘆する。新入園児の皆さん、ご家族の皆さん、ようこそ私たちの幼稚園に。数多くある中から私たちを選んでいただき本当にありがとうございます。私たちは今か今かと皆様方の到着を待っていました。いよいよ今日から私たちの仲間です。一緒に遊び、学び、食べ、すてきな活動をしましょう。ちょうど3月に巣立っていった卒園児がそうしたように。又在園児の皆さんと仲良くなり、幼稚園で楽しい活動を繰り広げていきましょう。寂しがることはありません。優しい先生がいつも皆さんを見守っています。知らないこと、新しいこともいっぱいあるでしょう。そんなときはそっと年長組さんや年中組さんに聞いてください。きっと良い答えが返ってきます。泣きたくなるようなことがあっても、それはすぐに喜びや笑いに変わります。私たちはみんな仲間です。みんなで皆さんの活躍ぶりを見ています。さあー、美木多幼稚園号は出発です。巣立ちの時までひたすら前に向かっていきましょう。在園児の皆さん、進級おめでとう。又一つ大きな成長を遂げましたね。その成長も2年や3年に匹敵するような幼児期の大きな成長です。本当にたくましくなりました。美木多幼稚園は僕たち、私たちになくてはならない場所、そんな思いがいっぱいみなぎっています。今新しい園児の皆さんが入園して同じ仲間になりました。先輩の園児としての凜とした姿、あるべき姿を教えてあげてください。それも優しく、そっと教えてあげてください、昔皆さんがそうされたように。さて、世界にはいっぱい国があります。何十億という人が住んでいます。又いろいろな人種の人がこの地球号で暮らしています。全ての人が、全ての国が同じではありません。お金持ちでまばゆいばかりの暮らしをしている人や国もあるでしょう。反対に毎日毎日どうして食べていくことが出来るか悩み苦しんでいる人もいるでしょう。そんな人にとって、教育とか幼稚園とか言う言葉は遙かに遠い存在です。幸い皆さんは日本に住んでいます。日本では勉強しようと思えば、いくらでも勉強できます。学ぼうとする人にはいくらでも教えてくれる場所があります。皆さんは恵まれているのです。その恵まれた環境の中で自分自身を大いに磨いてください。そして余力が出来たら、恵まれない人たちにも少し目を向けてほしいと思います。「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ」と言った有名な大学の先生もいました。それも真実でしょう。しかし卑劣な手段で富を奪い取った人でなければ、痩せることよりも適切な健康管理の方が重要です。体を慈しんでください。皆さんが幼稚園の園庭や保育室、遊戯室で無邪気に笑っている姿が今の今、目に浮かんできます。保護者の皆様、お子様のご入園、ご進級おめでとうございます。生まれてこの方、お子様は一つの分岐点に到達しました。これから始まる長い、長い教育の世界に突入です。私たち教職員一同、大事な幼児教育に誠心誠意力を注いで参ります。お子様の健全な成長発達のために手を携えて頑張って参りましょう。私が32歳の時に創設された美木多幼稚園は今年40歳を迎えました。巣立っていった子供たちは今、大きく羽ばたいて、社会のあらゆる分野で活躍しているかと思うと、目頭が熱くなり、感無量です。これからも保護者の皆さんの期待を裏切ることのないよう努力を重ねて参ります。今後とも美木多幼稚園をよろしくお願い申し上げます。

01 3月 2017

贈る言葉
ー3月のことばー

    春高楼の花の宴  巡る盃 影さして  千代の松が枝 分け出でし  昔の光 今いずこ (荒城の月) 国破れて 山河在り  城春にして  草木深し  時に感じて 花にも涙をそそぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす(春望 杜甫) 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし (平家物語) 栄枯盛衰を歌った詩は数えきれない。悠久の歴史を通してそのことが不変の出来事として存在し、又現在においてもマスコミを賑わしている大きな事象となっている。今から半世紀以上前、大学を卒業する秋、(当時就職は4年生の秋でどの企業にも大体就職できた)私は東京見物も兼ねて東芝の就職試験を受けた。東京までの新幹線代、東京二泊(東芝の東京宿泊所)の支給を受けた。東芝の面接試験は面接者5,6人が皇居を背景にして行われた。一般的な質問だけであったが、ただ一つ印象に残っている質問は「寄らば大樹の陰。についてどう思うか」であった。東芝には勢いがあった。ネームバリューがあった。経営がしっかりしていた。誰もが知る大企業であった。エリート企業であった。少し高慢な感じがしたが日本を代表するリーディングカンパニーであった。それに対して私も偉そうに「私は東芝を通じて海外で活躍したい。大きな傘に守られているから御社を選んだのではない」というような回答をしたと思う。土光社長の前の頃であった。重電、弱電、どちらの部門でも大活躍の会社であった。その影響力を考えて国は倒産をさせないが今やその存在さえ危ぶまれるようになった。昔、会社の命は50年と言われた。世代交代や産業の変化を考慮してそういわれた。そうなりつつある企業も多い。冒頭の詩ではないが、大企業といえども安泰な時代は過ぎ去りつつある。しかし世の中は+と-の世界、プラスばかり続くとは限らないし、マイナスばかりに悩まされることもない。どんなときにも明るい面ばかりではなくて、暗い面も見る必要がある。そしていい時には最悪の事態を想像し、そうでないときには夢と希望の世界を考える。そして苦しいからと言って人をうらやみ、人を貶めることを考えるのではなくて、そんなことをしても何も生まれてこない、そこに到達するにはどうすればいいかを考える。人の成功を祝福することも大事だが、それ以上の成功を成し遂げるために自分を鼓舞することも不可欠だ。ヒラメ的な態度も時には必要だろう、しかしそればかりでは人に見透かされ、馬鹿にされる。自分が出世しようと思うならば、自分が、自分がという考えを捨てて、人を引き立てることである。もうすぐ巣立ちの年長さんにはわかることだろう。君たちの未来は決して暗くない。いやむしろ、輝いているほうだろう。これから進む小学校は今までと異なる異質の集団、新しい友達がいっぱいの新しい社会、戸惑ったり、悩んだりすることもいっぱいだろう。しかし新しい友を見つけ、一歩進んだ様々なことにチャレンジする場所でもある。君たちならきっと先生方が思っている以上の成果を手に入れるだろう。その為に努力しよう。沢山、沢山努力しよう。そして何事にも一生懸命向かい合おう。その努力や一生懸命さは決して人を裏切ることのないもの。未来のある時期、必ず大きな成果となって帰ってくるだろう。そしてあなた方は社会の中心となって日本を支え、よき伴侶を得て、大人として精神的、肉体的に大きな飛躍を遂げる。ついには二世をこの世に残し、より一段と社会的活躍の基盤を広げていく。「努力」と「友達の輪を広げる」、この二つを君たちに贈りたい。リンゴ、年少、年中組の皆さん、もうすぐ進級です。今まで先生と一緒になって時には喜びながら、時には嫌がりながら毎日幼稚園に通園しました。継続することは本当に立派だと思います。この一年間の成長・発達ぶりには目を見張るものがあります。4月からも私たちと一緒になって楽しく、有意義に幼稚園で過ごしましょう。君たちの喜びは先生の喜びであり、悲しみもまた先生方の悲しみです。 今年度賜りましたご支援、お力添え、そして数々の叱咤激励、本当にありがとうございました。

01 2月 2017

批判と敬意
ー2月のことばー

    流れが変わった。2017年1月20日、不動産王と言われているドナルド・トランプ氏が第45代アメリカ合衆国大統領に就任した。「America first」を中心テーマにこれからどのような政治をしていくのか興味深い。12月下旬、ニューヨークに行った時、市内ツアーに参加した。日本語のガイド付きで、その女性は日本人で、現地に20年余り住んでいた。彼女は市内案内をしている間、少しでも時間があるとトランプ氏の悪口を言った。お金を払って市内案内をお願いしていた。トランプ氏の悪口を聞くためにお金を払っているのではなかった。たまりかねて「トランプ氏の悪口を言うことをやめてほしい。そのためにお金を払っているのではないのだから」と言った。実際ニューヨークに限らず大きな都会では反トランプが多い。民主的に選ばれた大統領が嫌いだからと言って何でもやっていいわけでないし、マスコミも芸能人も少し冷静になるべきだと思うのだが。私はトランプ氏について何も知識を持ち合わせていない。それどころか昔活躍した過去の人というイメージであった。しかし不動産王として成功をおさめたのであれば、普通の人以上に才能と才覚があるのだろう。実際就任演説を聞いても、オバマ氏の謙虚で建前の多い話とは対称的に率直で遠慮なく本音で語っている。政治の世界で弁護士や教育者が多い中、ビジネスマンが辣腕をふるって活躍するのも案外いいのかもしれない。それに強力なユダヤ人の勢力が控えているのも大きな強みだ。兎に角、就任後数か月すれば、反対派の人が心配するような事になるのか、あるいは「案外やるのでは」と評価に変わるのか興味津々だ。トランプ氏にとって最初の支持率が40%なのだから。それより下がる心配はいらないし、むしろどこまで伸ばせるかであろう。考えによっては気楽で余裕のある大統領であるのかも。政治の世界では前例にとらわれ、保身ばかりを考えて政党を渡り歩く政治屋の皆様を見ていると、本音でずばずばいう人が新鮮に見えてくる。日本のマスコミがこぞってトランプ大統領をよく言わないどころか批判的に記述している場合が多い。成程トランプ氏の仕事はカジノを含め、あまり尊敬をもって見られるものでないかもしれない。その上何回も失敗したとか、何度も倒産したとか言われているが、そこから這いあがり、立ち直ってきた。ひとつが失敗しても他がうまくいく。或いはその失敗から回復させるようにいろいろ網を張っていたのだろう。ビジネスはいつもうまくいくとは限らない。その時に備えて今でいうリスクマネジメントがしっかりしていたのだろう。そういう意味でお金にあまり関連付けがないオバマ大統領とは著しく対照的である。何も清廉潔白な人だけがトップに就くべきだという意見に私は与しない。ビジネスの手法を政治の世界に持ち込むのも十分合理性がある。アメリカ軍は日本から出て行けと叫ぶ団体も存在するが、トランプ大統領になって実際に日本から米軍がすべて引き上げたら、ばんざいと叫ぶのだろうか。極東の独りよがりのマスコミが選挙でちゃんと選ばれたひとの国の大統領の正当性を批判し「民主主義の破壊」等と言う。いやしくも民主主義の投票で選ばれたトップを嫌いだからと言って良い記事を書かない。アメリカのメディアがそれを聞いて新聞にそのことを書くと、アメリカの人たちはどんな反応をするだろうか。反対にアメリカのマスコミが日本の政治家について徹底的に批判すると、日本人はどんな気持ちになるだろうか。それにしてもテレビなどのコメンテーターの解説には驚くことが多い。「そんなことは誰でも知っていること」と共通理解していることを臆面もなく得意にしゃべる。視聴者を馬鹿にしているのか、解説者のレベルが低いのか、あるいは余計なことを話さないようにディレクターからくぎを刺されているのか。何か知らないが、公共の貴重な電波の無駄遣いのそしりを免れないという人もいる。トランプ氏の行動や発言はこの小さな島国に住む小さな子どもたちにどんな影響を与えるだろうか。世界貿易が縮小するかもしれないし、自動車を始め輸出に頼る企業は大きな影響を受け、貿易立国の日本は経済的に困った状態になる恐れがある。国の予算が削減され、幼児教育に回ってくるお金も減るかもしれない。しかし命を取られることもないし、力を合わせて努力すれば乗り越えることができる障壁であろう。案外そのほうが日本人の団結力が復活する良い機会になるかもしれない。しかしながら過激な発言が頻発しても短いスパンでは世の中は何も変わることはない。まだ進路の決まっていない多くの受験生、そして10年後には確実に試練を受ける幼子たちにとっては寒い厳しい2月、女神が微笑ますように心より祈っています。

01 1月 2017

50年前と50年後
ー1月のことばー

  新年明けましておめでとうございます。 新しい年が皆様にとって素晴らしい年になりますよう心よりご祈念申し上げます。 さて、私たちは気の遠くなるような過去から現在に至り、悠久の未来に流れ去っていく。その時間の連続性の瞬間に生かされている。その中で喜怒哀楽を感じ、小さな出来事に無上の喜びやこの上ない悲しみを感じながら運命に身を委ねている。いや私は自分自身の力で自分の道を切り開いているのだから、運命に身を委ねるという言葉は当たらない、と考える人もいるが、所詮、蝸牛角上の争いに過ぎない。そうは言っても、人の平均寿命は80年、その中で過去を慈しみ、現在を享受し、未来に希望を託したい思いは誰もが持つ願い。誠に個人的なことながら今から50年前を思い出し、これからの50年後の予想をしてみるのも満更悪くないかもしれない。それが個人の目を通した偏見と浅はかな知識に基づいた根拠のない意見であっても。 50年前は1967年(昭和42年)、私は大学4年生であった。毎日美木多村(7年前まではそうであったが、このときはすでに堺市と合併していた。臨海工業地帯を作るために美木多村から大量の土を海に運び、その跡に泉北ニュータウンを作るためであった。当時大阪府企業局は花形であった。)を出発して鳳駅まで7kmの道を自転車かバスで往復し、阪和線で天王寺に行った。私にとって町の中心であった鳳はこの頃より少し勢いが弱まっていった。難波に行くときは羽衣に行ってそこから南海本線に乗った。浜寺、諏訪森はお金持ちの住む大邸宅が沢山あったが、まだまだ至る所に畑が点在し、畑に水をくみ上げる風車が回っていた。今考えると信じられない風景であった。しかしそこに住んでいる人々の中には今ほど規制のない工業地帯から押し寄せる公害に憤りを感じて去って行く人もいた。高度成長期であり、少し前の中国と同じように健康と関連した公害問題に真剣に向き合うことはなかった。 50年後、2067年(平成79年)、堺はどうなっているのであろう。先日、お葬式に行ったときに「火葬場がいっぱいで2、3日待たされた」と言っていた。生まれる人より亡くなる人が遙かに多い。50年後には、今の20歳代後半の人が寿命を迎える。その時もまだまだ人口が減り続けているだろう。泉北ニュータウンは今でも超高齢社会になっているのに加え、人口減に歯止めがかからず至る所が虫食い状態になって家々が存在しているであろう。あるいは、日本に移住してきた人々が大きなソサエティを作っているかもしれない。昔の単一民族が特徴だった日本人はその面影をすっかりなくしているであろう。細い道、曲がりくねった道の多い鳳や諏訪森は逆に都市計画が進み、スッキリした街並になっているかもしれない。道路が整備され、採算の合わない鉄道は廃止されているかもしれない。車も全てが自動運転に変わり、電気自動車だけになるだろう。その中で、大容量のバッテリーを積んでいることや、大きなトルクのモーターを備えているなどが話題になるだろう。 教育の世界はどうだろうか。50年前、大学進学率は10%以下であった。今では大学に行かない人を探すのが難しいくらいだ。50年後、いま不足している保育園は定員が充足することはなく、24時間保育や病児保育も当たり前になっているだろう。幼稚園もその制度が残ればの話だが、多くは認定こども園に変わり、保育所機能を備えた施設となっているが、一部は幼稚園の矜恃を保ったまま独自の教育理念をもって幼稚園として生き残っているだろう。公立の小学校や中学校は廃校や統合がすすみ、建前ではなく本音の教育方針が徐々に示されているだろう。公私を含め、高校は取捨選択され、生き残り競争に突入している。大学は今の数多くのエセ留学生が減少し、経営が厳しくなり今ある大学の半分以上が淘汰されているかもしれない。そして受験生も自分の資格・能力を磨くことに努力し、高度な専門学校が伸びるだろう。また、超高速旅客機の出現により、一週間ごとに講義を受ける国や言語を変えることが出来、国境を超えた単位の取得が可能になっている。バイリンガル以上の言語を話す人が活躍し、言葉が不得手な人も一瞬のうちに自動翻訳機で意思の疎通ができるようになっている。現金やカードを持ち歩くことがなくなり、その人の指や目で認証されている。また、宇宙から地球を眺める宇宙旅行がツアーの目玉となり、地球一周が短時間となっていく。その一方で地球温暖化が加速され、生物の淘汰が進み、私たちが住みにくい地球になっているかもしれない。まだまだ50年先、これからの私たちの努力で良いようにも悪いようにも舵を切ることができる。時間のあまり残されていない私たちにとっては「こんな地球に誰がした」と非難されることのないように、美しい地球を作り出していく使命をもっともっと自覚していきたい。同時に仕事を発展・拡大させていくことも大事だが、過去から守り続けられたことをしっかり受け止め、守り通して次世代に引き継ぐことの重要性はどう誇張してもし過ぎることはない。そんな重要なことを担う賢い人は市井の中に紛れ込んで、誰に気づかれることもなく淡々と自分の仕事をこなしている。

01 12月 2016

未来への第一歩
ー12月のことばー

  一年の最終章、師走、12月、10番目の月、December. 私の周りでは人がどんどん鬼籍に入っていく。反対にこの世に生を受けて祝福される人も多い。しかし前者に比べると、その勢いには陰りがある。人はこの世を瞬間に通り抜ける旅人、与えられたわずかな時間に喜怒哀楽を感じ、刹那の幸福を与えられ、荒涼たる寂寞の荒れ地に急ぎ足で追いやられる。一日の黄昏が人生の黄昏に繋がり、真っ暗な闇の中に溶け込んでいく。人はその悲しみを頭で理解していたとしても、あえてその現実から目をそらし、刹那の楽しみ、快楽に身を委ねようとする。人間よりも長く生存する生き物が存在する。しかし今の倍の寿命が人に与えられるとしたら、人は今の倍の幸せを得るだろうか。かえって不幸がそれ以上に生まれないだろうか。限られた時間を知っているが故に人は青春をし、恋をし、仕事をし、愛を受け継ぎ、愛を伝えていくのではないだろうか。昔、がんの告知はされなかった、というより患者に与えるダメージが大きかった。しかし今は告知をしなければ医者は訴えられるという訴訟リスクを伴うので、必ず癌ですと告げる。たとえそれがステージ4の最終段階であっても。そして残されたわずかな人生を意味あるものにしてほしいと願って。それ以上に医学の進歩によって癌は不治の病でなくて、治るかもしれない病気の範疇に入り、人の三分の一が罹患して死ぬこの病気を患者も昔ほどの悲壮感を持って考えなくなったせいかもしれない。私は出来ないが、人によっては人生の終末を何歳かに設定し、人生のそれぞれの区切りで、何をすべきかを計画的に行っている人もいる。しかしながら大多数の人は自分の人生の終末を大きなものの手に任せているし、その日がもっともっと遠い未来のある日と思って今の今を生きている。高齢者でも考えが同じだろう。年の終わりになり、寒さが厳しくなってくると、心が閉鎖的になり、楽観的な思考から悲観的なものに変わってくる。ある意味私の精神がその年齢の領域に達していない未熟なせいであるかもしれない。今年は申年、私の何回目かの年であった。良いことも沢山あったかもしれないし、又そうでない事も一杯あったはずだ。それも時の流れと共に良いことも悪いことも過ぎ去ってしまった。今年平成28年、2016年も今月でいよいよ終わり、No news is good news. 「便りの無いのは良い便り」、熊本県で大きな地震があったが、それ以外の天変地異をひっくり返すような大事件はなかった比較的平穏な一年であった。もっとも個人にとっては大きな出来事があった人もいるかもしれない。目を外国に向けるとアメリカのトランプ氏が次期大統領に選ばれた事で、大きな衝撃が走り、いまだその事実を受け入れることが出来ない人がデモをし、反対運動を行っている。アメリカは一番の民主的な国家を標榜している。その国がルールにのっとって選んだ人だからと思うのに、自分の意に沿わない人が選ばれたことにまだ異を唱える人やメディアが多い。不思議な民主主義の理解力であるかもしれない。さて、来年、美木多幼稚園は40歳の、鳳幼稚園は5歳の、そして諏訪森幼稚園は87歳の誕生日を迎えます。それを記念して、3月1日、堺市西区鳳の西区役所に隣接の堺市立西文化会館ウエスティの大ホールで三園合同の年長さんの音楽発表会を開きます。それぞれの幼稚園で行ったクラス単位の発表会や三園合同の合唱などを考えています。詳しい内容に関しては現在、計画を詰めている状態です。三園の年長さんは300名弱、観客席は700席、当日は譲り合って見て頂くことになるかもわかりませんが、小学生になる前の子どもたちの生長ぶりを応援して頂ければ幸甚に思います。そしてこのことがそれぞれの幼稚園の未来への第一歩になればうれしい限りです。これからも変わってはいけないものを残しながら、変える勇気をもって意欲的に幼稚園教育を進めてまいります。今年一年間賜りましたご支援、お力添え大変ありがとうございました。来る平成29年、2017年が皆様方の上に幸福と健康の女神が宿りますように心より望みながら平成28年最後の文章といたします。今後ともよろしくお願い申し上げます。

01 11月 2016

伝統工芸の苦悩
ー11月のことばー

  夏が去って秋を飛び越えて冬、そうかと思えば、急に夏に舞い戻る、そんな季節が特徴の今年の日本の秋、いよいよ最終章の11月を迎えました。奥ゆかしい表現の霜月、と比較して、November, 9番目の月の表記、季節のはっきりしない外国では数字での表現の方が合理的で、生活の理にかなったものであった。さて、先月の運動会、どのような感想をお持ちだったでしょうか。いろいろ批判的なご意見もあったかもしれませんが、私個人的には、我田引水ですが、子どもたちの大きな生長が見られた立派な運動会だったと思います。頼りなさそうなりんご組・年少組さん、ちょっと大きくなってお兄ちゃん、お姉ちゃんぶりを発揮しようとしている年中組さん、そして最上級学年の根性と意地を見せて精一杯頑張った年長組さん、どの学年も素敵でした。先生もこの日の為に紫外線とか、肌が傷むとか、そんなことを忘れて、走り回って指導に当たりました。それに立派に答えた子供たちの姿は本当に何物にも代えがたい美しさでした。心から取り組んでいる、やらされているのではなくて、自ら進んで体で表現していた貴重な輝きでした。年長さんの組体は見られてどうでしたか。予行ではうまくいったのに本番では失敗して悔しがっている先生もいました。うちの子は土台ばっかりと言っているお母さんもいました。しかしみんな力を合わせて完成したその姿、形、音楽の素晴らしい効果、誰の目にも涙を誘う要素が揃っていました。私も何回流れ落ちる涙を人に知られずに拭いたかわかりません。子どもたちの頑張り、先生たちのたゆまない努力、そして体操の先生の指導力、感性に訴え、共鳴をもたらした音楽、全てが相まって大きな成果を生み出したのです。運動会は昨年まで保護者の皆様から高い評価を頂いていました。それが今年は駄目だったと言われたくない、先生の頑張りは必死でした。それが過去から受け継いできた一つの大切な伝統だと信じています。 さて、毎年の事ですが、今年は石川県金沢市で第32回全日本私立幼稚園連合会設置者・園長全国研修大会が600人の出席者の下で開催されました。文部科学省から幼児教育課長と私学助成課長の二人が出席されて「全ての子どもに質の高い幼児教育を」について問題を提起され、その財政的裏付けの話もされました。近年幼児教育の無償化が言われ、26,27,28年度予算で積極的に取り組みがなされ、就園奨励補助を通じて保護者負担の軽減に取り組んでこられました。又10年に一度の幼稚園教育要領の改訂も来る30年に改訂され、そこでは幼少の連携、接続の大切さが話されました。というのは、幼稚園では立派に育っているのに、小学校では0ベースにして扱うために、その接続がうまくいっていないからです。又幼稚園では次の10項目が5歳児終了時までに育ってほしい具体的な姿と言われました。 1.健康な心と体 2.自立心 3.協調性 4.道徳性・規範意識の芽生え 5.社会生活との関わり 6.思考力の芽生え 7.自然との関わり・生命尊重 8.数量・図形、文字などへの関心・感覚 9.言葉による伝え合い 10.豊かな感性と表現である。又認定こども園に関しては平成27年度までに新制度に移行した園は全体の23.2%の1889園であり、平成28年度で2387園(29.2%)、29年度は637園が移行の予定。この大会で「不易流行、つなぐこと、変わること」をテーマに石川の伝統工芸品の九谷赤絵作家の福島武山氏と九谷焼作家の四代徳田八十吉(女性)氏の話があり、興味深かった。前者は一代で石川県指定無形文化財保持者になった人であり、その赤い色を使った作品は目を見張る立派なものであった。あくまで謙虚な姿勢を貫き、「お客様に育てられた、支えてくれるお客様がいることに感謝しているが、近年使ってくれる人が高齢者になり、少なくなってきた」ことを心配されていました。作品のテーマは森羅万象であり、自分が求めているのは全て自然界から得られると説明された。三代徳田八十吉をひきついだ四代は三代の長女であり、父の命と引き換えにいい作品が生まれたことに感謝し、本人がどん底の時にいつもの物が美しく見えたと言い、又ふっとした時にアイデアが浮かぶと付け加えた。オギャと生まれた時から伝統工芸が好きな人はいない、徐々に伝統工芸は好きになるものであり、又愛された人は愛することが出来、九谷焼を通じて世の中をhappyにしたいと説明されたのは印象的であった。しかし九谷焼に限らない事であるが、伝統工芸の継承、発展は国の支援がない限り今後難しいとの思いがよぎった。 九谷焼とは石川県南部で産する焼物。主として磁器に釉上着画したものが多い。

01 10月 2016

民主主義?それとも独裁主義?
ー10月のことばー

  季節がいつの間にか流れ、秋たけなわ、3月から数えて8番目を表すOctober,10月を迎えた。「光陰矢のごとし」ではないにしても、絶え間ない時の刻みが私たちを何処かに急がせているような気がする。学びの季節、食の季節、一番素敵な季節にしては今年は特に天気がすっきりしない。秋晴れを経験したのは何日あるだろうか。そしてこれからもこのような天候が続くのか。2016年秋、私たちに本当にすがすがしい秋の気配を運んできてほしい。そしてその気があるなら、私たちに自然の豊かな恵み、海の幸、山の幸を、子どもたちには大地の上で動く喜びを届けて欲しい。今、8日の運動会に向けて先生も子どもたちも獅子奮迅です。10月の特異日よりも少し早いけれども、青空のもとで子どもたちに思う存分活躍させてあげたい、そして保護者の皆さんと感動を分かち合いたい。その為にいくらテルテル坊主を作っても作りすぎることはない。どうぞ当日は自分のお子様だけでなくて、集団の中でのお子さまの様子もご覧ください。そして少しでも感動で涙してもらえることがあれば、私たち教職員も報われた思いで一杯です。又10月1日は願書受付の日、是非とも私たちの仲間に加わって欲しい。物を売買するようには幼稚園選びは出来ませんが、選んでいただいて決して後悔させない教育活動を目指しています。安心して私たちにお任せいただきますよう心よりお願い申し上げます。さて、飛行機の乗ろうと待っていると機内への案内の放送と同時にすぐに長い列ができる。優先登場の案内。いろいろな会員の人たち、JALによるとマイレージ会員3000万人のうち、20万人がグローバル会員だそうだ。そして一度その資格を得ると、ほぼ永久的に様々な特典を受けることが出来る。JALの宣伝にのせられたかどうか知らないが、若い息子も俄然その取得を目指した。休みを利用して遠い所に行ったり、東京からでも沖縄からでも国際料金が同じだがマイルを稼げることを考えて、大阪 → 沖縄 → 東京 → シンガポール の往復便に乗ったりした。そのシンガポールに9月の三連休を利用して、東京から直接に行った。少し前に切符の手配をしたが、ほぼ満席、それを見越したのかどうか、エコノミーの値段が普通の時のビジネスと同じくらいの高い料金、それでも買わざるを得ない心境と、怒りはどこにも向けることが出来ない。後で知った事だが、土、日の2日間は彼の地でF1グランプリレースが開催されるために、観光客が多かった。私も何回かその関係者か?と聞かれた。たくさんの高層ビルやホテルが林立しているがビルの谷間を、一般車を閉めだして、夜その競技が行われていた。現に土曜日の夜にシンガポールの象徴、マーライオン(上がライオンで下が魚、口から噴水が出ている)の横のパームビーチという名前のレストランで名物のチリクラブと、ペパークラブの料理を食べていると、チケットを買った人だけが見ることが出来る道路を強烈なエキゾーストノイズを轟かせて、煌々とした照明の下、ヘッドライトとテールランプを点灯させながら走り抜けていった。シンガポールの入国カードの下の方に「麻薬密輸入は死刑です」書かれていた。非常に違和感があった。有無言わさず死刑なのだ。日本では「死刑になることがある」と書くだろう。昨年亡くなった初代首相のリークアン・ユーはマレーシアからの独立を余儀なくされ、シンガポールを超一流の国にしようとして、民主政治とは異なって、ほぼ独裁的な方法で国を治め、発展させた。建国の父と呼ばれるのも不思議ではない。エリート教育を進め、優秀な人材を作り、産業、金融、教育の驚異的な成長発展を達成し、都市の美観を維持し、様々な優遇策を設けると同時に、マナー違反に対しては厳しい罰金刑を科した。ゴミの投げ捨ては勿論のこと、列車や駅での飲食はその対象であった。人口550万人のうち75%は中国系、ある意味、光の部分ばかりに脚光を浴びているが、影の部分もあるような気がする。空港から町への道路は花が咲き乱れてきれいだ。南米から持ち込まれた木々も美しい風景を作り出す大きな役割を担っている。狭いシンガポールは埋め立てで領土を広げていった。泊まったマリーナ・ベイ・サンズというホテルもそうだ。57F建ての三つのタワーの屋上に巨大なプールがあった。入ってはいないが、そこから見下ろす風景は別世界の感がある。と同時に地震のない常夏のこの国ではありだとしても、日本では許可されない建物だろう。それに私の部屋は29Fだったが、簡単にベランダに出ることが出来、そこに1m位の高さのフェンスがあるだけでその向こうは奈落の底。横のガーデンズ・バイ・ザ・ベイの公園には池があり、概して水が汚いが、その淵に木で作った小道があった。誰でも通れるのだが、池との間にフェンスがない。落ちて事故でもすると責任問題だが、それを知って行動している人の自己責任。昔の日本はそうであったが、今や批判を怖れて何でもかんでも安全策を取る日本、少々の危険を恐れずに新しいことにチャレンジしていく、テクノクラートが支配し繁栄する国シンガポール、強権政治を批判し、貧富の差を攻撃する人もいるが、アジア第一の教育水準を達成し、世界有数の金融市場を成し遂げたのも事実だ。シンガポールの今日ある姿を見ると、国の統治を一人の優秀なエリートに任せた方がいいのではないだろうか思う面もあるが、税金が安いからと言って、この国に居を移す日本人が多いのも少し残念な気がする。

