
人は沢山の知識を持ち、沢山のことを知り、沢山の経験をし、沢山の地域を訪れ、沢山の言語や人を知り、様々な体験をした人の方が、狭い範囲にとどまり、ローカルの話題に終始し、外の世界をほとんど知らない人より幸せなのだろうか。喜びなのだろうか。私の祖父母は同じ村の縁戚同士であった。私の母も同じ村ではないが、隣村からやってきた。今のようにネット環境がなかった昔では交流範囲がごく限られていた。選択の余地も少なかったのだろう。
それ故、評判とか家の格とかが重視され、結婚式で初めて相手の顔とか容姿に接することが多かった。健康であれば、容姿はそれほど重視されなかった。大恋愛をして結婚するよりも、相手をそれほど知らなくて結婚した方が後になって幸せな結婚生活になる事も多かった。
ネットで知り合うこともある今の状況と相手も身元もよくわかっていた時のそれとではどちらがいいのかわからない。あんなことも知らない、こんな有名な場所にも行ったことがない、こんなエキセントリックな美味しい食べ物を食べたことがないから、不幸なのだろうか。縦横無尽な知識を駆使して、世界中を飛び回って何でもよく知っていることが人生の勝利者なのだろうか。実際私の周りの大学の同期生はほぼ海外駐在経験者だが、それほど勝利者に見えない。ただ会って話すときに、懐かしそうに過去の駐在地の話をよくする。
世界には様々な事象があり、それも膨大な数になっている。換言すれば、いくら知識があるからと言ってもそのすべてを知ったり、見たりするができるわけでもない。大きな目で見れば、針小棒大であり、ある意味、団栗の背比べであり、50歩100歩である。知識をたくさん持っているからと言って、自慢すべきでないし、少ないからと言って卑下する必要もない。それよりも人生を一生懸命真面目に生きた人の重みは人を敬服させるものがある。
こんなことを知らない、あんな経験もないとか悲観すべきでない。沢山の経験ある人も同じように思っているのだから。㍼19年(1944)生まれの私にはそれほど時間が残されているわけでもない。一人で根室や納沙布岬に行ってみようと思った。それも全行程日本の自慢の鉄道で。
新大阪7時51分のぞみ322号東京行が駅ホームに静かに滑るように入ってきた。これから長い鉄道の旅の始まりだ。10号車16番Dに座る。車内は早いせいか、まだ混雑していない。久しぶりの新幹線、なぜか心が落ち着かない。列車はスピードを増してサントリーの山崎工場を一瞬のうちに過ぎ、わずか14分で京都駅に着いた。京都を出るとトンネルを一瞬のうちに通り過ぎ、冬になるとよくTV中継される彦根、米原そして関ヶ原を次々と後ろに追いやって、8時47分トヨタの城下町名古屋に到着、車では3時間くらいかかる区間がわずか50分、とにかく早い。
改めてこの新幹線の偉業を称賛せずにはいられない。私が受験のために東京へ行った時には8時間余りかかった。それまでハトやツバメの特急列車があった。私が20歳の時に開業した新幹線、それから60年余り、事業者側の責任の事故は一件もない。改めて新幹線を設計した人々、協力会社の人々、許可認可を出した人々、実際に線路や橋を作り、トンネルを掘った人々、先祖代々の土地を譲り渡した人々、国鉄やJRで働いていた人々、線路を保守点検していた人々、貧しい日本国に融資した外国、いろいろな人々の血と涙と汗の結晶がこの世界一の新幹線を生み出したのだろう。
そんなことを考えているうちに322号は浜名湖を通り過ぎた。富士山を期待していたが、あいにくの曇り空で麓の雄大なスカートが見えただけであった。風景が変わりつつあった。今までの自然の風景が家々が密集する風景にと。車内のアナウンスが新横浜到着を告げていた。2時間11分で到着。ここを出発して終点東京駅に着いたのが10時21分、計2時間24分の旅であった。10時40分頃はやぶさ17号が静かにその姿を東京駅に現した。東海道新幹線と趣の異なる東北新幹線、10号車5番Cに座る。10時45分、東京駅を出発、すぐに地下にもぐって、6分後に上野に到着した。美術館巡りで感銘を受けたこととそれと対象的に学生仲間何人かと大人気取りで店に入って嫌な思い出のある街でもあった。
田園と山間部が交互に織りなす風景を見ていると、12時15分、東京から1時間30分、杜の都、仙台に着いた。通勤しようと思えばできない時間でもない。仙台にある東北大学はこのあたりのエリート集団だ。それから50分ほどして、はやぶさは新青森に到着、ここで下車した。昔来た青森の街を少し見たかった。しかしここはJR青森駅の青森でなかった。閑散とした何もない新青森であった。期待は完全に裏切られた。駅には小さなレストランとお土産店があるだけ、次の新函館北斗行のはやぶさ23号は15時31分発なので、まだ1時間以上もあった。そこで簡単な食事をした。思った以上に地方の駅の価格は高い。定刻にはやぶさは到着した。
