12月 2014

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01 12月 2014

鼎の軽重
ー12月のことばー

  「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」(芭蕉)「枯葉が落ちねば次の花は咲かん」 荒涼たる原野、厳しくたたきつけるような吹雪、この世の終末とも思えるような原風景が織りなす様々な心の葛藤と寂寞とした気持ち、芭蕉の時代は私たちが想像するよりももっと激しい自然の洗礼を受けていたことでしょう。樹木が余計な装飾をかなぐり捨て、身軽になって厳しい冬の準備を整い始めました。人は反対に科学の粋を集めた温かい化学繊維によって身を守る工夫です。長年続けられた自然界の厳しさとそれに対峙する人間界の知恵とのいわば小さな戦いです。戦いは別として、人はこの瞬間においても必ず何らかの判断、決断に迫られている。何もそれは人生をあるいは国の在り方を決めるような大きな決断でなくとも、朝起きて今食事をするか、会社へ行く途中で食べるか、今人にそのことを話すべきか、後の方がよいか、あの人に贈り物をすべきか否か、お葬式に行くべきか否か、数えきれないほどの判断の必要性に迫られ、その人なりの規範に従って結論付けていく。善悪の判断にしても、自分の考え、性格、育った環境、受けた教育に従って答えを出している。しかしそれが他の多数の人の判断基準から外れていると「常識のない人だ」「変わった奴だ」とか言われて世間から隔離されることもある。私たちはたとえ大多数にそぐわない意見を持っていたとしても、人に嫌われるのを恐れて自分の意見を封印しがちだ。それが鼎の軽重を問われることになっても。人が生活していくうえで、善悪の判断が非常に難しいことがある。正か否か、しかない2極で判断すれば案外簡単であり何も悩む必要がない。しかしそれでは日常生活が立ち行かなくなり、生活も無味乾燥で、成長、発展への意欲も潰えたものになり、ただ与えられた枠の中で決められた活動しかできないことにもなりかねない。たとえば他人の土地に一歩足を踏み入れるだけで、スピードを1kmオーバーするだけで、罪を問われたら、私たちはどうなるのだろうか。グレーゾーンがあるから私たちはそれなりに社会生活を送ることができるし楽しむこともできる。しかしどこまでがグレーゾーンであるのかの基準はそれを取り締まる人の恣意的な判断やさじ加減になるのは憂慮すべきことかもしれないが絶対的な規範がない以上、それもありうるのだろう。ある人にとっては法律の中には遵守できないような条項もあるかもしれないが法治国家としての法律である以上守らねばならない義務がある。世間一般の常識とかけ離れてそれが存在する場合は、その法律の正当性が問われ、はっきりと善悪を決めることができるかは難しいところだ。所詮判断は人が決めるものであり、地域性や裁く人の人間性によっても大いに左右されることがある。日本人の常識が世界の常識であるようなユニバーサルスタンダード的なものがあれば、人は快適に世界中と交易をし、旅をし、談笑することができる。現実は180度異なる国がある。政体も違い、主義主張も歴史も異なり、生活水準も違う。Aの国で良いことがBの国では全く逆で、Cの国では重い罪に問われかねない。国体を変える為に示威行為をする人もおれば、天国に行くことができると言って戦いで命を落とす人もいる。特攻隊を作った日本にとっては他人事でない話。アフリカの常識が、イスラムの常識が、ユダヤの常識が、欧米の常識が、中国や韓国の常識がそれぞれ異なっている。通信や交通手段のますますの発展により問題はより身近なものになり、複雑になっている。それぞれの常識や判断基準を一方的に正しいと言って他国に押し付けるのは是とするのだろうか。難しい問題だ。このころテレビや街角で美容整形の広告を見ない日はない。顔や胸に手を加え、体型を整えて、見目麗しい美形に変えていく。女性の永遠のテーマ、しかしその判断基準には絶対的なものがあるのだろうか。蓼食う虫も好き好き、人の嗜好も多様な今、整形医学の進歩には脱帽するとしても、それに踊らされている面もあるのかもしれないが、美を追い求める欲求は男女ともに永遠に続く不変の思いだろう。残念なことにいくら整形しても、子ども達の天真爛漫とした美しさにはかなわない。人それぞれ判断基準が異なるから人生が面白い。判断基準という広い道、端を通ろうが真ん中を通ろうが道を踏み外さなければ構わない。子ども達には正々堂々と21世紀を生き抜いてほしい。幼子たちへの願いは大きい。来月は平成27年、2015年、皆様方にとって健康に恵まれ、幸多き年でありますよう心よりお祈り申し上げます。この一年のご厚情心より感謝申し上げます。有難うございました。