01 9月 2016

ドクターと3台の携帯電話
ー9月のことばー

  長かった夏休みも終わりを迎えました。お子様が家にいる日常はどのようだったでしょうか。近くであれ、遠くであれ、子ども達と一緒に何処かに行って、楽しい忘れがたい思い出が作れたというご家族もいれば、疲れてくたくたになったというファミリーもおられるのではと思います。小さな子供たちのいるご家族を見ると、私も何人かの小さなわが子と過ごしたあの時を思い出します。今になったら、あの時に子どもたちにあのようにしておけばよかったと思うこともありますが、子どもといる生活、子どもを育てる喜びは子どもたちが親元を離れて初めて分かる何事にも代えられないものと思います。嫌なニュースに毎日苛まされているこの頃ですが、なぜあんな残酷なことが出来るのでしょうか。日本人は子どもを親の所有物と考えているのだろうか。アメリカで合った現地に長く住んでいる日本人は「アメリカは子どもたちの権利が十分に守られている社会、一人で子どもに留守番をさせたり、強い体罰を加えると、近所の人がすぐに警察に連絡して保護者は逮捕される。まして車に子どもを置き忘れて、その子供が死んだりすると、保護者は死刑になりかねない。子どもは親の所有物ではなくて一人の独立した人格である。」と言った。又付け加えて、韓国系の社会では儒教の影響だろうか、親子のきずなが強い故に、子どもに対する厳しい指導で警察のお世話になる事が多いと言った。子どもが家にいて楽しく過ごした人も、もう限界と感じた人も、それぞれ貴重な経験をされたことと思います。子ども達はきっといい思い出を持って、幼稚園に帰ってきたと思います。二学期は運動会を始め、様々な行事があります。皆様方のご支援、お力添えを頂いて、より素晴らしいものを目指してまいります。ご期待ください。 さて、今日は8月28日、私のいる部屋からガラス越しに、夏に三か月咲く花、サルスベリ(百日紅)の赤い花が私の心を和ませている。そのサルスベリの花を至る所でたくさん見た。そこは桜で有名なワシントン、日本から送られた桜の木も多いが、今花盛りのサルスベリも無視できない。中国や東南アジア原産のサルスベリがなぜワシントンに多いか私にはわからない。ホワイトハウスの敷地にもそれが咲いていた。その時見学中の私たちにそこから離れるように警官の厳しい声、バスに戻って出発したその時、爆音とともに、どこからともなく飛んできた三機の大きな黒いヘリコプターが川の上を機首をホワイトハウスに向けて降下していった。オバマ大統領が広島に来た時にテレビを通してみたのと同じ光景、おとり、本物、予備、それぞれ役割があるのだろう。そのワシントンへはニューヨークからアムトラック(列車)で3時間、日本の新幹線なら、1時間余りでついてしまうのにという個人的な思い、しかし飛行機との競争や、資金的な問題、その他私たちにわからない問題がたくさんあるのだろう。今回初めて関空からアメリカ西海岸に飛んだ。昨年就航した関空ロスアンゼルス線、10時間の旅、日本のエンタテイメントや日本語でのたくさんのビデオや映画を見られるので、JALが好きだ。昔アメリカ・日本・フィリピン路線にノースウエスト航空(今のデルタ)が飛んでいたが、この路線には一番古い機材を使用していた。乗っていて怖い思いをしたこともあった。JALも最新の機材でなく、座席レイアウトも古いものであった。昔乗った東京・シドニー線ほどでもなかったが。アメリカに行くのにはESTAの登録が必要。今回初めてLA空港でコンピューターでの入国手続き、日本語を選んで済ませたが、それでもまだ入国審査官の手続き、だいぶ並び、待たされた。厳格な審査が必要なある国の大きな飛行機が同じ時刻に到着したためにそのあおりを食ったと思うのは考えすぎだろうか。そこから乗り換えてアメリカ大陸横断、5時間余り、最初の目的地オーランド(ORLANDO)に真夜中に到着。日本を出て実に18時間、長いことは長いが18時間でアメリカ東海岸フロリダ半島にいるのは奇跡だ。戦前、志賀直哉や武者小路実篤が活躍した時代に比べると、隔世の感だ。ここはDisney World、日本の何百倍もあるとか、次の日、見学を終えて、一人部屋で日本から持っていった梅干し、ラーメン、ビン詰のなめたけや鮭のほぐし身、それに江戸っ子煮の缶詰、を食べて少し休憩していると、体に何か違和感、持っていった血圧計で図ると、普段は120~130余りが、180を超え、少し下がっても160くらいでそれ以上は下がらない。安静にしていても一向に下がらず、その上不安を感じてきたので、午前1時頃、日本で入った旅行保険のアメリカの担当者に電話、ガイドもいない中でこの時ほど携帯電話がありがたかったことはない。医療保険も含まれていることを伝え、この近くのEmergency(救急)の病院を教えてもらう。私の場合、Dr.Philip Hospital であった。夜2時頃、付き添ってもらって病院に到着、院内に入る前に飛行場と同じ荷物検査があった。すぐにトリアージ(triage, 患者の受診優先順位を決める)に行き、その後血圧と血中酸素濃度を調べてもらううちに不安感が消えていった。ドクターが出てきてどうしたのかと聞いたが、専門用語がわからずにいると、携帯電話を渡された。私が1台、ドクターが1台、そして1000km以上離れたニューヨークの保険会社の日本人女性が1台の3台で私が日本語で症状を説明し、N.Y.の彼女はそれを英語で説明し、ドクターはそれに応えて英語で彼女に、彼女は日本語で私に、まるで日本にいるように何ら不自由を感じなかった。その後少し診察を受けたが、1時間くらいでホテルに帰った。料金は無料、タクシー代も保険会社支払であった。次の日は朝から元気で体調が戻っていた。私にとっては初めての貴重な経験であった。いつも無駄金と思って払っていたが、保険は今回本当に役立った。

01 8月 2016

一段とたくましくなった姿を見せて下さい
ー8月のことばー

  中国>日本>イギリス>アメリカ 私たちは得てして誤解しがちである。現在超先進国であるがゆえに歴史も古いだろうと。 企業の世界に置き換えてみれば、大企業で重厚で基幹産業であり、実力ある企業であるが故にその歴史が古いと。しかし企業は生き物、その繁栄の歴史は一般に50年だと昔は言われたので、国とは少し異なるが、冒頭の国は歴史の古い順に並べたもの。悠久の歴史を誇る主に漢民族の中国は様々な人種の人たちが作った新興国アメリカに次いで経済的実力は2位、新しい国と古い国が1位と2位を競い合うのは歴史の皮肉でもある。歴史の皮肉と言えば、欧州で今大きなうねりとなっているのが民族大移動。今から1700年あまり前に始まったそれは、明白な国境がなかった時代に、一部は自由意志であったかもしれないが、時の権力者の恣意的な行動によってなされたもの、北から南へ、北欧からイタリアやスペインへ、そしてそのうねりはついにはアフリカまで到着した。21世紀の今の欧州で潮流となり、各地で様々な問題を引き起こしているのも、現代版民族大移動。皮肉なことに今回は前回の真逆、南から北への大移動。アフリカから中東から、欧州への追い立てられるようにしての動きは政治的迫害が認められるものの、自由と豊かさを求めての命をかけての必死の移動。最近まで国境という概念がなかった中東は別にして、今の欧州はヨーロッパ共同体になっているとはいえ、まだまだ祖国という概念が強く、強烈なアイデンティティを持っている国の集まり。離脱を考えている国もあり、自由に国境を行き来できる理想主義の建前と他民族排斥運動という本音の狭間で、欧州人が持つ葛藤が深く、大きな政治的対立の源流となっている。家族、市町村、都道府県、国、人はその中で連帯を強め、安らぎを得、存在を確認し、競争が芽生え、闘争心がわき上がる。卑近な例では、家族に有名人が出ると、急に親族が増えたりする。市町村単位では学力の向上を目指しての競争が起こり、国体などでは自分の都道府県を今そこに住んでいるだけで、応援に熱くなる。オリンピックや国外試合又はノーベル賞や先端科学技術では、日頃は見向きもしない人も、日の丸を見るや否や目頭を押さえ、涙を流して応援を始める。国威発揚と言ってしまえばそれまでだが、何かしら大きなつながりを感じてしまう。危険なサインと言う人もいるが単純に喜んでいいのかもしれない。これが民族の同一性のもたらすものであり、その中では人は快適であり、仲間意識が培養され、それを邪魔するものは排斥されかねない。大きな力となるものであり、危険な力にもなり得る可能性もある。どちらにしても、自民族だけが、自国だけが豊かであり続けることは出来ないし、そんな甘い考えは許されるものでないことは歴史が証明している。アメリカの新聞に日本の事が掲載されることは少ないが、東南アジアの新聞には日本についての記事が多い。1970年、1980年代、台湾や、東南アジア、中国は日本との収入格差が顕著であり、富裕層もほとんど見られなかった。しかし今はどうだろうか。日本との収入格差はあまり見られず、中国の富裕層に至っては日本国民の半分くらいにまでなっているとか。私たちは昔のイメージを払しょくして、新しい時代に適応した考えを持つことが大事になってきた。しかし日本人であるという昔からの誇りは心の中に持ち続けることも必要である。時あたかもその象徴的存在の天皇陛下が生前退位を考えておられるとか。フィリピン、パラオという激戦地を訪問されて、一区切りと考えられたのでしょうか。歴史は確実に動いている。 一学期が終わりました。保護者の皆様も実感されていると思いますが、子ども達は肉体的、精神的に随分成長を遂げました。本当に褒めてあげて下さい。これからいよいよ長い夏休み、ただ怠惰に日々を送るのではなくて、この機会にしかできないことを一つでも、二つでもしてあげて欲しいと思います。たとえどんな小さなことでも、子どもたちの記憶の中に大きな思い出となって蓄積されていきます。そして何よりも病気になったり、怪我をしたりしないように気を付けてあげて下さい。掛け替えのない命、掛け替えのない子どもたち、私たちは暖かい気持ちと強い気持ちで彼らの成長をやさしく見守っていきましょう。夏休み明けの9月、一段とたくましくなった姿で私たちの前に帰ってくるのを楽しみにしています。しばしのお別れです。

01 7月 2016

イギリスが向かう道と日本
ー7月のことばー

  大きなニュースが次から次へ生まれる、というか作り出されている。先月のオバマ大統領の広島訪問とその地での感動的なスピーチ、そして51.9%、1741万人、イギリスの国民投票(Brexit referendum)の結果であった。人口6000万人余り、有権者4660万人、投票率72%(3356万人)以上の中で過半数の人が離脱(leave)を選んだ。なぜ離脱なのか。日本が国際連盟を抜けた時に使った脱退でないのかわからない。とにかく喧々諤々、甲論乙駁の争いは終わった。キャメロン首相はその結果を踏まえて、官邸前ですぐに辞任のスピーチを行った。どうしてこうもオバマ大統領といい、キャメロン首相といい、ゴーストライターがいるとはいえ、スピーチがうまいのだろうか。「これから何週間か何か月、船を安定させるために首相として出来る限りのことをしよう。しかし船を次の目的地に向かわせるのに私はふさわしくない」 I will do everything I can as Prime Minister to steady the ship over the coming weeks and…

01 6月 2016

主義主張を貫いて
ー6月のことばー

  オバマ大統領を広島に行かせたのは、任期最後になって実現にこぎつけたその主張、主義、希望、思いだったのだろうか。原爆投下を正当化させるアメリカ国民が多い中にあって、その障害があまり無くなった今の段階でしか成しえなかったと多くの報道が述べている。その動機がどんなものであれ、現職の大統領が広島に来て、例え謝罪がなくとも、その思いを述べることは非常に大きな歴史的事実であり、私たち日本人も心から評価するのにやぶさかでない。だれが書いたにせよ、広島で述べた格調高いスピーチの冒頭で、大統領は71年前、雲のない明るい朝と表現した。この年、私は0歳であった。どんなことが進行していたかは知る由もなかった。両親もあまりその事を言わなかった。ただ次期大統領を目指していたマッカーサーの事はよく話した。その71年間にアメリカ大統領は何人いたかを調べてみた。原爆投下を命令したトルーマン、ヨーロッパ戦線で活躍し、マッカーサー打ちのめしたアイゼンハワー、43歳で大統領になったケネディー、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(息子)、オバマ。歴史の教科書で学んだトルーマン以外は新聞や、映画、テレビでその名前を聞いたり、顔を見たことがある。アメリカは演出が好きだといつも思う。アメリカに着いた時に見るアメリカ大統領の大きな肖像画、大統領の紋章、町へ入ると目につく星条旗のオンパレード、多民族、多人種を一つにする象徴だ。来年の受験生にとっては試験に出るかもしれないと思って英文と日本文を対訳で勉強することになるかもしれないが、アメリカ大統領のスピーチはなぜかくも格調高いものになるのだろうか。全世界の指導者、警察官を意識しているのか。大統領の就任スピーチにしろ、この文章にしろ、ゴーストライターがいるとはいえ、推敲に推敲を重ね、歴史に耐える文章になっていくのだろう。日本の政治家でこれほど厳かで品位あるスピーチにまだお目にかかれない。ひょっとしたら私の勉強不足かもしれないが。成る程謝罪的な文章はないし、反対に個人を許し、憎むべき対象を位置づけている。日本でよく言う、罪を憎んで人を憎まずの論理であろう。私がと言うより多くの人が共鳴したのは「すべての人の掛け替えのない価値、すべての命が貴重であるという主張、我々は人類と言う一つの家族の仲間であるという根源的で必要な考え」である。そして具体的な事例、今の幸せな家族の日々の生活が71年前に広島や長崎で存在し、それが一瞬のうちに消え去ったこと。歴史は繰り返すと言うが、大統領はこんな悲劇は二度と繰り返してはいけないと言いたかった。それにしても同じ日に終わったサミットはパリ郊外のランブイエ城での第1回以来今年で42回目、30歳以降であったせいか、よく覚えている。最初は今ほどテロやデモの脅威もなく、警備も比較的軽微であったがこんなに厳重に警備するようになったのは主に欧州メインの会議であるせいなのか。物見遊山的な会議で何を話し、何を決めることが出来るか、疑問を持つ人も多いが、高級官僚の果たしてきた役割は、表に決して出ないが、大きなものなのだろう。日本の良い面をちょっとでも理解し、持ち帰ってもらったらそれだけで成功かもしれない。裏方で活躍した警護から会議の立案した人まで私たちは純粋に感謝すべきと思う。     阪神タイガース・北條史也君 平成6年に生を受けた史也君は古くから私の家の近所、周りは北條姓が圧倒的に多い。美木多幼稚園で3年間過ごし、美木多小、美木多中で頭角を現し、青森光星学院高校で1年からレギュラーとして大活躍。甲子園では決勝戦で藤浪擁する大阪桐蔭に惜しくも負けて準優勝、彼の祖父は甲子園出場の度に、バナーや垂れ幕を掲げていた。それほど思い入れは強かったのだろう。今年になって監督が代わり、一軍での出場が増えた。これからますます活躍してほしい。担任やその時に係った先生はファームから応援していたとのこと、末永く活躍してほしい。食中毒が心配な6月、健康に一段と注意して、鬱陶しい梅雨の季節を乗り切ろう。今月も教職員一同力を合わせて頑張ります。

01 5月 2016

未来への遺伝子
ー5月のことばー

  新緑の緑が目にまぶしい。光に照らされたそれは誇らしげにその存在感を示している。 5月、その声を聴くと、頼りげない生まれたばかりの若葉が青年期の力強い、勢いのある大人の葉に成長してくる。この間の体操集会の冒頭で人の命を木々の葉に例えて話をした。理解している子もいれば、そうでない子もいたかもしれない。しかし何らかの形で頭の片隅に残っているはずだ。春になると、今まで枯れて、死んだふりをしていた木々が一斉に芽吹きを始める。薄緑色の小さな若葉は太陽の洗礼を受けて、徐々にその色を深めると同時に形も大きくなり、野山に木漏れ日を作っていく。成長し、最大限のおめかしをして、花や実で私たちに大きな楽しみを与え、次世代へ遺伝子を引き継いでいく。その後朽ち果てて、次の世代の養分になるよう最後の貢献をする。同じように、人類のできる最大で最高の創造物である人も、大きな愛情を持って育てられ、持てる能力に磨きがかけられ、善良な大人に育っていく。そして、純情無垢で怖いもの知らずの、見目麗しき青春時代に、お互い認め合う伴侶を得て、次世代へのバトンタッチの準備をしていく。その後さまざまな教養を後継者に傾注して、自身は大きな期待と満足感を持ってステージから消えていく。ただその期間が1年であるのか、80年であるかの違い、というような事を話した。人生80年は長いか短いかは人それぞれだろう。ある人はもう十分だと言い、別の人はまだまだもっともっとと言うだろう。しかし何歳だから死んでもいいとかいう事はない。死んでよい年齢は存在ないし、許される限り生き続けるのが、人の一生だろう。もし人以外の動植物が話すことが出来るなら、何と答えるか聞いてみたい。瞬間に生きるカゲロウ、命が短いトンボやチョウ、それに私たちのペットになっている猫や、犬、反対に鶴や亀にも聞いてみたい。樹齢何百年の大木にも問いたい。「長く生きてきて幸せだったか」と。人間界では男女共同参画が当たり前のように言われ、女性の社会進出が当たり前のようになっている。事実男性の育児への参加が急激に増えている。しかし家庭を持ち、子どもを育てる仕事は大変な仕事であり、これは女性の持つ種の保存能力に支えられた非凡な能力のなせるわざであり、この面に於いて、家事と育児という大きな仕事を遂行していることを女性は大いに自慢すべきかもしれない。子どもの一挙手一投足に喜怒哀楽を感じているお母さん、相談に乗ってくれる人が身近にいないお母さん、私たちはそんな不安や喜び一杯のお母さんと一緒に、子どもたちの生長を喜び、大きな発展につながっていく努力を一生懸命行ってまいります。私は昔の話をテレビや映画でよく見ることがあります。そして今だったら死なずに済んだのにとか、あの時なら松並木が枯れることもなかっただろうし、海ももっと綺麗だったなと思う時があります。そう、それが事実なのです。しかし当時治療法が分からなかったので死んだことが果たして不幸せであったのだろうか。反対に100年、200年後の人が振り返って、西暦2000年の人はあんな病気で死んだ、今なら何でもないのにと思うかもしれない。それは人の運命であり、限界かもしれない。逆に考えれば、昔の人はそのことを意識しなくても、今よりはるかに環境のいいところ、景色の素晴らしい所で生活していた。人は決められた器の中で生まれ、育ち、精いっぱい努力し次世代に遺伝子を残していく。そしてその中で最高の幸福を求めていく。考えれば小さな生き物であり、また大きな存在でもある。そんな夢みたいなことを考えている5月当初、今月も美木多丸は幸せと成長探しの旅に出ていきます。

01 4月 2016

春、四月 美木多幼稚園
ー4月のことばー

  遠い異国の地で生まれた春、極寒の北極海を横断し、国境を超え、流氷を俯瞰しながら、長い旅路を終えて、私たちの暮らす祖国日本にたどり着いた。そして休む間もなく、野を超え、山を越え、河川を渡り、飛ぶ様な勢いで私たちの元にたどり着いた。待ちに待った春がやってきたのです。嬉しい、幸せな季節の到来です。今年は少し到着が早いかなと思っていると、日にちを間違えたと考えたのか、寒の戻りできっちり季節を調節している。にくい演出家でもある春、美木多幼稚園に39回目の春が音もなく静かに今到着しました。春と聞いただけで、私たちの閉ざされた心が無意識のうちに開き、体に生気が満ち溢れ、躍動感がもたらされるのも不思議なものです。冬の寒い真っ只中に、様々な形で春と言う言葉を多用しているのも、春が私たちを何かから解放してくれるという暗示を得たいためかもしれません。兎に角、今は春を目で見、その近づく足音を耳で聞き、それが醸し出す匂いを満喫するのです。わたしたちが自慢し、誇りに思っている日本の春、日本人だけが悦に入り、喜び、至福の時を過ごしていた掛け替えのない日本の春が、異国の人にもその素晴らしさが知れるようになって、日本の春を愛でる外国人が増えたとか。そんな春爛漫の四月、新入園児の皆さん、「ようこそ美木多幼稚園に」、今日から私たちの仲間です。楽しいこと、うれしいことが一杯溢れています。又ちょっぴり悲しくなる事や寂しくなることもあるでしょう。でも大丈夫。皆さんは一人ぼっちでないのです。たくさんの仲間が一緒です。優しい先生も皆さんをじっと見守っています。皆さんはこれから美木多幼稚園で2年、3年、4年の年月を仲間と一緒に過ごします。その間に未体験の経験を数多くすることになります。野山に行ったり、山に登ったり、自然と一杯触れ合ったりします。運動会、作品展、音楽・生活発表会などの大きな行事や近くの公園や田畑に行ったりする小さな活動にも喜んで参加します。楽しい行事、期待される行事もたくさんあります。お誕生会にはいろいろな人に来て頂いて、この世に生まれたことを皆で祝福します。皆さんの幼稚園生活が本当に充実したものになるよう私たち教職員は精一杯知恵を絞り、頭や体を働かせていきます。さあ、いよいよ期待と希望の始まりです。私たちにとっても皆さんを幼稚園に迎え入れて、本当の嬉しい、幸せな幕が開きます。保護者の皆さん、お子様のご入園心よりお喜び申し上げます。生まれてこの方、今まで子育てに大変なご苦労をされたことと思います。これからは私たちも仲間に加わって、子ども達が立派に大きく成長されますよう手を携えていきましょう。幼児期は人生の根の部分を形作る大事な時期であると同時に大きな成長も期待できる大切な時でもあります。この時期が将来を左右すると言っても過言ではありません。保護者の皆さんが美木多幼稚園にお子様の幼児教育を託されたことを本当にうれしく感じると同時に責任の重さもひしひしと伝わってきます。保護者の皆さんと一緒になって何がこの子たちにとって大事なのか、どうしてあげたらいいのか、経験と体験を踏まえながら、よく考えて実践していきましょう。又同様に子供たちの安全、安心の面にも十分注意を注いでまいりましょう。在園児の皆さん、ご進級おめでとうございます。皆さんはすでに美木多幼稚園で1年、2年、3年を過ごしました。その間に先生もびっくりする程、体も大きくなり、心も豊かになりました。知識の量も以前と比べ物にならないくらい増えました。これからの1年でもっと大きく成長することと思います。先生と一緒になって楽しく有意義に幼稚園生活を送りましょう。最後になりますが、在園児の皆さんも、新入園児の皆さんもお父さん、お母さんを悲しませることのないよう、事故にあわないよう、怪我をしないよう又病気にならないよう体と健康に十分気をつけましょう。私たちは保護者の皆様の負託に十分こたえることが出来ますよう、誠心誠意力を尽くしてまいります。今後ともご支援、お力添えをよろしくお願い申し上げます。そして又皆様方がご多幸でご健勝で過ごされますよう、心よりお祈り申し上げます。

01 3月 2016

時には傷つき、時には喜び
ー3月のことばー

  どんよりした冬空、玄関を開けた途端、冷気が体を覆ってしまう。身震いすると同時に今日一日の緊張の瞬間だ。予報では快晴を伝えているがその兆しは何も見えない。相変わらず頭上は雲一面だ。ガレージに行くと、さも「早く乗れ」と言っているかの如くに、車がそこで私を待っている。ドアを開け、座席に身を沈め、荒々しくエンジンキーを回す。寒い中でも一発始動、徐々に体が車になじんでくる。何気ない普段の動作の繰り返しに過ぎない行為の裏に、車作りに賭ける技術者の努力とその結晶が感じられる。昔はよく故障した。何回もセルモーターを回してエンジンがかかったことが多い。バッテリーも今と比べて、品質や寿命の面でかなり落ちていた。極端な話、ただエンジンと燃料があれば動くというものであった。車は故障するもの、そうなっても仕方がないという意識があるが、めったに故障しない車に乗っていると、何万分の一の確率でそんな故障に遭遇すると、口汚くののしって、攻撃は車メーカーに向かってしまう。逆説的に考えると、故障する車を作る方がよいのかもと思ったりする。しかし今は電子機器で武装され、高性能、安定性、機能性、快適性、安全性などが求められてきた。中には昔の古いレシプロエンジンにノスタルジーを感じる人もいるが世間の大半は今の車に満足に近いレベルを感じている。幼稚園に着くと、寒空に凛として耐え、その樹形を保って、私たちに心の安らぎと安心感を与えてくれる木々や低木、鮮やかな色と形で園児の到着を待ちわびている遊具に出会う。毎日の出来事と言え、何とも言えない瞬間だ。今日の新聞は国立大二次試験の掲載、今の時期、高校や大学の受験や資格試験の話題が多い。どんな大人も時間がゆっくり流れる青春時代の試練を乗り越えて今に至っている。甘い、苦いもあるだろう。しかしそんなこと全てひっくるめての青春時代、努力がすぐに報われた人もいるだろうし、努力の甲斐もむなしくの人もいるだろう。しかし努力したという事は確かだし、それが真実であれば、その人に努力の跡が蓄積され、次の機会にはもっといい結果が生まれるだろう。私個人的にも努力してそれが実現できた可能性が驚くほど低い。しかしすべて失敗だったわけでなく、上手くいき、満足を得られたこともある。「努力は決して人を裏切ることはない」言い古された言葉だが、巣立ちゆく年長組の皆さんに贈りたい。これから小学校、中学校、高校、大学と進んでいくだろう。少年時代から青春時代、10代から20代の多感な年月、時には傷つき、時には喜び、涙を流すこともあるだろう。しかしどんな時にあっても「努力する」という事を忘れないでほしい。そして付け加えるならば、前を向いて貪欲に生きて欲しい。不運だと言う人も多いが、運は誰にもやってくる。ただその運をつかみ取るのは努力し、意欲的に人生を生きている人だと思う。同時に友を大切にしてほしい。掛け替えのない友を作ってほしい。君たちの人生がより豊かで楽しいものになるだろう。しかし何よりも何よりもまず体を愛しがって欲しい。健康な体があってこそ、実現できることが多い。親を嘆き悲しませることだけは絶対しないでほしい。君たちには未来がある、将来がある、希望がある。何でもできる可能性がある。あるお年寄りが「年を取り返せることが出来るなら、1年を1億で買ってもよい」と言ったが、それほど高価で誰からも羨ましがられる時代が君たちの目の前にある。さあ、勇気を持って進んでいこう。りんご、年少、年中組の皆さん、いよいよ年少、年中、年長組です。また一段と心も体も大きくたくましくなりました。来る年月も毎日毎日、君たちのために何ができるか、どうしてあげたらいいか、真剣に考え、行動している優しい先生と一緒になって、日々楽しく過ごしていこう。毎日毎日が君たちの生長発達の大きな過程、立派になってお父さん、お母さんをびっくりさせてあげよう。弥生、3月、いよいよ最後の月、子どもたちと過ごす残された日々を数えながら、今月も頑張ってまいります。この1年間、ご支援、お力添え本当にありがとうございました。