私の大きな目的の一つは青函トンネルを新幹線で通る事であった。列車は林とトンネルの景色を繰り返しながら、徐々に竜飛岬に近づいて行った。青森に二つあるうちの一つの半島だ。因みに列車が通るのは津軽半島、もう一方は大間のマグロで有名な下北半島だ。青函トンネルに入る前に、車内放送があった。今からトンネルに入ること、トンネルは海底下100mに作られていること。長さが50kmあまりあり、通過に20分以上かかること、など等。海の深さは140m、それより100m下の240mが最深部、そこを新幹線は進んでいった。
30年前から運行していて安全とは言え、暗い中で20分余り過ごすのは何とも言えないような圧迫感と恐怖感が襲ってきた。肝っ玉の小さい小市民のせいなのだろうか。このトンネルを掘るのに30人余りの人が犠牲になった。その人たちに感謝の気持ちをささげながら、無事北海道の入口、木古内に到着した。そこから10分余り、はやぶさは16時30分終点新函館北斗に滑り込んだ。新函館北斗からJR函館までは従来線で20分、無事今日の宿のJRイン函館に到着した。60年余り前、学生であった。3人で北海道への旅をした。ユースホステルを利用する貧乏学生のいわゆるカニ族であった。大きな荷物を背負っていく事でカニ族と呼ばれた。北海道は蒸気機関車であった。札幌から函館まではトンネルが沢山あった。トンネルのたびごとに真っ黒のすすが車内に侵入した。それが当たり前であった。
男も女も誰もが顔が黒く汚れ、気持ちが悪かった。函館に着くや否や銭湯に行ったことを覚えている。函館山に登りたかった。しかし運悪く雨、山の中腹以上はどんよりして雲がかかっていた。ホテルの人も行っても無駄ですよと何度も念を押した。ホテルの前の海鮮レストランは月曜にもかかわらず賑わっていた。鉄板の上では北海道産の大きなアワビやホタテが踊り、断末魔を上げていた。何種類かの沢山の活きたカニが水槽の中に身を潜め、次に人間の犠牲になるのは誰かとささやきあっていた。わざわざ羅臼産と表記して、他のキンキと違うことを強調していた。イカを含め、様々な魚や貝類が生きたまま水槽の中で暮らしていた。
お客さんの多くは函館に来た人で、遠い北海道に来たという事で自然と財布のひもが緩くなっていた。外国人もいたが、それほど目立った存在でなかった。おいしさ、珍しさ、新鮮さで舌鼓を打つのだが、瞬間を楽しむ、値段の張る海鮮料理とも思えた。ホテルの料金には朝の海鮮のバイキング料理もついていたが、午前6時30分からの営業であった。後ろ髪を引かれる思いで朝食のバイキングをスキップした。函館駅始発の北斗1号は6時21分半部位の乗客を乗せてホームを離れた。1号車3番D、先頭の車両であった。この列車は勿論気動車であった。上には架線がない。客車を引っ張っていた。軌道は大部分単線であった。新函館北斗を過ぎたあたりから、トンネルが続いた。学生時代の思い出の黒いススがいっぱいのトンネル、今は冷暖房のきいた客車であった。大沼公園、駒ケ岳、長万部、洞爺、伊達紋別を過ぎ、8時23分に東室蘭に着いた。内浦湾をぐるりと回ったことになる。車窓から見る東室蘭は大きな町であった。製鉄所の建物が目立って大きかった。
2分の停車の後、列車は本来の目的地に向かって進み始めた。温泉のある登別を過ぎ、アイヌ民族で有名な白老で瞬間的に止まり、苫小牧を過ぎて、列車の乗換駅の南千歳に9時18分に到着した。食堂車も車内販売もなかった。函館で買ったパン一個だけであった。空腹が堪えてきた。7分しかなかった。9時25分、おおぞら3号は南千歳を出発した。1号車6番A、私に与えられた座席であった。単線のディーゼル車は北海道の中央部を一目散に東に向かって走った。周りは同じような単調な景色であった。夕張も過ぎ、トマムも一瞬のうちに過ぎていった。乗客は半部位であった。単線であるが故に反対側から来る列車を待つことを余儀なくされた。
2時間30分ほどして、特急おおぞら3号は北海道の酪農の中心地帯広に到着した。大きな町であり、高いビルが林立していた。帯広を過ぎると列車は太平洋沿岸まで南下し続け、その後海岸沿いを東に向かって進み、終点釧路には13時20分に無事到着した。函館を出てから7時間20分弱の旅であった。単調な景色の中にも教科書で学んだ地名やアイヌ民族のつけた名前、ハット目を見張るような風景があり、それなりにエキサイティングの旅であった。新大阪から釧路までの列車の旅は私に大きな思い出を残して終わりを迎えた。ANA CROWNE HOTEL が今日の宿泊先であった。9階の部屋に入り、荷物を置いて、フロントで聞いた食事場所に行った。
