ご飯は山で切った雑木を乾燥させ、斧で割ったマキを燃やした。新聞紙などで種火を作り、それを燃やした。炎は思った以上に早く薪に移った。勢いよく燃える火の上で米や煮物が手際よく調理されていった。今のガスや電磁調理器に比べると大火力(実際はどうかわからないが、大きな炎のためにそう思えた)で、出来上がるころにふたを開けて火の調節をした、と言っても燃えているマキを取り出すとか、突き出すとかすることであった。一気に炊き上がったコメは一粒一粒がふっくら光り輝いていた。おばあさんはおじいさんのために卵を一個入れた。卵はごちそうであった。おじいさんは戦前村長をしていたが、戦後は無職であった。わずかな農業をしていたが現金収入は期待できなかった。ただ水田の水の管理や村の仕事には一生懸命率先して取り組んだ。そのことで感謝されることが多々あった。スーツはいっちょらと言って生涯一着しか持っていなかった。戦争中は進んで銅や金属、松脂などの供出に協力した。明治の日本男児であった。人の悪口を言うこともなく、権利を主張することもなかった。何が楽しみだったのだろうか。子どもの幸福なのか、孫の成長だったのだろうか。私が入社した松下電器の創業者松下幸之助と同じ年齢であった。成程、丁稚からたたき上げて立身出世の人物になったのだからある意味偉人なのだろう。しかし名は知られていなくても、大地にしっかり根を下ろし、村の人々と一緒に活躍した私の祖父もある意味立派であったと思う。祖父のおかげで私自身良いように言われたことが何回もあった。そんな薪の山、今は庭代台になっているが、昭和30年代、その山の一つを昔のわら葺の家から瓦葺の家に建て替えるために売却した。村のにわか不動産屋を通じて大阪市内の人に売った。私が中学生になったばかりのころ、多分1坪(3.3㎡)何百円であった。その後政治家を含め、たくさんの不動産屋が土地を買いに来た。それからしばらくして泉北ニュータウンの造成の話が発表された。たぶん彼らは情報を先取りする立場にいたのだろう。フェアーでなかった。そんな山から小学生になるかならない頃、切った木をリヤカーに乗せて山道を下ってきた。父、母、妹の4人であった。内容が分からないが、大きな声で今から考えるととても卑猥で恥ずかしい歌を歌っていた。1はイモヤの兄ちゃんと、2はニクヤの姉ちゃんと3はさる・・・・と10まで続いたざれ歌であった。ひょっとしたら斜めに構えた若者が歌い、それを幼児がまねたのだろう。山々にこだまし、父、母も聞くに堪えないものだったに違いない。しかし何も言わなかった。リヤカーはしんどかったが、今となれば本当に楽しい一コマであった。今の幼稚園児たちも、何も意識しないで、大人の社会では認められないことを言ったり、したりすることもある。しかしこれは大部分幼児期の一過性のものであり、将来にわたってまで悪影響をおよぼすことはない。人は成長する、いろいろな経験や体験、知識を通じて又は本能的に自然と大きく変化を遂げていく。 絵画で成長過程を見てみよう。 幼児は最初、頭足人(head foot man) の絵を描く。頭があり、胴体がなくて足がある。それが成長して基底線が表れて周りとのかかわりが見えるようになる。その後透明画に移って物の中身に、中にあるものに関心を持つようになる。それがもっと進んで、家の中がどうなっているかのような展開画などにも関心をもつようになる。11月の作品展の絵画の展示では色使いがきれいとか、形がよいとかだけでなく、これは頭足人の絵だ、いやそれよりだいぶ進歩しているなあーと詳しく見ていただけるのも一つの興味ある絵の鑑賞の仕方であろう。子どもたちは世の中の影響、良いこと悪いことも含め、大いに受ける。私たち幼稚園の教職員が力を合わせ、悪い影響に感化されることを防ぎ、子供たちの大きな成長につなげたい。いよいよ二学期、今学期は行事を含め内容が盛り沢山です。その中でも運動会、作品展等の大きな行事が続きます。田畑や山に行く機会もあります。子どもたちが元気いっぱい活躍し、大きな成長を遂げることができますよう教職員一同力を合わせてまいります。今学期もご期待ください。