01 2月 2016

世間は本当に狭い
ー2月のことばー

  年末年始を利用しての3泊のアメリカ東海岸の旅であった。同伴者は26歳の息子であった。29日早朝、関空を飛び立ち、成田経由で乗ったJL006便はニューヨークへ機首を向けた。何年かぶりのNYCであった。同日の午前10時前にJFK空港に到着したが丁度韓国からの到着便と重なったために、入国審査がかなり混んだ。混んだからと言って審査官を増やすような気配りをするわけでもなく、待つだけでかなり時間がかかった。黒人の審査官が多い中で、その審査官は若い白人であった。お決まりの「目的は?」「何日くらい滞在?」「最近アフリカに行ったことは?」などの質問と顔、指紋などの認証を行った。入国審査に時間がかかったために、荷物はすでにベルトコンベアーの上を回っていた。行きは12時間、帰りは13時間余りのフライトであったが、中国系のキャビンアテンダントが何人か乗っていたのは中国人のお客さんが多いのだろうか。食事をし、映画を見たりしてその時間が早く過ぎた。映画も日本語字幕や吹き替え、NHKニュースやドキュメント、民放のテレビ番組(例えばDr.X)まで備えているのはJALの経営努力なのだろうか。飛行機を降りるときにコメントを書くように求められたので、トイレの事を書いた。何回かトイレに行ったがその度毎にトイレットペーパーの端が取り出しやすいように三角になっていた。彼女ら乗員が空いている時に頻繁にトイレを清掃しているのだろうと。トイレのことと言えば、幼稚園見学に来られる保護者の皆様も真っ先にトイレを見られることが多い。会社勤めをしている時に事業部長から直接聞いた話、松下幸之助から会社を作ってこいと言われ、2億円を渡された。まず第1にしたことはきれいなトイレ作りから始めたと。そう言えばハーバード大学の授業でJALの倒産がテキストに取り上げられるそうだが、その日本航空を救ったのが京セラの稲盛会長で、盛和塾の塾長、共に会社設立の貢献者であり、偉大な経営者、その考えがJALにも徐々に浸透し、トイレもその一例だろう。昔のJALはお客さんを乗せてあげるという考え、今は逆転して、乗っていただくという考えになった気がする。先日京田辺市のゴルフ場に行ったときに、何時も大概一人で行くので、支配人から今日は京セラの前の社長のN氏も一緒ですよと言われた。全然面識のない人なので、他愛ない話をしてその日は終わった。後日、近所の小学時代からの友人にその話をすると「それはNさんか?」という答え、びっくりして聞くと、「彼は鳳の人で、三国丘高校の夜間で一つ上だったが、その当時は友達だった」とのこと。昔は高校に進学するのが3割弱、その上勉強がよくできても昼働いて、夜間に行く生徒が多かった。Nさんも大学院まで行ったそうだ。そんな事を知っていたら話のタネももっとあったのに、後の祭り。世間は本当に狭い。空港からマンハッタンのホテルまでタクシー、この料金は一定で、タクシーによって変わることなく、厳しくコントロールされていて安心。12時頃に着いても、ホテルはまだチェックインできずに、荷物を預けて、二人で近くの「そば日本」で昼食。日本と変わる点は何でも量が多い。日本の1.5~2倍の量。まだチェックインまでに時間があったために、近くのMOMA(ニューヨーク近代美術館)のショップへ、そこで小物を少し買ってホテルへ。46Fの見晴らしのいい部屋、夕方まで少し休み、日本から持っていった電気ポットでカップラーメンを作り、食事。それにしてもNew York で聞こえる会話は英語よりもスペイン語の方が多い気がする。中南米からの移民や観光客がそれほど多いのだろう。夜は寒いが思ったほどの寒さはない。日本でネット予約したブロードウェーのミュージカル「シカゴ」を見る。それなりの迫力があるが「ライオン キング」や「オペラ座の怪人」などに比べると部隊が簡単だ。翌日はレンタカーでハドソン河に架かるジョージ・ワシントン橋を渡って北に向かって1時間、ウッドベリーコモンアウトレット。欧州では価格から税金分が引かれるがアメリカでは外国人であっても+税がかかってくる。ブランド品は日本の方が安いが、ここのアウトレットでは日本のそれと比較にならないほど大きくて、値段が安い。お目当てのものが見つかればhappyだが、日本で依頼された商品を聞くとまだこちらに来ていないとのこと、少し時間がたったものや型落ちの物を販売しているのはどこの国のアウトレットも同じ。NYC最後の夜、バスケットボールで有名なマイケル・ジョーダンが経営するMet Life ビル(昔のパンナムビル)の近くのGrand Central Station駅構内にあるステーキ店に行く。この店で有名なステーキを注文したが、それがワンパウンド、約450g、調味料がよく効き、肉も柔らかくて美味しかったが、今の私にはさすがに量が多く、少し残した。列車の駅の構内にこんな立派な店があるのは驚きだ。翌31日、大晦日、昨日と同じ47番街にあるハーツレンタカーでトヨタカムリを借りた。NY市内でも市外でも、トヨタ、ホンダ等の日本車が本当に目につく。昔はそれほどと思わなかったのだが。ナビ付を借りたが、高速で走っているので、曲がり角やターンする道路を瞬時に判断しなければならず、一度間違えて10kmほど遠回りをした。ほぼ無料だが、制限速度は約100km、何回かパトカーに留められている車があった。NYCを出て、途中休憩を入れて5時間弱、午後2時頃、300km離れたボストンに無事到着した。返却前にハーバード大学へ。そこは塀に囲まれた大学というのではなく、たくさんの建物が集合している開かれた大学という感じであった。ボストンは初めての地であったが、小高い山と川と海に囲まれた,落ち着いた、如何にもアメリカの由緒ある歴史的な都市との印象を受けた。New Year に向けてのカウントダウンを町の中心広場で行っていて、たくさんの人やTVクルーが集まっていた。Seafood が有名という事で港にある「Legal Seafood」という店で、ロブスター料理と海鮮mixの煮込みを食べたが、日本人の口に合う料理であった。ボストンは数多くの大学のある町、いつの日か美木多幼稚園出身者もボストンのアイビーリーグの大学に入学するかもしれないという希望を抱いて、(実際に在学しているあるいはした人がいるかもしれないが)、2016年1月1日、JL007便787機はローガン空港から日本に向けて飛び立った。JAL機は採算がとれるのかなと、関係者でもない私が心配するほど、空席が目立った。

01 1月 2016

2016年、新しい年を迎えました。
ー1月のことばー

  1月を数字で呼んでいるのは私たち日本人だけだろうか。英語でも、仏語でも、西語でも1月を表す別の単語があって、意味が分かるが、first month of the year とは言われない。しかしなぜかこの月から新しい年が始まるということでは一部の国を除いては共通している。人は何かにけじめをつけたい、何かを始めるきっかけがほしい、そんな単純な理由であるかもしれないし、反対に高等な宇宙天文学的な問題であるのかもしれない。私には知識がない。ただ私たちは今、過去、現在、未来へと続く時の流れの中で生かされ、現在が一瞬のうちに過去に変わり、未来は現在に変化していく。保護者の皆さん、2015年はどうだったでしょうか。期待した以上の成果があった。すべてが順調であった。素敵な人との出会いがあった。会社や社会で認められた。うれしいことが多かった。こんなことを言われる人は本当に少数の人かもしれません。大多数の人は何も大きな変化はなかった、素敵なことも、うれしいことも、期待した以上のことも何もなかった。それどころか不幸が続いた、親子の関係が分からなくなった、金銭的な苦労が絶えない、子供の成績が芳しくないと不平を言われる人も多い。ただ、幸福や満足の基準は人によって異なるもの、客観的な物差しなどは存在しない。不幸だと自分で思っていたことが他人から見れば全く幸福なことであり、逆に満足だと考えていたことが、もっと満足を得られるものになっていることもある。すべての不幸を背負って生きているというような顔をしている人もある意味、幸福の領域に達している場合もあり得る。完全に幸せな人がいないかもしれないが気持ちの持ちようではずいぶん変わるものです。この世に生を受けたからには何か社会的貢献も必要だろうし、何事にも意欲的に取り組み、また考えることも要求されている。東大阪市のあるお金持ちの高額納税者に、働かずに生活保護をもらっている人を見ればどう思いますかとの問いかけに、それは一種の必要経費で、なければ社会的暴動がおこるだろうと答えた。その人も納税という手段で社会的貢献をしている。新しい年を迎えて、思うことが多い。1日しか休みがない西欧と異なって、日本の正月は休みが連続する。小さい頃には正月は最大の喜びであった。たぶん大人の人もそうであった。休みが多かったし、華があった。それは貧しいことの裏返しかもしれないが、心が躍った。ごちそうやおこづかいがあった。夢や何とも言えないような楽しみがあった。友との交わりも密であった。今は楽しみが分散し、友との親密な交わりも少なく、無関心の人が増えている。何も正月に限ったことでなく、結婚式でもお葬式でも大きな変化がみられる。これは少子化や高齢化だけでは説明しきれない。日本人は集団から個へ軸足が移った事も大きな変化になっている。例えば、生活が豊かになったために、他人への関心、かかわりが少なくなったとか、助け合うことが昔ほど必要で無くなったとか、人との接触に苦手な人が増えてきたとかである。これも時代の流れだと一言で片づけてしまうのは何か心残りがする。個人的なことで申し訳ないですが、今年は申年、私も6回目の年男になった。1944年、泉北郡美木多村で生を受けてから今まで、今は鬼籍に入った人も含めて、いかに沢山の人々のお世話になったか、又は助けていただいたかは本当に頭の下がる思いでいっぱいです。人は一人では何もできないがそんな人がスクラムを組んで仲間意識に燃えると、とてつもなく大きな力になる。そんな目に見えない大きなパワーに支えられて今までやってこられたことが、私にとって大きな財産、命が燃え尽きるその日が来るまで、たとえ小さくとも何らかの社会的貢献をしていきたい、幼児教育の面でも、高齢者介護の面でも、思いは複雑です。いろいろ言い訳をしても、やはり新しい年には人をわくわくさせるようなものがあります。幼稚園の年長さんはあと3か月でそれぞれの小学校に巣立っていきます。私たちにとっては寂しい限りですが保護者の皆様にとっては一抹の不安と、大きな希望で心が占領されていることでしょう。子供たちは幼稚園で心も体も随分成長しました。人との関わりもうまくなりました。小学校での生活は幼稚園での基礎基本を踏まえて充実したものになり、大きな実を結ぶことになるでしょう。年長さん以外のお子さんはまだまだ私たちの仲間です。一緒に楽しく中身の濃い幼稚園生活を送りましょう。今年も、今年こそ、保護者の皆様、ご家族の皆様の上に、そして勿論、お子様の上にも陽光輝く幸せがいっぱい降り注ぎ、限りない健康でいられますように心より願っています。新年あけましておめでとうございます。

01 12月 2015

ご厚情有難うございました
ー12月のことばー

  それぞれの国には自慢すべき景勝地や歴史的建造物や世界遺産がある。そして私たちは外国に行って、それらを見学し、記憶にとどめ、その場所に行ったことに満足する。アメリカやカナダには人を圧倒する雄大な風景が広がり、自然界の素晴らしさに驚嘆する。目を南に転じると、中米や南米が広がり、経済発展のために掘られたパナマ運河が存在する。入口と出口はコロンとクリストバルという名前、クリストファー コロンブスに因んで付けられたのであろう。又先住民たちの繁栄の後もうかがい知ることが出来るペルーのクスコの街やマチュピチュの風景を見れば、もう一度ぜひ訪れたいと思う。45年の歳月がその歴史的遺産をどのように変えたのか、非常に知りたいという思いがあるが、私が再訪することは難しいかもしれない、いや今は、その当時そんなに有名でなかったウユニ塩湖の方が人を引き付けるのかもしれない。もっと南に下れば、悪魔ののど笛でよく知られたイグアスの滝、そしてもっと南には豪快に氷河が崩れ落ちるペリトモレノ瑚もある、いわゆるロス・グラシアレス。太平洋岸に目を転じると、エクアドルのガラパゴス諸島も私の行きたい場所の一つ。南米駐在の時に一度考えたが、首都キトー(Quito)から長時間の飛行で諦めた。欧州には世界遺産の40%以上が存在している。歴史が古いせいだろうか?それとも建造物の維持管理がすばらしいせいなのか。それともうがった見方をすれば、観光客集めのために低レベルの場所も世界遺産として認めてきた、あるいは審査人が欧州出身者か欧州贔屓なのかもしれない。ここで世界遺産の分布状況を見ると、ヨーロッパは43.3%、オーストラリア、ニュージランドのいわゆるオセアニアはわずか2.9%、アメリカ、カナダなどの北米は3.4%、パナマなどの中米は6.4%、ブラジル、アルゼンチンなどの南米は6.6%、アフリカ12.8%、イラク、イスラエルなどの中東は7.6%、アジア16.9%、そのうち日本は18件で、アジア170件の中では10.6%。欧州に偏在している。私は別に国粋主義者でもなんでもないが、なるほど他国の世界遺産や観光名所などは私たちの想像を超えて素晴らしいものがたくさん存在するが、考えれば考えるほど、それ以上に日本国にはまだまだ世界に、人々に、認識されていない場所が無数に存在する。そこに住んでいる人の気質、性格、穏やかさ、料理、おもてなし等の特性をも含めて考えると、今はまだアジアからの観光客が多いが、世界中から注目されているのも道理であり、不思議なことはない。何回かアメリカや欧州を訪れたこともあるが、フランス、イギリスより、そして世界のどの国よりも日本がその真なる価値を誇りにしていいと思う。何も欧州が移民であふれ、テロの脅威が大きいからそう言っているのではない。そのテロもいつ日本に押し寄せるかもしれない。日本にも新幹線、原子力発電所、空港、人がたくさん集まる繁華街や集会所が数多く存在する。その気になれば、テロの対象になるかもしれない。その対処法がいろいろ言われているが何とか世界中の人が協力し合う世界が実現できないだろうか。こんなことは笑い話のユートピアと言うのであれば、自分で自分の身を守る工夫をしなければいけない。それはたとえ非常に困難な道であるとしても。いよいよ年の瀬、師走を迎えました。保護者の皆様、この一年はどうだったでしょうか。諏訪森幼稚園、鳳幼稚園、美木多幼稚園の園児たちは皆様の心温まるお力添えのお蔭で、順調に、逞しくそして優しく育って参りました。来年の卒園、進級に向けてあとひと踏ん張りです。まだまだ大きな山もいっぱい残っています。しかしそれらを苦労して乗り越え、最後には大きな喜びの岸にたどり着くことでしょう。今年2015年、皆様から頂いた数々の励ましのお言葉を大きな糧として、これからも精一杯保育活動に取り組んで参ります。今年良かった保護者の皆様、前年に比較すればそうではなかったと思われている保護者の皆様、来年も、あるいは来年こそ、素晴らしい年になりますよう、そして皆様のお子さまが益々健やかで、元気で日々過ごすことが出来ますよう、心より願ってやみません。 本年に賜りました皆様方のご厚情に深く感謝申し上げ、平成27年最後の園便りと致します。

01 11月 2015

南部藩の矜持
ー11月のことばー

  大阪伊丹空港を飛び立って1時間余り、JL2183便は高度を下げ始めた。それと同時に「当機は約15分後に着陸します」とのアナウンス。眼下には刈り取られたばかりの農地が広がっていた。その時突然機体が揺れ始めた。雲がなく晴れ渡っていた。次の日に乗ったタクシーの運転手によると、機体が大きく揺れ、時には機首が上がったりして空中で翻弄されていたそうだ。機内では「揺れがあるが、飛行に何ら支障がない」という放送が流れたが、乗客にとって、ましてジェットコースターに恐怖を感じる私にとっては不安な瞬間であった。小型機は無事定刻にいわて花巻空港に着陸した。すぐにレンタカーに乗って盛岡に向かった。まっすぐ伸びた東北自動車道沿いに植えられた樹木はすっかり紅葉し、秋の気配が色濃く漂っていた。昔、誇り高き南部藩が治めていた豊沃な大地を切り裂くように今の高速道路がどこまでも続いていた。周りをよく見ると、豊かな農地を見守っているかのように家が点在していた。どの家も大きな杉の木や落葉樹で守られていた。その時、先ほどの飛行機の大きな揺れを理解したように思えた。この地域は防風林が家を守っているのだと。そして宮沢賢治の言う「目に見えない空気の流れ」が強いのかもしれない。一体このあたりの高速道路の制限スピードはどのくらいなのだろうか。100km位で走っていても悠々と抜かれてしまう。高速道路に岩手山の案内、前方に悠然とした大きな山がその雄姿を見せた。盛岡に到着した。昔南部氏が治めた盛岡藩の都はこじんまりとした県庁所在地であった。第31回全日本設置者・園長研修大会が450名余りの参加者の下で開かれた。私もそのうちの一人であった。いつもそうだが、最初にその地出身の有名人かその地が生み出した高名な人についての講演があった。今回は関西であまり知られていないが、岩手では自慢と羨望の人、10年ほど前までは5000円札にその顔が印刷された新渡戸稲造であった。堪能な英語、多彩な人脈、利他の気持ちとクエーカー教徒としての信心、大活躍な様子が話された。次に文科省の幼児教育課長の話があった。幼稚園を取り巻く環境は大きく変化している。その一つは幼児教育の無償化。これは就園奨励費という形で徐々に保護者の負担軽減が図られているが、近い将来5歳児の完全無償化になる可能性は高い。ちなみにイギリス、フランスは無償化が実現しているがアメリカ、ドイツは流動的で、州によって異なっている。イギリスは5歳から義務教育であるがフランス、アメリカ、ドイツは日本と同じである。昭和33年以降、学習指導要領はほぼ10年毎に改訂され、平成20年改訂では、小学校への外国語教育が導入されたが、それにも増して幼児教育の重要性が認識され、幼児教育と小学校教育の円滑な接続の在り方が問われ、幼児期の終わりまでに育ってほしい姿が参考例として報告された。又幼児期の教育、保育に携わるのは幼稚園と保育所であるが幼稚園児数は平成10年を境に保育所児数と逆転している。因みに平成25年は保育所児数235万人、幼稚園児数160万人弱である。これは待機児解消のために国を挙げての保育所増加政策によるところも多い。少子化と保育所激増で幼稚園の経営も厳しさが増していますが、真の幼児教育は何かを見極め、建学の精神に基づき、日々真摯に誠実に幼児教育に取り組み、子供の成長、発達を望む保護者の皆様の期待に応えていく、このことが私たちに課せられた大きな責務であることを深く再認識させられた講演であった。 帰り道、道路工事の現場に何回か出会った。不思議に思って聞いてみると、土木作業従事者が県外に出ないように引き留めるための公共事業であるといわれた。そうでなければ、冬、雪が積もったときにその除雪に従事する人がいなくなるからだそうだ。花巻はまた宮沢賢治の故郷であり、彼は花巻の誇りでもある。裕福な出身で、ほぼ収入がなくても詩作にふけり、好きなことに身を投じるその姿やその文体や内容について反感を持つ人もあるが、裕福なゆえに、自分の立場と農民の悲惨な境遇との対比を通じての贖罪感や他人を思いやる心が人一倍強かった。弱者に対する献身的な態度と強者に対する反感、そんな入り混じった感情が読者に迎え入れられている。土に生きた人として、環境の面からも評価されることも大きい。花巻市の山の上の宮沢賢治記念館で得たものは私にとっては大きい。

01 10月 2015

いつか来た道
ー10月のことばー

  岸信介首相の時であった。1960年、三国丘高校1年生か2年生の頃であった。政治的活動も主義主張も何もなかった。最も日和見的な真面目な高校生であったと思う。日米安保条約改定の時期であった。国民には反米の気分も多くあったのだろう。自民党の強行採決に当時の社会党はあらゆる手段を使って抵抗を試みた。本音と建て前は違っていたように思えたが。学者や知識人といわれる人も数多くその中にいた。大学の一部の学生たちで構成する全学連(共産党や社会党系の全日本学生自治会総連合)を中心に国会を二重、三重にデモ隊が取り囲んだ。東京の下町あたりでも学生たちが道路をふさいで暴れまわった。全国的には数百万人が安保反対デモに参加した。大阪の拠点は扇町公園であった。私も参加ではないが、心情的に共鳴して、どのようなものか見に行った。安保条約の中身は全然わからなかった。ただ又戦争が起こる、アメリカ追従になるという漠然とした思いが頭にあった。若者が一時的によく陥る左翼的考えであったのかもわからない。参加した人はどれ程安保条約を理解していたのだろうか。そしてそんなに沢山の人を動かしたのは何だったのだろうか。当時、まだまだ人々には衣食住が充実されておらず、ハングリー的な気持ちがそうさせたのだろうか。そうだとしたら、なぜ大企業や高級官僚、いわゆる日本的エスタブリシュメントの息子や娘が数多くその闘争の中に身を投じたのだろうか。この後10年余りにわたって続く学生運動の端緒であった。しかし大学選びになると、あそこの大学はマル経(マルクス経済学)が幅を利かせているから、就職は難しいとか、左懸かった授業をしているとか言って入試対象から外された。高校生は現実的選択をした。実際そのような教授のいる所は大学の封鎖も長く、大学に行っても中に入れないことも多かった。私も大学に行っても校門が学生によって閉ざされているために、中に入れないことも多かったし、逆に強行突破をしたこともあった。そんな50年前と比較すると、今回のデモは参加人数も十分の一以下で、マスコミ(そのトップは全学連世代だろうか)が騒いでいるだけかもしれないし、実際法律の中身をよく知って活動しているかどうか疑わしい、丁度50年以上前に私がそうであったように。当時も戦争法案だと言われ、今すぐ戦争になるみたいなことを主張されたが、50年以上もたった今でもその兆しはない。私も年を取ったから後はどうなってもよいとは決して思っていない。人が人を殺めて英雄になることはこれからの人にも決してして欲しくないし、命ある限り、平和なうちに、心豊かにその生涯を全うしてもらいたい。欧州では今民族の大移動が起こりつつある。昔、アメリカ、特にニューヨークは人種のルツボだと言われたが、現在のヨーロッパ、特にイギリスやフランスに行ってもその感を強くする。最もヨーロッパ人が日本人と中国人や韓国人との違いが判らないように、私たち日本人にとって、誰が生粋のイギリス人で誰が中東やその他の諸国から来た人と見分けられないが。私たちはこれからも純潔を守っていくのか、それとも移民を奨励していくのか(昔日本人が棄民としてアメリカや中南米に渡った時と隔世の感がある)私たちが結論を出さねばならない宿題は多い。しかし私たちは誇りをもって先祖代々住み続けてきたこの国、日本を守っていかねばならないと言ったら、グローバリゼーションを唱える人に怒られるのだろうか。季節は10月、全てにおいて一年で一番いい時機になりました。私にとっても命が萌える4月よりもすべてを語り尽して散るのを待っているこの紅葉の季節が大好きです。今、子供たちは運動会の練習で精いっぱいです。小学生になってからでは遅すぎです。幼稚園の運動会が一番保護者の記憶に鮮明に残る運動会です。久しぶりにご家族そろって心からの喜びと至福の時を味わっていただきたいと思います。今月も皆様に満足していただける保育を目指し努力してまいります。いつも以上のご支援、お力添えをよろしくお願いいたします。

01 9月 2015

頭足人から展開画へ
ー9月のことばー

  ご飯は山で切った雑木を乾燥させ、斧で割ったマキを燃やした。新聞紙などで種火を作り、それを燃やした。炎は思った以上に早く薪に移った。勢いよく燃える火の上で米や煮物が手際よく調理されていった。今のガスや電磁調理器に比べると大火力(実際はどうかわからないが、大きな炎のためにそう思えた)で、出来上がるころにふたを開けて火の調節をした、と言っても燃えているマキを取り出すとか、突き出すとかすることであった。一気に炊き上がったコメは一粒一粒がふっくら光り輝いていた。おばあさんはおじいさんのために卵を一個入れた。卵はごちそうであった。おじいさんは戦前村長をしていたが、戦後は無職であった。わずかな農業をしていたが現金収入は期待できなかった。ただ水田の水の管理や村の仕事には一生懸命率先して取り組んだ。そのことで感謝されることが多々あった。スーツはいっちょらと言って生涯一着しか持っていなかった。戦争中は進んで銅や金属、松脂などの供出に協力した。明治の日本男児であった。人の悪口を言うこともなく、権利を主張することもなかった。何が楽しみだったのだろうか。子どもの幸福なのか、孫の成長だったのだろうか。私が入社した松下電器の創業者松下幸之助と同じ年齢であった。成程、丁稚からたたき上げて立身出世の人物になったのだからある意味偉人なのだろう。しかし名は知られていなくても、大地にしっかり根を下ろし、村の人々と一緒に活躍した私の祖父もある意味立派であったと思う。祖父のおかげで私自身良いように言われたことが何回もあった。そんな薪の山、今は庭代台になっているが、昭和30年代、その山の一つを昔のわら葺の家から瓦葺の家に建て替えるために売却した。村のにわか不動産屋を通じて大阪市内の人に売った。私が中学生になったばかりのころ、多分1坪(3.3㎡)何百円であった。その後政治家を含め、たくさんの不動産屋が土地を買いに来た。それからしばらくして泉北ニュータウンの造成の話が発表された。たぶん彼らは情報を先取りする立場にいたのだろう。フェアーでなかった。そんな山から小学生になるかならない頃、切った木をリヤカーに乗せて山道を下ってきた。父、母、妹の4人であった。内容が分からないが、大きな声で今から考えるととても卑猥で恥ずかしい歌を歌っていた。1はイモヤの兄ちゃんと、2はニクヤの姉ちゃんと3はさる・・・・と10まで続いたざれ歌であった。ひょっとしたら斜めに構えた若者が歌い、それを幼児がまねたのだろう。山々にこだまし、父、母も聞くに堪えないものだったに違いない。しかし何も言わなかった。リヤカーはしんどかったが、今となれば本当に楽しい一コマであった。今の幼稚園児たちも、何も意識しないで、大人の社会では認められないことを言ったり、したりすることもある。しかしこれは大部分幼児期の一過性のものであり、将来にわたってまで悪影響をおよぼすことはない。人は成長する、いろいろな経験や体験、知識を通じて又は本能的に自然と大きく変化を遂げていく。   絵画で成長過程を見てみよう。 幼児は最初、頭足人(head foot man) の絵を描く。頭があり、胴体がなくて足がある。それが成長して基底線が表れて周りとのかかわりが見えるようになる。その後透明画に移って物の中身に、中にあるものに関心を持つようになる。それがもっと進んで、家の中がどうなっているかのような展開画などにも関心をもつようになる。11月の作品展の絵画の展示では色使いがきれいとか、形がよいとかだけでなく、これは頭足人の絵だ、いやそれよりだいぶ進歩しているなあーと詳しく見ていただけるのも一つの興味ある絵の鑑賞の仕方であろう。子どもたちは世の中の影響、良いこと悪いことも含め、大いに受ける。私たち幼稚園の教職員が力を合わせ、悪い影響に感化されることを防ぎ、子供たちの大きな成長につなげたい。いよいよ二学期、今学期は行事を含め内容が盛り沢山です。その中でも運動会、作品展等の大きな行事が続きます。田畑や山に行く機会もあります。子どもたちが元気いっぱい活躍し、大きな成長を遂げることができますよう教職員一同力を合わせてまいります。今学期もご期待ください。

01 8月 2015

Fast Track
ー8月のことばー

  Mr.Miyashita と書かれたプラカードを持った出迎えの人、7月1日午後8時前、スペイン、マドリッド、バラハス空港到着ロビー、関空を10時過ぎに離陸して12時間弱、ドイツ・フランクフルトに着いて2時間余り待った後に乗ったルフトハンザ機で2時間、16時間余りの旅であった。マイレージで購入した航空券をキャンセル、キャンセルして期限切れ寸前の3泊のスペイン訪問であった。ドイツまでの飛行機は45年ほど前に初めて見て、その大きさにびっくりしたボーイング747-400、半世紀近くたってまだ現役かと2度びっくり。今回の一人旅は最悪の事態を想定して、日中はガイドに付き添ってもらうことにした。若い時には思いもつかなかったことだろう。外国ではベンツの事をよくメルセデスと呼ぶ。駐車場にメルセデス・ネグロ(黒)を取りに行ってくるから少し待ってくれとのこと。そのメルセデスに乗って歴史あるWestin Palace Hotel へ。車の中で運転手があまりうまくない英語で話しかけるので、スペイン語で返事をすると、次から次へと機関銃のように話が続く。昨日は暑くて42度まで上がったとか、一番格式のあるRitz Hotelがアラブ系のマンダリンに買収されたとか、若者の失業率が高いので、イギリスやドイツ等に優秀な若者が出ていくとか、スペインは今は欧州のどの国よりもセグロ(安全)であるとか、中心街にある広大なレティロ公園はNew York のセントラルパークのように24時間物騒でないとか。成る程、見た限り今のスペインはその通りかもしれない。いつものように持ってきた電気ポットで水を沸かして、カップラーメンを食べてこの日は終わり。箸がついていればとよく思う。明日の朝5時のモーニングコールをお願いして就寝。時に日本時間の午前7時ころ。 Fast track はもともとアメリカ大統領の貿易促進権限、この間までオバマ大統領と議会との間でTPPに関してもめていた権限。飛行場では優先ライン、出国審査などで時間がかかるためにこれを避ける意味で設けている。さすが貴族社会のヨーロッパ。日本では何でもかんでも表面的に平等主義を標ぼうしている為にfast trackは存在しないが、もしそれが設置されたらどんな論争がわき上がるだろうか。乗った飛行機はATR-72、仏伊の2国で製造、よく事故を起こし、最近では台湾で離陸直後に川に墜落したプロペラ機。それしか飛んでいないSan Sebastian(サン・セバスティアン)の町へ。今回は2か所が目的であった。1つは北部バスク地方、そしてこの町はその中心の観光地であった。何よりも一番の特徴はビスケー湾で獲れる魚であり、市場を覗くと日本の魚の種類よりも多い感じで、新鮮そのもの、それに野菜や果物、肉類も豊富ときているので、他の欧州からこの地に食事を求めてくる人が非常に多いとか。このバスク地方はナチスに攻撃されたゲルニカのある町でも有名だが、スペイン語と違うバスク語が認められ、話す人も多い。カタルニア語を話すバルセロナのように。ここで昼に食べた魚料理の味が忘れられない。もう一つはマドリッドから北西へ約100km、日本の新幹線のような高速鉄道で30分、高度1000mの町、セゴビアであった。ウォルト・ディズニーがここの城を見て、白雪姫の城を作ったとかいうアルカサール、下から見上げると本当によく似ている。他の世界遺産は2000年ほど前にローマ人が作ったローマ水道橋、重機のない時代にどのようにしてこんな巨大で精巧なものを作ったのだろうか。そして最後にセゴビアの名物料理、子豚を丸ごとオープンで焼き上げたコチニーリョ・アサド、注文したが顔や耳が付いた丸焼きの子豚を見ると食欲がわかない。実質2日は短いけれども、凝縮した旅であった。ギリシャの次の経済破綻はスペイン、イタリア、ポルトガルと言われている南欧の国々、見る限りそんな印象を一つも受けなかった。スペインではすでに夏休みに入っているので、夫婦ともに働いている人の為に子供用の林間学校が多数あり、いたるところで大人に引率されている小グループの子ども達がいた。今年も節電、節約が言われている。節約は大事なことは言うまでもないこと、しかし節度ある節約、生きたお金の使い方も大切なこと。私の知っている父親は子供が小学生の時に小遣いを500円しか渡さなかった。勿論必要な時は惜しみなく与えた。それもお金の価値を知る上で大事なことかもしれない。私たちは子どもの機嫌を損なわないように必要以上に与えがちだが、心を鬼にすることも必要な時もある。夏休みが明けると子ども達は本当に大きくなって帰ってくる。子ども達が健康で事故にあわないように祈るばかりですが、保護者の皆様もご自愛のほどよろしくお願い申し上げます。

