2012年6月


 空気が軽い。そのせいか、重い空気につきものの季節特有の匂いが少ない気がする。
晴天が続いている。私の中では、この時期としては異例の長さだ。たいていの人は晴天が続くことに喜びを感じている。子供たちもしかり。毎日園庭で様々な遊びに興じるのが最高にうれしそうだ。一層のこと毎日雨のない晴天が続きますようにと願うほどだ。いくら晴天が続いても、動くという手段を持つ人間はどうにか生き延びるすべを知っている。同じ生命体であっても植物はどうだろう。西洋では自殺すると木にされると言われた。ある大地に根を下ろした樹木はそこから自分の意思で動くことはできない。生き続けるための水が必要としても、例え根が水分を少しでも吸収しようと一生懸命伸びたところで、蒸発する水分を補うことはできない。人には快適でも植物には過酷な環境だ。プラスとマイナスがすべて等しいわけではないが、プラスの面ばかりを見ていると、マイナスの面を見落としがちになる。今話題になっている原子力発電はどうだろうか。原発再開の判断は、電力会社にとって、英断であり、反対する人にとっては最悪の決断だろう。家庭・企業に節電を要求し、電力不足は企業の海外逃避が不可避と声高に叫ぶ一方、反対派の人は昨年の関東の節電では企業の利益が増加したと説明する。企業にとっても土日の勤務や照明などを含む節電に対する大義名分ができたせいだろう。どちらにしても、2度と福島のような事故を起こしてもらいたくない。日本が生き延びるためにも、幼子たちが人生を全うするためにも。教育の世界を見てみよう。医学の世界と同じように、教員の世界も閉鎖的なことが多く、独自の職業規律、極論すれば一人ひとりの基準で判断することがある。大学入試には指定校推薦などで評定平均値が求められることが多い。例えば、4.1以上の場合、A校とB校では同じ4.1でも子供の学力が随分異なる。たとえ、4.1未満であってもA校の生徒を望む場合がある。評定平均値に色を付けることは可能なのだろうか。逆に考えれば、教員と対立すれば、例え4.1を満たしているとしても、それ以下の判断をされ、推薦されないこともあるのかも。教育に何を求めるのだろうか。幼稚園では当然のことながら、人生の根幹をなす幼児教育の充実を図る。それは知性面、肉体面の両方であり、様々な体験や経験を通じて、知的好奇心の向上を図り、積極的に物事に取り組む姿勢を涵養する。しかし高等教育では何なのだろうか。ただ単に通過点に過ぎないと考えているのか。友達を求めているのか、サークルや部活動を通じて絆とか協力することの大切さを求めているのか、または一流大学に合格するためだけの手段と考えているのか。寸暇を惜しんで勉強し、有名高校や有名大学にはいることは大企業に入る可能性や素晴らしい同窓生に恵まれることが多いという点で、うらやましくもあり、勉強してきた人にとって当然のご褒美であるが、世間でいう、あるいは我々が思うほどその絆や結びつきは堅固なものでなく、仲間や組織を自慢して自分を高めようとするだけであるかもわからない。まして一流企業とはその時の話であって未来にわたってそうであるとは限らない。因みに、大企業の業績は他の企業に比較して低いところが圧倒的に多く、必ずしも安定企業でないのが現状であろう。美木多幼稚園創立以来35年目、一期生28名は今や39歳。人生の働き盛り、さまざまな苦労や重荷が圧し掛かっていることだと思う。しかし、家族のため、自分のために耐えて精一杯働いている。そして、彼らに続く6000名余りの卒園児が日本各地で活躍している。その姿を見たとき、理想の幼稚園を作る意欲に燃えていた初代園長、理事長の笑顔が思わず頭に浮かんだ。これからも子供たちが存在する限り、美木多幼稚園も共に存在し続けたいと心より思う。今後ともご指導、お力添えよろしくお願い申し上げます。今月17日の父の日の参観心よりお待ちしています。