そこは 和商 という海産物の市場で、食事もできた。海鮮丼を食べた。そして今買うとしたら何が良いのかと店主に聞いた。時鮭 という答えであった。そこは沢山の店があり、時鮭を売っていた。カニの専門店もあった。店の人によると、この時期は身入りが40から60%位で、その分値段が安かったが、身が詰まっている花咲ガニと毛ガニをすすめられた。すぐに茹でて、大阪に送るそうだ。小ぶりだが、値段の安いキンキや縞ホッケも魅力的であった。魚好きの私にとって、全ての魚に興味があったが、時鮭を含めて、魚を大阪に送ってもらった。良かったら又釧路に注文することもあるだろうと思う。レンタカーを予約していた。アクアを借りた。ヤリスに乗っていたので、運転の感覚は同じであった。借りてすぐに釧路湿原を見に山の上まで行ったりして、2時間ほどドライブした。
釧路湿原展望台にも行ったが、写真でよく見るような川が蛇行している景色を見る事が出来なかった。もっと事前に調べておくべきだとかなり反省した。ぶっつけ本番の旅の反省であった。夜は1階のレストランでラザニアを食べた。旅の疲れを癒すために早く入浴を済ませて、眠りについた。今日はレンタカーでの移動のために、時間に余裕があった。ホテル代に含まれる朝食を堪能して、7時30分にレンタカーで一路東に向かった。 午前中の目的地は根室であった。釧路から130km、2時間余りで到着した。根室は釧路に比べると小さな町であったが、それなりの情緒があった。少し休憩した。燃料はほとんど減っていない。車を進めた。次に目指すのは根室半島の最先端、納沙布岬であった。根室から20km、交通は少なく、制限スピードで走っても30分はかからなかった。
北海道で目に付いたのは太陽光発電のパネルであった。広い土地のせいか、いたる所に大規模の太陽光パネルが並んでいた。私にはあまり嬉しくない光景だ。そして納沙布への道にはそれに輪をかけたように沢山の風力発電があった。そしてもう一つ北海道で奇異に感じたのはお寺や神社が多い事であった。懐かしくて、本州からそのしきたりなどを持ってきたのだろうか。先端に到着した。歯舞、色丹、国後はもう目の前だ。北方領土の文字がたくさん見られた。
しかしここには灯台と納沙布岬と書いた立て看板とお店が一軒あるだけだった。一人で旅している私にとっては何かここに来たという写真が欲しかった。20分ほどうろうろしていると横浜ナンバーの自動二輪がやってきた。納沙布岬と書いた看板を背にして写真を撮ってもらった。そして店に入って、納沙布岬と書いた自動車に貼るワッペンを購入した。ここもそうだが、北海道にはアイヌ民族にまつわる地名が圧倒的に多い。中標津空港14時50分のANAに乗る予定だった。時間に余裕を持たせるために、30分位ここに留まって、ハクチョウで有名な風蓮湖を目指した。
湖畔まで下りていく事が出来なかったが、近くの道の駅で簡単な食事をして、大きな大きな風蓮湖を背景にして記念の写真を近くにいた優しいご夫婦にとって貰った。空港に向かって車を進めていたが野付半島の案内が出ていた。学校で習ったことを思い出した。大きな特異な砂嘴であることを。まだ時間に余裕があった。野付半島に急遽行先を変えた。半島の途中で右に曲がれば小さな集落があった。一度その集落に行ったが、引き返して、半島の先端に向かった。国交省の立て看板には、この先道路が狭く、その為に運転は充分気を付けるようにと書いていた。
道は部分的にアスファルト舗装もあったが、ほとんど砂利道であった。そして両サイドはわずかな距離で海であった。大きな波が来ればひとたまりもないだろう。出会う車はなかった。スピードを出して、かなり走ったが、まだ先端にまで着かなかった。野付半島は全長26km、日本最大の砂嘴である。半島はますます狭くなった。
アクアは頑張った。小さいのが幸いした。やっと先端に着いた。道は円になって元に戻るようになっていた。少し乗り入れたが、砂が堆積していた。タイヤが空転することを考えて、慎重に運転したが、前進を諦めた。ここでもし車がスタックしたら助けを呼ぶ手段がなかった。一人ぼっちであった。20km以上歩いて助けを求めねばならなかった。
慎重に慎重にバックして、10mの砂地をクリアして、車をUターンさせた。スタックをクリアしても、途中でパンクでもしたらと思うと冷や汗の連続であった。何事も起こらないようにと念じながらスピードを上げて、野付半島の狭い道から一般国道に戻った。交通量は少なかったけれども、国道では何台かの車とすれ違った。安堵のため息をついた。中標津への道はどこまでもまっすぐだった。
レンタカーを返したときに事務所の人が北海道の道は単調で疲れたでしょうと言った。然し私はそうは思わなかった。エゾシカが道路わきで私を見ていた。農地がどこまでも続いていた。フキによく似た大きな植物がそこかしこに繁茂していて少し違和感を持ったが、壮大な自然の原風景を見たように思った。空港に13時30分に着いた。北海道でよくみられる小さな飛行場であった。大阪行きがないために羽田経由での大阪であった。20時15分、ANAは無事私を大阪伊丹まで届けてくれた。