01 7月 2015

平和と愛
ー7月のことばー

  梅雨明けの夏空がまぶしい日々になりました。7月、文月の到来です。7月はなぜ文月なのかは国語学者に任せて、それよりも私たちは、今は1年の中元――真中のけじめ──と言うわけで、そちらの方がなじみ深い。2月の節分に巻きずしを食べるのと同じように、中元に金品の贈答がなされるのも結局は商業戦術が巧みに作り出した社会行事に過ぎない。しかし年末年始の年1回だけでは人間関係や取引関係のつながりが切れそうなので、「虚礼廃止」と言いながらこの習慣がなかなかなくならない。送る方の打算と受け取る方の不自然さを感じさせない受納という一種独特のものがある。昔は教育の世界でも通用していたが、今はそんな習慣はよほどの例外を除いては存在しないし、させるべきものでもない。さて、4月から始まった1学期もいよいよこの7月17日で終業式を迎えます。幼稚園を嫌がっていたり,泣いていた子ども達もすっかりその影を潜め、今は明るく、元気いっぱい、保育室で、園庭で又は園外で活動する場面が見られます。この三か月間の成長は本当に大きなものだと思います。それと同時に大きな成果となって表れています。1学期を上手く乗り越えたおかげで、2学期、3学期のクラスでの活動や大きな生長が楽しみです。私たちの幼稚園は何でも公開の幼稚園です。時には保護者の皆さんに見てもらいたくないという事もありますが、そんなことは許されません。幼稚園によっては門の所までしか入れない園もありますが、私たちはよほどの事情がある場合を除いては保護者の皆様が幼稚園の中に来られることを拒否することはありません。それどころかできるだけ幼稚園での子供の様子を見て頂くために、保護者参加の行事を積極的に取り入れています。1学期だけでも入園式から始まって、家庭訪問、親子遠足、母の日の参観、親子であそぼう大会、体操参観、給食参観、毎月のお誕生会、家族登園、プール参観、個人懇談があります。幼稚園に行くのは面倒だ、子どもの教育は幼稚園にお任せ、と考え、参加行事の少ない他の幼稚園を選択される保護者の方もおられますが、美木多幼稚園はこれからも保護者の皆様と幼稚園が同じ仲間として、手を取り合って、子どもの健全な成長発達に責任を持っていきたい、そしてそれが一番いい方法だと考えています。今後も私たちに大きな力を貸していただきますようお願い致します。さて、少し政治の世界を見渡してみると、今から決めるこれからの日本の安全保障の条文は憲法に違反しているとか、合憲であるとか、徴兵制が復活するとかそんなことはありえないとかの議論が沸騰しています。「人を殺せば殺人だが、戦争では英雄になる」という論理に与するものでないが、今この幼稚園にいる子ども達が大きくなって戦場で銃を持って戦うという事態になる事は絶対避けたいし、そうあってはならない。しかしまた一方、後世に現れる子孫の為に国を私たち自身で守ることも必要なことは自明の論理かもしれない。日清、日露、太平洋戦争、理があったのかどうかわからない、しかし多くの人の犠牲の上に、日本が今なお存在し、私たちは今日の繁栄を享受しているのも事実だろう。人が人を殺し合うことは絶対避けなければいけないし、そのためにあらゆる手段を用いても許されるだろう。しかしそんな残酷な世界は我々農耕民族にとっては正視に耐えることが出来ない。気温が上がると人間に変調をきたすのかもわからない。 7月に起こった大きなよく似た事件。 アメリカ独立記念日 (1776) フランス革命記念日 (1789) 第一次世界大戦勃発 (1914) 子どもたちの成長をわが子のように喜び、世界が平和と愛で満たされることを祈念して、今月も楽しく保育活動を進めてまいります。

01 6月 2015

イモーレ 奄美
ー6月のことばー

  その地は思ったよりも近かった。 JAL2465便は日照時間が日本一短いその島に向かって高度を徐々に落としていった。珍しく空が晴れ渡っていた。その瞬間、本土とは又違った風景が目に飛び込んできた。青い空、それを映し出す澄み切った海面、岩場の続く海岸、そして南の島特有の樹木、大阪を離陸して1時間30分、鹿児島の南をかすめて、ボーイング737は少し荒っぽいながらも鹿児島県の奄美空港に無事着地した。空港の外はレンタカーの事務所以外何もなかった。大阪と比較するとやはり熱い。奄美大島も数奇な運命の島であった。1000年以上前から日本の古文書に日本の島と明記され、交流が盛んであった。その後時代が進み、中国、韓国との中継貿易地として、それなりに栄えた。しかし日本が戦争に明け暮れた戦国時代に勢力を通り戻した琉球王国によって、その支配下に置かれた。島にはその時の面影や文化が残され、今に続くものもある。その後江戸幕府の命を受けた薩摩島津藩によって奄美群島が次々と日本の軍門に下り、その勢いで、琉球王国までもが日本の支配下になった。エアポートには小さな旅客機も翼を休めていた。聞くと近くの島々(喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島等)に飛ぶ定期便であった。ここから鹿児島にも福岡にも那覇にも東京にも飛んでいた。4万人余りの佐渡に次いで2番目に大きい奄美大島にとっては外の世界への貴重な交通手段なのだろう。奄美にも戦前本土防衛の為に重要な軍事基地が存在したが、沖縄ほど過酷な戦闘に巻き込まれることもなく、ほぼ無傷のまま戦後を迎えた。しかし戦後は一転アメリカに占領され、Northern islands of Ryukyuと言われて日本の主権を否定されそうになった。米軍下の奄美は様々な規制や制約があって、人々の生活は困窮を極め、日本復帰への運動が盛り上がっていった。そして1953年(昭和28年)12月25日、アメリカはその統治をあきらめ、奄美の日本復帰が実現した。その時アメリカのクリスマスプレゼントとも言われた。飛行場の近くに奄美パークがあった。田中一村の美術館があったので、入場した。一村は奄美の人の紹介で私がその名前を知った画家であった。人生の後半を奄美で送ったことがこの島と一村を結びつけたのだろう。独特な画法、繊細な筆致、奄美特有の樹木や鳥を描いたその画風、十分一見に値するものであった。軸を二つ所有しているが、そのスケールの雄大さと筆致の素晴らしから見ると、同じ作者の物と思えないほどだ。奄美大島の中心地、名瀬までレンタカーで小一時間かかった。道路は整備されているが、上り、下り、ワインディングやトンネルも多かった。名瀬の町に出るほんの少し前のトンネルは長く大きかったが、その片一方には広い通学路が整備され、暗い中、中高生たちが一人であるいはグループで自転車をこいでいる姿が印象的であった。日本の他の町と同じように、昔、人でにぎわったと思われる繁華街の屋仁川通りで食事を摂ったが、混雑してもよい夜の7時頃でも人気が殆どなく、さみしい感じであった。食材は豊富で安かったが、奄美特有の甘い調味料には慣れが必要であった。奄美は今もがいている。伝統の大島紬は韓国に生産を移管したせいか、売り上げが最盛期の30分の一に落ち、その他の農産物も黒砂糖が中心であるが、最近魚の養殖でも生産額が伸びているそうだ。街で見かけた中高生も大阪の彼らと変わらない。店の前でたむろし、学校には各地の大会への参加のバナーが掛けられているのもそっくりだ。奄美は兵庫県の尼崎と最初の一字の読みは同じ、あましんと書いていたので尼崎の信用金庫がここまで来ているのかと思ったほどだ。同じように奄美高校はアマコー(奄校→尼校)あと一つの高校は大島高校(ダイコー)だそうだ。もう一つ特記したいこと、それはマングローブの森があること。マングローブという名前が付いた植物があるわけでなく、熱帯や亜熱帯地域の河口まで満潮になると海水が満ちてくるところに生えている植物をまとめてマングローブと言うのだそうだ。奄美のマングローブはその中でも比較的大規模、一人乗りのカヌーに、ライフベストを付けて出発です。リーダーに先導されての1時間のマングローブカヌーツアーは結構疲れるが、根が浮き上がった植物を見たり、水深が非常に浅いためにいろいろな生き物を観察できて、いい記念であった。帰りの飛行機に乗る前に少し北部の土盛の海岸に行った。水はあくまで、そしてどこまでも澄み、サラサラの砂浜がはるか遠くまで続いていた。ただ、海岸で泳いでいても沖に流される可能性があると書いていたのが気になった。昔、アメリカの真ん中の田舎でニューヨークに行ったことがありますかと聞くとその数は少なかった。同じように外国人の観光客は知っているけれどもそこに住んでいる日本人がまだ知らない良いところが日本にはまだまだ残されている、そんな思いが一杯の奄美への一泊の旅であった。水無月、6月、今月中旬よりプールが始まります。水に親しみ、水に慣れるをテーマに安心、安全、楽しい保育を目指していきます。

01 5月 2015

健全で健やかな成長
ー5月のことばー

  木漏れ日が新芽で覆い尽くされた木々の間から柔らかな陽気を投げかけている、心地よい一瞬。春が私たちに背を向けて、初夏が薫風を送り届けている。春から夏への急激な変化が日々の真面目な営みを続けている市井の人々に大きな驚きを与えている。何はともあれ、分厚い衣服を着こんだ厳冬の寒さから身も心も解放されて、薄着一枚の軽快な季節に突入した。日本は四季の国、季節季節が本当に私たちに大きな刺激を与え、明日の活躍につながる栄養素となっている。無意識のうちに素晴らしい環境を享受している。日本に生まれてきてよかったと言える至福の時かもしれない。いや、こんな季節の移り変わりがあるからこそ、日本人は冬の厳しさや真夏の激しさにも耐えて、心にやさしさや、強さ、寛容さ、清さ、深さが生まれ、他者へ接する、それが母国人であれ、外国人であれ、独特のだれにも負けない気質になって表れている。幼稚園児はまだこんな移り変わりを片手で足りるほどしか経験していないが、これからその何倍、いや何十倍も経験を繰り返すことによって、人に対する大きな愛や寛容さ、真面目さや誠実さを身に付けてくる、時には身を犠牲にしてまでも【人の為に】と思う気持ちも生まれてくるのだろう。自己中心でなくて、利他的な気持ちが生じる、これも木々が様々に変化する四季があるからこそと思う。そんな素直で誠実な日本人の性質を逆手にとって、人をおとしいれたり、だましたりすることが増加しているのは誰から見ても絶対許せないことだし、拝金主義的な風潮が蔓延気味なのも、戸惑うところだろう。戦中生まれの私にとっては中学生頃に戦前のGNP(国民総生産)を越えたと言われ、様々な経済復興、目覚ましい物質文明の成長を目のあたりにしてきた。いまはとても行けなかったような場所にも訪れることができるし、食べることもできなかった食材も少し無理すれば、味わうこともできるようになった。嫌いなものはすぐに吐き出し、好きなものだけを食べるような幼子たちも出てきた。確かに昔と比較すると富み、贅沢になったと思う。しかし最近の政府の発表では子どもの貧困率の上昇が言われている。複雑な原因がこのような数値に現れたのかもしれないが、どの子どもにも何の責任もない。未来を担う21世紀の子ども達には健全で健やかな成長をしてほしい。目を覆いたくなるような残忍な若者による犯罪が報道される度にその思いは一入だ。時には幼稚園にも近所の人や役所からいじめ、虐待の問い合わせがある。地域でも子供たちの生長を見守っている証だが、プライバシーとの兼ね合いで難しい面もある。目を世界に向けると、伝える言葉が見つからないほどの悲惨な場面が満ち溢れている。本当に私たちと同じ人間なのだろうかと疑ってみたくもなる。その中で一番弱い立場の子ども達は虫けらのように扱われている。まだまだこれから素晴らしい人生があるというのに、生まれて数年で命を絶たれている。少しでもと思う気持ちは誰もが持っている思いだが、どのように実現していくかは非常に難しいし、逆に考えれば、あまりにも多くの不法移民となって欧州や米国に渡れば、その国が持たないのも現実だろう。複雑な問題を抱えた21世紀の地球号、一方を立てれば一方がたたない。こんな状況をうまく解決する方策はないのだろうか。怒れる神の逆鱗に触れる前に人の叡智で早く回答を見つけたい。しかしどんな状況になろうとも、身体的及び精神的に未熟である子ども達の保護が必要であり、又子ども達には最善のものを与えることが義務であることを私たちは心から認識すべきことで、これは1959年の国連の「子どもの権利宣言」でも明白に謳われている。日本の子どもの方がましであるとかいう意見もあるが、物質文明の観点からはそうであるかもしれないが、個々のケースを考えると、そうとは言えない面があるのも事実、幼稚園では私たち教職員がこのことを深く自覚し、子供の幸福追求の為に一段と研鑽を積んでいきたい。子どもの喜ぶ顔が見たい、そしてその後ろにいる保護者の喜ぶ姿を見たい、この気持ちを忘れることなく、今日も保育活動に誠心誠意取り組んでまいります。皐月、5月、新しい季節の始まりです。

01 4月 2015

ようこそ私たちのファミリーへ
ー4月のことばー

  人はその人生を長いという。又ある人はとても短いと述べる。どの基準で考えるかは偏にその人の主観的な判断によるものだが、地球の歴史、いや宇宙の誕生から考えると、存在そのものがあまりにも極めて短く、否定されかねないし、卑近な、例えば長寿と言われている鶴,亀から考えても相対的に短い。しかし朝に生まれ、夕に姿を消すカゲロウから見るとその生命は悠久の無限さを感じることもある。犬や猫のペット動物から見ても羨ましがられるほどその存命期間は長い。どちらの尺度をとっても私たちが今この世で同じ空気を吸って、共に生きているのは奇跡に近い出会いと言っても過言ではない。あの人はもう少し早く生まれてきたらとか、もう少し時代が遅れていたらとかいうことも聞くこともあるが、人にそんなわがままは許されない。人は今の今精一杯に生き続けている。たとえそれが自分の望んでいる道と少し異なっても、あるいは不条理を感じても、その中で許される、そして自分がいいと思う方法で最大限の努力をし続けている。それを宿命という人もいるが、人の偉大なところであると思う。そんなすれ違ってもいいような流れの中で、世界のどこか、日本のどこかではなくて、大阪のこの地で出会うという事は考えれば考えるほど、不思議な運命の悪戯を感じる邂逅である。その出会いはほんの瞬間的なものであるかもしれないし、これから続く人生の中でともに寄り添って長く続くものであるかもわからない。大切にしたい一期一会である。今美木多幼稚園を通園先に選んでいただいたみなさん、ようこそ私たちのファミリーへ。心から歓迎いたします。本当にうれしい限りです。今日から皆さんは私たちの仲間、美木多幼稚園のファミリーです。苦しいこと、つらいこと、楽しいこと、うれしいこと、どんなことに遭遇しても、共に考え、共に喜び、共に助け合っていきましょう。もう一人ではないのです。皆さんのこれからは大きなファミリーが見守っています。それは何年か先に卒園して巣立っていった後でもずっとファミリーとして残っていくのです。私たちは全力で皆さんを支えていきます。そして皆さんが人生の様々な岐路で重要な判断に迫られた時、的確に答えを出すことができる一助となる大切な幼児教育を担っていくことをお約束します。美木多幼稚園のファミリーになってよかった。美木多幼稚園のファミリーがますます広がって行ってうれしい。そんなファミリーになるように切磋琢磨して、絆を深めていきましょう。38年目の美木多幼稚園に入園の皆さん大歓迎です。在園児の皆さん進級おめでとうございます。今年から年少、年中、年長組です。この1年で随分立派にたくましく成長しました。先生と共に様々な活動を続けてきました。お友達もたくさんできました。今年は今まで以上の大きな活躍をしましょう。新しいお友達もたくさん増えました。共に遊び、共に助け合い、又時には先輩としていろいろ教えてあげて下さい。どんなお友達が来るか先生達は心をドキドキ、ワクワクさせながら期待いっぱいで待っています。楽しい、うれしい時間を美木多幼稚園で共有しましょう。保護者の皆様、お子様のご入園、ご進級誠におめでとうございます。平成27年度は幼児教育制度の大きな変化がありますが、どのようなシステムになろうとも私たちは幼児教育に対する情熱を忘れることなく、心を一つにして皆様方の熱い思いにこたえていく所存です。美木多幼稚園を選んでよかった、美木多幼稚園のファミリーになって幸せだと言ってもらえる幼稚園を目指して頑張ってまいります。 尚、私、3月31日付で園長職を辞しました。後任の園長に源久美子が就任しました。和泉市生まれ、和泉市在住で、個人的には高校の後輩です。長らく堺・和泉両市の小学校に勤務し、最後は和泉市立北池田小学校校長として、長い教員生活を終えられました。私に今まで賜りました温かいご支援、御温情に深く感謝申し上げますと同時に源園長にも同様のご支援、お力添えを賜りますようお願い申し上げます。

01 3月 2015

弥生三月、躍動の時
ー3月のことばー

  弥生三月、何かにせかされるように、心が落ち着かない。今までの冬の沈黙の世界から躍動の世界に変わりつつあるせいかもしれない。春の暖かい日差しのせいで、水が温み、秋から冬にかけて日本にわたってきた雁や鴨等の渡り鳥が北方に帰っていく。幼稚園では今まで寒風にその裸形を晒していた樹木が動き始めた。ボケの花、蕾がその色が分かるほどに膨らみ、その後ろの白い梅の花や正面玄関の赤い枝垂れ梅が絶頂を迎えようとしている。誰か教えたわけでもないのに、季節の時計に連動した草木の営みも、全く微動だに狂うことはない。大きな株立ち欅の根元には今年もクロッカスが一年の50週を使って一週間の艶やかな姿を見せるために可憐な黄色い花を得意気に咲かせている。何かが動く、何かが変化する月、3月。「小諸なる古城のほとり  雲白く遊子悲しむ  緑なすはこべは萌えず  若草もしくによしなし  しろがねの衾の岡辺  日に溶けて淡雪流る」島藤藤村 千曲川旅情の歌より。 そして又別れの月。 「仰げば尊し わが師の恩、教えの庭にも、はや幾年 思えば いと疾し、 このとし月、今こそわかれめ、 いざさらば」。 3月は又別次元の他世界を想う月、春の彼岸の月。此岸(現世)を生きる私達にとって、彼岸は別世界。仏事供養だけでなくて、別の世界を考える月、現世にない世界を想像して、私達をユートピアの世界に誘ってくれる月、不自由と穢れに満ちた此岸を離れて、一時自由の翼に乗って彼岸の世界に浸るのもいいのかも。その意味では新しい風を呼び込む若者の月であるのかもしれない。その若者の代表者の一人、年長の皆さん、幼稚園卒園おめでとうございます。皆さんは2年、3年間、4年間、美木多幼稚園で、幼年期に経験したり学んだりしなければいけないことをほとんどすべて習得することができました。私たちは自信をもって皆さんを小学校に送り出すことができると信じています。これから始まる本格的な学業の世界では幼児期に学んだあらゆることが皆さんの栄養素となって大きな役割を果たし、ますます立派な若者となっていくことでしょう。しかしこの世はすべて順風満帆とはいかないもの、勉強で悩んだり、友達との関係で苦しんだりすることもあるでしょう。しかし決して諦めたり、早急な結論を出したりして自分を責めないでほしい。いろいろなことはどんな困難なことでもそれに立ち向かっていけば解決されるものです。どうか自分の道を着実に歩んで、悔いのない人生を過ごしてほしい。りんご、年少、年中組の皆さん、皆さんは幼稚園での1年間で大きな成長を遂げました。たくさんの友達もできました。一人でできることも多くなりました。見違えるほど強くたくましくなりました。よく頑張りました。来年も先生やお友達と一緒に美木多幼稚園で楽しく元気に過ごしましょう。保護者の皆様、この一年、美木多幼稚園に賜りましたご支援、お力添え、大変ありがとうございました。お陰さまで美木多幼稚園も37年間の歴史を38年目につなげるようになりました。私たちは精一杯幼児教育に取り組んでまいりましたが、まだまだ皆様方のご期待に充分応えることができたと言えないかもしれません。今年度の経験、体験を踏まえて、来年度も子供中心の保育を目指して、より一層精進してまいります。年長の皆さん、小学校に行っても、美木多幼稚園の事、先生の事、友達の事を忘れないでください。先生はいつまでも皆さんの味方であり、皆さんを見守り続けています。 さようなら。

01 2月 2015

As the boy, so the man.
ー2月のことばー

  今から50年以上前の高校生から大学生にかけての頃、音楽に大きな関心があった。何か演奏するとか歌うとか、グループを作るとかいうものでなく、ただクラシックの曲を聴き、友と語り、感動を共有することであった。窓に腰を掛け、ギターを弾きながら歌う格好良さに魅かれたこともあったが、自ら演奏を習うまでの意欲はなかった。石原裕次郎やその映画に魅惑されてサックスの猛練習をする友もいたが私には無関係であった。フルトベングラー、カラヤン、マゼール、トスカーニー等の巨匠の名前が会話の中でよく出てきた。クラシックのレコードもよく集めた。ステレオ全盛期であった。指揮者フルトベングラーのモノラル録音も電気的にステレオに変えられていた。各社ともオーディオの性能を競った。リニアトラッキング、デシベル、インピーダンス等々の横文字が氾濫した。M電器への入社はその影響もあった。初任給(29300円)の何倍ものオーディオ機器に憧れ、大きな決断をしたこともあった。ドルビーシステムが導入されたのもこのころであった。ドルビー内臓のデッキを売るためにせっせと海外向けのコピーを書いた。5か国以上の言語に翻訳されて、商品と一緒にそれぞれの国に送られた。門真の小さな事務所から世界に発信されるのは一種の驚きであった。しかし誰もそんなことは考えなかった。オーディオは日本を中心にまわっているという自負があった。兎に角、入口と出口の重要性、特に入口の大切さを考えていた。レコードプレーヤーもオープンリールデッキも各社精一杯の創意工夫がなされていた。当時大きな権威を持っていたオーディオ評論家も大きな流れを作っていた。タンノイ、JBL,オルトフォン、その他さまざまな世界の権威の名前も聞いていたが、井の中の蛙であった。音楽の世界と同様に、教育の世界でも入口の大切さはいくら強調されても強調しすぎることはない。「三つ子の魂百まで」「As the boy,so the man」3歳児の心は百歳になっても変わらない。3歳児から始まる幼児教育、それに続く小学校教育の重要性は否定できない事実であり、各国が最も力を入れているのもこの根幹の部分の教育だろう。その教育が他国を敵視したり、侮蔑するような偏向教育を行うと、その解消にはその教育を受けた何倍もの年月が必要だろう。私たちは世界に誇れ、世界中の人が羨むような行動様式、例えば、挨拶、礼儀を尊び、人をもてなす利他の心の教育、だれもが納得できる道徳教育、外国のいいところを取り入れた西洋流の教育、そして日本を愛する不変不屈の教育、そんな教育を目指していきたい。私たちは家族が大切であり、同じように友もそうだろう。そして故郷も今の住んでいる市町村、都道府県もそしてもっと大きく言えば、同じ運命共同体の日本も大切な大切なものです。しかしもっと大きく目を開けてみると地球は私たちの大きな大きな飛行船、仲違いをして空気が漏れたらそこまでの命。幸い欧米には源流のラテン語があるように、私たちには漢字文明がある。小さな利権ももちろん大切だが、大きな目標はもっと大切かもしれない。形のあるものはどんな立派なものでも、どんな立派な有名建築家によってデザインされたものでも、壊れる運命にある。しかし心の中に宿った教育は永久の物になっていく。そんなお手伝いを少しでもできれば、私たちはこの上ない幸せ者だろう。この間3年生の時に担任したクラスの同窓会があった。30年の歳月が顔、形を変えていた。日々楽しいこともあるが、苦労も多いのだろう。社会的地位もそれぞれ違うのだろう。しかしそんなことは関係なくあの当時のままで話している。オーヘンリーの「After 20 years」では20年後、二人は警官と犯罪者という設定であった。それはあくまで非現実の世界、社会的身分や地位は瞬間のもの、それより心の結びつきの方がよほど重要、ほんのちょっぴりでも彼らに影響を与えたのかなと自問自答する私がそこにいた。2月は一目散に逃げていく月、陽光の春にたどり着く最後の関所、気力、体力それに持ち前の明るさを持ってこの寒い最後の冬を余裕で乗り切っていこう。

01 1月 2015

明けましておめでとうございます
ー1月のことばー

  2015年、平成27年、新しい年を迎えました。私にとっては71回目の、美木多幼稚園にとっては37回目の正月です。皆様方にとっては何回目のお正月でしょうか。 私たちは人類悠久の歩みの中で、年齢が違っても同じ歴史の一コマを享受しているというのはなんという偶然の縁でしょうか。その縁を大事にしながら豊かな人生経験を持つ者は浅い者たちへその経験や知識を引き継いでいく。この引き継ぎの儀式によって私たちのDNAが過去から未来へと一直線に伝わっていく。膨大な量の知識や学問も蓄積され、伝えられ、この面では確実に大きな進歩を遂げている。経済的な飛躍もまたしかりである。アフリカの様々な種族、国境を勝手に作られたと怒っている中東の一部の人たち、白人と戦いを繰り返したアメリカインディアン、ピサロやコルテスに蹂躙された南米インカの人々、そして民族大移動や宗教戦争を体験したヨーロッパの人たち、シルクロードを通って交易や悟りを追い求めた人々、大航海時代に命を懸けて未知の世界にあこがれた人たち、人減らしのために棄民と言われても新しい国に生活の糧を求めていった人々、過去、現在いろいろな人たちのお蔭で生活レベルは向上していった。少しは過去のしがらみが残るとはいえ、経済的にも生活していく上でも、だれも過去以上の水準を享受していることも確かだろう。卑近な例を挙げると、昭和30年代、今から60年ほど前、牛肉を食べることはほとんどなかった。100匁(モンメ)約375g、200円くらいであった。それを販売する店もほとんどなかった。すき焼きはお寿司と並んで大変なごちそうであった。1ドル360円、大卒初任給1万円(約30ドル、現在約20万円で1700ドル)ドルの値打ちが下がったのか、円の価値が上がったのか、又は別の原因なのか。ただ百貨店の手の届きそうもない垂涎の的だった欧州の商品が少し頑張れば、手に入ることができるようになったのは所得が上がった証左なのだろう。そして今、過去の日本人が経験した生活水準を低開発国として考えていた国々の人たちが受けるようになった。日本の大都会や観光地のホテルが外国人であふれているのはその証であり、アメリカ、日本、中国、低開発国と続く所得上昇の大きなうねりなのだろう。経済的、知識的に大きな進化や成長を遂げたとしてもそれは物質的な面だけであり、活字媒体やITの面で大きな進歩をしたとしても心や精神面で何らの大きな成果も得られていない。16世紀のイギリス人のサラリーマンが綴った日記は現代に十分通用するものであり、21世紀だからといって、それを凌駕するするものは見つけ難い。しかし古今東西何人も幼児教育の重要性を否定することはできないし、「三つ子のたましい、百まで」は自明の理であり続けている。過去も今も子育ては親にとっては大きな苦労であり苦悩であると同時に他のものに代えがたい幸福であり、喜びである。私たちは深くこの事象に係っているという喜び、自覚を肝に銘じ、日本の未来を託す幼子たちを見守り、道を踏み外すことなく立派に育てあげていく大きな責任の一端を背負っている。これからも全力で「子供第一」の強い気持ちを持って保育活動に当たってまいります。 今年わたしたちは次の目標を掲げてこの新しい一年間を頑張ってまいります。 1.子ども中心の保育を心掛ける。 2.保護者の皆さんも先生も満足し喜ぶような保育活動をする。 3.感謝、謙虚、素直さを忘れない。 4.コンプライアンス(法令順守)を心がける。 5.掃除、挨拶の徹底を図る。 これからの一年間、子ども達の笑顔、保護者の皆様の喜ぶ姿そして一緒に働いている仲間の喜び、充実感や達成感を探し求め、追い求めてまいります。新しい年、2015年が皆様方にとって本当に素晴らしい年、掛け替えのない年になりますよう心よりお祈り申し上げますと同時に温かいお力添え、ご指導、ご意見、時には慢心を戒める厳しいお言葉も頂戴いたしたく宜しくお願い申し上げます。

