2012年11月1日 美木多 幼稚園

言 語 俯 瞰
ー11月のことばー

 

人があまり驕り高ぶって、上へ上へと競って建てたバベルの塔、それに激怒して、人の協力関係を断ち切り、懲罰の意味を込めて、言語を細分化して意思の疎通を無くしたという神話。話の真偽は別として今地球上に3000余りの言語が存在する。私たちは人との意思の伝達を図り、社会生活をうまく機能させていく、いわゆる音声言語であり、文章にして記録を綴り、思考形態を確立していく、いわゆる文字言語、私たちの日本語をはじめ、主要な言語はこの両者を兼ね備えているが、未発達の文明の中には会話だけの音声言語しかないこともある。民族の浄化、優先思想、他国との併合、合併、占領、その他さまざまな嫌悪すべき理由によってどれほど多くの立派な歴史を持つ言語がこの地球上から抹殺され、消えていったのだろうか。消えていった言語がすべてそうであると言っているのではない。発展的に進化し、現在の言語につながっているケースも多々あるだろう。しかし世界史で習った民族やその言語は今存在することが少なく、ただ言語学者の研究の対象だけになっている場合が多い。言語を失った少数民族はそのアイデンティティーを失い、大きな渦の中に飲み込まれていく、厳密に言えば、営々と受け継がれてきた言語を失うことは大きな悲劇だろう。中南米を旅していると、多分中国もそうだろうが、多数の主数民族に出会う。彼らは国としての言語、例えばスペイン語や中国語を話すがそれとは別に仲間内だけに通用する言語を持ち、それをコミュニケーションの主要な手段としている。そんな小さな地域社会だけに通用する言語はすべて捨て去って、大きな一つの言語に統一すべきだという乱暴な意見もあるが、その言語こそが彼らがよって立つべき基礎であり自分たちの誇りである。例えばスペイン第2の都市、バルセロナはスペイン語ではなくカタルニア語であり、カナダのケベック州は頑としてフランス語を捨てない。経済的に統合したEUもお金は統一しても言語はばらばらである。今は少数言語を保護し、大事にする国が多い。世界共通語を目指したエスペラントもまだ一部のマニアの中だけだ。それぞれの拭い去ることのできないプライドや仲間意識があるのだろう。日本語について考えてみよう。3世紀ごろに現れた日本語はそれまでの漢字の世界から徐々に変化して今の日本語になり、その過程の中で琉球の言語が派生して独自の言語を形成した。アイヌ語はどうだろうか。日本語との関連性を持たないこの言語は金田一京助博士やユーカラ(英雄伝説)で有名だが、日本人の北部への進出によって消え去り、ただ地名として残るだけの存在になった。痛みをそれほど感じるわけでないが、当事者にとってはアメリカのインディアンと同じ位、大きな悲哀を感じているのは疑いがない。私たちは小さなときから苦労して英語を勉強している。一層日本語をやめて英語を標準語にしたらという意見もある。現に企業の中にそれを実行しているところもある。アメリカ人は外国語を学ぶ必要がないから楽だという人もいる。しかし安易に習得したものにどれ程価値があるのだろうか。私は英語を共通語にという意見には与しない。それどころかフランスのように自国の美しい言語の維持に努めたい。今は外国語を話せる人が増えてきた。時代の流れだろう。しかしそれを話す人の浅はかさも露呈してきた。流暢に話すことがすべてだとは全然思わない。一語一語でもいいからしっかりした味のある言葉を伝えたい。私たちの思いとは関係なく、今の幼稚園児たちが成人する頃には日本はグローバルの波に襲われ、外国語に触れる機会も多くなり、考えればそれを学ぶ手段も手っ取り早く身近に存在するだろう。また日本語以外の第2言語として外国語を活用して活動する日が多くなるだろう。しかし言語はそれほど難しくない。わからなかったらわからないと言ったらいいだけだ。ただそれを言える勇気だけは持ちたい。これからもしっかり日本語を受け継いでいこう。生まれ変わって地上に姿を現した時に意思疎通のできない言語になっていないために。