いつか経験したような暑さ、そう 45年ほど前、今は定かでないが多分、南米アルゼンチンの北部、サンティアゴ・デル・エステロ州に行った時のこと、飛行機が到着を告げた。扉が開き、タラップを降りて行った。デッキが今のように飛行機につながる時代ではなかった。近くに空港ビルまで乗せていくバスが待っていた。そこに至る短い距離は実際以上に長く長く感じた。それ程の暑さであった。まるで火の中に放り込まれたようだった。気温も40℃近かったのだろう。涼風の世界から酷暑の世界へ、大げさに言えば天国から地獄への移動であった。孫悟空が越えねばならなかった天竺の火焔山はこれよりもっと暑かったのだろうか。ないものねだりが人間の欲としても、思わず冬の寒さが恋しくなるものだ。そんなうだるような暑さが続く夏、それが夏だと言ってしまえばおしまいだが、私達の昔とは様変わりしてきたようだ。半世紀前、夏になると、海や野山に出てまっ黒になるのが、健康のシンボル、若者の特権でもあった。体の動きが鈍くなると言って水分の補給もできるだけ避けてきた。皮膚が焼け、赤茶けた色にかわり、ぼろぼろとめくれていった。一回では終わらなかった。刺激を与えるとヒリヒリした。太陽にあたる所は男も女もほとんどまっ黒であった。それが健康の証であった。若者のシンボルであった。自慢であった。しかし、今はどうだろうか。医学的な良し悪しはわからない。スポーツをするにしても半袖は極度に嫌われ、吸汗性の長袖が好まれる。日焼けを防止する為にクリームが塗られ、太陽からの直撃を避けるような工夫がいたる所に見られる。それが意図的に作られた学説だったようにも思える程、この頃あまり話題にもならないが、オゾン層の破壊や地球温暖化の影響を避けようとしているものなのか、はたして昔のような生き方は現在には通じないのかどうか。平均寿命が男子78歳、女子87歳と言われると、なるほど医学が発達したせいかもわからないが、昔のやり方もまんざら間違いでもなさそうに思える。
そんな昔の1960年には、国会議事堂を何重にも学生が取り囲んだ。時の首相は岸信介、若者には妖怪のような人物に見えた。新聞、テレビは連日そのデモを報道し、警察官と争う学生の姿、逃げまどう群衆、催眠ガス弾、焼ける安田講堂、東京の様子を茶の間にリアルタイムに送り続けた。何もそのニュースが売れる為だけに報道し続けたのではなかった。真の意味で日本が脱皮する為のプロセスだと感じていたのかも知れない。大きな試練、多大な損失を残したが、その後日本は高度経済成長を遂げ、世界に類を見ないような発展をとげていった。翻って今の日本の報道ぶりはどうだろうか。先日東京代々木公園で10万人規模の原発再開発反対のデモがあった。10人や20人規模の小さな集会でもさも沢山の人が参加したように報道するのに、今回はS紙は全く無視であった。A紙は3面欄に小さな写真だけであった。概して報道はスポンサーに気兼ねしているせいかどうかわからないが、小さな扱いであった。しかし、Japan Timesをはじめとする英字紙は1面トップの報道であった。ある評論家は全学連の流れを組む左翼に誘導されたデモは報道の価値がないと切り捨てるように言った、あるいは言わされた。しかし、私には右翼・左翼のイデオロギーを越えて小さな子ども達の将来の為にこの美しい日本を残すにはどうしたらいいのかを考えて、行動する事の大切さを表明していると思われる事が多い。私達にはある意味幸せな時代に住んでいる。いろいろな情報に接する事ができる時代に。新聞、テレビ、雑誌、インターネット、face book、ツイッター。報道機関も安閑としていられないが、私達も取捨選択する能力を身につけていかねばならない。 この1学期、子ども達は随分大きく成長しました。先生との信頼関係も大きくなったと確信しています。今年は「節」が大きく取り上げられる年、長い夏休み、節電・節約を合言葉に体力を保って良い夏休みの過ごし方をして欲しいと思います。2学期、3学期には大きな行事が目白押しです。一段と大きくなった姿で美木多幼稚園に帰ってくるのを私達一同心待ちにしています。しばしのお別れです。