01 12月 2014

鼎の軽重
ー12月のことばー

  「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」(芭蕉)「枯葉が落ちねば次の花は咲かん」 荒涼たる原野、厳しくたたきつけるような吹雪、この世の終末とも思えるような原風景が織りなす様々な心の葛藤と寂寞とした気持ち、芭蕉の時代は私たちが想像するよりももっと激しい自然の洗礼を受けていたことでしょう。樹木が余計な装飾をかなぐり捨て、身軽になって厳しい冬の準備を整い始めました。人は反対に科学の粋を集めた温かい化学繊維によって身を守る工夫です。長年続けられた自然界の厳しさとそれに対峙する人間界の知恵とのいわば小さな戦いです。戦いは別として、人はこの瞬間においても必ず何らかの判断、決断に迫られている。何もそれは人生をあるいは国の在り方を決めるような大きな決断でなくとも、朝起きて今食事をするか、会社へ行く途中で食べるか、今人にそのことを話すべきか、後の方がよいか、あの人に贈り物をすべきか否か、お葬式に行くべきか否か、数えきれないほどの判断の必要性に迫られ、その人なりの規範に従って結論付けていく。善悪の判断にしても、自分の考え、性格、育った環境、受けた教育に従って答えを出している。しかしそれが他の多数の人の判断基準から外れていると「常識のない人だ」「変わった奴だ」とか言われて世間から隔離されることもある。私たちはたとえ大多数にそぐわない意見を持っていたとしても、人に嫌われるのを恐れて自分の意見を封印しがちだ。それが鼎の軽重を問われることになっても。人が生活していくうえで、善悪の判断が非常に難しいことがある。正か否か、しかない2極で判断すれば案外簡単であり何も悩む必要がない。しかしそれでは日常生活が立ち行かなくなり、生活も無味乾燥で、成長、発展への意欲も潰えたものになり、ただ与えられた枠の中で決められた活動しかできないことにもなりかねない。たとえば他人の土地に一歩足を踏み入れるだけで、スピードを1kmオーバーするだけで、罪を問われたら、私たちはどうなるのだろうか。グレーゾーンがあるから私たちはそれなりに社会生活を送ることができるし楽しむこともできる。しかしどこまでがグレーゾーンであるのかの基準はそれを取り締まる人の恣意的な判断やさじ加減になるのは憂慮すべきことかもしれないが絶対的な規範がない以上、それもありうるのだろう。ある人にとっては法律の中には遵守できないような条項もあるかもしれないが法治国家としての法律である以上守らねばならない義務がある。世間一般の常識とかけ離れてそれが存在する場合は、その法律の正当性が問われ、はっきりと善悪を決めることができるかは難しいところだ。所詮判断は人が決めるものであり、地域性や裁く人の人間性によっても大いに左右されることがある。日本人の常識が世界の常識であるようなユニバーサルスタンダード的なものがあれば、人は快適に世界中と交易をし、旅をし、談笑することができる。現実は180度異なる国がある。政体も違い、主義主張も歴史も異なり、生活水準も違う。Aの国で良いことがBの国では全く逆で、Cの国では重い罪に問われかねない。国体を変える為に示威行為をする人もおれば、天国に行くことができると言って戦いで命を落とす人もいる。特攻隊を作った日本にとっては他人事でない話。アフリカの常識が、イスラムの常識が、ユダヤの常識が、欧米の常識が、中国や韓国の常識がそれぞれ異なっている。通信や交通手段のますますの発展により問題はより身近なものになり、複雑になっている。それぞれの常識や判断基準を一方的に正しいと言って他国に押し付けるのは是とするのだろうか。難しい問題だ。このころテレビや街角で美容整形の広告を見ない日はない。顔や胸に手を加え、体型を整えて、見目麗しい美形に変えていく。女性の永遠のテーマ、しかしその判断基準には絶対的なものがあるのだろうか。蓼食う虫も好き好き、人の嗜好も多様な今、整形医学の進歩には脱帽するとしても、それに踊らされている面もあるのかもしれないが、美を追い求める欲求は男女ともに永遠に続く不変の思いだろう。残念なことにいくら整形しても、子ども達の天真爛漫とした美しさにはかなわない。人それぞれ判断基準が異なるから人生が面白い。判断基準という広い道、端を通ろうが真ん中を通ろうが道を踏み外さなければ構わない。子ども達には正々堂々と21世紀を生き抜いてほしい。幼子たちへの願いは大きい。来月は平成27年、2015年、皆様方にとって健康に恵まれ、幸多き年でありますよう心よりお祈り申し上げます。この一年のご厚情心より感謝申し上げます。有難うございました。

01 11月 2014

四国・高松への道
ー11月のことばー

  あれから丁度1年、会場は旭川市から高松市にバトンタッチされて、全日本私立幼稚園連合会設置者・園長研修大会が開かれた。初日は13時開始、幼稚園での朝礼をいつものように終えて、9時30分頃、目的地をナビで設定し、堺を出発した。目的地まで220km、時間が計算できる行程であった。この時間帯ではどこも渋滞がなく、阪神高速堺線から池田線を通り、中国自動車道に入った。いつも混んでいる宝塚I.C のあたりもブレーキを踏むこともなく、一気に走り抜け、西宮北から山陽道に入った。まだ紅葉まで(昨年の北海道は真っ最中)少し時間があるかなと思える山あいを高速で通り抜け、途中明石大橋の方へ針路を切る。名前は定かでないI.C の入り口から1台のグレーのクラウンが合流、思わずブレーキを踏み、横を見るとヘルメットをかぶった2人、指定速度以下に落として、覆面パトカーの前を走る。そのうちパトカーが私を追い越して、前方に移動、そのまま明石大橋手前の片道4車線のトンネル内を走行、その時一番右側の追い越し車線を高速で普通車が通り過ぎる。獲物を見つけたかの如くに、一番左側の車線から指示器を点滅させながら高速で右側に移動、追跡をしたかと思うとすぐに屋根の上の赤色灯の点滅、その車はパトカーの誘導に従ってトンネル出口で停車、横を見ると女性のドライバー、男女に差がないというものの、何か悲しい気持ちになった。パトカーを草原で獲物を狙う豹やライオン、チーターに例えるのは間違っているのだろうか。車の性能が良くなり、道路環境も整備された今、昔のままのスピード規制には若干の違和感があるのかもしれない。淡路島横断は快適な一直線の高速道、ほどなく鳴門大橋に着いた。橋の上から鳴門海峡を見ると、大きな渦があちこちで渦巻いている。潮の流れがそんなに際立って早いのだろうか。観光船が何隻もそれに群がり、近くでは多数の漁船も豊富な海の幸を求めて活発に動いている。昔鳴門にはよく来た。その時は岬町の深日まで自動車、そこから1時間フェリーに乗って淡路島の洲本へ、その後淡路島を横切って阿那賀から20分くらいのフェリーで鳴門に到着、時間的には今の兵庫県まわりとさほど変わらないが、フェリーの時間や乗船可能かどうかの心配をした。そんなに昔のことでないのに、遠い過去のような気がする。高松道は他の四国の高速道路がそうであるように、片側1車線の所が多く、四国に投資することの躊躇を垣間見たような気がするが、あまり不便さを感じないのは交通量のせいなのか。讃岐平野を貫く高松道は私をJRホテルクレメント高松まで連れて行ってくれた。JR高松駅は四国の鉄道の玄関口、海に近接している。昔ここから岡山の宇野市まで鉄道車両搭載の宇高連絡船が就航していた面影が随所に見られた。1955年(昭和30年)当時小学校5年の私の記憶にも紫雲丸事故が鮮明に残っている。死者168名、その内私と同じ位の小学校の児童の犠牲者は108名、悲劇の修学旅行であった。これを契機に四国と本州の連絡橋の構想が持ち上がったのも当然の話であろう。何回目かの高松が私を温かく迎えてくれた。今回は新しい幼稚園教育の制度に関する話がメインテーマであるが、香川大学教授による今話題の希少糖(rare sugar)についての話及びその研究過程で学んだ様々な知恵、処世訓等も有意義なものであった。文科省の役人は幼児教育の現状と課題について、戦後の出生数の推移や幼稚園及び保育所の利用者数の推移から始めて、子ども子育て新制度の導入についてその理由等を話された。様々な意見がある中で、この新制度もそれなりに導入されていくのだろう。現在新制度への移行幼稚園は全国的に20%強、この数字が多いか少ないかは議論の分かれるところだ。霜月、11月、今月は作品展の月、子ども達の力作、活動ぶりを是非幼稚園に来ていただき、ご自身の目で見て頂きたいと思います。子どもたちの生長と幸せを願って今月も保育に全力投球です。

01 10月 2014

37年目の秋
ー10月のことばー

  朝の冷気が肌に心地よい。秋の気配が充満しているのだろう。その中にかすかに秋の匂いが漂っている。草花や樹木の匂い、生きとし生けるものの匂い、季節は四季それぞれの独特の匂いで私たちに迫ってくる。自殺すると木にされると言う西欧の諺、移動できないもどかしさの中で、匂いで自己主張しているのかもしれない。大阪を俯瞰している金剛、葛城、岩湧の連山、その稜線が一段とはっきりしてきた。PM2.5や黄砂に汚された空気が精気を取り戻し、その透明感で様々な景色を変えている。神が大挙して出雲を訪れている今、10月、神無月、私たちは一年の一番いい時期に浸る幸せをかみしめたい。そして今年は美木多幼稚園にとって37回目のOctober、開園式の時は32歳であった。行政、学校関係、地域の人々、様々な人に祝福していただいた。司会の任に就いた。それまでビジネスの世界にいたせいか、匹夫の勇のせいか、怖れるものはなかった。心は比較的落ち着いていた。創立に伴う多額の負債があったが、楽天的な南米で何年か過ごしたせいか、「どうにかなる」という気持ちが強かった。もっとも綿密な計画を立てていたが。それよりも「どうしたら園児や保護者の皆様に喜んでもらえるか。どうしたら子供のためになるか。その成長を助けることができるか。」という事が大きな要素を占めていた。当初は1クラス40人が定員であった(現在は35人)。先生も少なかった。しかし一人が二人近くの仕事をこなした。どの教職員も同じ方向を向いて力を合わせて取り組んだ。幼稚園は活気にあふれ、次から次へと斬新なアイデアを教育活動に導入した。どの幼稚園と比較されてもその内容や活動は決して見劣りしないという自負があった。先生も大変だった。しかし意気に燃え、労苦はいとわなかった。やり方がスマートでなかった。それどころか泥臭かった。それが自然と共生し、自然の懐の中に抱かれて生きる美木多幼稚園の姿であった。あれから37年、共に創立に加わった内の園長と理事長がこの世を去った。人の世の習いとはいえ、永遠の別れは寂しい。その教育活動は時の流れとともに少しは変化したというものの、大筋では何ら変化なく、脈々と私たちの中に引き継がれている。まだまだ伝統と言えないまでも、変わることのない大きな心柱となって私たちの教育活動の根源になっている。これからも困ったとき、悩んだとき、その心柱に問うてみたい。 10月1日は願書提出の日となっています。美木多幼稚園はこれからも教育活動を益々公開してまいります。しかし保護者の皆様やご紹介された皆様には決して後悔していただくことのない活動です。幼児教育は人間成長の根幹であり、これから始まる小、中、高の教育を左右すると言われています。ただ可愛いだけでなく、そこに何かをプラスする活動を目指して、教職員一同心を一つにして取り組んでまいります。今後ともこれまで同様、ご支援、お力添え賜ります様心よりお願い申し上げます。

01 9月 2014

著名人の文章から
ー9月のことばー

  山路を登りながらこう考えた。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。(夏目漱石)春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。夏はよる。(清少納言)恩を受けた人はその恩を心にとめておかなければならないが、恩を与えた人はそれをおぼえているべきでない。(キケロ)学問とは唯むつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ詩を作るなど世上実のなき文学を云うにあらず。(福沢諭吉)養生の術は先心気を養うべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと慾とをおさえ、うれひ・思ひをすくなくし、心をくるしめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。(貝原益軒)良い憲法さえ作れば国が良くなるなどという軽率な考を以て、これに御賛成になりますと非常な間違いである。憲法で国が救われるならば、世界に滅亡する国はありませぬ。(尾崎行雄)昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ この命なにを齷齪 明日をのみ思ひわづらふ(島崎藤村)人と人との接触に関心する人々の心にあって最も重き地位を占むるものはいうまでもなく愛の問題である。愛は初め花やかなる一団の霞のごとくに、たのしく、胸をおどらす魅力を備えて私らの前に現れる。(倉田百三)子日わく、学んで時に習う、亦説ばしからずや。有朋、遠きより方び来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならずや。(孔子)春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけ出でし むかしの光いまいづこ。(土井晩翠)わたしにとっては、人生には美もなければロマンスもありません。人生はあるがままのものです。そしてわたしは人生をあるがままに受け入れるつもりです。(バーナード・ショー)バスの中で三歳の子が母に言った。「ね、あのおうちも向こうのおうちも大きいね、ボクんとこどうして小さいの」すると若い母がいった。「あんな大きなおうちだったら、ママが坊やにお話ししても聞こえないでしょう。ひろすぎて」坊やがいった「ホントだね」私はこの母に感動した。(淀川長治)日本料理にはまた、料理以外の美的要素といいますか、日本人独特の繊細なセンスを生かすことも必要でっせ。なにしろ、朝の山の色と、ゆうがたの山の色とが変わるという国やさかい、そのデリケートなところが料理法にも反映して、世界に冠たるものやと思います。(辻嘉一)約束の時間を守らないで、他人に迷惑をかけることの悪徳であることは、なんびとも否定できまい。にもかかわらず、どうして私たちはこんなに時間についてルーズなんだろうか。その根本の原因は、私たち日本人は、時間をムダにしたり、ムダにされたりすることにあまり神経質でないからだと思われる。(河盛好蔵)蔵書数がどんなに多くても整理のできていない図書館は、冊数はほどほどながら整理に行き届いた書庫ほどには役立たない。それと同様にどんなにたくさんの量の知識でも、自分で一度考えぬいてない場合には、量としてははるかに少なくてもいろいろ考えつめた知識より、その価値ははるかに低い。(ショーペンハウエル)武士道は刀の正当なる使用を大いに重んじたるごとく、その濫用を非としかつ憎んだ。場合を心得ずして刀を揮った者は、卑怯者であり法螺吹きであった。重厚なる人は剣を用うべき正しき時を知り、しかしてかかる時はただ稀にのみ来る。(新渡戸稲造) 代々木ゼミナールが規模を縮小したというニュースが流れた。50年前の受験生のころ、大阪は予備校が群雄割拠していて、代ゼミがあったのかどうかわからない。私はYMCA土佐堀校を選び多くの友を得た。当時は大学の数が少なく、学生の半分以上は浪人生であった。今は大学の数が極端に増え、誰でもはいれる状態になった。換言すれば浪人してまで行きたいという大学が減ったのだろう。人口減に伴い、栄枯盛衰が様々な分野にまで忍び寄っている。将来に対する予測が難しくなってきた、ひょっとすると同じような現象の国や過去の時代も参考になるかもしれない。しかしどんな時代になろうとも、人はその状況の中でたくましく生き続けることも事実だろう、この地球号が破壊されない限り。一段と元気で頼もしくなった姿で私たちの前に現れた子供たち、本当にお帰りなさい、先生たちはいろいろ準備をして、今か今かと待っていました。さあ2学期、運動会、作品展、登山、ミカン狩りにサツマイモ堀、秋の遠足、様々な楽しいことが皆さんを待っています。大きな成長を目指してともに集いましょう。9月、長月、September, 教職員一同力を合わせて同じ方向を向いて今月も張り切って進んでまいります。尚、今月、願書配布、来月入園受付となっています。勝手なお願いですが、何卒ご近所お知り合いの皆様に私たちの幼稚園をお勧めいただきたく、伏してよろしくお願い申し上げます。皆様方の期待に背くことなく、推薦して良かったと言っていただけますよう努力を重ねてまいります。

01 8月 2014

Republica Argentina (レプブリカ アルヘンティーナ)
ー8月のことばー

  アルゼンチンが敗北した。惜敗とは言え、負けた。人はチームプレイに徹した又はこの日のために10年かけてチーム作りに取り組んだドイツが、比較的個人技による南米のチームに勝利したと論じた。又ほぼ白人の国、アルゼンチンに対して移民政策をとっているドイツの勝利と言う人もいた。労働力確保の為に数十年前からトルコやギリシャ等の南欧の国々やアフリカ諸国からの移民の流入を認めていた国、そして東ドイツと一緒に大帝国を築き上げたヨーロッパ一の経済大国ドイツ、東ドイツ出身のメルケル首相も応援に駆け付けたドイツ、片や南米第2位の国とは言え、経済力は日本の九州と同じくらい、そして今や再びデフォルトの危機に見舞われ、首脳がサッカー観戦どころではない経済困難国、アルゼンチン。東西ドイツの象徴、ブランデンブルグ門で大歓声のドイツ、一方Casa Rosada(大統領官邸)前の広場で悲嘆と失望に暮れるアルゼンチン。しかしこの国は過去ワールドカップ(Copa Mundial)に2回勝ち、西ドイツにも決勝で勝ったこともあるサッカー大国。45年前、取引先の上司に連れられて初めて行ったRiver Plate(リーベル プレート)の本拠地、サッカーを何も知らなかった私に衝撃を与えたその熱狂さ、ビジネスの世界ではサッカーの話は必要不可欠だと悟らされた。貧困から抜け出すためにサッカーをするのと違って、有名なクラブで競技をしたいためにサッカーに身を投じている懐かしい第2の故郷、アルゼンチン。対岸が見えない広いラ・プラタ河沿いで愛を語り合う恋人たち、中に飛行場がある広い広いパレルモ公園、強烈な暑さと砂漠と歴史の州、フフイ、フォークソングで有名なツクマン州、炎熱の地、サンチアゴ州、ワインで有名なアンデス山脈の麓、メンドサ州、ハッとするような美人の多いサンタフェ州、2番目に大きいコルドバ州、風光明媚な湖と山々に囲まれた南米のスイス、ネウケン州、荒々しい自然が残るパタゴニア、そして日本の東京と同じく一極集中が進む人口1100万人のブエノスアイレス州、2年余りにわたって駐在していた国アルゼンチン、23州全てを踏破した思い出が45年の時空を超えて今鮮明に蘇っている。今回は完敗、しかし4年後、8年後、12年後、3度目の頂点を目指してもう動き出しているだろう、国の力を結集して。さて、いろいろな事件が起こり人を不安に陥れている。ベネッセ(進研)の漏洩問題は小さな子供たちの一生涯について回るだけに深刻度が大きい。あの手、この手で個人情報を吸い取ろうとする企業と個人との対峙、私たち幼児教育に携わる者としては、これを他山の石として、教職員一同心して、取り組んでまいります。いよいよ夏休み、怠惰にただ時間を過ごすのではなくて、何か必ず一つのことをするという目標を持って取り組んでほしい。早起きでもいい、お父さんやお母さんのお手伝いでもいいし、新聞取りや水やりでもいい、何か習慣づけて達成できるものであればいいと思う。今年の夏はある意味両極端、新聞報道によれば、ボーナスは昨年比8%UPとか、アベノミクスの影響で企業の業績がV字回復し、それが働く人にまで及んできたとか。そうであれば少しリッチな気分で外出とか旅行とか自然を訪れる旅とかに行かれるのもいいかもしれません。しかし電力需要が逼迫して節電が要請され、家を新築したりして節約の世界に浸りきる人も多いのかもしれません。それはそれで子供たちの大きな勉強になるでしょう。節約は美徳? 消費は美徳?余裕があれば皆さんはどちらの美徳を選ぶでしょうか。今を我慢して将来に備えるか、今の今しかできない消費をするか。難しい選択です。毎年夏休みが明けるとこれが本当に夏休み前と同じお子様かと、びっくりさせられます。心から願うことはお子様たちがこの休みの間に、病気になったり、事故にあったり、様々な事件に巻き込まれたりすることなく、どんな過ごし方でもいい、毎日元気に子供らしく過ごしてほしい事だけです。9月、先生が首を長くしてみなさんが帰ってくるのを待っています。少しのお別れです。アルゼンチン流に言えば、チャオ、アスタ・ルエゴ、アスタ・ラ・ビスタ、アディオス、そして日本流に 又会う時までお元気でさようなら。

01 7月 2014

激変する幼稚園
ー7月のことばー

  1840年、ドイツでフレーベルが小学校に上がる前の幼児の為の学校が始めての幼稚園(kindergarten)と言われて以来170年余り、そして日本では1876年、お茶の水女子大学付属幼稚園が最初の幼稚園として認可されてから130年余り、幼稚園がその役割を果たしてきた。卑近な例を挙げると、堺で2番目に古い諏訪森幼稚園が80年余り、そして前の鳳幼稚園の歴史を加えると今の鳳幼稚園も同じくらいの歴史を誇り、美木多幼稚園も歴史はその半分以下だが、それなりの伝統を受け継いできた。今現在日本にある13000余りの幼稚園も同じように歴史を刻み、幼児の教育に精一杯の情熱を傾けてきた。そして保育機能を持つ保育所(nursery school or daycare center)とそれぞれの役割分担を行いながら、小学校に至るまでの幼児の健全な成長に少なからず果たしてきた役目が大きいと言っても過言ではないのかもしれない。アベノミクスの影響があるのかわからないが、来年、平成27年4月から幼稚園、保育所の制度が大きく変わるようになった。と言っても主に変化のあるのは3,4,5才児対象の幼稚園の激変である。 1. 形態。 今までの幼稚園(すべて大阪府の管轄)は次の4つに分類される。 a. 今まで通りの幼稚園(大阪府が管轄) b. 施設給付型の幼稚園(市町村が管轄) c. 幼稚園型認定こども園(市町村が管轄) d. 幼保連携型認定こども園(市町村が管轄) bは幼稚園であるが、市町村の中に組み入れられ、定員などの調整も行われる。 cも幼稚園であるが、0,1,2才児の認可外保育所も運営できる。原則1日11時間の開所、最低8時間の開所が必要。土曜日開所しない場合もある。 dは認可された0,1,2才の保育所機能を持つ子ども園で、新しい法律に基づく新しい組織になる。原則として1日11時間、年間300日開園する。具体的にどの幼稚園が何型になるのかは各幼稚園が判断し、7月に大阪府でまとめられる。今の決定を後年変更する事も可能。 2. 保護者の皆様にとって。 突然の急な変更のために、全容が分かっている状態ではありませんが、今理解していることだけお伝えします。 a 3,4,5歳の子供は1号認定か2号認定に分けられます。1号認定はどちらかの親が働いていない場合です。2号認定は例えばお母さんが働いている場合で月最低48から64時間で短時間(8時間)の保育認定、フルタイムで働くと11時間の保育認定が受けられます。すなわち認定こども園か保育所でそれだけの時間の保育が受けられます。因みに1号認定は4時間で、それ以降の保育は従前どおり預かり保育になります。3号認定は0,1,2才の子供達で、たとえばお母さんが働いている場合に適用されます。1号認定、2号認定、3号認定などはそれぞれの市町村で行われます。…

01 6月 2014

6月、水無月、今月も期待
ー6月のことばー

  先日、東京から新幹線「のぞみ」に乗って帰ってきた。夜9時過ぎ、東京駅出発、2時間30分の快適な時間を享受させてもらった。私たちが対価を支払っているのだから当然だと言う人がいますが、この列車を安全に快適に運行させるのにどれほど多くの人たちが気を使い、神経をすり減らして仕事を遂行しているかを考えると対価以上の感謝を感じてしまう。うつらうつらしながら創業時のことを思い浮かべた。それまでは6時間30分であった。それが一気に3時間10分、ひかり号は夢の超特急、弾丸列車であった。老若男女を問わず、ただ体験するためだけに新幹線に乗った。新大阪を出て、名古屋往復が定番であった。50年前の話であった。大学生で近所のお年寄りを連れて行ったこともあった。混雑していて座席が無かったこともあった。この世での一つのいい思い出だったかもしれないが、今はもう誰も例外なく別の世界に行ってしまった。阪急電車と国鉄(JR)との景観に関する補償問題もなぜか関係のない私の頭に残っている。大きく報道されたせいなのか。京都に入ったあたりで、新幹線と並行して走るために今までの景色が台無しにされ、補償を払えというものだったと思う。京都へのお客が奪われるという阪急電車の危機感があったのだろう。何事も新しいことに対して本能的に拒否反応を示すのが昔から続いている私たち日本人の特徴なのかもしれない。生物体としての人間は確実に退化している、例えば食物の安全性や賞味期限の問題はそれぞれの個人で判断していたのが、今やその自信がなくなった。天気の予想に関しても気が付かないほどの小さな気象の変化にも注目し、明日の予報に役立てていたが、今はそれが全く話のタネだけに終わるようになった。科学的には今の方が優れているというものの、人間の機能が失われつつあるようで、残念で歯がゆい思いがする。エボリューション(進化)を繰り返して50年、新幹線の形状や性能は変わったが新大阪周辺やそれにつながるアクセスは開業時とほぼ同じ、その50年前に高校を卒業した私たちの古希を祝っての同窓会が先日あった。府立高校400名の卒業生のうち、90名余りが出席した。紅顔美少年や美少女のあの時の面影はどこへ行ったのやら。輪郭で少しは分かるものの、名前を聞いて無理やり思い出すのが精いっぱい。どの顔にも50年の風雪に耐えた重みや皺が刻み込まれていた。今は社会の一線から退き、引退している人がほとんどだが、現役の時には目を見張るような大活躍をしたのだろう。本四架橋公団で橋の設計に携わった人、スーパーゼネコンで副社長にまで上り詰めた人、弁護士や医者、自分で起業した人、今でも東南アジアで赤ひげ先生と慕われて活躍している医師、音楽家としてその能力を発揮している人、K大の野球部出身で社会人野球での活躍者、同じK大で野球部4番バッターとして息子が華々しく脚光を浴びたI君、外での活動はあまりなかったが子供を立派に育て上げた主婦の皆様、世間的にはたいしてスポットライトを浴びなかったが、一隅を照らす活躍をした大多数の皆さん。家に帰れば、あるいは世間では69歳や70歳と言えば高齢者でそれなりの思慮分別が備わっている範疇の人、しかし同じ仲間内では、いつまでたっても高校生、子供じみたセリフがあちこち飛び交っている。人は本当に進歩するのか。今になって若さに憧れ、嫉妬し、若者に迎合しようとするのか。結局人はこの世に生を受け、それなりの様々な経験を積み、子孫を残し、子供に帰って旅立っていくのか。その人生の中で小さな幸せを見つけ、刹那の冒険を楽しみ、肉体的、精神的に苦しみ、悶えながら一抹の光を希望の糧として生き続ける、その対象が何であってもいい、私たちに幸せと正義をもたらすものであれば。 今年の梅雨は少し長いとか。嫌われる雨も生きていくために大切な大切なものであることを子供達に十分知らせていきたいと思います。今月は鴨谷体育館で「親子で遊ぼう大会」があります。一緒になっていい汗を流しましょう。そのお手伝いをさせていただきます。プールも始まります。水の楽しさ、怖さを正しく知るいい機会です。6月、水無月、今月も少しでも子供たちが何かを学ぶことが出来ますよう教職員一同力を合わせてまいります。ご期待ください。

01 5月 2014

新たな旅立ち
ー5月のことばー

  2008年3月7日9時過ぎ、門の前に立って園児を迎えていた私に職員室から呼び出しがあった。家からの電話であった。「大阪大医学部に合格した」という連絡であった。話す方も興奮していた。センター試験がよかったので、阪大を受験することは知っていたが、多分浪人するか後期の大学だろうと思っていた。まさか合格とは私の想定外であった。本人は満更そうではなかったと後で言っていたが。早速お祝いで食事会を開いたのをよく覚えている。あれから6年の歳月が流れた、その間本人は泉北の家から吹田まで毎日通学した。その6年間、ひたすら医学部歯学部ラグビー部で青春を謳歌した。3年生の時に西医体の大会で優勝したことも本人には一つの大きな勲章だろう。学問よりもまずラグビーありきだった。勉強している姿をあまり見たことはなかった。同じ仲間が何人か留年していく中でよく6年間で卒業できたものだと思ったのは私だけでなかった。ひょっとしたら知らないところで勉強していたのかも。今年2月、桃山学院大学で行われた3日間の医師国家試験にも無事合格し、4月からは晴れて研修医となって病院に赴任していった。私が45歳の時の子供であった。70歳になるまでには必ず卒業するようにとの冗談じみた約束を守ったようだった。医師という資格はある意味恵まれた資格かもしれないが、本人の努力と母親のコラボの賜物と言っても過言でないかもしれない。美木多幼稚園で3年間過ごした後、公立小学校に入学した。取り立てて何かできるという児童でもなかった。小学校4年生から堺東にある日能研という塾に通い始めた。公立の学校しか知らない私は塾など行かずに公立の中高へ進んだらと話をしたが、母親は何がそうさせたのかわからないが、必死であった。小学校を終えると電車での塾通いもあったが、母親の送り迎えも多かった。6年生の3学期は小学校に行くことが少なくなった。塾の勉強と私立中学校の受験のせいであった。私の考えと相いれないものであった。失敗した受験もあったが大半は合格した。大阪の星光学院に入学した。その学院は基本的には塾は反対であった。本人も星光の水にあったのだろう。喜々として学校に通学した。先生との良好な関係を保ち、友達もたくさんできたようだった。しかし小学校時代は良くても中学校に入ってみると成績は中位であった。そのまま高校に入っても1年次は同じような成績であった。本人はZ会に真剣に取り組み始めた。駿台では授業料無料の特待生になり、それと同時に梅田の鉄緑会にも通い始めた。帰り梅田の吉野家の牛丼を食べる日々が続いた。母親も必死だったのだろう。ほぼ毎日梅田まで車で迎えに行った。本人はいたって普通の高校生であった。校内、校外模試が3年生になると頻繁に行われるようになった。成績も今までの地味な努力が実ったのか、200人中100位くらいから2ケタ台後半、中位、前半と上昇していった。最後の校内模試では1ケタ台前半にまで上り詰めた。奇跡であった。校外模試も志望校のB,C判定が続いた。本人の着実な努力とそれなりの環境があったのかもしれない。今いよいよスタート台、学校の教員と同じようにいつまでたっても現場労働者、しんどい、厳しい仕事や日々が続くことだろう。先生が子供やその周りの人の喜ぶ姿を見ると今までの苦労が報われるのを感じるのと同様に、患者やその周りの人の喜ぶ姿を見ると気持ちが癒されるのも事実です。国から受けた支援、周りの人々からの暖かいサポート、何らかの社会的な貢献をすべく使命感を持ってこれからの人生を歩んでほしい。もっとも親の私が言うまでもなく、本人が一番自覚していることだろう。今回何かの参考になればと思って初めて個人的なことを園だよりで書かせていただきました。これに不快感を持たれた人がおられましたら、心よりお詫び申し上げます。 さて、5月、子供達は4月の緊張から解き放たれて行動も活発になる時です。連休明けは少ししんみり悲しくなる時があったとしても、もう完全に美木多幼稚園っ子、母の日をはじめとする様々な行事や保育活動を通じて成長、発達への階段を登っていきます。大きな期待の始まりです。園児たち、保護者の皆様そして私たち教職員が同じ仲間意識を持って子供達が楽しい園生活を送ることができますよう力を合わせていきましょう。皐月、5月、今月もよろしくお願い致します。

01 4月 2014

前途洋洋
ー4月のことばー

  春、spring  primavera・・・・ 泉が地中から湧き出るかのごとくに春が来る。春は何と艶めかしく、躍動的な言葉でしょう。何かしらこの季節の中にいるだけで、楽しく、心がうきうきし、体がひとりでに動き出す。陽光あふれる春、命がみなぎる春、全ての物が生き返り、現生でその生を満喫する春、歓喜と至福の37回目の春が私たちの上に廻ってきました。新しい年度の始まり、入園、入学の希望と期待の季節、新入園児の皆様、ご入園おめでとうございます。お母さんの胎内から生まれてまだ1000日前後、皆さんはまだまだこの世では未熟なひよこのような存在です。しかし私たちは皆さんをしっかり支え、教え、サポートしていきます。私たちの仲間になったのです。遠慮は何もいりません。7000名にならんとする卒園児、在園時の皆さん、保護者の皆様、元・前を含めた教職員の人たち、どこかで美木多幼稚園と関わりのある大きな大きな大切な仲間です。皆さんがこれから健康で活躍し、勉強を続けるうえでの目に見えない無形の財産です。皆さんはこれからの2年、3年、4年の幼稚園生活の中で、健康の大切さ、食の重要性、友とのかかわり、知識や技能の向上、遊びの多様性など、様々なことを美木多幼稚園という集団の中で学んでいきます。春のお花摘みや遠足、夏の水泳やサマーキャンプ、そして秋の運動会や登山、作品展、そして冬にはクリスマス会や音楽生活発表会、楽しみや期待の行事が皆さんを待ち構えています。元気いっぱい挑戦し、乗り切って、良い思い出をたくさん作ってほしいと思います。皆さんは日々の日常活動やこれらの経験や体験を通じて心も体も立派に成長し、相手の気持ちのわかる心の優しい人、思いやりのある心豊かな人、誠実で素直な人になっていくのではとひそかに期待しています。しかしこれからの幼稚園生活の中で、大事で、大切なお父さんやお母さんを悲しませることだけは決してしないでください。さあー始まりです幼稚園の1時間目が。 在園時の皆さん、ご進級心よりお喜び申し上げます。皆さんは入園したころに比べると、ずいぶん大きく成長しました。美木多幼稚園での生活もだんだん少なくなってきました。今まで以上に日々の保育や行事に年長者として意欲あふれる態度で接してほしいと思います。皆さんの活躍が美木多幼稚園の栄光です。保護者の皆様、ご入園、ご進級おめでとうございます。これからの生涯教育の第一歩が始まりました。子育ては尊い仕事です。子供とともに成長する喜びはこれからが本番です。子供を持つ喜び、子供を育てる幸せ、苦労を十分に意識しながら子供たちの大きな大きな成長につながるように一緒に手を携えていきましょう。今後ともご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。最後に全ての人の上にご多幸とご健勝の女神が宿りますよう心よりご祈念申し上げます。

01 3月 2014

巣立ちと偶然
ー3月のことばー

  厳しい寒さが続いていますが、それでもどことなく心を温かくしてくれるような春の足音が近づいてくるのを感じます。それは待人の期待からだろうか。実際気づかない程度に暖かくなっているのだろうか。それとも樹木や草花の微妙な動きに刺激されてそう感じるのか。とにかく野を越え、山を越え、川を渡り、一面春景色に染めながら私たちの許に到着し始めました。躍動の瞬間、歓喜の瞬間です。3月、喜びに浸る受験生もいれば、捲土重来を期す人もいるでしょう。美木多幼稚園児の何年か後の姿かもわかりません。喜び、期待にあふれる人はこの幸福感を忘れないでほしい。苦しくつらいときは思い出してほしい。挑戦に失敗した人はそんなに嘆かないでほしい。与えられた試練に毅然と立ち向かってほしい。人生は長く、最終的に勝利するのはあなたであるかもわからないから。年長の皆さん、卒園本当におめでとう。幼児期のかかわり方が重要なことは万人が万人肯定している事実であり、それがこれから生きていく人生の中で根幹部分を成すことも誰も否定はしない。そういう観点で見てみると2年、3年、4年間美木多幼稚園で得た経験や体験は君たちのこれからの人生の中で大きな宝となり、掛け替えのない役割を果たしていくことでしょう。しかしそれにはこれからも不断の努力や勉強が必要なことは言うまでもないことです。怠惰からは何も生まれてこないからです。これからの行く道には必ずしも好ましい人物だけに遭遇したり、自分の好きな、得意な事象や自分と同じ意見や考えばかりに出会うとは限りません。強烈な反対意見にぶつかり、心が折れそうになることもあるでしょう。しかし誠意をもって真面目に対応することによって道が開かれる場合も数多くあります。幼稚園で学んだこと、友達と遊んだこと、様々な行事を頑張ったこと、皆さんにとって大きな大きな財産です。きっと皆さんの役に立ちます。日本は今、ある意味四面楚歌の状態かもしれません。皆さんが半世紀後、苦境の日本を救った立役者になるような活動、何も大きな活動を言っているのではなくて、小さくとも社会に役立つ活動、そんな活動を誇らしげにしている、そんな姿が目に浮かぶようです。りんご、年少、年中組の皆さん、この1年の成長は目を見張るものがありました。あんなこともこんなこともできるようになりました。弱虫だった子もこの1年で見違えるように強くなりました。本当にこの1年よく頑張りました。来年も美木多幼稚園でお友達や先生と楽しく仲良く過ごしましょう。きっと良いことが一杯ありそうです。さて11月の園便りで「道央道旭川への道」という文を書きました。個人的に驚いた経験になりました。「何の知識もなく旭岳温泉という所に泊まった。知らなかったとはいえ、そこは会場から40km近く離れ、そのうえ海抜1000mを超えていた」。そうです、泊まった旅館の名前は「湯元 勇駒荘」、この旅館を選んだ理由はJTBの時刻表の中の旭岳温泉の最初に列記されていたに過ぎなかった。暖炉のあるロビーには政財界の有力者や有名人と若い女性が一緒に写った写真が何枚も飾られていた。なんでこんな写真がと思って尋ねると、ここの経営者の娘さんで、スノーボードをやっているとの返事、それなりに頑張っているのだな位の印象でしたが、ソチオリンピック銀メダル竹内智香さんは旭川出身の旅館の娘という記事に、ひょっとしたらあの時泊まった旅館かなと思って調べると、まさにその旅館のその人。今はそのせいで予約がいっぱいだとか。偶然にびっくりしたソチオリンピックへの私の思いだった。年長さん、小学校へ行って最初は少し戸惑うかもしれないが、誰も経験すること、何も恐れることはない。皆さんが美木多幼稚園に在園したことに自信を持ってほしい。友達をたくさん作って小学校でも楽しく過ごしていこう。皆さんはすべての人の期待の星です。時々幼稚園のことも思い出してください。いつまでも元気でいることを心より祈っています。

01 2月 2014

隠岐の島と激動の幼稚園
ー2月のことばー

   厳しい寒さの中にも、なんとなく春の気配が感じられる頃になりました。この間朝礼で今は何もない木だけれども、2月から3月にかけて咲く花は何?と聞くと「桜」と言う声があちこちから聞こえてきました。桜のイメージが強いのでしょう。桜に似ているけれどもそれは梅の花だよと答え、幼稚園の周りにある白や赤の枝垂れ梅の蕾も少し膨らんできたよと話すと朝礼後早速担任と一緒に走ってそれを見つけに行ったクラスもあった。子どもたちは何事にも興味津々です。好奇心が強く、どうにかしてそれを良い方向に伸ばしてあげたいと先生も一生懸命です。そんな朝礼を終えると、私たちの仲間のお母さんが104歳で亡くなったとの知らせ、私にできることと言えばお葬式に参列する事位、葬儀は島根県隠岐の島、行く方法は午後出発の飛行機かフェリー、後者を選択、パソコン等で道路状況を調べ、午前3時30分、一人で泉北の自宅を出て、阪和、近畿、中国、の各自動車道を経由して、車の温度計が途中の蒜山高原や大山の麓で-2度を表示するも普通タイヤでOKとの道路情報を信じて、雪の米子道を終点を目指してまっしぐら、終点から国道を通って島根県松江市七類フェリー乗場に7時30頃に到着、9時発のフェリー、地元の人もびっくりのべたなぎ、3,000トンのフェリーは港内こそ穏やかだったが、外海に出ると大海の中のちっぽけな存在、波にもまれての揺れの激しさ、大げさな表現を借りれば、自然の大きさ、力強さにびっくりした2時間30分の船旅であった。初めての隠岐の島、後で知った事だが、島は島前(douzen)、島後(dougo)の2つに分かれ、前者はまた3つの島から成り立っていて、よく観光ポスターに使われるのが島前、詳しくは西ノ島だそうだ。私は島後の西郷港で下船した。レンタカーを借りて島を半周したが道路はよく整備され、辺境の地に来たという違和感もなく、どこにでもある日本の原風景であった。無事ご遺族にお悔やみの言葉を述べ、3時40分発のフェリーに乗船、七類港に6時過ぎに着き、途中米子市内で食事をとった後、同じ米子道を通って堺市の自宅に11時ころに到着した。19時間余りの急ぎの旅であったが、隠岐の島を身近に感じた旅でもあった。どの地域でも人々が素晴らしい営みを送っていることを再認識した時間でもあった。 1月28日、幼稚園研修会は今までにないくらいほとんどすべての設置者か園長400名余りが出席した。平成27年度に迫った新しい幼稚園の制度はこれからの各幼稚園の未来を決める非常に重要な決断になるからです。それは今までの幼稚園として残るか、認定こども園あるいは施設型給付を受ける幼稚園として残るかという選択です。今までの大阪府の関与から市町村などの基礎自治体の関与が大幅に強まるからです。認定こども園にしても幼保連携型と幼稚園型があり、その組織、給付体制が異なる。前者は別法律によって運営され、幼稚園の名前が消えることありえる、後者は従前どおり幼稚園の名前が残る施設になる。0~2歳の保育所機能を付けることも可能である。今まで通りの幼稚園として残ることももちろん可能だが、保護者や施設への補助金の減少が見込まれるかもしれない。又保護者は1号認定(教育のみ)、2号認定(3~5才の保育の必要性あり)、3号認定(0~2才の保育の必要性あり)の区分があり、1号認定者は従前どおりですが、2号、3号認定者は市町村で認定を受ける必要があり、保育料も同一でなくなる可能性もある。市町村の影響が強くなることは必定である。まだ基本となる公定価格や消費税10%が決まっていない等で流動的な要素がたくさんあります。保護者の経済的な負担を軽減しようとするこの新制度はまだまだ未知数の所が多いかもしれない。 今月は音楽・生活発表会の月、今練習、練習です。当日子どもたちは待っています、大好きなお父さん、お母さんから褒められることを。

01 1月 2014

希望と期待、新しい年
ー1月のことばー

  慈愛に満ちた光輝く陽光がやさしそうに微笑みかけながら私たちの幼稚園の上に降り注いでいます。新しい年の始まりです。 この日を1月1日新年と決めたのはまだまだ歴史が浅いとは言え、新しい年を迎えるという喜びは人がこの惑星に姿を現して以来持ち続けてきたのではと思います。師走は何かもの悲しい気分が漂いますが、新年は悲しいこと、つらいことや様々な身に降りかかった禍に別れを告げて希望と勇気がわき出るときです。人生はやり直しがきかない。ただぼんやりとその日暮らしをしているとすぐに終幕を迎えてしまう。人はどんな逆境や悲観的なことに遭遇しても、最後の一瞬まで希望と勇気を見捨てることはできない。私たちはたくさんのシニカルな人と違って、最大限素直に新年を祝い、大きな夢を託したいものです。考えれば新年は不断に流れ行く時間の中の一つの目盛に過ぎない。しかしそれは大きな一つのけじめであり、極論をすれば新しい生まれ変わりの時であるかもしれない。その陽光が美木多幼稚園にも降り注ぎ、36回目の新しい年の到来を告げました。明けましておめでとうございます。2014年(平成26年)、皆様方にとって本当に素晴らしい年でありますように、又皆様方に大きな幸をもたらしますように、特に21世紀を背負って立つ幼稚園っ子の上に明るい未来の希望と期待の光が燦々と光り輝きますように心より願ってやみません。意外にも今巷では夏よりもたくさんの花が咲き乱れています。寒牡丹、冬椿、侘助、仙寥、万両、南天、思いつくまま並べてもこれだけの花が、そしてほとんど赤色の花が葉の緑色と補色をなして、時には強く、時には控えめに、しかし凛として冬の寒空の下で耐えて私たちにその力強さと優しさを示して、私たちが大きな気持ちで心強く、優しく生きることを示唆しています。昔から続く幸せと長寿を祈願しての神社、仏閣へのお参りや教会でのお祈りや説教、私たちは過ぎ去りし過去に感謝しながら、又一つ齢を重ねていきます。若い人にはいろいろな可能性や芽吹きがあります。年取ってそれに気づいてもその可能性の範囲は非常に狭く、その上芽生えも枯れたものになっていることが多いものです。その可能性を広げ、その芽生えを伸ばすことは大人の責任、と言っても大人自身もそれに気づかねばなりません。幼稚園で見る子供たちは限りない可能性や芽生えがあります。できる、できないという以前の問題です。なるほど親から受け継いだ素質やDNAのこともあるでしょう。しかしそれよりも重要なものはどのように育ち、どのように努力するかにかかっているのです。なぜなら努力は裏切らないからです。未来を託す子どもたちがこの世に生まれた甲斐があったような活躍、能力を眠らせ続けるのではなくて、その能力を精一杯発揮できるような環境を作る、大人も安閑としておれないような新年になりそうです。 昨年度私たちに頂いたお力添え、ご支援、励ましのお言葉、叱咤激励、大変ありがとうございました。本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。最後になりましたが皆様方に幸多き事、又いつまでも健康であられます様ご祈念申し上げます。  

01 12月 2013

感動 旭山動物園
ー12月のことばー

  動物園と聞いたらどういうイメージを思い浮かべるだろうか。まず天王寺動物園、この頃は大分きれいになったが、いかんせん敷地が狭いためにごちゃごちゃした感じ、あるいはアフリカを少し真似した各地のサファリパーク、それらが私たちの頭の中に固定化された動物園の姿、そこでは動物が見世物であることが強調され、本来の姿をあまり見ることはできない。旭川市の中心から少し外れた郊外にそれがあった。小高い丘すべてが動物園であり、今までのイメージと全くかけ離れた公園の中の動物園、樹木に囲まれた動物たちの緑のオアシスであった。ここには人をそれで呼び集めるような「珍しい動物」はいません。普通の動物たちの素晴らしさを伝えることに主眼を置いているそうです。さらに言えば、動物の価値に差があるような見せ方をしていないし、「ありのまま」の素晴らしさを感じ、価値を見つけ、「自然の大切さ、命の温もり、命の尊さ」を気づいてもらいたいと考えている。10年前に廃園の危機に会った動物園がいかによみがえったか、そして年間20万人しか来なかった動物園に同じ顔ぶれで300万人の来場者(単純計算で1日8000人強、1日何万人の来園者もあるとか。北海道の人口36万の旭川市ということを考えればこれは驚異的)を迎えるようになったか。そしてリピータも多い。私は危機に際して職員一丸となって、動物園の原点に立ち返り、動物たちの凄さと命の輝きを多くの人に伝えることをテーマに動物本来の能力を引き出し、ありのままの営みを見られるように工夫した事等、様々な創意工夫した事に尽きるのではと思っています。1時間30分にわたって坂東元旭山動物園長の話を聞きました。その中で聞いたことを少し書いてみます。ある時見学者が「なんやラッコやない、ただのアザラシやないか」と言われて本当に悔しかった。そしたらただのアザラシがラッコよりもすごいところ、本来の姿を見せてやろうやないかと考えて人を水の中のトンネルに導き、また太い透明の円柱の中をアザラシが元気よく泳ぐ姿を見せて大好評になった。動物の命を預かっているのだからこっちの動物がすごい、あっちの動物がたいしたことはないという意識が持てない。みんな同じという考え、珍しいものを入れてお客さんに来てもらうことはしない。私たちは生かされている。死の順番を待っている。動物たちも私たち同様生きたいと思っている。動物たちは与えられた環境の中で生きている、たんたんと生きている。たとえ狭い檻の中であってもオオカミはオオカミらしく発揮させてあげたい。動物園では動物が生まれたのはニュースであるが、死はタブーであるのはおかしい。命を閉じ込めているのだから死にましたという知らせをするべきで、死を認め、心の中で生き続けるようにしたい。死は日常の中にあり、動物たちも命を次世代に伝えることを本能的に行っている。誕生するだけ死があり、命を終わらせてくれる仕組みの中で命があふれているのが自然である。次の世代にバトンタッチするために動物は生まれてくる。私たちはそれぞれの種として一生送れる環境を整えてあげることが大事であり、ありのままが一番美しいと考えている。広い野生の地の動物が狭い場所で生活するのは動物の虐待と批判されることに対して、動物の居場所が次の世代に暮らす場所でないと繁殖しない。動物園で生まれ、育ったものがすぐに野生に返しても無理でないか。実際のところ、動物園の動物の80%以上が動物園(その動物園に限らないが)で生まれた動物で野生とは言えず、野生にいるから幸せとは限らない。初めての旭山動物園であったが感動があり、また来たいと思わせるような何かがある動物園でした。 2013年、平成25年もいよいよ最終月、うれしいこと、悲しいこと、思い通りにいかなかったこと、いろいろあったでしょう。しかしけじめをつけて新鮮な気持ちで新しい年を迎えましょう。この1年間保護者の皆様には貴重なご意見、多大なご協力本当にありがとうございました。来る年も皆様方にとって幸多き年になりますよう心よりご祈念申し上げますと同時に21世紀を支える尊い人の育成に手を携えて一緒に進んでまいりましょう。最後になりましたが来年度も本年同様よろしくお願い申し上げます。  

01 11月 2013

道央道旭川への道
ー11月のことばー

  全山黄葉、紅葉ではなくて文字通りの黄葉、10月下旬、北海道道央道自動車道札幌から旭川に向けての目を見張るような、うっとりするような魅惑的な風景、よく見ると落葉樹の上の方が黄色に色づき、下の方はまだ幾分緑色が残っている。しかし全体でみると輝くばかりの黄色に染まっている。北海道のある種の樹木はこの時期朽ち果てる前の最後のお化粧をしているのだろうか。不思議なことに本州のように燃えるような真っ赤に色づく木々はほとんど見られない。桂や白樺やその他の名前の知らない木のせいだろうか。その黄色とところどころに残る常緑樹の緑色とが人には想像つかないような鮮やかなコントラストを呈している。自然界の色の配色や配合、組み合わせは人間の英知を超えている。数えきれないほどの微妙な色彩、デザイナーや建築家が惜しみなく研究してもその内容を把握し、その域に到達することは可能ではないとしても、その一部くらいは享受させていただいている。昔のことを言って申し訳ないが、紅葉は当たり前だった。そんな事気に留めたことはなかった。初夏に燃えるような緑が芽吹き、夏を越して秋に真っ赤になったり、まっ黄になったりして落葉して朽ち果てていく。当たり前のことであった。そんな光景は珍しくなかった。きれいとか素晴らしいとか感動したとの感情を持たなかった。年月がたち、自然が周りから消えていき、それと同時に書物や報道を通じて再認識され始めた。当たり前のことが貴重な存在になって初めてその価値を見直したのかもしれない。いわゆるないものねだりになったのだろう。そんな事を考えながら車を走らせていると千歳から170km, 2時間弱、旭川市の目的地に着いた。毎年この時期、全日本私立幼稚園連合設置者園長全国研修大会が開かれる。今年も600名余りの人が全国から集まった。今幼稚園は様々な課題に直面している。一つは平成27年4月から新制度が始まり、今までの幼稚園が0歳からの保育所機能も備えた認定こども園になるか、従来通りの3,4,5歳の幼稚園のままで存続するかということです。もう一つは幼児教育の無償化がどのような形で実現されるかということです。その他に年長組を小学校に組み入れるという考えも提起されています。100年以上続く企業は珍しいのと同じように幼稚園や学校の制度がこのまま続くとは思いませんが、この激動の時代をいかに乗り切っていくか、私たちに課せられた大きな試練であることも事実です。どちらにしても私たちは「子どもは次の世代の宝物」であることを深く自覚し、子どもの自由に生きる権利を認め、子どもが真ん中の保育をしっかり進めてまいります。話を元に戻します。会場近くのホテルが満室であったために時刻表で調べて、何の知識もなく旭岳温泉というところに泊まった。知らなかったとはいえ、そこは会場から40km近く離れ、その上海抜1000mを超えていた。6時過ぎに研修大会を終えて、レンタカーで暗い山道をひたすら登って約1時間、目的地に着いた。外は雪が積もる0度の世界、そこが大雪山国立公園のひとつの入り口であること、そして旭岳に向けての500mの落差のあるロープウェーの駅であることを初めて知った。又大雪山という名の山がないこと、一番高い山は目の前の旭岳である事を知った事は山音痴の私にとっては貴重な知識になった。旭岳2291mの頂上は雪をかぶって威厳を誇っていた。姿見駅(1600m)を降りると雪が氷となって一面を覆い、麓にあった黄葉も、もうここにはなく、すべての葉を落とし、荒涼とした景色の一部になっていた。樹木の生存限界を超えているのだろう。スーツ姿の私はバッグを持って700mほど革靴で雪の上を歩いて姿見の池まで行って引き返したが、轟音を立てて水蒸気を吹き上げ続ける旭岳には何か恐ろしさと同時に一種の包容力を感じた。日本再発見、まだまだ私たちの知らない日本の美が至る所に隠れている。 この時に聞いた旭山動物園の園長の話や実際に見た光景をいつか書いてみたいと思います。  

01 10月 2013

ビフォアand アフター 50 years
ー10月のことばー

  秋晴れの埼玉県狭山市、お茶の香りがいっぱいの狭山市は大阪狭山市と異なってほぼフラットな地形、突然空気を切り裂く高い金属音、気流の流れを分断し、強引に重力に逆らっていく。視界に入ったと思えばすぐに視野の外に出てしまう。何回も何回も直線飛行を繰り返す戦闘機、そして周回や低空飛行も訓練の輸送機、狭山市は自衛隊中部方面隊司令部のある入間基地に隣接、首都圏を守る陸上自衛隊の中央即応集団の一翼を担う重要な基地だそうだ。しかし戦闘機や輸送機の姿を見、音を聞くと、こんな状況を経験したことがない私にとっては紛争地域にいるのかと錯覚してしまうほどだ。音や姿、形で人を恐怖に陥れる面もあるのだろうか。国を守る尊い使命を持った集団の一面であるのかも。最近身近に戦闘機の操縦士がいたことに驚かされた。高校の同級生2人は航空自衛隊に行き、その後ANAのパイロットとして定年退職を迎えた。又航空自衛隊の幹部として活躍した人も何年か前に家の近くに引っ越してきた。口には出さないが、USAでの訓練や幹部としての活躍もいろいろあったのだろう。今は見守り隊での活躍だが。そんな狭山市で東京から来た3人と出会った。いずれも私と同じ60代、年齢が近いせいか共通の話題がいっぱい。彼らの話の今の中心は2020Tokyo Olympic.そう私も経験した丁度50年前のOlympic,その時高校3年生であった。聖火リレー、メインスタディアムでの点火、泉州のバレーボール、東洋の魔女の回転レシーブの活躍、マラソンでのエチオピア勢、刺激的なポスター、市川昆監督による東京オリンピックの映画、血気盛んな青春時代、ほろ苦さとロマンを加味したセピア色の向こうには思い出が凝縮していた。共通の舞台があった。しかし今はどうか。同じオリンピックの話題とは言え、明白に異なっていた。マラソンコースはお台場が外れるとか、聖火コースは前と異なるとか、どの競技はどこで行うとか、新しいスタディアムができるとか、近くの道や大きい環状道路が加速度をつけて建設されるとか、景気が持続的に良くなるとか、オリンピックの話題を語りながらローカルの話が中心、それも良いことばかりの話、500km離れた大阪にはおすそ分けはないのだろうか。逆に物価が急上昇してマイナスの恩恵かもと自嘲気味に考えたくなる。理性ではオリンピックは日本の誇り、日本の喜び、日本の国威発揚等々と、陳腐な言葉の羅列だが、重要なイベントとして理解しているが、感情的には東京一極集中には少し抵抗を感じることもある。理性と感情のはざまをスイングしている私、天邪鬼の私にとっては、それでも日本での開催を心から喜んでいる自分がそこにある。あと7年はそんなに遠くではないが、後輩に託すあと50年はどうなっているのだろうか。欧州の貴族の道楽と言う人もいるオリンピックもアフリカや中東のパワーを無視できず、その地で行っていることは100%当然のことだろう。4月から始まって9月まで、1年の半分が過ぎ去りました。前半は子供とのコミュニケーションを深める、すなわち保育者の考えや指導計画に従って子供の思いを受け止め、大人たちが感じたり考えたりする方向に子供たちを向けていくということでしたが、後半は前期の指導を踏まえて、先生の思いと子供の思いの間の溝を埋めていく、換言すれば一層子どもたちの思いに寄り添って保育活動を広げ、彼らの大きな成長発展の礎を作る、そのために後半に大きな行事が目白押しです。行事活動を通じての生長も大いに期待したいものです。人生はくり返しです。私たちが受けた恩や愛情、教育、モラル、その他目に見えない数多くの有意義なものを私たちは次の世代に引き継いでいきましょう。そしてそんな引き継ぎの人生の中で少しは甘い夢も見せていただこう。この子たちがどんな夢を見させてもらうのか今から楽しみです。尚10月1日は願書受け付けの日です。決して後悔させない、しない保育を目指して頑張っていきます。ご近所、お知り合いの方にもお誘いの上よろしくお願い申し上げます。  

01 9月 2013

過去からの訪問者
ー9月のことばー

  今年も近くのお墓へ鬼籍に入った大事な大事なお客様を迎えに行った。もう何回になるだろうか。海外で生活した年月を除けば60回余り、年月の長短はあれ、一緒に同じ空気を吸った家族は祖父母と両親の4人、市役所の壬申戸籍や除籍謄本、お寺の過去帳や墓石に刻まれた名前を含めると本当に多数の人々、いわんや存在がはっきりしない人を含めると、もう手におえない。今と違って医学の進歩のない過去では、年老いた人から順番に死んでいくのではなかった。逆転現象が起きたり、幼児で命が尽きた人も数多くいて、悲しい思いをしたこともいっぱいあっただろう。しかし今となっては同じ黄泉の国で手を携えて幸せに暮らしている、少なくともそう思いたい。と同時に次にやって来る人の準備をしているかもしれない。大きな災害などがあるとその準備が間に合わないかと心配だ。ある人は「手遅れの幸せ」と言い、繁殖を終えて、生きものとしての賞味期限の切れた年寄りには「早過ぎる死」はないと公言している。時には老害として忌み嫌われることもあるが、活躍の場所を与えられて意欲的に生き続けている人も多いし、大きな社会的貢献をしている人も少なくない。個人的にはどちらの範疇に入るかわからないが、訪問者の仲間に入るのをもう少し待ってほしいと心ひそかに思っている。もちろん認知症などになって自分の存在が不安定なものになった時にはその考えは変わることもありうるだろう。そんな私がつい最近ある場所で突然声をかけられた。「失礼ですが宮下さんですか」「そうですがどちらさんですか」人を覚えていない、あるいは忘れてしまっている事を恥じて決してそんな問いかけをしないが、その時は全く不意打ちで、その顔に記憶はなかった。「Yです。録音機輸出部の」、頭の中はまだ混乱していたが、徐々に記憶を取り戻していた。「一緒に一回橋本カントリーに行ったことがあります。」その言葉は決定的であった。そう40年前二人とも平社員で私は輸出部の宣伝の仕事、彼は業務で製品輸出の仕事をしていた同僚であった。私はしばらくして30歳で会社を辞めたが、彼はその後アメリカで勤務し、日本に帰って事業部長の職責を全うして会社を辞めたそうだ。会社を辞めてもうすぐ40年、一度も彼に会ったことはなかった。もし逆の立場だったら決してわからなかっただろうし、ましてや声をかけることもなかった。若いときに彼に与えた印象は強かったのだろうか。それともこの長い年月、皮肉的に考えれば、私にはほとんど成長や進歩がなかったのだろうか、変化しなかったのか。再会を約して別れたが、不思議な瞬間であった。それから1週間ほどして別の場所で、私が勤務を続けていれば確実に同僚になる人にあった。全く未知の人であったが、話を進めていくうちに共通の知り合いが一杯いることがわかり、もちろん上記のY氏もそうであったが、私と同じように若いときに海外勤務をしていたN氏であった。私と違って当時の社長の親戚筋の人であった。なぜ立て続けに珍しい、懐かしい人に会ったのだろうか。年老いて行動範囲が狭くなったことも大きな要因だろう。さて話をもどそう。現世に戻ってきた人は今の若い人がゴキブリや小動物を見て、身の毛のよだつほど怖がるのをどう思うだろうか。ゴキブリやクモなどの小動物に囲まれて生活していたのだから間違ってもそんなものはほとんど存在しない高層階に住みたいという発想はない。人を懲らしめるのに化学兵器はいらない、ただゴキブリやクモがあればよい、と言うのもまんざら冗談でなさそうだ。飛行機から外を見ると当然雲を上から眺めている。何の違和感も感じない。しかし連れ帰ったお客様は、両親は経験があるとはいえ、ほとんどの異邦人は下からしか雲を見たことがなかった。あの上はどうなっているのだろうかと何回も考えたことだろう。そうかと言って近代科学が発達し、生活水準や衛生概念が発達した今が昔の彼らより、あるいは戦中、戦後活躍した彼らより幸せであるかと問われるとすぐに返答できない。物質文明の豊かさが必ずしもイコール人間の幸せであると思わない。人が日々働き、生活し、社会に少しでも貢献し、人として少しでもその存在を認められて幸せを感じるというか、案外日々何も感じないのが望外の幸せであるかもしれない。何はともあれ、短い帰省の旅は終わりを告げた。今年も彼の地に送り届ける大きな仕事を無事終えることができた。人生は繰り返しだとよく言われる。今の幼児たちも何年か先に同じようなことをしているのだろうか。それとも劇的な社会の変化で現世に帰る道を閉ざされているのだろうか。2学期夏休みが明けて、いつもの年と同じように、子供たちは一回り大きくなって幼稚園に帰ってくることでしょう。運動会、作品展、そして自然との触れ合いを求めての郊外での収穫体験や登山、メニューは盛り沢山です。どれも成長への大事な大事な教育課程です。今学期も教職員全員足並みをそろえて元気にさまざまなことに取り組んでまいります。1学期同様よろしくお願いいたします。  

01 8月 2013

未来予想図
ー8月のことばー

  日々が流れていく。風に吹かれて漂う浮雲のように。言い訳や弁解などは時間には無用である。日々は待ってもくれない。一時停止さえも眼中にない。何もなかったかのように無表情に生誕の喜びから旅路の果ての悲しみまで人を運んでいく。私たち凡庸な人間にはそれが定めと思っていても、悲しみから目をそらすために糊塗してしまう。強がりを言っても所詮いつも何かにおびえる弱い存在。そんな生命体がこの掛け替えのない地球で、もっと狭義に言えば、国や都市や町で、もっともっとミクロで見れば、企業や学校や家族内で、もみ合い、諍いを繰り返している。尤も皮肉的に言えば、それが人であることの証明であるかもしれないのだが。そんな愛すべきか弱い存在が先進国では急激に数を減らしている。人口増が成長の起爆剤とするならば、著しく正反対の方向に進んでいる。人を輸入すべきだという意見もあるが、欧州の国々のように今まで住んでいた人々との軋轢が生じる可能性が大きい。もっともアメリカのように最初から移民で構成された国ではそうでないのかもしれないが。しかしこの考えも昔から住み着いているアメリカの原住民や日本のアイヌの人たちにはどう解釈されるかわからない。美木多幼稚園の未来予想図は栄光だろうか、悲劇だろうかそれとも何も変わっていないだろうか。35年前の創立期と今ではカリキュラム(教育の内容と指針)の内容は基本的なところは変わっていないが、その周辺では時代や環境の変化に対応して少なからず変わってきた。それぞれの時代にマッチしたものになってきたと思う。園児数から考えれば、創立期は泉北ニュータウン勃興期で毎年園児数が倍増していった。ピーク時には600名に達したが、住宅増が峠を過ぎるにつれ、園児の数も減少していった。その後和泉中央駅周辺の開発に伴って一時的に園児数の増加がみられた。最近では堺市の今年6月以降の調整区域(美木多幼稚園周辺の田園地帯)の開発申請は認めないとの方針で小さな開発が至る所に見られるようになり、若干の人口の移動があるものの、今後は今の園児数(400名あまり、堺市では50園中10番目くらい、泉北では16園中5番目)が徐々に減り、定員とのかい離が大きくなっていくかもしれない。私たちの今後の課題として園児数の増減にかかわらず、幼稚園が経営できる環境作り、子どもたちの持続可能な成長発達を促す保育指針の設定と具現化、そして子ども中心や保護者の目線に立った保育活動をより一層進めていく。そしてこれからの10年、20年さらには50年先を見据えた長期ビジョンを策定し、いつまでも美木多幼稚園がこの地で大きな活動や社会的貢献をし続けることを夢見ようとしている。平成27年4月より幼稚園、保育園の形が変わることが言われています。幼稚園のままで行くのか、0,1,2歳児を併設したこども園になるのかこの2年間で熟慮していきます。企業の存亡がよく話題になります。それを他山の石と捉え、園児の皆さんがいる限り、皆さんの要望がある限り、そして卒園児がいる限り、美木多幼稚園はこの地に居続けることもまた自明の理となることでしょう。 さて、いよいよ夏休み、その年齢にあった夏休みは一生に一回だけ、安全、安心を心掛けていろいろな経験や体験をしましょう。私は子どもが眠りにつく前に、少しでも本を読むことを心掛けました。何か一つでもと思います。今年も昨年に引き続き節電が言われています。全ての物に節のつく行動を心掛けるのも一考かと思います。大きく成長するのもこの時期、元気いっぱい、先生も戸惑うくらいの変貌を遂げて、美木多幼稚園に帰ってくるのを楽しみにしています。 Bon  Voyage  しばしのお別れです。 愛しの皆さんへ  

01 7月 2013

天の川から富士山へ
ー7月のことばー

  夏が来れば七夕があり、天の川が浮かび、悲しい戦没者のわだつみの声が聞こえてくる。以前にも書いた戦地の兄から幼い弟に送った遺書めいた手紙。「昨年の7月7日、持ち慣れない筆をとって形ばかりの七夕を祭り、庭の竹の枝にお母様のために「平癒祈願」と書いた短冊を星空にかざしたことを思い出します。のりはる君、元気で勉強していることと思います。久しぶりで兄さんものりはる君と会いたくなりました。本当に偉い子になりなさい。兄さんはのりはる君のためならどんなことだってします。幸福な日が一日も早く来るように祈っています。今度会える日があったら、最早のりはる君を肩車に乗せて歩くことができないほど大きくなっていることでしょう。その日が楽しみです。本当に元気にやりなさい。体が一番大切。病気なんかしないように。誰にも負けてはなりません。今晩はのりはる君と一緒に天の川の歌を唄いましょう。天の川のこっちには、牛を引くお星さま。天の川のあっちには、機をおるお星さま。七月七日七夕様は、お空のお星さま。さあ、もうやすみましょう。少し兄さんも疲れてねむくなりました。お休み、のりはるくん。」戦争が終わる1年前、昭和19年の7月7日、戦地より家族に送った最後の手紙。母を想い、二度と会えないと心で思いながら、やはりもう一度会いたいと切実に思っている大学生の兄の心情。この年戦死した兄の無念さが19年生まれの私の魂を揺さぶります。運命にゆだねられた環境の中で、精一杯の役割を果たすことで死につながったことを、無駄な死と誰が非難できようか。戦争はどんなことがあっても避けるべきもの、そして最後の、最後の悪魔の手段、しかし彼らの献身的な役割があって今私たちが平和を享受しているのも事実。戦争で死ぬことはないとしても私たちはいつかこの世から消え去るのは絶対的な真理、できるだけそれが来るのを遅らせようとして予防の実践をしようとする。しかし物の価値観をどうだろうか。西欧の諺に「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲むのは馬自身だ」というのがある。いくら医学が発達して病気の予防に大きな貢献があったとしても、本人が前向きな姿勢で取り組まなければ上の馬と同じだ。歩いていて突然雨が降ってきたら大事な服や着物は濡れないように努めるが体は濡れても平気である。車や高額商品、レジャーなどにお金を使っても健康診断や自分の健康を守ることにあまりお金を使わない。最近はだいぶ傾向が変わってきたが、まだ昔からの傾向がみられる。私たちは病気にならない、健康を維持しようと切に願うが、実際の優先順位は車や旅行の後塵を拝する。小さな幼子のためにも優先順位の一位であることが求められる。優先順位といえば、最近富士山の世界遺産への登録が話題になった。外国人がハンマーをたたいて登録を宣した映像が放映された。それに対して日本人が何回も何回も万歳を叫んでいた。日本の象徴の富士山が外国人に認められてそんなにうれしいのだろうか。登録自体は何も反対でないが、少し違和感を感じたのは私だけだろうか。なるほど外国人がたくさん来て日本に利益をもたらし、関係者がハッピーになるだろう。シニカルに考えると富士山は古代から不死の山として日本人に崇められた大きな存在であって、日本人誰でもそれなりの崇敬の念を持って接してきた。そして今や世界中のだれもがフジヤマとして知っている。それは私たちの憧れであり、大きな存在であり、神聖であり、自慢である。外国人が認めようと認めまいと富士山は富士山であり、私たちの態度もまた同じである。それが外国人に強力に働きかけて今更外国人に認められたと言って大騒ぎするほどのものだろうか。返って日本人の富士山に対する思いを浅くみられるのではないだろうか。富士山は凛としているから富士山であって、もし富士山がしゃべることができれば、なんと言うだろうか。確実に「俺のところに来るのはいいが、もっときれいに清潔にしろ」と言うだろう。世界的に認められたから価値があるのではなくて、昔から価値があるから今でも価値がある。  

01 6月 2013

一蓮托生
ー6月のことばー

  私たちの体はいろいろな組織や臓器から成り立っている。それらは私たちの一部であり、私たちの意のままにどうにでもなると思っている。いわば私たちは絶対的な権力者であり、組織や臓器はその命令に背くことはできず、服従することは自明の理と考えている。実際そうであろうか。私たちが病気になり、精神的に追い詰められるのも彼らの一つの反乱と考えられないだろうか。もし彼らが明確な意思表示ができる独立した個体と考えるならば、私たちは生き続けるために彼らの意見をよく聞き、従順に対応することも必要だろう。そんなことを妄想しながら次のように考えてみた。胃や腸がなくても人は生き続けることができる、心臓や肺が機能していればと医学者は言う。胃はどう思っているのだろうか。前は自然食品だけだったのに、近頃は加工食品ばかり、たまに自然食品が来たと思ったら、薬品漬けになっていたりする。脂っこいものやゲテ物が多いと嘆いているかもしれない。たまには何にも毒されていない自然のおいしいものを食べたいと願っている。しかし主人は暴飲、暴食、反乱を起こす寸前であるかもしれない。腸はどうだろうか。昔は吸収性の良いものが多かったのに、今は油こいものや肉のかたまり等の固形物が多い。スムーズに腸の中を流れずに苦しんでいる。腸に穴があき、有害物質が拡散して腸壁を傷つけ、悪性腫瘍物が現れるかもしれない。もっともっと繊維質の多い食品を欲しがっているのも事実だろう。人が生命を維持するのに絶対必要なもの、心臓、一日10万回も鼓動しているのに、それが当たり前だと言われ、その割には少しでも不整脈があるともうだめだと弱気になる。なんと勝手だ主人は、と、憤慨している。そんなに心配なら過度のストレスを強いられたり、よどんだ血液を流さないでくれ、そして一回も休まずに働いているのだからもっと感謝しろと声高に叫んでいる。今は心臓を止めたり、バイパス手術をしたり、様々な心臓回復方法があるから大丈夫だと高を括っている人がいるが、事はそう簡単ではない。私たち人間は彼を怒らせないようにいくら気を使っても損にはならないだろう。生命維持に絶対必要なもののあと一つは肺。私たちは毎日空気を吸って、吐く動作を無意識に繰り返している。彼はそれが仕事だと思ってご主人のために一生懸命尽くしているが、怒りや納得できないこともあるだろう。そして思っているに違いない。工場の煤煙や車の排ガス、たばこの煙、今問題になっている中国からの有害物質、アスベスト粉塵、こんなもので苦しめないでほしいと。たまには都会を離れた田舎のいい空気を吸いたいと切実に思っているかもしれない。今、戯画的に4つの臓器を思うままに素人判断で書いてみましたが、私たちの体は様々な臓器から成り立ち、それが有機的に協力し合って毎日の私たちの活動を支えている。彼らがそれぞれ主張し、反乱を起こすとどうなるのだろうか。そうならないためにも私たちは日々彼らをねぎらっていかねばならない。年老いてからでは遅すぎる。今の小さな子供たちから健康に対する理念を持ち、その大切さを意識することはなんと重要なことだろうか。当たり前のこと、当然のことに敬意を払うことに躊躇する私たちにとって、こんな主人のもとで日夜一生懸命働くことはなんと無駄なことだと彼らに思わせないためにも。  

01 5月 2013

一隅を照らす
ー5月のことばー

  一年で生から死までの過程をたどる樹木の葉、それに比べると人生は80年、人は何と長く生きる生き物だと思う。その反面、80年ではまだまだ短いと主張する人もいるし、「いや、私は様々な経験をし、十分に生活を享受したからもっと短い一生で充分」と考える人もいる。人の生死の長さを一律に規定するのは愚かなことだが、逆にあえて自らの意思で短く終わらせることもないし、死の定義を超えて生き延びることも議論の分かれることだ。何歳まで生きたから満足だったとか、何歳で亡くなったから不幸というのは大いにその人の生き様にかかっている。樹木の葉は人の80倍の速さで一生を終え、寿命15年の愛犬達は人の5倍以上の速さで生命が止まってしまう。人よりも長く生きる生命体はどうだろうか。ツルや亀は一般に長いと言い伝えられているが、もしそれが事実だとしたら長く生きる彼らは幸福だろうか。はかないカゲロウが一番の不幸で、最大のカメは最高に幸せだろうか。その与えられた一生の中でどのように生きるかが一番大事なことだろう。最も樹木の葉自体は一年で朽ち果ててしまうが、木自体は命ある限り生き続け、屋久杉のように1000年以上も生き続けるものもある。それらの樹木は歴史の変化を見届けているから素晴らしいと思うかもしれないが、移動することは許されず、邪魔だと言っていつ何時切られてしまうかもしれない。100年以上もそこにそびえているのは環境に恵まれた奇跡の一本にすぎないだろう。そんな奇跡の樹木が林立する天台宗総本山比叡山延暦寺、それまでお寺の中に入った事はなかった。昭和43年、会社に就職(大卒理系250名、文系150人の入社であった)、導入教育の一環として観光バスで延暦寺に入った。一泊であった。大きな寺に行ったことがなかった私には驚きであった。ある意味すべてが新鮮であった。質素な食事、簡素なたたずまい、最低限の身なり、そして到る所に「一隅を照らす」の文字、織田信長に反抗し、さまざまな一揆にも登場する驕りやその姿はなかった。そこでの一泊、そこでの一隅を照らすの言葉が半世紀近くたった今でも私の脳裏に深く焼き付いている。お寺に関してはいろいろ毀誉褒貶があるだろう。しかし静かな所で座禅を組むと平常心に戻って心が洗われるのも事実だろう。そんな深山や私達のまわりの小高い山の樹木が春になると急に自己主張し始める。存在感を誇示し始める。「私達はここにいるのだと」そう、今まで何も気に留めなかった樹木がきれいなピンクの花を咲かせ、白い花で居場所を知らせている。普段は同じように他の樹木と並んでいるのに、その時が来れば大きな存在感、山桜やこぶしの花、その存在に私達は人生を重ね合わす。ある意味日本人の様であるかもしれない。いつもはおとなしく優しい人たち、しかしいざとなった時には存在感を示す。時には大東亜戦争のようなこともやったが、いつもは真面目な頑張り屋さん、時期が来れば大きな存在感を示すことができる。いつもは誰とも仲良く協調して助け合い、一隅を照らして生活し、必要な時が来れば、立場を明確にし、自己主張することもある。全ての人に好かれようと波風を立てずに生き続ける努力をするが時には山桜やこぶしのように自己主張する必要があるのではと思う。幼稚園っ子達も成長して、時には自分の存在をアピールする機会もたくさんあるだろう。今の今、そのために基礎の基礎を着実に築いてほしい。立派な人になる為に。  

01 4月 2013

未来を担う君たちへ
ー4月のことばー

  If winter comes,can spring be far behind? 冬来たりなば春遠からじ。苦しかった冬、辛かった季節が過ぎて春の到来です。厳しい試練に打ち勝って満面の笑みを浮かべてこの季節を迎えた君たち、残念ながら希望を遂げられなかったあなた達、捲土重来を期す熱意ある人たち、貴賤上下や貧富の隔て、老若男女の区別なく、すべての人の上に躍動の春がやってきました。Spring has come.目で春を見、耳で春の足音を聞き、匂いで春を満喫です。 四季が明確な日本、自然が細やかな装いを見せる日本、こんな素晴らしい日本に生まれ育って私たちは本当に恵まれていることを実感しましょう。反論はいろいろあるでしょう。しかし今私たちは肯定することから始めましょう。成程息を呑むような風景や自然環境の良い国は枚挙にいとまがないでしょう。しかし心の豊かさと移り行く季節、私たちは世界に誇ってもいいのではとよく思います。ようこそ私たちの仲間へ。桜満開、春爛漫の今、皆さんを美木多幼稚園に迎え入れることができて本当に幸せです。これからの2年、3年、4年の期間、私たちと一緒に楽しいとっても素敵な時間を共有しましょう。素晴らしい未知への探検や経験もしよう。自信をもって美木多幼稚園を巣立っていく時が来るまで。お父さん、お母さん、お子様の子育て大変ご苦労されたことと思います。しかしそのご苦労も子供たちの成長につれて過去の楽しい思い出になっていくことでしょう。子供たちと向き合い、その成長を自身の成長のように目を細めて優しく見守る、子育ての大きな喜びであり、得難い経験ではと思います。今の子供たちは春の季節の頼りげない新芽のよう、深く色が染まらず、薄色のままそよ風になびいている。手入れの仕方によっては右にも左にも上にも下にも成長していく。大人の都合でその利益のためではなくて、子供の未来を見据えた子供の利益のための接し方をしていきたい。子ども中心、子どもがまん中、そんな保育活動を続けたい。私たちの希望は廃れることがありません。幼子にたとえた樹木の芽吹きは5月か6月になると成長し大人の葉になって真夏の炎天下に耐え、成長を助け、命ある限り生き続ける生命の源となっていく。しかし光合成の大きな役割を果たした木々の葉はやがて栄養が途絶え、最後に最高の美しさを見せて朽ちていく。その一生は200日余り、あまりにも短い。人の一生と似ているとはいえ、人は理論上は36000日以上、しかし現実は30000日足らず、それでも他の生き物と比べると圧倒的に長い。その中では受けるべき喜びも多いだろう。またそれと同じ以上の苦労と困難もあるだろう。超えるべきハードルも存在するだろう。ほっておいてくれないこともあるだろう。自分の道を切り開いていく必要もあるかもしれないし、戦いを余儀なくされるかもしれない。しかし生命は脅かされることがなければ、どんな困難や苦労にも毅然と立ち向かっていってほしい。そこから逃げ出さないでほしい。そんなことをすればもっと困難が降りかかるだろう。こんなこともわかってほしい。人間は地球の支配者ではないことを。その狡猾な知恵を働かせば他の生命体にとって大きな脅威となるだろう。しかしそれはやがて人間に向かって刃を向けることになる。どんな小さな虫にも、どんないやな小動物でも私たち地球の共存者であることを考えよう。腹の立つこと、踏みつけたくなること、存在を終わらせたいと考えることもあるだろう。私たちは大人の対応、寛大な考えを持ち続けよう。共生は私たちが存在し続ける唯一の方法だろう。謙虚で真摯な道を歩んでいこう。これから始まる学校生活は長い旅路、前を向いて無事安全に乗り切っていこう。そのためにはしっかり勉強しよう。そして何より健康に気を付けよう。「始めよければ全てよし」、いいスタートを切ろう。「前途に大きな幸あれ」と心より願って4月園便りの言葉と致します。  

01 3月 2013

巣立ち、育ちゆく人への贈る言葉
ー3月のことばー

  いつもの白い枝垂れ梅が満開となって私たちの目を楽しませ、潤いをもたらしている。卒園式までは順次咲き乱れることでしょう。人にも絶頂の時期が異なるように、梅にも一番華やかな時が微妙にずれている。桜は満開の期間の短さを儚さに例えられることが多いが、梅はそうではない。国花としての競争に負け、桜よりも低位に見られる梅は、ある意味不遇をかこっている。最もそんなことは人の勝手な思いで、梅にとっては迷惑千万、種の保存の為に一生懸命花を咲かせ、実をつける努力をしているのだから余計なお節介だろう。さて、そんな仄かな香りに包まれた梅の花咲く弥生、3月、その時が巡ってきました。卒園、進級です。私自身も教員として、園長として何回迎えたことでしょう。若い頃は当たり前だと思っていたことが、徐々に子どもの将来を憂え、世の中の現状を踏まえて、その行く末の幸せと健康を願う気持ちが強くなってきた。全ての人が同時に満足し、幸福になり、健康を謳歌する事は難しいかもしれない、しかしできるだけそれに近づけることは可能だろう。最も他力本願ではなくて、幸せと健康をつかみ取る努力も必要だし、満足を知る、分を知るということも大事だろう。そうでなければ、何時まで経っても自分が不幸であると思いがちになるから。人生は旅人だと誰かが言った。人生は航海に例えられるとも言った。人は重荷を背負って遠い道のりを行くようだと言う人もいた。人生50年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなりと、いにしえの言葉で語った人もいた。人は、人生は色々に比喩されるだろう。個人の一生をとっても、長いスパンで人間を観察しても、極端に言えば、繰り返しの連続にすぎない。この世に生を受け、這い、つたい、歩き、親からの愛を受け、知識を授かり、友を得る為に学校に行き、生活をし、生き甲斐を見つけ出す為に働き、伴侶と出会い、愛の絆を交わし、結婚し、子どもが生まれる。その子どもの成長を見守り、期待を抱き、齢を重ねていく。その道程では筆舌しがたい喜怒哀楽があり、子どもの生長と共に、自身も経験を積んで、大人としての風格を備えていく。やがて子どもたちが独立し、新しい領域、高齢者の仲間入りをしていく。遂には後に続く者へバトンを引き継いで、消え去っていく。日本だけ考えても非常に荒んだ不幸な時代も多々あったが、種の保存行為は営々と続けられた。本当に驚くべき繰り返しである。その繰り返しの中で君たちが生まれた。2年、3年、4年の幼児教育の過程を終えて今巣立ちの時を迎えた。本当に大きくなった。本当によく生長した。賢くなった。それなりの礼儀を身につけることができた。これから始まる人生の第一歩は無事完了したと思う。人生は陽炎のように儚いと言う人もいるが、考えによっては随分長い。活躍し、腕をふるうには充分だ。失敗してもやり直せるだけの時間もある。その為にこれからの学校生活では思いっきり勉強して知識を深め、友をたくさん作り、体力を強固なものにしよう。貪欲さも必要だが、謙虚ということも忘れないでほしい。自分一人でないということも憶えておきたい。人それぞれ生き方も千差万別だろう。しかし決して諦めたり、自暴自棄にならないでほしい。勇気を持って進んでいこう。希望は君たちの頭上にあるのだから。  

01 2月 2013

私と歴史
ー2月のことばー

  高校時代は世界史が大好きであった。と言うよりも漢字を正確に書けなければ、日本史の試験は通らないと言われて、必然の結果であった。当時世界史にも大学入試の難問集があった。ほとんど何の問題も無く解けた。3年の模試では結果が廊下に張り出されたが、世界史では断トツであった。それが他の教科の自信につながった。しかし社会人になって日本史の重要性がますます大きくなった。日本の歴史、ルーツを知ることが大切だと思うようになった。例えばシェクスピア時代の英語、ドン・キホーテ時代のスペイン語が仮に理解できたとしても漢字ばかりの古事記や日本書紀を読めない。NHKの大河ドラマでは散々の悪評であったが、はじめての仮名交じり文の「平家物語」になって、ようやく理解できるようになった。戦記物語というジャンルのせいだろうか。「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人もひさしからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。・・・・ まぢかくは六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣清盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」歴史を知り、先人たちの働きをよく理解し、いかにして日本を日本たらしめたのか、そして今の日本に至ったのか。たくさんヒ―ロが出現したが、その反対側には無念にしてこの世を去って行った幾多の人がいたであろう。そんな大勢の無名の人に助けられて今の私達が存在する。日露、太平洋戦争、有能な人たちの損失は計り知れない。「聞け、わだつみの声」を読むと涙が止まらない。誰もが戦争の悲惨さをよく知っていた。しかし他に選択の余地がなかった。堺ゆかりの与謝野晶子も激しい反戦歌を詠んだ。リベラルの幸徳秋水でさえ、そんな中で兵士に激励の言葉を送った。「行矣従軍の兵士、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。諸君今や人を殺さんが為に行く、否ざれば即ち人に殺されんが為に行く。吾人は知る、是れ実に諸君の希ふ所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し諸君は思想の自由を有せざる也、・・諸君の行くは諸君の罪に非ざる也、・・・ 現時の社会制度の罪也。・・吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、」比較的自由な立場にいる日本人は国益とは? 愛国心とは? ということについてよく考えねばと思う。昔の通信手段や交通手段も限られた世界では藩が全てであった。藩を出ることは自分を殺すことであり、他の藩は敵になることもあった。それが文明開化と共に大きな単位になり、国家意識が芽生え、国益や愛国心になって行った。国の為に殉じるのが愛国心なのだろうか、国益のために戦うのが愛国心なのだろうか。家の周りや公共の地をきれいにすることも立派な愛国心だと思う。フォークランドで戦ったイギリスのサッチャー首相、石油利権で戦ったブッシュ大統領、フランスのナポレオンやド・ゴール大統領、彼ら全てが強烈な愛国者なのだろうか。ミサイルの名前にもなっている愛国者、私達は自分の国を愛するのは当然の義務であり、その為に一生懸命働くのは自明の理だが、それはこれから生まれる子どもたちの幸せのために取っておきたい言葉であるのかもしれない。  

01 1月 2013

実るほど頭の下がる稲穂かな
ー1月のことばー

  陽光に照らされた美木多幼稚園に35回目の新年がめぐってきました。明けましておめでとうございます。2013年、平成25年が始まりました。昨年はいかがだったでしょうか。子育てに幸せいっぱいで取り組んでおられる皆さん、新しい命を授かった皆さん、子育てに悩み苦しんでおられる皆さん、嬉しい出来事あるいは悲しい事件に遭遇された皆さん、健康で過ごされた皆さん、残念なことに健康を害された皆さん、経済的に少し余裕ができた皆さん、反対に厳しい環境に晒された皆さん、家族が増えた皆さん、逆に愛しい人との別れを余儀なくされた皆さん、幸せな共同生活を続けることができた皆さん、不幸にも別れにいたった皆さん、さまざまな運命に出くわし翻弄された皆さん、例え2012年が自分の思いとは異なった年であっても、そんな年はいつまでも続く事がありません。一時的にそうであっても心の持ち方によってはそうならないこともあるはずです。誰の上にも陽が登り、どんな人にも時間の流れがやってきます。2013年が皆様の上に大きな幸せをもたらしますよう、特にこれからの日本を背負って立つ幼稚園っ子の上に明るい未来と希望の光が降り注ぎますよう心より願ってやみません。私の机の後ろの壁には私達教職員が守るべき方針を以前から掲げてあります。 1.仕事を愛し、子どもを育み、自己の成長を図る。 2.CS(顧客=保護者、子どもの満足)、ES(社員=教職員の満足)の充実を図る。 3.コンプライアンスを心がける。(法令順守) 4.感謝、謙虚、素直を忘れない。 5.園児に集まって頂けるよう各自努力する。 私達はこれが完全にできているわけでありませんが、いつもその年の目標としてこのような考えで進んできました。今年も同じ目標で細部にわたって肉付けしながら実行してまいります。私達はあくまで子ども第一と考え、判断に迷った時、子どもにとって何が一番大事であるか、その為にどのように対応すべきかを考えてまいります。子どもの喜んでいる姿、その後にいる保護者の笑みの浮かんだ表情に接するときに私たちの努力が成就された瞬間であり、何事にも増して強い喜びを感じます。その為には教職員にも人を喜ばせる心の余裕が必要であり、大切な事と考えています。2013年、美木多幼稚園は子どももHappy,先生もHappy,そんな両者がHappyな幼稚園を理想として追い求めてまいります。初代園長、宮下紀久子(母親)はいつも私に向かって「実るほど頭の下がる稲穂かな」という諺を投げかけていました。私も毛頭そんな気がないのですが、母にとってはそう見えたのかもわかりません。謙虚にその言葉を遺訓として保育活動に生かしてまいります。そしてもう一つ、何時も招かれた結婚式で言う言葉「人事を尽くして天命を待つ」を皆様にというより皆様を通じて小さな幼子に送りたいと思います。先人たちがこの国を立派な国にする為に努力されてきたこと、その努力を後に引き継ぐ幼子たちにもしてもらいたいと思うのです。努力は決して人を裏切ることはない。いつかは大きな果実となって実を結ぶのです。保護者の皆様も我が子がどのような成長を遂げられるか楽しみだと思います。私も保護者の皆様以上にこの子たちが社会に出てどのような活躍をするか、その姿を見る時間がないかもわかりませんが、大きな大きな期待なのです。社会に出るまでの環境の整備は今の大人の責任です。その責任を果たし、未来への希望をつなぎ、世代が変わっていく。今年も教職員一同、子どもたちの喜ぶ姿、無垢な笑顔を求めて保育にまい進してまいります。昨年度私たちに頂いたお力添え、ご厚情、叱咤激励、大変ありがとうございました。本年も何卒昨年同様ご支援、お力添え、励ましのお言葉を宜しくお願い申し上げます。本年も皆様方に幸多き事そして健康であられますよう心よりご祈念申し上げます。  

01 12月 2012

健やかに、元気いっぱい
ー12月のことばー

  春に命を与えられた生命体が燃え尽きる前に、今までで一番艶やかな姿を見せる、そんな例えが全くふさわしいように、どんな形容詞を使っても表現できないような、筆舌しがたい美しさを、「もうこの世に何も思い残すことはない」という吹っ切れた思いで私たちに表現している、そんな真っ赤に色づいたモミジの対生の葉、カエルの手に似ているからカエデとは少し興ざめだが、燃えるような朱に染まった赤色は凛とした姿で、官能的な艶やかさで、私たちに迫ってくる。特に明るい太陽越しに見るその姿と色はこの世のものと思えない程の美しさだ。その美と紅葉を求めて何種類か庭に植えてみたが、「美人薄命」ではないが、結構育てるのが難しい。私たちは自然の中で、自然界の掟に従って生かされている。中国の「愚公、山を移す」や大分県の「青の洞門」、そして近年山々を切り崩して造成した宅地や工業用地、それらは地球の表面のほんの超些細な点を触らしてもらっているにすぎない。自然に対抗して人が考案した自然界ではありえない直線も、自然界の大御所である曲線にかなうはずがない。人の体をはじめ、様々な生き物や自然界に存在する物体の優美な曲線やその彩色は私たちが感嘆と驚異の念を持って、ただ茫然と眺めるだけだ。涙の形から自動車をデザインしたイタリアの有名なカーデザイナー、その形や配色から大きなヒントを得ている建築家やファッションデザイナー、物理学者、科学者、哲学者、小説家、枚挙にいとまがないほどの人たちに大きなそして決定的な影響を与えている。自然界に存する物には無駄がない。すべて合理的なものであり、理にかなっている。あるとすれば合理的なものの中に存する余裕であるかもしれない。私たちの色の組み合わせでは決して考えられない配色も自然界では何の違和感もない。それどころかその不思議な色の組み合わせに見とれてしまうことがある。丁度子どもたちが絵を描くときに、大人たちが常識として使う色とは異なって、大胆で不可思議な色の組み合わせをするかのようだ。逆に言えば、子どもたちの本能は自然界そのものであるかもしれない。そんな素晴らしい子どもたちに命を恵んでくださったお母さん達、この子はどんな子に育つのだろう、どんな大人になるのだろうかと、丁度お母さんが今まで育ってきた環境や状況を考えると、日々心配の種が尽きないと思います。私たちの責任はこの子どもたちが健やかに、元気いっぱい、何の恐れや怯えもなく生きていく環境を作ってやることだと考えます。男女共同参画で社会進出して仕事を積極的に続けていくことも大事なことですが、それと同じくらいに家事と育児に励んでおられるのも本当に大切なことだと思います。私たちはたとえ些細な力であっても、いつでも保護者の皆様のお力添えになりたいと考えています。年の始まりが迫った師走、12月、今月も明るい幼稚園を心掛けてまいります。保護者の皆様も2013年が幸多い、明るい年になりますよう心からお祈り申し上げます。  

01 11月 2012

言 語 俯 瞰
ー11月のことばー

  人があまり驕り高ぶって、上へ上へと競って建てたバベルの塔、それに激怒して、人の協力関係を断ち切り、懲罰の意味を込めて、言語を細分化して意思の疎通を無くしたという神話。話の真偽は別として今地球上に3000余りの言語が存在する。私たちは人との意思の伝達を図り、社会生活をうまく機能させていく、いわゆる音声言語であり、文章にして記録を綴り、思考形態を確立していく、いわゆる文字言語、私たちの日本語をはじめ、主要な言語はこの両者を兼ね備えているが、未発達の文明の中には会話だけの音声言語しかないこともある。民族の浄化、優先思想、他国との併合、合併、占領、その他さまざまな嫌悪すべき理由によってどれほど多くの立派な歴史を持つ言語がこの地球上から抹殺され、消えていったのだろうか。消えていった言語がすべてそうであると言っているのではない。発展的に進化し、現在の言語につながっているケースも多々あるだろう。しかし世界史で習った民族やその言語は今存在することが少なく、ただ言語学者の研究の対象だけになっている場合が多い。言語を失った少数民族はそのアイデンティティーを失い、大きな渦の中に飲み込まれていく、厳密に言えば、営々と受け継がれてきた言語を失うことは大きな悲劇だろう。中南米を旅していると、多分中国もそうだろうが、多数の主数民族に出会う。彼らは国としての言語、例えばスペイン語や中国語を話すがそれとは別に仲間内だけに通用する言語を持ち、それをコミュニケーションの主要な手段としている。そんな小さな地域社会だけに通用する言語はすべて捨て去って、大きな一つの言語に統一すべきだという乱暴な意見もあるが、その言語こそが彼らがよって立つべき基礎であり自分たちの誇りである。例えばスペイン第2の都市、バルセロナはスペイン語ではなくカタルニア語であり、カナダのケベック州は頑としてフランス語を捨てない。経済的に統合したEUもお金は統一しても言語はばらばらである。今は少数言語を保護し、大事にする国が多い。世界共通語を目指したエスペラントもまだ一部のマニアの中だけだ。それぞれの拭い去ることのできないプライドや仲間意識があるのだろう。日本語について考えてみよう。3世紀ごろに現れた日本語はそれまでの漢字の世界から徐々に変化して今の日本語になり、その過程の中で琉球の言語が派生して独自の言語を形成した。アイヌ語はどうだろうか。日本語との関連性を持たないこの言語は金田一京助博士やユーカラ(英雄伝説)で有名だが、日本人の北部への進出によって消え去り、ただ地名として残るだけの存在になった。痛みをそれほど感じるわけでないが、当事者にとってはアメリカのインディアンと同じ位、大きな悲哀を感じているのは疑いがない。私たちは小さなときから苦労して英語を勉強している。一層日本語をやめて英語を標準語にしたらという意見もある。現に企業の中にそれを実行しているところもある。アメリカ人は外国語を学ぶ必要がないから楽だという人もいる。しかし安易に習得したものにどれ程価値があるのだろうか。私は英語を共通語にという意見には与しない。それどころかフランスのように自国の美しい言語の維持に努めたい。今は外国語を話せる人が増えてきた。時代の流れだろう。しかしそれを話す人の浅はかさも露呈してきた。流暢に話すことがすべてだとは全然思わない。一語一語でもいいからしっかりした味のある言葉を伝えたい。私たちの思いとは関係なく、今の幼稚園児たちが成人する頃には日本はグローバルの波に襲われ、外国語に触れる機会も多くなり、考えればそれを学ぶ手段も手っ取り早く身近に存在するだろう。また日本語以外の第2言語として外国語を活用して活動する日が多くなるだろう。しかし言語はそれほど難しくない。わからなかったらわからないと言ったらいいだけだ。ただそれを言える勇気だけは持ちたい。これからもしっかり日本語を受け継いでいこう。生まれ変わって地上に姿を現した時に意思疎通のできない言語になっていないために。  

01 10月 2012

仲間意識と団結
ー10月のことばー

  戦中生まれの私が小、中、高と進んでいくにつれて新聞の論調が変化していった。それは取りも直さず日本経済の高度成長と重なっていたのだろう。「戦前のGNPに肩を並べた」「戦前のGNPを上回った」という見出しが何回ともなくトップ記事に踊った。しかしあたりを見渡すと、JR環状線はまだ環状でなく、いまの森ノ宮やその周辺は焼け野原でむき出しの鉄骨だけが無残な姿をさらけ出していた。白い服を着た傷痍軍人がいたるところで物乞いのような活動をしていた。実態はそれほど変わっていないのに、数字の世界では戦前を超えたと囃し立てていた。現在の今はどうだろうか。戦後長らく世界2位の経済規模を維持していた日本が「中国に抜かれて3位になった」「そしてその差が開いていく」と言われている。そんな現実を目の前にして、日本人の意識が変わったのだろうか。これも数字の世界だけで表向きは何の変化もない。逆に中国はそれに勢いづいて精神的に加速したのだろうか。中国に行ったこともない私が意見を言うのもおこがましいが、発展成長を遂げているのは大都市やその周辺だけで大多数の貧しい地域が残っていると報道されている。 丁度いくら経済規模で勝っているといっても日本がイギリスやフランスに勝てないように。数字はある意味事実で現実味を帯びることもあるが、時によっては数字ほど信頼できなく、人を裏切る指標はない。しかし一度ことが起こると表面的でなく実質的に数字以上の力を発揮し、敵愾心を燃やし、団結力を誇示する民族は私たち以外にないかもしれない。昨日まで目もくれなかった人は今日は仲間として肩を組んでいる。その源泉はどこにあるのだろうか。その仲間意識はどこから芽生えたのだろうか。「一人では小さな力でも、団結すれば大きな力を発揮する」いい意味では大きな力の源泉だが逆に考えれば無節操な利権団体になり、圧力団体にもなる。元来日本人は一人では大人しく何もできない。外国でも日本人の一人での行動はあまり見られない。グループでの活動や行動であればそれこそ勇気凛凛である。同窓というのも大きな要因だろう。小学校、中学校、高校、大学、専門学校、もっと言えば学年や学級の同窓会、毎日どこかでこんな会合が開かれ、昔を懐かしみ、政治や友の話をし、絆を深めている。これは何も学校に限ったことではない。同じ職業もそうだ。会社全体、各部、各課単位、あるいは同期入社、(私たちはよく花の28組のことを聞いた。昭和28年入社組は優秀で出世をした。昭和の時代は年代の後半は不景気で、前半は好景気であり、不景気の時に入社した人は会社でよく出世した)ドクターの世界でも診療科、出身大学、大学の部活、なんでも会合のネタにしてしまう。生誕地も強い絆だし、同じことが海外でも盛んである。これがある意味昨日までの他人が今日の親友になり、団結力につながる大きな要因かもしれない。社会的立場の高い低いがあっても仲間になればみんな同じ日本人、もっと広く言えば地球人。美木多幼稚園卒園児も7000名弱、ひょっとしたら私たちの知らないところで美木多幼稚園同窓会が開かれ、緑に囲まれた幼稚園や懐かしい先生の話題に花を咲かせているかもしれない。 今月7日は美木多幼稚園第35回運動会、精いっぱい頑張ります。どうぞ奮ってのご参加そして温かい拍手喝采よろしくお願いいたします。  

01 9月 2012

VIVA  美木多幼稚園卒園児
ー9月のことばー

  昨年の夏、今年の春と夏の甲子園、3大会連続して決勝に進んだ青森光星学院高校、その大半の部員は大阪出身であるとは言え、屈指の強豪高校になった。その中でもプロ野球界からドラフトへの熱い期待を寄せられているのが4番北條史也君。自宅は私の自宅の隣、美木多幼稚園、美木多小、中学校出身だ。3兄弟の真ん中、親子ともどもスポーツ万能一家、おじいさんもプロへの道に満更でもなさそう。8月中旬、不動産取引を生業にしている50歳の人がやってきた。昔の美木多村の出身者。話しの弾みで子どもの話題になった。東京の大学に言っているとのことであった。更に詳しく聞くと東京大学理科二類に今年入学したとのこと、やはり美木多幼稚園、美木多小学校出身、中高は東大寺学園、800世帯位の旧美木多村で東大出身者は今まで2人、そして美木多幼稚園出身の彼で3人目、この数が多いのか少ないのかわからないが立派な事だと思う。美木多幼稚園出身者は優秀で成績もいいとよく言われる。何も飛びぬけている人だけが優れていると言っているわけでない。35年間の美木多幼稚園の卒園児は6000名余り、8月だけでも2人と考えると、社会で、学校で活躍している人は枚挙にいとまがない位だろう。その活動場所は日本だけに留まらず、広く世界中にまで及んでいるという事を考えれば、小さな幼稚園での保育活動が何らかの形で潜在的に関わりを見せているのは幸せに感じてしまう。『三つ子の魂百まで』の諺を持ち出すまでもなく、幼児教育の大切なことは遠い将来の人間形成にも大きな影響を持つことは美木多幼稚園卒園児の活躍を見ても明らかな事だと思う。私達は世間によく知られている傑出した人だけでなく、普通の人が生涯にわたって幸せに人生を送ることができる一助となるように今一層、おこがましい言い方ですが、幼児教育に取り組んで、皆様のお子様に対する熱い思いに応えていきます。 過去はますます過去になっていく  1969年7月20日、彼は人類史上初めて月面に上陸した。アームストロング宇宙飛行士、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」That’s one small step for man, one giant leap for mankind. と言って。当時ブエノス・アイレスにいた私は25才、青春の真っ只中であった。その言葉をスペイン語で読んで、何と陳腐な言葉だろうと偉そうに思った。しかし今となってはその言葉に重みを感じるようになった。同じ時期に上映されたLOVE STORY(ある愛の詩)がエロ・グロ全盛のときに私に大きな感銘を与えた。「愛とは決して後悔しないこと」Love means never having to…

01 8月 2012

情報の多極化
ー8月のことばー

  いつか経験したような暑さ、そう 45年ほど前、今は定かでないが多分、南米アルゼンチンの北部、サンティアゴ・デル・エステロ州に行った時のこと、飛行機が到着を告げた。扉が開き、タラップを降りて行った。デッキが今のように飛行機につながる時代ではなかった。近くに空港ビルまで乗せていくバスが待っていた。そこに至る短い距離は実際以上に長く長く感じた。それ程の暑さであった。まるで火の中に放り込まれたようだった。気温も40℃近かったのだろう。涼風の世界から酷暑の世界へ、大げさに言えば天国から地獄への移動であった。孫悟空が越えねばならなかった天竺の火焔山はこれよりもっと暑かったのだろうか。ないものねだりが人間の欲としても、思わず冬の寒さが恋しくなるものだ。そんなうだるような暑さが続く夏、それが夏だと言ってしまえばおしまいだが、私達の昔とは様変わりしてきたようだ。半世紀前、夏になると、海や野山に出てまっ黒になるのが、健康のシンボル、若者の特権でもあった。体の動きが鈍くなると言って水分の補給もできるだけ避けてきた。皮膚が焼け、赤茶けた色にかわり、ぼろぼろとめくれていった。一回では終わらなかった。刺激を与えるとヒリヒリした。太陽にあたる所は男も女もほとんどまっ黒であった。それが健康の証であった。若者のシンボルであった。自慢であった。しかし、今はどうだろうか。医学的な良し悪しはわからない。スポーツをするにしても半袖は極度に嫌われ、吸汗性の長袖が好まれる。日焼けを防止する為にクリームが塗られ、太陽からの直撃を避けるような工夫がいたる所に見られる。それが意図的に作られた学説だったようにも思える程、この頃あまり話題にもならないが、オゾン層の破壊や地球温暖化の影響を避けようとしているものなのか、はたして昔のような生き方は現在には通じないのかどうか。平均寿命が男子78歳、女子87歳と言われると、なるほど医学が発達したせいかもわからないが、昔のやり方もまんざら間違いでもなさそうに思える。 そんな昔の1960年には、国会議事堂を何重にも学生が取り囲んだ。時の首相は岸信介、若者には妖怪のような人物に見えた。新聞、テレビは連日そのデモを報道し、警察官と争う学生の姿、逃げまどう群衆、催眠ガス弾、焼ける安田講堂、東京の様子を茶の間にリアルタイムに送り続けた。何もそのニュースが売れる為だけに報道し続けたのではなかった。真の意味で日本が脱皮する為のプロセスだと感じていたのかも知れない。大きな試練、多大な損失を残したが、その後日本は高度経済成長を遂げ、世界に類を見ないような発展をとげていった。翻って今の日本の報道ぶりはどうだろうか。先日東京代々木公園で10万人規模の原発再開発反対のデモがあった。10人や20人規模の小さな集会でもさも沢山の人が参加したように報道するのに、今回はS紙は全く無視であった。A紙は3面欄に小さな写真だけであった。概して報道はスポンサーに気兼ねしているせいかどうかわからないが、小さな扱いであった。しかし、Japan Timesをはじめとする英字紙は1面トップの報道であった。ある評論家は全学連の流れを組む左翼に誘導されたデモは報道の価値がないと切り捨てるように言った、あるいは言わされた。しかし、私には右翼・左翼のイデオロギーを越えて小さな子ども達の将来の為にこの美しい日本を残すにはどうしたらいいのかを考えて、行動する事の大切さを表明していると思われる事が多い。私達にはある意味幸せな時代に住んでいる。いろいろな情報に接する事ができる時代に。新聞、テレビ、雑誌、インターネット、face book、ツイッター。報道機関も安閑としていられないが、私達も取捨選択する能力を身につけていかねばならない。 この1学期、子ども達は随分大きく成長しました。先生との信頼関係も大きくなったと確信しています。今年は「節」が大きく取り上げられる年、長い夏休み、節電・節約を合言葉に体力を保って良い夏休みの過ごし方をして欲しいと思います。2学期、3学期には大きな行事が目白押しです。一段と大きくなった姿で美木多幼稚園に帰ってくるのを私達一同心待ちにしています。しばしのお別れです。

01 7月 2012

未来のスイマーたち
ー7月のことばー

  平泳ぎの北島選手のライバル、ノルウエーのダーレ・ オーエン選手の死、今は下火になったが、ゴム製のスイムスーツの問題、オーストラリア屈指のスイマー、イアン・ソープ選手の落日、水泳界ひとつとっても話題がいっぱいです。4の倍数の年に開催されるオリンピック、今回はヨーロッパ一の大都市、ロンドン市での開催、果たしていくつのメダルが日本にもたらされるのか。「世界の壁は厚かった。」「こんなはずじゃなかった。」「参加することに意義がある。」等という言葉は聞きたくない。戦前の選手がそうであったように必死の覚悟を持って臨んでほしい。精いっぱいの努力やその結果については惜しみない喝さいを送ろう。選手のために、私たちの日本のためにも。美木多幼稚園のちびっこスイマーたちはどうだろうか。子どもたちは新しいこと、珍しいこと、普段とは違ったことが大好き、特に私たち陸上に生活する者にとっては、水中での行動はなじみのない異空間の出来事、子どもたちの好奇心や興味は最高潮、そんな未知の世界でどのように練習するか、どのように慣れるか、そして最終的にどのように水と友達になっていくか。リンゴ、年少、年中は水に慣れること、水を怖がらないことをテーマに大きな意味での水遊び、年長さんは毎日体操の先生に来ていただいて、顔付けや、浮くことの基礎の体得です。必要以上に水を怖がることはないが、いつも慎重で用心深い態度も肝要。用心深いというのは水そのものに対することと同時に実際にプール遊びを決行すべきかどうかの判断です。幼稚園の基準は水温+気温≧50です。前者が高くて後者が低いときには水の中のほうが温かく感じられ、逆の場合は水をひんやり感じることもある。49や51の場合も機械的に判断せず、子どもの意欲、健康、これからの天候の移り変わり等慎重な判断を要求されることもある。プールの季語は夏、幼稚園では6月から7月にかけて毎日プール遊びに取り組んでいます。いつの日か世界的なスイマーが現れんことを期待して。今の時期、子どもたちを興奮させるもう一つのことは「シャボン玉遊び」。シャボン玉の歌も習いました。その歌を時には口ずさんでさまざまな大きさのシャボン玉を目を輝かせながら一心不乱に作ります。園庭を埋め尽くしたシャボン玉が太陽光に反応して一種幻想的な雰囲気です。今日のこのイメージが一生涯子どもたちの頭のどこかの部屋に存在し続けることでしょう。 経済一流、政治が三流と言われた日本、今やその一流の経済も青息吐息。政を司る組織が弱体化し、私利私欲が多くみられるせいでしょうか。自分の立ち位置がどのようなものか、隠れも出来ないで白日の下にさらけ出されるその姿はまさしく高邁な理想を追い求めるというよりは、どんな組織体の中にもみられるように自己犠牲の対極、自己保身の姿かもしれません。もっともその姿を批判し嘲けり笑う資格は私も含めてほとんどの人は持ち合わせていないのも正直なことでしょう。このままいけば日本沈没です。いや美しい緑の山河、こまやかの人の情、こんな素敵で豊かな国を、私たちが受け継いできたように、この子供たちに引き継ぐことを約束するために、物言わないサイレントマジョリティであり続けるよりは未来のことを考えて意思表示が必要なのではとつくづく思う。 7月、文月、一学期の終わりの月、4月から始まって三か月余り、子どもたちは大きく立派な成長への軌道に乗りました。これから迎える二学期、三学期の活動を通して、それがどれだけ膨らんでいくか本当に楽しみです。一緒に見守っていきましょう。一学期の間に私たちに頂いた保護者の皆様からのご支援、温かいお言葉、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

01 6月 2012

森羅万象
ー6月のことばー

  空気が軽い。そのせいか、重い空気につきものの季節特有の匂いが少ない気がする。 晴天が続いている。私の中では、この時期としては異例の長さだ。たいていの人は晴天が続くことに喜びを感じている。子供たちもしかり。毎日園庭で様々な遊びに興じるのが最高にうれしそうだ。一層のこと毎日雨のない晴天が続きますようにと願うほどだ。いくら晴天が続いても、動くという手段を持つ人間はどうにか生き延びるすべを知っている。同じ生命体であっても植物はどうだろう。西洋では自殺すると木にされると言われた。ある大地に根を下ろした樹木はそこから自分の意思で動くことはできない。生き続けるための水が必要としても、例え根が水分を少しでも吸収しようと一生懸命伸びたところで、蒸発する水分を補うことはできない。人には快適でも植物には過酷な環境だ。プラスとマイナスがすべて等しいわけではないが、プラスの面ばかりを見ていると、マイナスの面を見落としがちになる。今話題になっている原子力発電はどうだろうか。原発再開の判断は、電力会社にとって、英断であり、反対する人にとっては最悪の決断だろう。家庭・企業に節電を要求し、電力不足は企業の海外逃避が不可避と声高に叫ぶ一方、反対派の人は昨年の関東の節電では企業の利益が増加したと説明する。企業にとっても土日の勤務や照明などを含む節電に対する大義名分ができたせいだろう。どちらにしても、2度と福島のような事故を起こしてもらいたくない。日本が生き延びるためにも、幼子たちが人生を全うするためにも。教育の世界を見てみよう。医学の世界と同じように、教員の世界も閉鎖的なことが多く、独自の職業規律、極論すれば一人ひとりの基準で判断することがある。大学入試には指定校推薦などで評定平均値が求められることが多い。例えば、4.1以上の場合、A校とB校では同じ4.1でも子供の学力が随分異なる。たとえ、4.1未満であってもA校の生徒を望む場合がある。評定平均値に色を付けることは可能なのだろうか。逆に考えれば、教員と対立すれば、例え4.1を満たしているとしても、それ以下の判断をされ、推薦されないこともあるのかも。教育に何を求めるのだろうか。幼稚園では当然のことながら、人生の根幹をなす幼児教育の充実を図る。それは知性面、肉体面の両方であり、様々な体験や経験を通じて、知的好奇心の向上を図り、積極的に物事に取り組む姿勢を涵養する。しかし高等教育では何なのだろうか。ただ単に通過点に過ぎないと考えているのか。友達を求めているのか、サークルや部活動を通じて絆とか協力することの大切さを求めているのか、または一流大学に合格するためだけの手段と考えているのか。寸暇を惜しんで勉強し、有名高校や有名大学にはいることは大企業に入る可能性や素晴らしい同窓生に恵まれることが多いという点で、うらやましくもあり、勉強してきた人にとって当然のご褒美であるが、世間でいう、あるいは我々が思うほどその絆や結びつきは堅固なものでなく、仲間や組織を自慢して自分を高めようとするだけであるかもわからない。まして一流企業とはその時の話であって未来にわたってそうであるとは限らない。因みに、大企業の業績は他の企業に比較して低いところが圧倒的に多く、必ずしも安定企業でないのが現状であろう。美木多幼稚園創立以来35年目、一期生28名は今や39歳。人生の働き盛り、さまざまな苦労や重荷が圧し掛かっていることだと思う。しかし、家族のため、自分のために耐えて精一杯働いている。そして、彼らに続く6000名余りの卒園児が日本各地で活躍している。その姿を見たとき、理想の幼稚園を作る意欲に燃えていた初代園長、理事長の笑顔が思わず頭に浮かんだ。これからも子供たちが存在する限り、美木多幼稚園も共に存在し続けたいと心より思う。今後ともご指導、お力添えよろしくお願い申し上げます。今月17日の父の日の参観心よりお待ちしています。

01 5月 2012

賢明な決断
ー5月のことばー

  青い実が年を越えると急速に真っ赤に色づくクロガネモチ(略称モチの木)、関西以西の地で庭の主木や街路樹として広く一般に植えられている。その赤い実をめがけてヒヨドリが押し寄せ、一瞬のうちに実がなくなり、新芽の出る準備をする。因みにこの木は鳥が来る、鳥が入る、なまってトリイル、そこから派生して物が入る、財が増えるということで縁起の良い木とされている。それが今年は何かおかしい。葉をすべて落としたモチの木は赤い実がそのまま残り満開の状態だ。ヒヨドリが来ない。いつもピーピーと鳴いていた大柄のその鳥が一向に姿を見せない。素人なりに考えることがあった。赤い実を食べるヒヨドリの天敵はカラス、そしてカラスの天敵のトンビはほとんど消えてしまった。今やカラスは傍若無人、昨年は家に来ていたツバメの巣も壊し、中の卵も食べてしまった。カラスに個人的な恨みや憎しみはないが、自然の輪廻の輪を壊されるのは残念で仕方がない。この小鳥たちの小さな変化がこれからの大きな変化につながっていく。昔から続いてきた様々な連鎖の世界を壊したのも、この小鳥の世界での出来事と同じ、環境の変化や公害を生み出した人間だろうか。今原子力発電の再稼働が大きな焦点となって人々の話題になっている。10年以上も前にこの園便りで人に聞いたことを少し書いたことがあった。それは当時電力会社と密接に関係のあった大企業の幹部社員で私の高校時代の同級生が言った言葉「原子力に限らず全てのことで、人間のすることに絶対安全はない。人間は誤りを犯すものだ。」ということであった。又当時原子力発電所には電力会社の正規の職員がほとんど常駐せず、大部分は下請け企業の社員であるとも言った。現在のことは知らない。今は安全、安心であるかもわからない、しかし20年、30年以上生まれ故郷へ帰ることができない人々の心情や放射能の子どもに与える影響の恐ろしさを思うと何とも言えない気持ちにさせられる。反対に今はそんな心情を持たれるとしても、時がたてば、原発バブルとか、補償成金といった色目でみられたり、揶揄されたりするかもしれない。原発に賛成、反対であれ、あとからやってくる子孫や次世代の人たちに賢明な結論であったと言われるようにしなければいけない。戦争を持ち出すのは気が引けるが先祖の人々はある意味無謀な戦いに挑み、300万人以上の同朋が生命を落とした。しかしその後艱難辛苦に耐え、世界に尊敬される国になった。日本人は耐えることもできるし、新しいことにも挑戦できる優秀な民族、一時的な迷いがあっても長い目で見れば良い方向に進むことができる人たちだと思う。あとからくる子孫に拍手喝采され、喜ばれる決断をしていかなければいけない。幼稚園の小さな幼子たちを見るにつけ、その思いは募ってくる。この子供たちは立派に大人に成長し、命の終わりが来るまで人生をしっかり享受することを願ってやまない。「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川・・・・」昔の童謡が頭から離れない。昔熊取町に住んでいた女性の先生がいた。ある時、熊取町の原子炉のことが話題になった。そのときそれまで黙っていた女性は急に立ち上がり、「私たちは身近に原子炉があることを忘れよう、忘れようと思って過ごしている。それを今更思い出させるような話には強い怒りを感じる。」と言った。原子力は安全、安心と宣言されたが事故のない時にも近くに住んでいる人々の心境は複雑だった。原子力発電所はなぜ電力消費地から遠く離れた電気を送るにも効率の悪い地域に立地しているのだろうか。職住近接ではないが、発電職住近接ではないのだろうか。安全地帯に身を置いて是非を判断するのは少しエゴイズムでないのだろうか。その女性は強く私たちに問いかけた。今、赤やピンク、白のハナミズキが満開、人通りの多い地に咲いた花はその美しさを大いに称賛されるが、人の目に触れない場所でもその存在を誇示するかのように艶やかさを見せている。時には人の評価に左右されずに自分の意見を主張する大切さを暗示しているのかも。

01 4月 2012

ようこそ 私たちの仲間へ 美木多幼稚園っ子
ー4月のことばー

  美木多幼稚園に35回目の春がやってきました。肩に担いで運んで手植した、道に面した桜の木も、今は大きく成長して花一杯、それに呼応するかのように全ての植物は精一杯のお化粧直し、春爛漫、暑くもなく寒くもなく最高のシーズンを迎えました。「ようこそ美木多幼稚園へ、ようこそ私たちの仲間へ」皆さんの来るのを今か今かと心待ちにしていました。美木多幼稚園へのご入園心よりお喜び申し上げます。生まれて1000日前後の子ども達、ここに到るまで子育てに大変ご苦労された事とご察し申し上げます。とくに近年、経済情勢、社会情勢の変化と共に一部核家族化の減少や崩壊、大家族化への回帰が見られるというものの、基本的な基調は長年一緒に歩んできた親からの独立化。それは独り立ちの大きな喜び、子育ての楽しみと共に大きな責任と義務が生まれ、その対処に大きな悩みやご苦労を持たれてきた事とご推察致します。しかしこれからは私たちと手を携えて子どもたちの発達成長に関わって行きましょう。ご家族、幼稚園、行政が一体となって大きな力を発揮して行きましょう。世の中はまだまだ見捨てたものではありません。アメリカナイズされた経済や金融、熾烈な競争社会、お金に対する執着心等によって人間関係はますます冷たく、希薄なものになってきた面も一部見られるかも知れませんが、まだまだ暖かい心の持ち主が一杯です。「ありがとう」の感謝の気持ちを持ち続けている人であふれています。卑劣にも他人に騙され、苦い思いをした人もいるでしょう。それでもなお善意を信じている人がそこにいるのです。なるほど人は全力で努力することが求められます。しかしそれが萎えたからと言って存在を否定されるものではありません。困った事があれば助け合う事が出来るのです。努力し、前向きに生きようとしている人を誰が見捨てるでしょうか。子ども達にとって美木多幼稚園は初めての大きな集団です。子ども達なりに大きな試練となりますが、早いおそいの差こそあれ、その集団に慣れ、反対にそこに所属する事によって大きな力を発揮していくものと思います。どうぞ大きな気持ちで見守って頂きたいと思います。 進級児の皆さん、年少、年中、年長への進級おめでとうございます。皆さんは私たちの仲間になって1年、2年又は3年たちました。美木多幼稚園で過ごした年月や経験は大きな自信となってこれからの活動に役立つことでしょう。今から始まる1年、今まで以上に大きな成長を遂げて、大活躍して欲しいと思います。美木多幼稚園の先生はいつも皆さんの近くにいて、一緒に行動し、見守っています。時にはけんかもするけれどもすぐに仲直りする優しい思いやりのある皆さん、この1年が健康でありすばらしい年になりますよう心より願っています。幼児期の大事な事はいくら言っても言いすぎる事はありません。幼児期を美木多幼稚園で過ごした皆さんは小、中、高、大と進んでいくにつれてきっと大きな力を発揮します。皆さん方の先輩の卒園児の皆さんも今や社会や学校で獅子奮迅の大活躍です。私たち教職員も子どもたちが将来立派に成長を遂げ、何らかの形で社会に貢献できますように、日々の保育活動に一層努力して取り組んでまいります。最後になりましたが、この1年、暖かいご支援、お力添え、よろしくお願い申し上げます。